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28 会津街道 諏訪峠・鳥井峠・車峠・束松峠
会津街道は会津若松と越後を結ぶ要路で、地域により越後街道や新発田街道など様々な名で呼ばれました。江戸時代には佐渡金山と江戸を結ぶ輸送路や新発田藩の参勤交代道として、また塩や米、蝋が行き交う通商路として重要な役割を担いました。
当初の街道は高寺山北側の勝負沢峠を越えていましたが、慶長16年の大地震で道が崩壊したため、以降は束松峠を越えるルートへと変更されました。若松城下から坂下、塔寺、気多宮を経て、只見川を渡河し、野沢、鳥井峠、津川宿、諏訪峠を越えて新発田へと至ります。明治初めの片門には200頭もの駄馬が飼われ、物流の拠点として賑わいました。
明治15年、福島県令の三島通庸が新ルート「会津三方道路」を強権的に進めると、反発した住民運動は「喜多方事件」へと発展します。その後、明治27年の新道開通と鉄道の敷設により街道は衰退しましたが、現在は地元有志の手で古道「束松峠・車峠」が整備保存されています。
会津地方は中世以降、蘆名、伊達、蒲生、上杉、加藤、保科(松平)の領主が江戸末期まで約600年間にわたり治めた歴史があります。
会津若松大町の札の辻を起点として会津五街道◇下野(しもつけ)街道◇白河街道◇米沢街道◇越後(会津)街道◇二本松街道が切り開かれました。会津街道は、会津若松城下大町札の辻(鉤型変形十字路)を起点として七日町通リを西進、会津盆地の田園地域を通り会津坂下塔寺(とうでら)に至り、この緩やかな坂道を上ると沼田街道との追分け、気多宮追分の宿となります。
この三叉路に石柱の道標が設置され、「是より右越後路」(会津街道)、「是より左柳津(やないづ)路」(沼田街道)と刻まれています。この追分から右折し、鐘撞堂(かねつきどう)峠を下り切った三叉路を左折し、家並の中を進むと、舟渡(ふなと)集落の村はずれで只見川とぶつかります。対岸に見えるのが片門(かたかど)集落でこの二つの集落は会津街道の「相の宿(あいのしゅく)」として栄えました。
只見川は尾瀬を水源とする水量の多い暴れ川で、対岸の片門集落との往来は平底舟に乗るか、浅瀬を歩いて渡るかで行き来していたようです。
古老によると、「昔(江戸時代のころ)は、川の浅瀬を歩いて渡っていたようだ」と話しますが、明治11年6月に会津街道を旅したイギリス人旅行探検家イザベラ・バードの「日本奥地紀行」によれば、「私たちは大きな川の橋を渡ったが、こんなひどい道路にこんな立派な橋があるとは驚くべきことだ。これは12隻の大きな平底船からなる橋で、どの船も編んだ藤蔓の丈夫な綱に結んである。だからどんなに水かさが多くなっても平底船と板の橋は自由に上下できるようになっている。」と書き記しています。
只見川を渡る前の「こんなひどい道路」との表現は、気多宮から舟渡までの「鐘撞堂峠」を指してのことと推察されます。
この場所は「高寺(こうでら)遺跡」の伝説が残され、近くに鐘撞堂があったことからそれが峠の由来になったようです。
片門の橋のたもとに明治13年創立の片門小学校跡地と廃校が残されています。
片門小学校跡地を過ぎ間の宿・天屋(本名)の手前に「束松事件」の立て看板が立てられ、そのまま進むと本名宿の屋並みが続き、「束松峠」入口の看板が立てられています。
束松峠は、標高250mの本名集落から標高450mを最高点とする山岳地域に切り開かれ、現在も地元の守る会により毎年整備されています。
峠入口から頂上まで、頂上から下って軽澤(かるさわ)の宿までの約7kmと、そこを少し下ったところの別茶屋(わかれちゃや)までを辿ります。
峠入口からすぐ、峠の六地蔵尊、山王神社鳥居、山王神社石灯篭、束松峠新道・越後街道旧道分岐道標、束松曽孫(
(ひこ)松、一里壇を経て石畳の道、峠頂上手前から三叉路になり、左に進むと峠頂上に至ります。
山頂手前の三叉路を右折し、20分ほど進むと洞門に出ます。
ここは明治15年の会津三方道路建設に反対した地元民が、独自に「荷駄が通れる広くて緩やかな道を作り、ここから運賃収入を得る」ために手掘りで約230mの洞門を掘り進め、明治10年に貫通させ、明治27年にようやく「束松峠新道」として完成させたところです。
しかし時すでに遅く、物流は鉄道輸送にとって代わられ、掘削した洞門も軟弱地盤ゆえに崩落の憂き目に遭い、現在崩落したままの洞門として放置されています。
ここからは来た道を引き返し、峠頂上に到着します。
頂上は平坦地で、茶屋跡ほか戊辰戦役の後に会津藩士秋月悌次郎が詠んだ歌碑などが地元有志によって建てられ、ここからは会津磐梯山や会津盆地の展望も開けています。
峠頂上からゆるい坂道を下ったところに戊辰戦役の会津藩防塁跡の標柱が立てられています。
ここからは杣道の下りで、最近表示された道標に従って進むと峠の終点、軽澤間の宿(かるさわあいのしゅく)に至ります。
軽澤を過ぎ、国道49号線と交わる場所別(わかれ)茶屋に出て、冑岩(かぶといわ)、冑神社、縄沢(つなさわ)を経て参勤交代本陣のおかれた野沢宿、上(かみ)野尻、下(しも)野尻の集落に至り、その先が車峠となります。
別茶屋は現在の国道49号線との追分となり、左折して進むと沼田街道と交わり、円蔵寺虚空蔵尊で知られた柳津(やないづ) への道になります。
下野尻宿の緩い登り坂の先に古峰神社が鎮座し、砂利敷きの車道(旧会津三方道路・国道49号線)を200mほど進んだ右に「稲荷杉」の碑があり、その左手に車峠入口の道標が立てられています。
車峠入口からは緩い登り道が1時間ほど続き、旧国道49号線と合流して進んだ先で、標高267.1mの標準点を過ぎると茶屋跡です。
茶屋は三軒あったと言われ、正確には2棟か3棟か判然としませんが、地元古老の言い伝えによると、「上の一軒が参勤交代の殿様の宿所として使われ、昭和55年(1980)の豪雪で倒壊解体してしまった」とのこと。
イザベラバードは「ここからの眺めがすばらしく、2泊した後、津川に向かった。」と書き残し、さらにここから先の街道について「こんなひどい道路を馬に乗って通るのは」と酷評しています。
車峠は、茶屋跡から200mほど西に進んだ地点から小さな沢の右岸沿いに開削され、現在は木沢沿いに下る道そのものが存在せず、荒れた沢筋となっています。
自治体や守る会等による復元の動きもなく、取り残された廃道となっています。
この山裾に沿って旧会津三方道路とこれの改修で通行していた旧国道49号線の道筋があるのみです。
縄木沢をそのまま下り切ると国道49号線・車トンネル出口(新潟県側)に至り、国道49号線の公衆電話ボックスのあたりが峠の終点です。
縄木沢には3か所だけ砂防ダムが建設されていますが、危険個所はなく、ロープを使用しないでも登・下降が出来ます。そのあとは、国道を横断して川谷、白坂宿へと続きます。
車峠を越え津川宿(新潟県)まで、険しい陸路の宿駅間往来であった街道は、明治期以降の会津三方道路や国道49号の拡幅付け替え工事により大きく変わり、宝川宿から国道49号線を真っすぐ突き切った十字路が鳥井峠入口となります。福島県西会津の川谷~白坂~宝坂~宝沢~鳥井峠(県境)~八ツ田、さらに福取一里塚を経て惣座峠~八木山~津川までの街道は、宿駅間の杣道を残しながら直線的な街道が建設され、現在に至っています。
福島県と新潟県境を跨ぐ鳥井峠の由来は「飯豊山神社信仰の鳥居に由来する」と語り伝えられ、惣座峠を越え八木山集落までの旧街道は通行不可となっています。
束松峠、車峠とも福島県側の新潟県境近くに位置し、地形的には越後山脈の奥谷と山間地に開削された峠である。
会津街道は標高200mから400mの険しい宿駅間の陸路を縫うように繋がれた道を通るもので、険阻な地形もなく、特に危険個所もない。
ただし、車峠は峠山頂の茶屋跡から新潟側に向かって先は廃道となっており通行できない。
会津街道は、会津若松と越後を結ぶ重要な交通路であり、会津側からは「越後街道」や「津川街道」「新発田街道」、越後側からは「会津街道」や「若松街道」など、地域によってさまざまな名称で親しまれてきました。徳川幕府時代には、佐渡金山と江戸を結ぶ輸送路や新発田藩・村上藩の参勤交代道として利用されたほか、山深い会津にとっては塩や米、蝋(ろう)などの物資が行き交う通商路として極めて重要な役割を担ってきました。
【ルートの変遷と宿駅】
当初の街道は、若松から高寺山北側の勝負沢峠を越えていましたが、慶長16年(1611年)の大地震により道が崩壊したため、以降は束松(たばねまつ)峠を越えるルートへと変更されました。
主な経路は、会津若松城下から坂下、塔寺、気多宮を経て、舟渡の渡し場で只見川を渡河し、束松峠、野沢、車峠、鳥井峠などの険しい峠道を越えていきます。さらに新潟県の津川宿から阿賀川を渡り、諏訪峠を越えて新発田へと至ります。明治初めには、中継地点である片門(かたかど)に200頭もの駄馬が飼われ、交易運送の拠点として賑わいました。特に会津藩領であった津川宿は、陸路の要所であるとともに、阿賀川の水運を利用した新潟港への舟運交易の拠点としても繁栄しました。
【近代の変化と衰退】
明治15年、福島県令に就任した三島通庸は、県内の道路改修計画の一環として、険しい峠を避ける新ルート「会津三方道路」の建設を強行しました。これに対し、強権的な手法に反発した地元住民は、独自に旧街道の拡幅工事に着手したほか、自由民権運動と結びついた「喜多方事件」へと発展するなど、激しい抵抗運動が繰り広げられました。
その後、明治27年に会津三方道路が開通し、さらに現在の磐越西線にあたる鉄道が敷設されたことで、物流の主役を譲った旧会津街道は衰退の一途を辿ることとなりました。現在、かつての難所であった「束松峠・車峠」などは、地元有志の手によって歴史を伝える古道として整備・保存されています。
束松峠は、新編会津風土記に源頼義東征(1055年・天喜3年)として「陸奥の満田(会津坂下・天屋の地名)の束松 千代の齢を云々」との記録があり、これが峠名の由来とされます。
会津街道は、慶長16年(1611年)に会津地方を襲った「慶長大地震」により崩壊を余儀なくされ、それまで街道筋であった阿賀川南岸の高郷地区西芳賀が通行不能となったことから、野沢の宿から束松の生えている地域に峠越えの街道として新たに作り変えられ、これが現在に至っています。現在の束松は4代目「曾孫(ひこ)松」と言われています。
束松峠は、只見川と阿賀川の二つの大河が山間地を蛇行して流れ下る複雑な地形に開削され、会津街道の要所としての役割を果たしてきました。
その後、明治15年に束松峠を通らずに新たに会津三方道路を建設するとの計画が進められます。これに異議を唱える地元有志が「荷駄の通れるような場所に新しくトンネルを掘ってこれまでのように街道で日銭を稼ぐ」として別ルートに「洞門掘削」を進め、明治27年に工事を完成させます。
しかし時すでに遅く、250mに及ぶ洞門は軟弱岩盤のため崩落、峠新道は通行不能となり、束松峠は開発の波に飲まれ、衰退の一途を辿り今日に至ります。
【束松峠茶屋と生活のこと】
束松峠頂上には昭和34年ころまで2軒の茶屋があり、ここを住居として家族とともに住んでいた鈴木ヒデさんに、日本山岳会越後支部桑原勇蔵氏(83歳・会津坂下町)が、平成25年に直接聞いたことがありました。
「明治末に茶屋は廃業したが、越後への道はこの峠を通るしかなく、茶屋は繁盛した。住家として昭和34年ころまで家族で住んでここからふもとの小学校へ行った。峠の反対側(軽澤)に同級生がいたので、その子が峠に上がってくるのを待って、途中遊びながら学校までは一時間ほどかかった。冬は雪が深いので親たちが道を付けてくれたので通うことができた。親たちもここから田んぼまで下って仕事をした。茶屋で飼っていた2頭の馬にやる(食べさせる餌)草刈りが大変だった。」
「茶屋では、ニシンの煮つけ、塩味のあんころ(あんこの意)餅が飛ぶように売れ、天保銭を入れたカマス(稲わらで編んだ物入の袋)は床を抜かすほど重かった。」
「峠には水がないのでくみ上げるのが大変だった。峠下の水場、沢まで下って行って、そこから水を運び上げていた。祖父が茶屋で馬を飼っていて、その餌となる草が峠には生えていないので確保するのが大変だった。」
【通学路としての束松峠】
軽澤集落(間の宿)のお年寄りは、通学路として毎日往復したことについて、「坂下片門の小学校、中学校まで二里の峠を毎日往復して通学した。通学が大変だったと思ったことはない。それほど急な道でないので、時々は駆け足で苦にはならなかった。」と述懐していました(令和5年7月)。
車峠は、新編会津風土記に「束松峠」と同様の記述があり、会津街道として江戸時代以前から利用されてきたことが分かります。明治11年6月にイギリス人女性探検家イザベラ・バードが北海道まで旅した途中、片門の舟渡しを過ぎて束松峠を越えたその日の夕刻に車峠の茶屋に二泊しました。車峠茶屋の居心地がよかったことや、ここから見た会津の山々の雪景色が素晴らしいこと、茶屋の他の宿泊客に感想を語り喜んだこと、鶏を食べられなかったことなどを書き残しています。
車峠の茶屋に2泊したあと旅を続けたイザベラは、出立直後から遭遇する車峠の下り道とその先の街道の悪路について酷評し、先々の街道や宿駅で生活する人々の野蛮な姿を目の当たりにして辟易することを日記に書き残していて、英国人探検家から見た明治11年初夏の奥会津地方の暮らしぶりを推察するに余りあります。
気多宮(けたみや)宿は、交通の要衝である「追分」としての利点を活かし、かつては旅籠や茶店、酒屋、小間物屋、油屋といった多種多様な商店が軒を連ね、大変な賑わいを見せていました。
また、この宿場は「筏師(いかだし)」たちの定宿としても重要な役割を果たしていました。只見川を遡れば、奥会津地方へと通じています。当時、金山・只見・伊南地方の豊かな山林資源から切り出された木材は、筏に組まれて只見川を下り、阿賀川と合流して越後の津川から新潟へと運ばれていました。こうした川を利用した物流が盛んに行われたことで、中継地点である気多宮も大きく繁栄したのです。
飯豊山は、飛鳥時代の白雉3年(652年)に知同和尚と役小角(えんのおづぬ)によって開山されたと伝えられる、歴史ある修験道の山です。江戸時代に入ると、稲作信仰や死者供養、成人儀礼などを中心とした庶民信仰の場へと姿を変え、戦後の登山ブームを経て今日に至るまで多くの人々に親しまれています。
会津街道の中でも新潟県境に近い宝川(たからがわ)宿と上野尻(かみのじり)宿は、飯豊山参詣の「裏参道」の玄関口としての役割を担ってきました。「山岳古道120選」にも選ばれている「飯豊山古道/飯豊山参詣道」の記述にある通り、ここから登山口となる弥平四郎(やへいしろう)集落までは約20kmの距離に位置しています。
弥平四郎集落は、古くから木地師(きじし)伝説が語り継がれる里として知られています。現在も飯豊山の主要な登山口の一つであり、現存する10世帯すべてが「小椋(おぐら)」姓を名乗っているという、全国的にも珍しい歴史的特色を持つ集落です。
「新編会津風土記」や「会津旧事雑考」等には、会津坂下町北西部の高寺地区に伝えられる「高寺遺跡」に関する記述が多く残されている。
伝承によると、欽明元年(540年)古代中国の梁という国から青岸という高僧が北陸道を経て会津入りし、高寺山に草庵を結び、その一帯には三千余の寺院があって布教の拠点にしたと言われている。(会津坂下町史より)。
その後、大同2年(807年)学僧徳一上人が高寺を中興し、さらに慧日寺(磐梯町)を興し、勝常寺を開基した。
徳一は慧日寺、勝常寺、高寺を通じ会津一円に仏教を広め、勝常寺には東北唯一の国宝「薬師如来三尊像」が納められているほか、国の重要文化財としての仏像仏閣も多く残されている。
この3か所の寺社は、磐梯山南西山麓の慧日寺を東端として、西方一直線に勝常寺(湯川村)と会津坂下町高寺山(伝説の廃寺)とつながる位置にある。
福島県西会津町野沢にある大山祇神社は、宝亀9年(778年)の開基と伝えられ、奈良時代よりこの地を鎮守していたとされる。
御祭神は(大山祇命、岩長比売名、木花咲耶姫名)の母娘三神で、それぞれ山岳丘陵守護、長寿守護、良縁・安産守護の神としてあがめられ、毎年6月の例大祭には福島県内はもとより新潟、山形などからも多くの参拝客が訪れている。
住所:福島県耶麻郡西会津町野沢字大久保甲1445-2
交通アクセス
車:磐越自動車道西会津ICから車で約10分
鉄道:JR磐越西線西会津駅からバス15分、大久保下車
連絡先:大山祇神社
TEL:0241-45-2323
FAX:0241-45-2199
八幡太郎頼義、義家父子は蝦夷(えみし)の反乱で東征に遣わされ、以後奥州で九年に及ぶ戦乱を戦い、東国における源氏勢力の基盤を作った人物と言われている。
会津街道束松峠を野沢の宿に下った所に冑神社がある。
地元の口伝えに「八幡太郎義家が冑を脱いで休んだところ」と言われ、垂直の壁をくり抜いた神社が残されている。
石の鳥居には、「蘆名義廣 末孫 岩淵伊勢次郎」と刻まれている。
明治15年、福島県令・三島通庸は強権的に「会津三方道路」を建設し、宿場として栄えた束松峠ルートを廃し、遠回りの藤峠へ県道を移した。これに対し、死活問題に直面した高寺・片門・束松の住民は、元肝煎・渡辺新八郎の発案のもと、独力で峠の直下に全長約234mの「束松洞門(隧道)」を掘り抜くという驚くべき対抗策に打って出た。
明治17年に着工したこの工事は、農閑期に手弁当で集まった村民たちの手によって進められ、10年の歳月をかけた明治27年に完成。明治期の道路隧道として住民が自力で完遂した稀有な例であり、崩落が進む洞内には、当時の未熟な技術ゆえの試行錯誤を物語る「誤った掘削痕(洞内分岐)」が今も刻まれている。この新道は日露戦争の行軍路としても利用されたが、大正3年の鉄道開通により、街道としての役割を終えた。
春日八郎おもいで館は、会津坂下町出身で名誉町民でもある故・春日八郎氏の思い出の品々を展示した記念館。
愛用のピアノをはじめ、ステージ衣装や楽譜思い出の写真等展示されており入場は無料。
春日八郎の大ヒット曲「別れの一本杉」でも歌われる一本杉と石の地蔵さんのある場所に記念館が建てられ、訪れる人も多い。
所在地:福島県河沼郡会津坂下町大字船杉字上宮21-1
電話:0242-82-4254
アクセス:JR会津坂下駅から車7分
車:磐越道会津坂下ICから国道49号経由10km15分
明治2年(1969年)2月12日、元会津藩士の伴百悦や高津忠三郎らが明治新政府軍民生局軍監の久保村文四郎(元福井藩々士)を束松峠近くの本名の宿で待ち伏せし、惨殺した事件。
戊辰戦争で敗れた会津藩士の遺体は、賊軍という汚名のもとに会津城下では埋葬も許されず、放置されていた。
官軍側の扱いに不満を持った伴らは、帰国する久保村軍監を束松峠で待ち伏せし殺害。そのあと旧会津藩領の津川に逃れていたが、明治3年6月、新津郊外の慶雲庵に潜伏しているところを村松藩兵に包囲されて自害した。
一方、高津忠三郎は逃亡のあと1876年(明治9年)10月、永岡久茂(旧会津藩士家老職)他14名とともに東京・思案橋に集結したところを明治新政府転覆の疑いにより、駆け付けた警視庁警官隊と切りあいとなり、その場で逮捕、斬罪となっている。
主犯の長岡久茂(元会津藩主席家老)は逮捕の翌年、獄中死するが、長岡ら旧会津藩士は「萩の乱」の首謀者前原一誠(旧長州藩士で明治新政府の参議)と通じて萩の乱に加わる目的で、東京・思案橋に終結したと言われている。
会津藩士秋月悌次郎は、戊辰戦争で藩の公用人として敗戦開城式を取り仕切ったのち、幽閉されていた猪苗代を密かにぬけだし、かねて旧知の西軍参謀である長州藩士奥平謙輔を越後に追って、会津藩の善処を願うとともに会津藩の未来を託す有為の若者の教育を恃んだ。
その帰途、雪の束松峠で藩の行く末を思い、詠んだのが「北越潜行の詩」。
奥平謙輔が預かったのは東京・京都帝大の総長となった白虎隊士の山川健次郎や後の近衛師団工兵大隊長を務めた小川亮大佐であった。
平成25年10月、地元束松峠を護る会員ら有志によって束松峠頂上に「北越潜行の詩」の碑が建立されている。
秋月悌次郎らのはたらきが後々の明治新政府への会津藩士登用につながり結実した。
明治15年(1882年)、福島県令による強引な「会津三方道路開削計画」に抗議し、地元民権派の中心的人物が逮捕された。
同年11月28日、弾正ヶ原(喜多方市郊外)に集結した千数百名の民権派農民が、釈放を求め喜多方警察署に押し寄せ、これに警官隊が抜刀して制圧、逮捕された事件。
この「喜多方事件」が発端となり、加波山事件、秩父事件など全国的に民権運動が高まり、明治新政府に対する自由民権運動に結び付いた。
弾正ヶ原は自由民権運動発祥の地として、民権の碑と民権百年記念碑が残されている。
会津坂下町では、毎年10月に「束松峠ウオーク大会」を開催し、多くの参加者が往時を偲んでいる。
束松峠入口から峠終点軽澤集落(軽澤間の宿)まで約6km
コース時間、距離はおおよその時間(目安として活用ください)
「会津街道」調査起点の塔寺・気多宮から束松峠登り口まで~車移動
<コースタイム約15分>
会津坂下町塔寺・気多宮の追分(会津街道と沼田街道分岐)を車で出発、鐘撞堂峠新道を下り舟渡集落まで2km約5分。
只見川にかかる橋を渡り天屋集落の束松峠入口まで2km約5分
束松峠徒歩移動
<コースタイム約1時間50分>
峠入口
↓山王神社
↓六地蔵
↓幅広道
↓新道と旧道の分岐
↓一里坦
↓新道・洞門分岐
↓洞門
↓引き返し
↓分岐
↓峠頂上
↓会津藩・塹壕跡
↓峠下り道
軽澤集落
車峠入口から峠を越え国道49号線トンネル西口の旧会津街道川谷集落まで
<コースタイム 登り40分 下り(廃道の藪漕ぎ)30分>
車峠入口 旧国道9号線T字路
↓標準点
↓車峠茶屋跡
↓峠下り地点(縄沢源流)
↓国道49号線車トンネル西出口
旧会津街道入口
※束松峠と車峠は別個の古道であり、峠間の移動は車による。
川谷集落から鳥井峠~惣座峠まで
車移動<コースタイム約40分>
川谷集落(以下集落名省略)
↓白坂
↓宝坂
↓宝川(国道49号線横断)
↓鳥井峠
↓八ツ田(福島新潟県境)
↓福取一里塚
↓八木山
↓天満
津川
[鉄道、バス、タクシー、マイカー]
JR磐越西線野沢駅下車。ここからタクシー等で国道49号線を会津坂下方面に進み、軽澤集落の先から束松峠入口に入り、徒歩で峠越となる。
JR只見線塔寺駅、会津坂本駅下車。バスと列車は本数が少ないため塔寺駅、会津坂本駅からタクシーで会津坂下町塔寺・気多宮より県道43号線に入り、旧鐘撞堂峠を下って只見川とぶつかったところが集となる。
只見川に架かる橋はここから下流150mの場所にあり、道なりに進むと、本名集落を過ぎたところが束松峠一口でここから先は徒歩。公共交通機関はない。
[鉄道、バス、タクシー、マイカー]
JR磐越西線上野尻駅で下車。ここからタクシー等で下野尻方面に進み、下野尻集落突き当りの神社から車峠入口までは徒歩5分で着く。
ここから峠越えとなり、峠を下り切ったところからはさらにタクシー等を利用しての移動となる。
[鉄道、バス、タクシー、マイカー]
西会津町49号国道の車トンネルを抜けて直ぐに旧会津街道の下り道となり、ここからタクシー等で川谷、白坂(しらさか)、宝川(ほうかわ)、宝坂(ほうさか)と続く。
鳥井峠は峠の名がつくが、旧49号国道から左折した砂利道が新潟県境の八ツ田集落まで続く。
八ツ田集落から再び国道49号線に出て、福取トンネル手前から右折して旧街道に右折、福取一里塚を経て惣座峠を越え、津川まで。
「歴史の道 越後街道 若松―鳥井峠」福島県教育委員会発行
会津史学会編「会津の街道」歴史春秋
吉田博行、渡部智子、舟木 健治、歴史春秋出版「会津坂下 拓かれた坂下の古墳群」歴史春秋社
会津史学会編「会津の街道」歴史春秋社
《担当者》
日本山岳会福島支部
渡部展雄