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27 越後米沢街道 十三峠
新潟県側の鷹ノ巣峠から東へ歩くコースを紹介します。
関川村下川口集落の東、JR米坂線ガード下の道路端に立つ米沢街道十三峠の立派な看板(2021年製)から出発します。道路幅は広く、数台駐車できます。
小さな坂道を上ると右手に湯殿山などの石塔があります。
杉林を通過すると舗装した林道に出ます。(新潟、仙台260㎞を結ぶガスパイプラインがこの下に敷設されている。)50mほど進むと右手に米沢街道の看板があり、ここから古道の面影が出てきます。
道は中ノ沢の休耕田跡へ一旦下ったあとに再度登り道となり、道幅約4mの林道二重坂線に合流します。
林道工事の際、3mほど山を掘り下げ舗装したため、鷹ノ巣峠越えの実感はあまりありません。
峠の頂上から下ると、林道左側に小さな案内看板があり、ここからJR米坂線に向かって下っていきます。
街道はJR米坂線の工事で分断され、現在のコースは迂回路となっています。
また、JRに並行して建設中の新潟山形南部連絡道(鷹ノ巣道路)脇を直進すると国道113号鷹ノ巣トンネル手前に出ます。
ここからは大内渕集落を通過し、国道沿いの歩道を700mほど進み、片貝トンネル手前右手「榎峠入口」の看板脇の急階段を上がっていきます。
榎峠越えの道は新潟県側に残る米沢街道の中でも、当時の姿を最も良く残していると言われています。
峠の東側には「像」が祀られています。
峠から「無名戦士の墓」を経て沼集落に至るまでの道はうっそうとした杉林でしたが、数年前南側斜面の分収林がされ、明るい景観となりました。
沼集落は歴史のある村で、1878年(明治11年)7月、英国の女性旅行作家イザベラ・バードがここで一夜を過ごし、またその10年前、1868年(明治元年)戊辰戦争時に米沢藩と新政府軍とが講和会議を行いました。
集落の南端にある橋を渡ると街道は分岐します。墓地脇に残る道が街道ですが、先が雑草雑木で荒れていることから、旧わかぶな高原スキー場に向かう消雪パイプの敷設された舗装道路を進みます。
沼沢橋先で舗装道路と分かれ、土道の林道片貝畑線を南に進みます。ここから数メートル先に、夏でも枯れない豊富な湧水があり、小さな広場があることから休憩地として利用されています。
この先、集落跡、畑鉱山跡を経てやがて「駐車場」の看板が立てられた広い平坦地に出ます。(ここまでは車の通行が可能)
大里(おおり)峠登り口から山形県境に至る街道は、基本的には山の斜面を迂回するように峠を目指す道筋になっています。
入口から5分ほどの間は沢のすぐ脇を通ります。これは1967年(昭和42年)8月の羽越大水害後に整備された道で、昔の街道は土砂崩れにより消滅しています。ここ以外にも崩落した箇所が散見されます。
茶屋跡(茶屋)付近にはかつて整備された板状の敷石や、街道脇の敷地に積んだ石積も見られます。
県境の大里峠は、他の峠に見られるような切通ではなく、ゆっくり休憩できる平坦な広場になっています。
大蛇伝説で有名な峠にはお堂が造られ、大里大明神、神社、石像が祀られています。
お堂後方のブナ林の中の急登階段を上がると数分で高圧送電線鉄塔に出ます。県境のここからの展望は圧巻で、西方には関川村から日本海が見え、東方は峠の下山口となる山形県小国(おぐに)町玉川を見下ろすブナ林が広がっています。
大里峠の県境を玉川方面に下ると、ここまで歩いてきた苦労を忘れるほど歩きやすい快適な道となります。
鉄塔の保守管理用道路としても利用され、整備されているのがその理由です。
文献には街道筋に銅山、鉱山があるとされますが、長い年月に埋もれ見つけるのは容易ではありません。
山道から舗装道路に変わる箇所に凶霊供養塔の標柱および説明看板が立ち、傍らの石の台座の上に石柱がのっています。1781年(天明元年)2月17日この街道筋の手ノ倉沢で表層雪崩のため9名が死亡する大惨事が発生。
1854年(嘉永7年)12月17日にも同じ場所で2名が亡くなったことから建立されたといいます。
周りはやや広くなっていて駐車可能です。細い舗装道路を下る途中にあるはずの庚申塔は見当たらず、やや太い道路に突き当たる直前、左に玉泉寺があります。
玉泉寺の東と西に玉川口留番所の建物があったそうですが、今は広場となっています。
太い舗装道路(県道260号線)に出ます。
道沿いには玉川の集落があります。
玉川の集落を北東へ約250m行くと、左手に萱野峠の説明看板があり、元小中学校校舎の広い敷地が見え、その駐車場も峠歩きに使えます。
その向かいにある駐在所の建物の右に萱野峠への標柱が立っています。
民家の間をまっすぐに、次に右へ曲がって川の方へ下っていくと、玉川大橋を渡って東へ真直ぐに道は延びています。
敷石も部分的に見られます。
姥杉という標柱のそばに、隙間なく杉の木が密生して立つのが見られます。
石切り場の看板もあり、ゆるやかな登りでほどなく、萱野峠頂上に到着しますが、木々に囲まれて眺望はありません。
杉林が所々にあり、下りにかかってほどなく、かやが茂った場所が見られます。
小さな川を渡って右手へ振り返ると、黒滝があります。
上部では、平らな岩の上を水が滑るように流れ、下部では滝となっています。
もう一度川を渡るとすぐに、道が二手に分かれますが、古道は右に入り、民家の裏側に出て、細い舗装道路をたどるとやがて、やや太い道(県道15号線)に突き当たります。足野水集落で民家が数軒あります。
右に曲がって県道を約500m行くと、左手に朴の木峠への標柱が立っています。
朴の木峠へは民家の脇を山の方へのびる道を歩いていきます。
すぐに川を渡り、基本的には送電線の下を上っていきます(2024年6月16日時点ではかなり左右の木が覆いかぶさり、藪漕ぎ箇所が多かった)。
朴の木とブナの美しい林の中の道で、全体的にはゆるやかな登りで舗装道路に出たところが朴の木峠。
右手の木々の向こうに飯豊連峰が眺められます。
観音堂の脇に展望台への急な階段がありますが、展望台の周囲の木々が育っていて、残念ながら眺望は得られません。
舗装道路を横切って北東へと下る道のすぐ先で、大木が古道の上に倒れて通行注意の箇所があります。
その先は敷石も見られ、ゆるやかに下っていきます。
化け物杉の標柱の傍らでは、根元から数本の杉が固まって並立しています。
健康の森横根のコテージの間を通り抜けて、トイレを右手に見てすぐの突き当りを右へ。
10分ほど舗装道路を下ると左手に山道が見えます。
やや草が伸びていますが、藪漕ぎもなく、危険個所もなく、小国小坂町の舗装道路までおりられます。
右に曲がり、橋を渡り、車一台がぎりぎりで通れる舗装道路を南へ、その先は道なりに南東へと歩いていきます。
東側は横川越しに小国の市街地が望めます。
地図上では、杉林の中で左右が高くなった峠の地形の箇所がありますが、現場では高鼻峠の表示は見当たりません。
舗装道路に出てから約2km歩くと、杉沢の集落に入り、道の傍らで道祖神や馬頭観音の石碑と出会えます。
なお、「山形県歴史の道調査報告書」には、横川を渡り、町原、木落、松岡から貝渕峠への道が記載されています。
南方の子持トンネルから北方の国道113号へと南北に繋がる道路を横切って、さらにまっすぐに東へ2.2kmほど進むと、左に横川が近づき、右手には山の斜面が迫ってきます。
貝淵峠は江戸時代は難所と言われたようです(「山形県歴史の道調査報告書」)。
しかし道ばたに標柱は1か所しか見当たらず、進入しても少し先で通行困難となります。
もう一か所の標柱の見当たらない入り口も、藪漕ぎで進むのが困難でした。
舗装道路を東へ進み、突き当りを右に曲がり、車一台がようやく通れる舗装道路を約2.1km行くと、黒沢峠おまつり広場に着きます。さしかけ小屋の水道からは水が流れ、草刈り作業の道具が置かれています。
シートを掛ければ雨天でも大勢が集まれる大テントとなる骨組みの奥に、「黒沢峠敷石道」の入り口があります。
苔に薄くおおわれ、長方形に近くて中央にかけて少しくぼんだ敷石が、ゆるやかな傾斜に沿って平らに敷き詰められて、延々と上へと伸びています。
次の石との間の段差は小さく、足を置く面も傾いていないので歩きやすい道です。
峠も含めてずっとブナに杉が混ざる林の中で眺望はないですが、道幅が2〜3mあり、下草もないので見通しがききます。
峠を越えて300mほど先でやや急な斜面を下って沢を渡る箇所で橋が落ちており、崩れやすい急斜面をトラバースします。
そのあとはゆるやかに下っていくと、舗装道路に出ます。
右へと舗装道路に沿って歩くと、白い森おぐに湖の中へと下っていきます。6月中旬から11月までの、水位が低い時しか通れませんが、湖の中央に近いところにある不動出生橋(ふどういするぎばし)を渡って対岸の大イチョウを目指して歩きます。
大イチョウのある広場から階段をのぼると県道15号線に出ます。
振り返ると白い森おぐに湖の中を歩いて来たのがわかります。
ダム建設に伴って沈んだ市野々の集落を偲ぶ石碑が立っています。その広場から左へと県道に出て東へ進みます。
飛泉寺橋を渡るとすぐに道は二手に分かれますが、直進します。
ここからはずっと、車が一台ぎりぎりで通れる舗装道路(冬期は通行止め)を15kmほど進むことになります。
落葉広葉樹のまばらな林の中をゆるやかに登っていくと途中に、市野々の集落に存在した石碑を集めた箇所があり、桜峠は切通しとなっています。
下る途中から右手に桜川が近づき、道路と川の間には、以前は畑と思われる開けた平らな土地が見られます。
左手には急な傾斜地が迫り、地図上では建物マークがある箇所には何も残っていません。
両側から斜面が迫る箇所を通り過ぎると視界が開け、民家が数軒建つ白子沢の集落に入り、右手からの道との合流箇所、左手高いところに白子神社があります。
白子神社の創建は養老元(717)年とあります。
その先の、県道と並行に、右側に走る細い舗装道路の途中が才ノ頭峠ですが、坂道の途中で民家のすぐそばを通過するのみで案内板もなく、峠の地形となっていません。
そのまま進むと元の県道15号線に戻るのでそのまま北東へ道なりに直進します。
その先、約1kmで国道113号線に突き当たります。
右に曲がり、国道を歩き、遅越トンネルを過ぎて左側に大久保峠への入り口があるはずですが、草が一面に茂って見つけるのは困難です。
宇津峠は、新宇津トンネルを通り過ぎてすぐに左へ入る道を進んで、ほどなく右手に見えるイザベラバード顕彰碑から往復します(峠付近で道の崩落があり、東から峠を越えて西へ下ることは2024年6月現在では困難)。
イザベラバード顕彰碑のすぐ上に落合地蔵尊の祠があり、その裏手から山道となります。
「バードの道」(江戸時代の道)と「近代の道」(明治時代の道)が絡み合って登っています。
二つの看板が同じ地点に見られる分岐点がいくつもあり、近代の道の方が道幅が広くて緩やかに見えますが、藪漕ぎが必要な部分があります。
バードの道は細くて傾斜も大きい山道ですが、歩かれているようです。
途中の「バード眺望地」看板から、米沢盆地への眺望が開け、風が抜けますが、ほとんどはブナなど落葉広葉樹の林の中を行きます。
左手の平らな所に「介(たすけ)茶屋跡」の看板が見られ、そのすぐ先が終点で、宇津大明神などの石碑が並ぶ広場となっています。
(さらに先へと、「バードの道」看板はありますが、途中で藪がひどく道型も不明となっている)
下りの途中、左手の上方に、「はだか杉」の看板が見えます。
最後の諏訪峠までは9kmあり、国道歩きとなり車道で越せるため、車で移動します。
国道113号線沿いにある道の駅いいでを通り過ぎてすぐに右折し、県道250号に入って坂を上っていきます。
小高い丘にある峠の頂上あたりの広い路肩に車を停めて、東側(小国側から米沢方面を見て左側)の小山に登る入口まで、先へ(米沢側へ)と車道と並行に少し歩くと、展望台への入り口看板があります。
細い山道をゆるやかに登っていくと10分ほどで木製の展望台があり、木々の間から少しだけ米沢方面の眺望が得られます。
米沢の方へと車道を下ると、丘の麓、左手に諏訪神社の杉並木が見えます。近くに短時間の駐車スペースがあります。
車でT字路を左折して川西小国線を東へ進みます。
その後は基本的には右手の小高い山の山麓に沿って南下する道が米沢街道で、途中県道287号線も通りますが、成島八幡宮付近には細い街道も部分的に残っています。
米沢街道の起点は、米沢市内の門東町と大町の境にある札ノ辻で、今は米沢警察署大門交番となっています。
・基本的には傾斜はゆるやかで路面も比較的平らで歩きやすく、歩行難度は普通。
・あまり歩かれていない箇所は季節によっては草に覆われて藪漕ぎを強いられる。
・車道から分岐するときの看板が小さいため、見逃さないようにしたい。
・宇津峠の西側(小国町側)は、麓まで下ることができないので登ってきた道を引き返す。
・黒沢峠から白い森おぐに湖に下る途中の谷を渡るのは注意が必要。
・6月中旬から11月中旬までの水位が低い時には黒沢峠から桜峠までを通しで歩けるが、水位が高い時や期間外は、黒沢峠からおまつり広場へ引き返す。
・朴の木峠の西側は藪の中の通過箇所がある。朴の木峠から東へ下る最初にも、道をふさいだ倒木の上を歩く箇所がある。
・大里峠はツキノワグマの生息数が多く、古道沿いに植林した杉の根元の樹皮が剥がされる被害が多発している。
十三峠は1521年(大永元年)に県境の大里峠が開かれたのが始まりで、江戸時代にかけて順次整備された。
越後側から、鷹巣峠、榎木峠、大里峠、萱野峠、朴ノ木峠、高鼻峠、貝渕峠、黒沢峠、桜峠、才ノ神峠、大久保峠、宇津峠、諏訪峠の13の峠がそれで、小国観光協会の資料によれば、十三峠合計距離34.1km、峠間連絡道合計距離30.6kmとある。
①鷹巣峠
熊坂と鷹巣峠の2つのピークがある。標高155mほどと低く、歩きやすい。
古道と林道が重なっており交互に歩く。また、JR米坂線によって分断されている。
「歴史の道百選」(文化庁)に選定されている。
②榎峠
戊辰戦争の戦場となり供養塔が建てられている。
峠には如意輪観音像が祀られている。
ルートは1.9kmと短いが大部分の古道が残る。
③大里(おおり)峠
大永元年(1521)年に伊達稙宗(だてたねむね)によって拓かれた道で、十三峠はこの峠から東へと伸びていった。
ルートの距離は4.6km、峠の標高は478mで宇津峠に次いで2番目の標高。
展望地からは日本海に浮かぶ粟島などを望むことができる。
「歴史の道百選」(文化庁)に選定されている。
④萱野峠
緩やかな峠で、敷石が点在する。
角石が一列に並べられたところと石畳状のところがあり、ルートのほとんどが古道である。
越後の三大橋と言われた玉川大橋には橋脚跡が見られる。
⑤朴ノ木峠
峠は林道と交差して舗装道路になっているが、飯豊連峰の眺めが素晴らしい。
足野水集落と峠の間は、送電線に沿ったルートである。
角石が一列に並んでいるところがある。
⑥高鼻峠
横川が増水時に川止めとなって通行できないことから杉沢集落から小国の間で高鼻峠を越える道として改修された。
道は細いが舗装道路になっている。
⑦貝渕峠
270mの僅かな峠であるが、薮に覆われており歩行できなかった。
以前は刈り払がしてあった。
⑧黒沢峠
十三峠でもっとも知られているのが「黒沢峠の敷石」。
昭和55年に「黒沢峠敷石道保存会」が発足し、多くのボランティアの力で現在およそ3600段の敷石道が復元された。
ブナ林のなかに続く敷石は見事である。
峠の頂上の標高は423m。
延享3(1746)年に開削されたとあり、「歴史の道百選」(文化庁)に選定されている。
なお、「旧道(旧街道)」とあるのはそれより200年以上前の最初に開削された頃の古道で、林道に続いている。
⑨桜峠
県道で舗装道路となっており、緩く長い坂道となっている。
頂上の標高は435mで切通しが残る。
⑩才ノ頭峠
住宅の裏道のような車も通る舗装道路。
峠名は出口に立つ「賽の頭地蔵」からの由来か。
標高は316mで峠というより緩い坂道である。
⑪大久保峠
薮と途中で崩壊しているため通れない。
国道113号の遅越(おそのごえ)トンネルの北にある。
標高は370m。
⑫宇津峠
峠が崩落し間瀬側は通行できない。ボランティアの方々によって落合側が整備されている。
「イザベラバードの道」(江戸道)と「近代道」(明治道)があり、トレッキングイベントがおこなわれているという。
後者は馬車が通れるほど広いが薮にも覆われている。
標高491mと十三峠ではもっとも高く、険しい。
幾度も改修工事が行われ峠付近には「道普請供養塔」がある。
⑬諏訪峠
県道250号の諏訪峠付近に古道があるというが薮におおわれている。
展望台への道も不明瞭。
峠名は諏訪神社が由来という。
小松峠とも言う。
慶長3年(1598年)に直江兼続が米沢に入ると、旧領地の越後と米沢の往来は活発になった。
越後に財政的な協力者、渡辺三左衛門がいたからだと言われている。
兼続は米沢の検地を行い、札の辻を新町(あらまち)に改めて、領内交通の基点とした(その後、札の辻は新町十文字に移り、大町十文字に移った)。
また駅場を設けて問屋を定め、物資の輸送手配にあたらせた。
米沢からは青苧(あおそ)、煙草、蝋、漆が十三峠を越え、荒川の川舟輸送で桃崎浜や海老江などの港へ運ばれた。
越後からは塩、魚、塩魚、干し魚、鉄、小千谷縮、後には石油もあった。
日用物資の輸送のほか、旅人、職人、牛馬の往来でもにぎわったが、十三峠を越えるには40〜50日を要したという。
米沢の警備と人や物資の往来を取り締まった口留め番所(諸口番所とも)が40か所近く設けられている。
馬による物資輸送が主で、小国の馬の数は下長井村勢調査書によると990頭で牛は36頭だった。
仙台・南部の産馬地帯から供給されたものである。
手ノ子、落合、白子沢、黒沢、小国、玉川には馬宿があった。
小松、村上間は3日から6日を要したので、各駅では牛馬宿が昼夜通して繁盛した。
牛馬宿は白子沢が最も多く6軒、小国が4軒、市野々2軒、玉川に2軒あった。
物資の輸送は牛馬だけでは運びきれなく人が背負子(しょいこ)で運ぶことも多かった。
背負子は撥子(はねこ)や揚子(あげこ)といった。
とくに積雪期は駕籠も牛馬も利用できず人が運んだ。積雪前の多忙期にも人が活躍した。
普通の者でも30~40貫背負い、天秤で背負う強者は積雪のときでさえ40貫を担って桜峠や宇津峠を越したという。
宿駅の間だけの者や10日から14日かけて置賜と越後との運送にあたる者がいた。
手ノ子と小国が最大で100人くらい、沼沢、白子沢に30~50人いた。手ノ子では、宇津峠の輸送に近隣から150人くらいが駆り出された(「小国町史」)。
小国盆地に入る関門として、越後下関と手ノ子が繁盛した。また、玉川、市野々、白子沢の宿駅が早くから開けた。
小国は小さい城下町で、地方行政、交通経済の中心だった。
小国小坂町の道路中央には八木沢の水を引いた用水堀が通っていて、その両側に牛馬をつないで糧食を与えた宿駅にみられる道路であった。
県道開削後は荷車輸送が主となったが、荷物を積んだまま宇津峠は上がれないため、手ノ子か落合で荷を下ろし、車を分解するか、空車にして頂上まで運び、車から降ろした荷物を背負子によって頂上まで運ぶという変わった形式もとられた。
明治20年ころから明治の末期までは背負子100名(冬期は200名)、牛方、馬方、荷車、馬車などが荷物取扱所前で集散した。
手ノ子は宿駅としては最後までにぎわった。
落合には馬宿・旅人宿・茶屋など6軒、手ノ子には旧御用宿、旅人宿、木賃宿、馬宿、荷物取扱所、餅屋、蕎麦屋、髪結いなど22軒があった。
荒川の通船の要望が高まり、明治5年7月、役人らが難所である赤芝を検分しているが、その計画は実現しなかった。
近世後期の越後の地理学者・小川心斉の「越後志料」(道路の部)によると、米沢街道は新発田城下町を起点として、黒川御陣屋を経由して三国街道より分かれて、大島、下関、上関(あり)、大内渕(番所)を経て山形県小国町玉川口(口留番所)、小国町、米沢城下に通ずる脇往還道であった。
また米沢街道は、荒川に沿って遡上していくので「荒川通り」とも言った。
この荒川は三港で構成された舟便もあり、米沢城下と日本海を結ぶ最も短絡路の重要交通路であった。
関宿から米沢領玉川宿までは行程5里で、この間鷹ノ巣、榎、大里の大峠があり、境3里18丁の当国一の難場と言われた。この地帯は地滑り地帯で秋の長雨の時節には道路に水があふれ泥道になるため旅人は言うまでもなく、牛馬の送りにも支障をきたすこともあった。
天保6年(1835年)〜弘化2年(1845年)に「道普請」と呼ばれる大規模な改修工事が実施された。
下関の豪商・渡辺本家(渡邉邸)によるもので、道幅を6尺(約1.8m)より3間(約5.5m)に広げ、道の左右に水流しの細堀をつけた。出水すると泥道になるところは、長さ4尺(1.2m)、厚さ5寸(約15㎝)の切り石2360枚敷き詰めて、おおよそ5000人余りの人足を要した工事であった。
さらに明治3年(1870年)沼村に新駅が設置されようやく通行の困難が緩和された。
米沢街道は、沢添いの山道は馬車が通行できず歩行にも難儀をしていたことから、初代県令三島通庸(みしまみちつね)が新たな道を計画。
1885年(明治18年)、ほぼ現在の国道113号に沿った小国新道が開通し、十三峠の役目は終えた。
その後改修工事が進み、1923年(大正12年)初めて新潟県から貨物自動車が入り、1965年(昭和40年)一般国道113号となる。1967年(昭和42年)8月羽越豪雨により壊滅的被害を受けたが、災害復旧工事が直ちに着手され、8年後の1975年(昭和50年)新たな国道113号が開通した。2011年(平成23年)の東日本大震災では、被災者の避難、救援や復興に向けた物流ルートとして大きな役割を果たした。
現在新潟(村上市)と山形(高畠町)を結ぶ延長80㎞の地域高規格道路・新潟山形南部連絡道路の工事が進められていて、鷹ノ巣峠、榎峠は「鷹ノ巣道路区間」として工事現場を横に見ながらの行程となる。
米沢街道十三峠の新潟県側入口である下関に、廻船業、酒造業、新田開発などで財を築いた豪商、豪農の館で、国の重要文化財「渡邉邸」がある。
周囲に堀と塀を巡らせた敷地3000坪と500坪の母屋、6棟の土蔵、国名勝指定の庭園が配置されている。渡邉家は米沢藩の四大金主の一つと言われるほど長期にわたり財政面で支援し、特に米沢藩上杉第9代藩主(1767年~1785年)の時代、藩政改革のため多額の資金を融資し、米沢藩からその功として勘定奉行格の待遇や知行を受けている。また、鷹山公直筆の書や刀剣、関係する古文書も多く残されている。
築200年の強度が高い「づくり」の屋根は「石置き屋根」で、玉石が約1万個、小羽(杉薄板)20万枚が使われていて、その広さや数は日本一という。脇に県指定文化財「津野邸」、国指定重要文化財「佐藤邸」、村指定文化財が並び、米沢街道の宿駅として、荒川舟運の拠点として栄えた当時の面影が偲ばれ、古都保存財団による「美しい日本の風土百選」に選定されている。
渡邉家の歴代当主は社会活動にも積極的であつたが、特に11代渡辺萬寿太郎は村長として村興しに尽力し、全国唯一の農山村6.3.3制研究実験指定校「学園」を開校した。さらに関谷診療所の開設、私財を投じての関谷病院建設、他の自治体に先駆けて村独自の国民健康保険組合の創設、農地解放と引揚者の受け入れ、酪農の導入など多くの貢献をした。
また、映画、テレビ等のロケ地として、昭和55年今村昌平監督「ええじゃないか」、平成7年NHKドラマ・宮尾登美子作「蔵」、令和4年6月17日公開映画「峠」の撮影に使われた。
1868年(慶応4年)、京都近郊の鳥羽伏見で旧幕府軍(会津・桑名軍)と新政府軍(薩摩軍)が衝突して戊辰戦争が勃発。京で勝利した新政府軍は江戸城を無血開場させ、戦火は関東、東北、北海道へと延びていった。
河井継之助率いる長岡藩を中心とする同盟軍は3か月にわたる新政府軍との熾烈な攻防戦を行い、北越戊辰戦争と呼ばれいる。
その北越戊辰戦争は、榎峠での長岡藩の戦いから始まっている。
新政府軍に占拠されていた榎峠を1868年(慶応4年)5月10日(新暦6月29日)に長岡藩が奪還したもので、次の戦いは占拠されていた南側の朝日山の争奪戦へ移っていった。
しかし7月25日新政府軍の松ヶ崎・太夫浜上陸を境に事態は急変し、新潟港を守る米沢藩兵は新政府軍の大軍の前に敗走し、順次十三峠に退却していった。
8月12日の榎峠での敗報が米沢に届くと、和平工作が進められ、28日沼村で交渉、翌日和睦成立となった。
玉川口御番所は二人配置の重要番所であった。
玉泉寺の東と西に建物があった。東の番所あとは空地、西には店があり、そのそばから大里峠道が通じている。
玉泉寺の本尊は嘉吉三年(1443年)三月作の聖観音の座像。荒川峡谷沿いの道路が難路であったためにやむをえずひらかれた大里峠への道は決してすぐれた道ではなかった。
もと神明社があり神明山といわれた地に明治11年に造営された。
米沢城内に明治5年に建立された上杉神社の遥拝所。
ご神体は、上杉謙信が川中島で信玄と戦った時の軍扇と、上杉鷹山自書の短冊である。
白子沢の高台にあり、神社の祭神は伊弉諾尊。
養老元年(717年)4月3日、石の上に九頭の白い龍が現れた。その石を基礎として祠堂を新築し白子大明神と改めた。
この街道の起点は、米沢城下(現米沢市内)大町にあった札ノ辻。
札ノ辻とは法令や禁令などが書かれた高札が設置してある交差点のことで、大町には豪商が軒を連ねて立ち並んでいた。城下町米沢で一番の繁華街だった。
現在は交番が建っている。
米沢から延びる街道の中で最も高札場の多かったのが越後街道で、小松・松原・手の子・沼澤・白子沢・市野々・小国・玉川の8カ所に存在していた。
1994年(平成6年)竣工の、国の重要文化財「渡邉邸」をイメージして建てられた石置き小羽葺仕様撞木づくりの建物で小羽屋根には1万8千個の石を置く。館内では村の歴史資料が展示されているほか、渡邉邸など旧米沢街道の18世紀の街並みが模型で紹介されている。書や絵画などを展示する企画展も常時開催。
開館/10:00~16:00
休館日/毎週月曜日と年末年始(祝祭日の場合は翌日)
住所/〒959-3265 新潟県岩船郡関川村大字下関1311
電話/0254-64-1288
1905年(明治38年)当時の建築技術の粋を集め、渡辺家の分家として建築されたもの。
撞木造りの建造物が並ぶ米沢街道にあって、屋敷構えを持ち異質。碁盤の目をあしらった天井、小判に見立てた天井、玄関屋根の曲線が美しい「むくり破風」は素晴らしい。木造2階建て入母屋造りで純和風の風情ある庭園と調和している。1975年(昭和50年)関川村が管理し村民から募集した「東桂苑」と名付けられた。カフェコーナーやランチも楽しめる。
この施設も渡邉邸同様、映画、テレビ等のロケ地として使われた。
開館/9:00~16:00
定休日/11月中旬~4月上旬
住所/〒959-3265 新潟県岩船郡関川村大字下関906-2
電話/0254-64-0252
関川村に古くから伝わる大蛇伝説「大里峠」で村の危機を伝えた大庄屋「三左衛門様」が登場する。その蔵一の琵琶と杖が祀られている。大蔵神社の現在の社殿は渡邉家4代当主が1732年(享保17年)に再建したもので、渡邉家は氏子総代となっている。9月に行われる大蔵神社祭礼は戦前まで渡邉家の祭りだった。
住所/〒959-3265 新潟県岩船郡関川村大字下関381
電話/0254-64-1490
1988年(昭和63年)の第一回から現在まで継続されている村を挙げての大イベント。
1967年(昭和42年)8月28日に発生した羽越大水害と村に伝わる「大里峠」という大蛇伝説をテーマにしている。
メインイベントの大蛇パレードに登場する長さ82.8m、重さ2tの大蛇は村民の手作りで、竹とワラで作った世界一長い蛇としてギネスブックに認定されている。
まつりは毎年8月下旬に開催され、大蛇パレードのほか、灯篭流し、花火大会、盆踊り大会、喜つ喜(ジヤンケン)大会、福まきなどが行われる。
・問合せ先
住所/〒959-3292 新潟県岩船郡関川村大字下関912
電話/0254-64-1441
イザベラ・バードは1878年(明治11年)5月から3か月にわたり東日本を旅した記録を「日本奥地紀行」として残している。7月11日に米沢街道十三峠最初の鷹ノ巣峠に入り、榎峠を経て沼に宿泊している。12日は大里峠を経て山形県小国町市野々、13日は川西町小松に宿泊した。
十三峠の山中では、大きな山岳地帯に難儀したことや、山村の風景、習俗、集落住民の様子など好奇心一杯に記録されていて興味深い。
峠から米沢平野を望んで「東洋のアルカデイア」と称したことは有名。
関川村下川口集落(鷹ノ巣峠入口)
35分 ↓ 1km ↑ 25分
鷹の巣峠~大内渕地内国道113号
25分 ↓ 0.9㎞ ↑ 60分
大内渕(鷹ノ巣峠出口)
20分 ↓↑ 0.7km
榎峠入口
35分 ↓ 1km ↑ 25分
榎峠~沼集落
25分 ↓ 0.9㎞ ↑ 35分
沼集落
90分 ↓↑ 4.5㎞
大里峠入口(駐車場)
80分 ↓ 3km ↑ 70分
大里峠
35分↓ 1.7km ↑ 40分
玉泉寺
3分↓ 250m ↑ 3分
玉川大橋
40分↓ 1.5km↑ 35分
萱野峠
40分 ↓ 2.2km ↑ 60分
足野水
45分 ↓ 1.6km ↑40分
朴の木峠
60分 ↓ 2.8km ↑ 70分
小国小坂町
15分 ↓ 1km ↑ 15分
高鼻峠(らしきところ)
55分 ↓ 3.8km ↑ 55分
貝淵峠の標柱の一つ
35分 ↓ 2.1km ↑ 30分
黒沢峠おまつり広場
50分 ↓ 1.8km ↑ 40分
黒沢峠
40分 ↓ 2km ↑ 50分
白い森おぐに湖の中の不動出生橋(ふどういするぎばし)を通って市野々のいちょう広場
40分 ↓ 1.8km ↑ 35分
桜峠
70分 ↓ 4.5km ↑ 80分
才ノ頭峠
15分 ↓ 1.2km ↑ 15分
国道113号線に出る
100分 ↓ 7km ↑ 100分
遅越トンネルの東側出口付近にある大久保峠へのはいり口
50分 ↓ 3.5km ↑ 50分
イザベラバードの顕彰碑(宇津峠の東側の登り口)
60分 ↓ 0.9km ↑ 50分
宇津峠
9km
諏訪峠(峠頂上での展望台までの周回に約20分)
十三峠のある越後米沢街道は、基本的にはJR米坂線および国道113号線と並行にその南側を通っている。峠の最寄り駅から歩いて峠を越えて、次の最寄り駅まで歩くこともできるが、2024年6月の時点では、米坂線は不通で復旧の見込みがなく、各駅の間は、代行バスが運転され本数も少ない。
鷹ノ巣峠入口のある関川村下川口集落は、越後下関駅から約3km (峠の入り口は米坂線ガード下付近)
宇津峠の登り口は、手ノ子駅から約4km
才ノ頭峠は、羽前沼沢駅から約2kmで、さらに約6.5km歩くと桜峠を越えて白い森おぐに湖の近くに出る。
黒沢峠おまつり広場までは、羽前松岡駅から約2.5km
小国駅から約1km歩くと高鼻峠を通過でき、さらに3km歩くと貝淵峠に到達する。通り抜けてさらに1.5kmで羽前松岡駅へ。
朴の木峠入り口は、小国駅から700m。反対側の登り口は、小国駅から12km
萱野峠への足野水側の登り口は、小国駅から11.7km。 反対側の登り口である玉川は、小国駅から12.5km
大里峠への登り口である玉川へは、小国駅から12.8km、越後金丸駅から8km
峠の登り口まで車で行く場合は、いずれも、国道113号線から南の方角へと入っていき、数台の駐車可能なスペースはある。(鷹ノ巣峠、大里峠、萱野峠、朴の木峠、黒沢峠、宇津峠、諏訪峠)
「新潟県歴史の道調査報告書 第11集(会津街道・米沢街道)」新潟県教育委員会、1997年3月
「山形県歴史の道調査報告書 10(越後街道)」山形県教育委員会、1981年(昭和56年)3月
小国町史編纂委員会編「小国町史」小国町、1966年
「関川村史(通史編)」関川村、1992年(平成4年)
「北越の豪農渡邉家の歴史」関川村
「越後せきかわ大蛇伝説(資料編2冊)」関川村、1995年(平成7年)
「せきかわ歴史散歩」関川村、1989年(平成元年)
関川村教育委員会「大蛇伝説考ほか」1996年(平成8年)
関川村教育委員会「米沢街道」1997年(平成9年)
「鷹ノ巣温泉と鷹ノ巣館(湯の発見にまつわる伝説と沿革)」鷹ノ巣館
大滝友和「米沢街道峠紀行(含関川村の峠)」1998年(平成10年)
「新潟歴史紀行 2 村上市岩船郡」新潟日報事業者、1995年(平成7年)
イザベラ・バード「日本奥地紀行」平凡社、1973年(昭和48年)
「小国の交通」山形県西置賜郡小国町、1996年(平成8年)
越後米沢街道・十三峠交流会「越後三峠(鷹ノ巣・榎・大里)」2016年(平成28年)
「ガイドブック越後米沢街道・十三峠」山形県置賜総合支庁、2021年(令和3年)
「越後米沢街道・十三峠トレッキング」やまがたアルカデイア観光局(チラシ)、2022(令和4年)
越後米沢街道・十三峠交流会ホームページ「越後米沢街道・十三峠」2012年
http://mount13.web.fc2.com/index.html
担当者
(新潟県側)
日本山岳会 越後支部
渡邉忠次
作図・写真 佐久間雅義
(山形県側)
マウンテンカルチャークラブ
松本博子