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26 太閤道 勢至堂峠・背炙り峠

勢至堂峠

天正18年(1590年)7月、豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻め滅ぼしたあと、奥州仕置のため軍勢を引き連れて白河から会津若松に入域した道が「太閤の道」といわれるようになりました。
天下統一を目指す秀吉は、領地を侵略し続ける米沢の伊達政宗に対して「会津までの道を三間幅に広げよ」と、奥州仕置のための道づくりを命じました。
勢至堂峠(せいしどうとうげ)には、政宗構築の石畳が今も残されています。
豊臣秀吉が奥州仕置のため伊達政宗に幅三間の道を作れと命じて会津入りを果たした勢至堂峠。
須賀川市勢至堂集落から郡山市湖南町三代までの約3㎞がこの度調査したルートです。
九十九折の旧道、そして峠をまっすぐに貫く新道の上を歩きますが、峠の頂上には藩界表石や戊辰戦争の遺構も見ることができます。

古道を歩く

勢至堂トンネル郡山市湖南側駐車場(入口)⇒勢至堂峠標柱⇒勢至堂トンネル須賀川市長沼側駐車場(出口)

《歩行約1時間30分》
郡山市湖南町三代(三代集落の入口には市指定の一里塚がある。旅籠屋の屋号を掲げて宿場町の面影を残す)から国道294号線を南に進み、勢至堂トンネルの手前駐車場が起点となる。
トンネルの入り口左側に階段があり、峠への近道もあるが、古の道を歩いてみたい。
交通量が多い国道を車に注意しながら、向かい側にわたり、幅3mほどの小道を登り、勢至堂トンネルの真上を通過する。
ほどなくして、朽ちかけた「歴史散策太閤の道」の道標を目にする。
太閤道を後世に伝えていきたいと湖南町史談会が建てたものである。

約30年前から毎年、太閤の道と風の会の会員が地元と協力して、数回にわたり刈払いをするスギ林の中を進む。
幅三間の道を体感できるほど、良い登り道である。
途中、道が分かれるがはっきりしている左手に道をとる。
20分で勢至堂峠の頂上に着く。ここには、藩境を示す「藩界表石」も存在し、一息入れたいところである。
特に見晴らしはないが、かつては眺望のきく峠だったのであろう。
1802年、伊能忠敬がここで磐梯山の測量をしている。
三代本陣で一泊したという記録もあり、また半官半民の茶屋もあったといわれる場所も確認することができる。
また、戊辰戦争の名残の土塁もあり、大砲を据えて官軍を待ったという当時の面影が残る。
ここからは勢至堂の集落に向けて下りとなる。
笹藪の谷筋の道となり、谷合いを進むことになるが迷うことはない。
左手の山側に平坦な道が並行して見えるが、道のつながっている様子から廃道(明治28年頃)の道と思われる。
地元の人の話では、近年の炭焼きにも利用されていた。
この辺りまで来ると「太閤道分岐」の標識を目にすることができる。
分岐から100mほど下ると、地表にわずかに残る石畳と側溝に出会う。

ここが伊達政宗時代に敷設した貴重な石畳である。苔むした石畳は約10mにわたり確認できるが、うっかりしていると見逃してしまうので注意が必要だ。丁寧に掘り起こせば更に長くその石畳を見ることができるかもしれない。
笹藪に足を取られながらも下れば左手に石垣も見られ、石畳の敷設のため砕石して運んだのではないかと推測される。
ここまで来れば、勢至堂トンネル(1994年(平成6年)7月完成)が完成するまで利用されていたアスファルトの旧道に飛び出す。
ここにも「史跡 太閤道」の標柱もある。長年の風雪で朽ちかけている。
右に下りの道をとり、10分歩いて旧道のゲートをくぐれば、国道294号に合流する。

勢至堂集落を訪れるには、国道を更に20分ほど下れば、右手の谷筋に見えてくる。
但し、旧道は国道294号線により分断されているので、今は歩くことはできない。
集落から峠に向かう旧道は、途中ゲートで遮断されているが、一里塚も現存しているので興味があれば昔を偲んで訪れるのも良いだろう。

また、集落には小学校も存在した時代があり、当時の門柱も残されている。
太閤道の宿場として開かれた勢至堂集落には市指定の勢至堂馬頭観音像もあり、往来が盛んであった戦国時代の街並みを垣間見ることもできる。

秀吉が通ったといわれる勢至堂峠の山旅を楽しもう。

この古道を歩くにあたって

山道といえども、幅三間を認識できる道なので問題なく歩くことはできるが、雑草などの刈払いがされていない場合は笹藪をかき分けて進むことになる。

古道を知る

白河・会津街道

白河・会津街道は会津若松城下の大町一之町から白河城下の奥州街道との分岐点「女石」に至る66㎞の街道で、滝沢峠と勢至堂峠を越える。
会津では東通りと呼ばれていたが、白河側からは会津本街道、会津越後街道、会津街道佐渡路などと呼ばれていた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による奥州仕置に際して、伊達政宗が白河から会津までの道を担当し道や宿駅が整備された。
江戸時代には参勤交代やコメなどの物資輸送にも利用され、関東や上方とを結ぶ最も重要な街道であった。
勢至堂峠は会津藩領と長沼藩領との境で、古道が一定区間良好な状態で残り藩領を示す「藩界表石」が存在している。
また、湖南町には郡山指定史跡の「三代の一里塚」が残されている。
宿場町だった三代、福良、赤津は現在舗装道路になってしまったものの当時の面影を残す町並みとなっている。
令和元年(2019年)文化庁の「歴史の道百選」に追加選定された。

勢至堂集落

天文14年(1545年)に蘆名盛氏が家臣の赤目越中父子に命じて、勢至堂峠を切り開かせた後、耶麻郡から村人が移り住んできたと伝えられている。江戸時代には問屋、本陣、脇本陣のほか屋号を持つ旅籠が街道を挟んで立ち並び、峠の宿駅として賑わっていたといわれる。
江戸時代元禄以後は幕府領となり、長沼代官所支配となった元禄13年(1700年)に長沼藩となり、その後明治維新を迎えた。

郡山市湖南町三代

慶長10年(1605年)、蒲生秀行の時代に宿駅の体裁が整ったという。
東西に短く南北に長いかぎ型のまちづくりであり、西口に街道の検問所にあたる口留番所があり、角に高札場があった。三代宿は会津の東側の重要な地であることから、村の北端に御番所、村の唐沢の入り口に出番所を構えて人々の往来を見守った。本陣はじめ、数多くの旅籠があり、大変賑わった。
昭和初期までは通りの中央を水路が流れていた。二本松、会津、白河への交差点であり、重要な交通の要衝であった。
明治32年(1899年)岩越線(現在の磐越西線)の開通で、宿場町としての三代の時代は終わりを告げた。

奥州仕置の随行2万人

豊臣秀吉が奥州仕置に随行した人数は、「織田信包、蒲生氏郷、長束正家、黒田義高等42将、22230人であった」といわれている。秀吉は白河から長沼城に入り長沼城に一泊したのち、江花集落から勢至堂峠を越えた。長沼城を出発した一行の先頭が勢至堂峠に達しても最後尾はまだ長沼城内にいたという。

幻の関ケ原

慶長5年(1600年)のこと、徳川家康は上杉討伐のため、会津へ北進していた。
石田三成が関ヶ原で陣を張ったため、徳川方は上杉との挟み撃ちになるため反転。
関ヶ原の地で天下分け目の大戦になり、徳川方が勝利。
長沼城、勢至堂峠周辺が「幻の関ケ原」といわれる所以である。
なお、上杉は最上・伊達と戦い、「北の関ヶ原」といわれる。

幕末の道

嘉永4年(1851年)に明治維新の魁である吉田松陰が東北遊学をした折、ここを通っている。
慶応4年(1868年)に、戊辰戦争時の会津若松の飯盛山で自刃した白虎隊士がその死の数か月前、三代、福良周辺で護衛のための訓練を実施。福良本陣にて土方歳三と親しく会話をしたといわれる。
なお、三代にある正福寺に「新選組 松本喜次郎」と刻まれた墓碑が現存する。土方歳三が埋葬料一両二分を添えたと伝わる。

太閤の道と風の会

現在、太閤の道と風の会が中心となって、地元の皆さんと史跡・標柱の設置、資料作成や勢至堂峠の刈払いを精力的に実施。
地道な活動が古道を守っている。

深掘りスポット

藩界表石

峠の頂上には、江戸時代の長沼藩と会津藩の堺を示す『藩界表石』が残っている。
『藩界表石』の建立時期は定かではないが、文化6年(1809年)会津藩により編纂された『新編会津風土記』には記載が見られるので、それ以前の建立であることは間違いない。碑は長い間所在が不明であったが、平成7年6月に郡山市湖南町史談会がこの碑の所在調査を実施し、峠頂上付近で埋没していた『藩界表石』を発見し、現状の通り復元している。

須賀川市長沼

長沼は城下町である。
奥州仕置で秀吉も長沼城に一泊し、その後勢至堂峠を通り、三代に一泊したとされている。
長沼城は永禄4年(1561年)会津の蘆名氏の築城といわれている。
春には長沼城址を彩る約300本の桜が満開となり、山全体をピンク色に染め、訪れる人たちの目を楽しませてくれる。
また、ここより東へ約4kmの横田集落にある樹齢約460年の護真寺の桜(福島県指定天然記念物)は、桜の名所として知られている。

木地師集落

会津を治めた蒲生氏郷が奥州仕置の時に故郷近江(滋賀県)の木地師を会津に移住させ、会津漆器の基礎を作ったといわれている。その一族5軒が1786年郡山市湖南町三代字中野入の地に入植し現在に至る。全戸が小椋の性である。

高土山

標高729m。古くは高鳥山とも言われ、旧・長沼町のシンボル的な存在の藤沼湖の西にそびえる。
藤沼湖自然公園駐車場から往復約2時間。太閤秀吉が奥州仕置きの際、高土山近くの長沼城に宿泊し、勢至堂峠を通り、黒森峠、背炙り峠を経て会津入りし、会津若松で奥州仕置きが終結したと言われる。

小倉城跡(湖南町中野)

三代の白河・会津街道より二本松街道に入って約2km先にあり、平泉討伐により源頼朝からその恩賞として安積一帯を治めた安積伊東(伊藤)氏の一族の居城。

鞍馬城跡(湖南町赤津)

1571年、安積伊東氏(東)氏一族の赤津弾正時綱が築城。ここから赤津の宿が一望でき、その風景は大内宿に似た面影を残している。

三代の一里塚

藩主保科正之(会津松平藩の祖 第二代将軍徳川秀忠の庶子)の時代の1667年に主要街道に一里塚が設けられた。
起点は各街道とも会津若松市大町一之町四角である。昭和50年8月、市の史跡・文化財に指定された。
太閤の道 勢至堂峠は、昭和50年8月、地元有志による保存活動が認められ、郡山市の史跡・文化財としての地位が確立。その後、令和7年3月21日付で市政百周年を記念して「市の指定文化財」となる。峠の頂上には「是より西会津領」と刻まれた藩界表石が建立され、長沼藩(須賀川市側)と会津藩(郡山市湖南側)の境界を表している。峠頂上近くには、戊辰戦争時の土塁や遺構が残され、1802年には伊能忠敬が磐梯山測量を行った。

ミニ知識

奥州仕置

織豊時代以前の奥州の地は、伊達氏、最上氏、南部氏などの有力な戦国大名と小領主が乱立して、常に熾烈な抗争が絶えない状況にあった。
天正14年(1586年)豊臣秀吉は、徳川家康を上洛させて臣従させたことにより翌年、大名間の私闘を禁じた法令「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、豊臣政権が主導する紛争の平和的解決と天下統一事業への協力を諸大名に求めたが、これは奥州の大名達にも影響力を及ぼした。
奥州の一部の大名は惣無事令を無視して紛争や領土拡張を行ったために、秀吉は伊達政宗や最上義光などに使者を遣わし同令の遵守と併せて上洛を求めた。
そうした中で天正17年(1589年)10月、真田氏の拠点の上州名胡桃城を急襲して奪取した北条氏に対して、これを惣無事令の無視と断じた秀吉は、翌年2月、15万余の軍勢を動員して小田原征伐を断行する。
それ以前に北条氏と結んで会津の蘆名氏に侵攻し常陸の佐竹氏とも対立して秀吉の嫌疑を受けていた伊達政宗は、急遽小田原攻めに参陣して、秀吉に謝罪し臣従を誓う。
天正18年(1590年)7月、小田原城が開城し、北条氏を滅した秀吉は、自ら小田原から宇都宮、白河を経て8月に会津黒川城に入り、関東と奥州の諸大名に対し領土の確定と検地等を行う仕置を実施した。
この「奥州仕置」により豊臣政権による事実上の天下統一が成就された。
 これにより最上氏、南部氏も恭順し、伊達政宗は会津の領地を没収されて代わりに秀吉側近の蒲生氏郷が配置されたが、この時、太閤秀吉が白河から会津に至る勢至堂峠を伊達政宗に命じて拡幅整備した道が「太閤道」と呼ばれている。

小林久敬(こばやし ひさたか)

現在の安積疎水の発案者。文政4年(1841年)須賀川市生まれ。明治25年(1892年)没。
天保の大飢饉により、コメ作りに困窮した岩瀬、長沼地方の農民の窮状を知り、私財を投げうって時の明治政府に猪苗代湖疎水の重要性を説いた人物。妻キチは勢至堂集落の出身。
安積疎水は明治12年10月着工、明治15年10月通水式。現在総延長540㎞で、郡山⇔東京間の往復の距離に達する。(安積疎水は当初猪苗代湖水開削、猪苗代湖疎水路などと呼ばれていたようである)

ルート

コース時間、距離はおおよその時間です。(目安として活用ください)
勢至堂トンネル郡山市湖南町側駐車場(スタート)
↑10分 0.5㎞
勢至堂トンネル上部
↑20分 1.0㎞
分岐
↑15分 0.5㎞
勢至堂峠頂上
↓20分 1.0㎞
石畳
↓5分 0.3㎞
旧道舗装道路
↓20分 1.0㎞
勢至堂トンネル須賀川市長沼側駐車場(ゴール)  所要時間  約1時間30分

アクセス

公共交通機関の便は悪く自家用車利用をお勧めします。

マイカー

東北自動車道須賀川I.C. → 国道118号線 → 国道294号線 → 勢至堂トンネル

駐車場

勢至堂トンネルの長沼側及び湖南町側

参考資料

「紅葉の太閤道と宿駅を訪ねる」郡山地方史研究会版、平成29年10月
湖南町史談会編「湖南の史跡と文化財」湖南史談会
太閤の道と風の会編「太閤の道 言霊再発見の路草」 
「佐竹家譜義宣」天正18年七月十日条(抄)
「歴史の道『白河街道』 若松—白河」福島県教育委員会、昭和59年6月
須賀川市歴史民俗資料館資料(勢至堂村古来からの由緒書他)
酒井徹郎「夢を実現させた男 先覚者小林久敬」歴史春秋出版社

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会 福島支部
大島省吾
《協力》
金田 榮 (郡山市湖南町三代)
大竹洋一 (会津若松市湊町)
大岡清一 (須賀川市横田)
日本山岳会マウンテンカルチャークラブ
(敬称略)

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