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26 太閤道 勢至堂峠・背炙り峠

背炙り峠

豊臣秀吉が奥州仕置のため、伊達政宗に幅三間の道を命じて作らせて会津入りをした勢至堂峠。
その先、猪苗代湖西岸から登った山頂に「関白平」があります。
秀吉が籠を降りて、馬で峠を越えていったと言い伝えられています。
関白平では床机に腰かけて仕置の策を練ったとも言われ、今は休憩所も整備され市民の憩いの場となっています。
地元ではこの山一帯を「背炙り山」と呼び、戦国時代、葦名氏が砂鉄から鋼(たまはがね)を作ることを広め、精製された鉄がこの山道を越えて会津城下まで運ばれました。
朝、背中に朝陽を浴び、夕方には背中に夕陽を受け往来したことで「背炙り峠」の名があり、会津黒川へ抜ける鉄の道(地元有志の命名)であったため「鉄の道背炙り峠」といわれています。
城下町と農村の物流を支えてきましたが、今は廃道の波が押し寄せています。

古道を歩く

会津若松市湊町共和上馬渡大満寺⇒背炙り峠(863m)⇒関白平⇒院内御廟

《歩行約3時間00分》
会津若松市湊町上馬渡の大満寺が起点。
熊、猪除けの電流線を左右に見ながら車道を進むが、次第に道も狭くなり、登山道の趣になる。
近年この道は、歩く人も少なくなったが、数年前までは、地元の有志で刈払いを行い、背炙り峠までを整備していたと聞く。今は人手も少なくなり、峠を利用することもなくなり荒廃している。
かつては、会津高校の生徒たちが授業の一環として会津若松市内の同校から湊町までを駆け抜けていた時代があった。
豊臣秀吉が登った歴史の道であっても、生活、物流の流れが大きく変わった現代では利用価値がなくなることは寂しいものである。
砂防ダムを左に見て30分ほど進むと、ちょっとした平地に出る。ここからいよいよ、登山道となる。
左側に柵のある、人ひとり通れる細い道をあえぎながら登る。
ここからは藪漕ぎ覚悟で、わずかな踏み跡を頼りに高みを目指す。その踏み跡を登ること20分。

背炙り峠の遊歩道に飛び出す。夏の暑い時期にはお勧めはできないが、昨今、湊地区の「NPO法人みんなと湊まちづくりネットワーク」のメンバーが中心となって、鉄のまちを広げる活動を行っているので、歴史のある太閤道の復活を期待したい。
遊歩道を進むと稜線に出るが、稜線の道は自動車も通れるような散歩道である。
20分も歩けば、猪苗代湖を一望できる展望所に着く。
藪漕ぎを終えて見るこの景色には感動するに違いない。登ってきた湊町を眼下に眺めることができる。
更に右手に道をとれば、背炙り高原の頂上に着くことができる。
頂上は公園になっていて、かつては東山温泉からロープウェイも運航していた。
晴れていれば会津若松市内を臨むことができる。磐梯山がその雄姿を見せてくれる。

頂上には駐車場やレストハウスもあり、家族連れで賑わう。ここで昼食を取りたい。
昼食後は東山温泉までの道を下って行こう。
レストハウスから自家用車も通る舗装道路(東山サンライン)を下ると間もなく「史跡関白平」の標識を目にする。
ここは豊臣秀吉が茶会を開いたといわれているが、特定できる場所はない。
この地で何を考えていたのか、遠い昔に思いを馳せるのもいいかもしれない。
300mほど行くと、左手に東山温泉に下る石山遊歩道が現れる。
ここが会津黒川城に続く太閤道であると推測されるが、今では樹木も生い茂り展望はきかない。
急斜面を下るので慎重に歩きたい。
程なくして背炙り山の舗装道路(東山サンライン)に合流する。
あとは45分、自動車に注意しながら院内御廟まで下ろう。
途中、石山遊歩道(太閤道)に通じる道もあるが、昨今はクマの出没が確認され通行禁止になることもあるので注意したい。
院内御廟まで来れば東山温泉は目と鼻の先。ゆっくり汗を流して山旅の疲れを癒すのもいい。

この古道を歩くにあたって

会津若松市湊町共和の上馬渡の集落にある「大満寺」から数百mは農作業道を歩くが、峠道の登りに差し掛かるところからは、雑草などの刈払いがされていない場合は笹藪をかき分けて進むことになる。
登り詰めれば背炙り峠の遊歩道に合流する。
院内御廟側(東山温泉)から背炙り峠を通り、大満寺に抜ける逆コースは道がわかりにくいため避けたい。

古道を知る

会津若松市東山町と同市湊町とを画する峠を背炙り峠と呼んでいます。
別名「冬坂峠・這坂峠」とも言われていました。
湊町の南から北へ「原」、「二ッ谷」、「西田面」、「上馬渡」、「下馬渡」、「四ツ谷」、「赤井」という七つの集落があり、それぞれの集落から登り口があります。
その中でも「大満寺」周辺には、当時を偲ぶ石碑も多く残されており、地元のNPO法人みんなと湊まちづくりネットワークでは、太閤道としては最も有力なコースの一つとしてこの道を推挙しています。
なお、湊町では良質の砂鉄が取れ、葦名氏が砂鉄から鋼(たまはがね)を作り、会津城下に運びました。湊町には多数のたたら製鉄所遺跡が出土しています。

深掘りスポット

院内御廟

松平家墓所。会津藩主松平家の二代藩主保科正経から九代藩主松平容保までの歴代藩主が眠る。
昭和62年国の史跡に指定される。
初代藩主の保科正之は、猪苗代町の土津神社に葬られている。全国的にも珍しい新式のお墓でその構造もこの墓所独特なものになっています。
新緑、紅葉のシーズンには散策を兼ねてお参りする人も多く見受けられる。

興徳寺

会津若松市栄町
伊達政宗が会津支配の仮庁舎として、また豊臣秀吉が奥州仕置で滞在中に居館していたと伝えられている。

飯盛山

戊辰戦争で自刃した白虎隊19士の墓所。
1868年(明治元年)8月23日、戸の口原の戦いで決定的な打撃を受けて敗走した白虎隊が飯盛山へと落ち延び、その時に市中の火災越しにみた鶴ヶ城が落城したものと早計し、自刃した場所。

さざえ堂

1796年(寛政8年)飯盛山の山腹に創建。
上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造で、世界的にも珍しい建築様式となっている。1996年(平成8年)、国重要指定文化財に指定。

会津若松城(鶴ヶ城)

戊辰戦争で幕府軍が籠城した名城。
1593年(文禄2年)蒲生氏郷が本格的な天守閣を建て鶴ヶ城と命名した。当時、黒川と呼ばれていた地名を若松と命名したのも蒲生氏郷。

ミニ知識

湊町のたたら製鉄

猪苗代湖の西岸は砂鉄が多く取れ、たたら製鉄が盛んに行われていた。
湊町では鉄滓(てっさい:製鉄時に配される不純物)が発見され、会津若松市の埋蔵文化財に登録されている。
NPO法人 みんなと湊まちづくりネットワークのグループの皆さんが中心となって、湊町のたたら製鉄の実証実験とその歴史、文化を掘り起こす活動をされている。

鵜ノ浦城

天正17年(1589年)城主鵜ノ浦甲斐守が伊達政宗に攻められ落城。
現在は遊歩道も設置され、城跡からは猪苗代湖、背炙り山を望むことができる。

まつわる話

豊臣秀吉は天正18年(1590年)奥州の拠点として、会津若松城(当時は会津黒川城)を選んだ。
奥州仕置の経路は、現在の国道294号線にほぼ沿っていたものと考えられているが、途中、8月6日に白河城、8月7日に長沼城、8月8日に三代に宿泊し、8月9日~13日には会津若松に滞在していたとの記録がある。
また、現在、国道49号線と国道294号線が交差する滝沢峠は、この時代の古地図には見ることができず、背炙り峠越が太閤道の有力ルートであると地元の方のお話である。

ルート

コース時間、距離はおおよその時間です。(目安として活用ください)
会津若松市湊町基幹集落センター駐車場(スタート)
↑10分 0.5㎞
上馬渡 大満寺
↑20分 1.0㎞
平坦地
↑50分 1.5㎞
背炙り峠遊歩道分岐
↑20分 1.0㎞
背炙り峠展望所
↑10分 0.5㎞
背炙り峠頂上
↓15分 1.0㎞
頂上レストハウス
↓5分 0.3㎞
関白平
↓5分 0.3㎞
石山遊歩道分岐
↓45分 1.5㎞
院内御廟(ゴール) 所要時間  約3時間00分
東山温泉観光駐車場は院内御廟から徒歩5分

アクセス

公共交通機関の便は悪く自家用車利用がお勧め。

マイカー

東北自動車道須賀川I.C. → 国道118号線 → 国道294号線 → 会津若松市湊町基幹集落センター

駐車場

会津若松市湊町基幹集落センター駐車場及び東山温泉観光駐車場

参考資料

「紅葉の太閤道と宿駅を訪ねる」郡山地方史研究会版、平成29年10月
「歴史の道『白河街道』 若松—白河」福島県教育委員会、昭和59年6月
笹川寿夫編著「会津の峠(上)」歴史春秋社、2006
「新編会津風土記」
「みなと笑顔通信」NPO法人みんなと湊まちづくりネットワーク
会津若松観光ビューロー、観光ナビ資料

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会 福島支部
大島省吾
《協力》
大竹洋一 (会津若松市湊)
金田 榮 (郡山市湖南町御代)
大岡清一 (須賀川市横田)
(敬称略)

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