single-kodo120_detail
1 増毛山道・濃昼山道
増毛(ましけ)山道は、交易の場であるマシケ場所とハママシケ場所の場所請負人、伊達林右衛門(1799~1872年)が私費1311両(現在の約1億7000万円相当)を投じて1857年に開削しました。
増毛町別苅(べつかり)と石狩市浜益区幌(ぽろ)を結ぶ本線27.4kmおよび、本線から増毛町・岩尾地区に通じる岩尾支線5.6kmから構成。増毛山地の日本海側、浜益御殿(1039m)山頂~雄冬山肩までは稜線に築かれ、山道の最高標高は雄冬(おふゆ)山の肩1080m付近です。
2017年には雄冬山山頂(1198 m)まで登山道が開削されています。
増毛山道は国道231号沿いの旧浜益村(現石狩市浜益区)幌(ぽろ)側起点=幌稲荷神社から増毛町別苅側起点まで、本線だけで27.4kmもあるため、フルに歩く場合は健脚者でも10時間半~12時間程度を要します。
途中でのテント泊、ビバークの覚悟が必要です。
幌側から登る場合は幌稲荷神社~国有林起点手前のチェーンゲートまで林道を車で上がると、歩行時間を約2時間短縮できます。
札幌に近い幌(ぽろ)側から登る場合も、遠い別苅側から登る場合も、本線のほぼ中間地点から日本海側の増毛町岩老(いわおい)・岩尾温泉に抜ける岩尾支線(5.6km)をうまく使ってショートカットすれば、容易に日帰り行動が可能です。
幌側からのルートを紹介します。
<歩行2時間、車利用なら車通行20分+歩行5分>
神社の階段を登って二つの鳥居をくぐると拝殿(標高約30m)があり、その右側に増毛山道の大きな標識があり、ここが幌側の起点です。
広葉樹林帯に時々針葉樹が混じる中、山道はほぼ北東方向に尾根上で直線的に連なり、約2km歩くと標高285m地点で林道にぶつかります。
この先は本来の山道があった森は民有地になっていることもあり、林道を向かって左方向に進み、しばらく林道を歩きます。
林道脇は民有地が断続しますが、林道通行自体は問題ないです。
大坂山(533m)を西側から回り込んだ平坦地の先に石狩森林管理署のチェーンゲートがあり、マイカーやレンタカー利用ならこのゲート手前の林道脇に車を置いて歩き出すことになります。
ここから約500m上がったところに国有林起点(標高530m)があります。
<歩行3時間30分>
国有林起点からは、増毛山道の会が設置した番号標識が山道脇に掲げられており、ペース配分にも役立ちます。
標高を上げるにしたがって、眼下に日本海が広がり、1時間半歩けば浜益御殿です。
海岸線からこの山を見ると、ニシン御殿のように見えたからこの名がついたと考えられます。
山道には立派な山頂標柱が建っており、増毛山道本線が通る唯一の山頂でもあり、浜益御殿だけ登って下山するのも悪くないです。
浜益御殿から雄冬山肩の区間は標高850m~1000mの稜線が続き、山道に沿って、ダケカンバが列をなすように連なっています。
雄冬山分岐(標高1066m)からは2017年に雄冬山山頂(1198m)まで「山頂登山道」が新たに開削され、山頂手前の登山道脇の草原にはお花畑帯も広がります。
山頂には、この山道開削で労があった伊達林右衛門(りんえもん)に敬意を表した「林右ヱ門の座所」の標柱と山頂標柱が設置されており、暑寒別岳、郡別岳など増毛山地がくまなく見渡せ、眺望が素晴らしいビュースポット。山道から30~40分で往復できるので、時間があれば雄冬山山頂に立ち寄りたいです。
<歩行1時間30分>
雄冬山分岐から山道最高標高1080m地点まで登った後は、ダケカンバ林が断続する中、緩やかに標高を下げていきます。
樹幹越しに前方に増毛・天狗岳などを見ながら進むと、途中に旅人の安全を祈願した証とも言われる「仏の台座」と呼ばれるスポットもあります。
やがて林道とぶつかり林道を左折して少し行くと、屋根付きバス停を移設した避難小屋があり、2人程度なら寝袋泊できます。
小屋から本線を少し進むと岩尾分岐(標高634m)に達し、早めに下山したいならば本線を離れ、岩尾支線(5.6km)を1時間半程度下れば岩尾温泉(温泉宿「夕陽(せきよう)荘」、日帰り入浴施設「あったまーる」など)に下山できます。
<歩行3時間>
岩尾分岐から別苅側起点(国道脇の別苅入口)までは10.8kmですが、増毛・天狗岳の山腹に山道が付けられ、緩やかな下り主体で歩きやすいです。分岐から少し歩くと旧武好(ぶよし)駅逓(古通行屋)跡があり、清流が流れ、武好橋が架かっており、格好の水場になっています。
さらに進むと、焼失した旧武好駅逓を明治中期に移設した武好駅逓跡(標高648m)があり、休憩を取るのに良いでしょう。武好駅逓跡は、岩尾分岐から2.3km、別苅入口からは8.5kmの位置にあります。
武好駅逓周辺には、明治時代中期にこの海岸線のニシン漁場などと札幌、小樽方面を結んで通信手段として敷設された電報用の電信線や電信柱が数多く残っています。
駅逓跡から北東方向にさらに進むと、林道と2回交差(循環林道南交点と同北交点)しますが、番号標識やピンクテープを確認しながら標高を下げていけば、別苅の集落越しに日本海が近づいてきます。
山道脇の庚申(こうしん)塚を過ぎれば別苅側起点は近いです。
・増毛山道本線は長いので、岩尾温泉につながる岩尾支線をエスケープルートとして考えることと、山中でのビバークも想定する必要があり、ビバーク用具の携行が望ましい。
・浜益御殿~雄冬山周辺は標高が高く、天気次第では厳しい状況になり、10月下旬~5月は積雪があると考えた方が良い。この区間はササ繁茂の勢いがあり、ササ刈りが追い付かないことも想定する必要がある。
・林道との交差地点がいくつかあって迷いやすく、地形図とGPSでの山道の位置確認は必須となる。
北海道の山岳古道の中でも、増毛山道は距離の長さ、標高の高さ、積雪の多さ、ササ繁茂の密度の濃さなどから、復元作業は容易ではなかったのです。
この山道開削の中心人物、伊達林右衛門の子孫である伊達東(あずま)さん=札幌市=が1993年から山道を独自に調査し、呼び掛けたことで、忘れられていた山道の存在が知られるようになりました。
その情熱に影響されて留萌市の設計会社経営者、小杉忠利さんが2007年に航空写真を撮影、雄冬山~浜益御殿の稜線上でダケカンバが列をなしていることを確認します。
日が当たる明るい山道に沿って陽樹のダケカンバの種子が芽を出し、成長したためと考えられ、山道開削に向けて翌08年に増毛山道の会(小杉さんが事務局長に就任)が設立、山道ルートの確認作業を経て、有志による手弁当の開削作業がスタートしました。
毎年少しずつ復元しながら、2016年10月に全線が開通に至り、伊達さんの調査から23年がかりで復元されるに至りました。
特に標高の高い雄冬山肩~浜益御殿の主稜線区間はササの繁茂が尋常でなく、背の丈を越えるササ刈りは熾烈を極めました。
2017年2月に国土地理院地形図に山道が登山道として表記が復活し、2022年9月には「増毛山道」の名が注記として地形図上に記載されました。
また、2017年には増毛山道から雄冬山山頂への登山道が開削され、登山対象としてもこの山道の価値が高まったと言えます。
北海道には一等水準点は約2400ありますが、その中で最も標高が高い場所にあるのが、増毛山道、浜益御殿山頂(1039m)近くの「一等水準点8462」(標高1037.8m)で、1907年(明治40年)7月に設置されました。
三河(現在の愛知県)産花崗岩の標石(139kg)を増毛山地の1000mを越える稜線上まで山道を人馬の力で運んで埋石したものですが、当時の苦労がしのばれます。
その存在は長く忘れられていましたが、有志の手で、山道が復元される前の1995年(平成7年)に発見、発掘されました。
駅逓制度とは、北海道辺地を中心に江戸時代~昭和初め、人馬が移動する際の宿泊・休息施設・郵便・輸送業務の中継地としての役割を担った、北海道独自の交通補助機関です。主要なルート上に配置され、運上屋、会所、通行家、旅宿所などの別称も含めると、明治時代には全道で126カ所を数えたとされ、半官半民の駅逓取扱人が運営を担いました。
増毛山道本線中間地点近くでは、江戸時代末期に「通行屋」(旧武好駅逓、「古い通行屋=フルツコヤ」)が設置されました。ここにはかつて、山道を行き来する旅人の安全を願って総御影石の地蔵菩薩が設置されていたと伝えられ、現在は山麓の増毛町別苅の海音寺山門脇に「延命地蔵尊」の名で安置されています。
1876年(明治9年)に焼失したため、場所を別苅側に約2km移して1888年(明治21年)、正式に武好駅逓として設置、1902年(明治35年)に豪雪にたえるため、高床式で建て直されました。
大正時代にこの駅逓を訪れた北大山岳部創設者の伊藤秀五郎は「わたしがはじめてこの駅逓を訪れたのは、大正十二年(1923年)の五月であった。<中略>天狗山の山裾の、やや見晴らしのきく尾根の残雪に、古くさく建っているその駅逓を、春雨の煙る中に眺めた最初から、私はばかにすきになった。それ以来私はたびたびここを訪れるようになった。とりたてて駅逓のあたりの風景が奇に富んでいるわけではなく、むしろ平凡な景色に過ぎないけれども、私はここのどことなく落ちついた気分が好きなのだった」(「北の山」から)と書き残しています。
1926年(大正15年)6月に駅逓を訪れた山岳画家の坂本直行はこう書いています。「駅逓には六十になる老人が一人暮らしをしていた。この老人の役目は、別苅と雄冬の両方から逓送が持ってきた郵便物を、ここで交換して行くが、それを確認してハンコを押せばよいのである。泊り客は、鰊(にしん)漁の景気のよい時に盛んに入りこんでくる行商人の足溜りになる時に、少しあるぐらいだと話していた。六月のなかばに泊った私は、年明けてからの最初の泊り客だったのをみても、泊り客はまあほとんどないとみてよいだろう」(「原野から見た山」収録の「武好の春」から)
北大山岳部員でもあった坂本直行がこの訪問時に描いた武好駅逓のスケッチが、北大山岳部部報1号(1928年6月発行)に掲載されています。
武好駅逓は1937年(昭和12年)に増改築されたものの、1941年(昭和16年)に廃止されるに至っています。
その後も緊急時などに使われていたようでしたが、1949年(昭和24年)に訪れた北大山岳部員の記録では「まだ2~3年は大丈夫だが、(窓)ガラス等は何もなく、縁の下に寝所があり焚火は出来、雨は凌(しの)げる」と記述していました。この時代には既に利用されなくなっていたと推測され、その後自然倒壊し、現在はビール瓶などの残骸が残されているだけで、建物跡は跡形もなくなっており、現地に「武好駅逓跡」の説明版などが設置されています。
〇最北の酒蔵」国稀(くにまれ)酒造(増毛町)
https://www.kunimare.co.jp/
〇最北の果樹産地(増毛町)
https://mashike.jp/kankou/kajuen/
〇岩尾温泉「夕陽(せきよう)荘」「あったまーる」(増毛町岩老)
https://sekiyousou.sakura.ne.jp/
https://www.town.mashike.hokkaido.jp/tourism/place/iwaospa/index.html
〇旧多田商店(観光案内所)=映画「駅ステーション」(高倉健主演)のロケ現場
https://mashike.jp/kankou/historic__monuments/%E6%97%A7%E5%A4%9A%E7%94%B0%E5%95%86%E5%BA%97%EF%BC%88%E7%8F%BE%E8%A6%B3%E5%85%89%E6%A1%88%E5%86%85%E6%89%80%EF%BC%89/
蝦夷地(現在の北海道)を支配する松前藩がアイヌの人々との交易の場である商場(あきないば)(場所)での交易、漁場の経営を藩の家臣に代わって代行させた本州商人のこと。
江戸時代の蝦夷地では、内地の藩のようにコメが収穫できず石高(こくだか)制(コメの収穫量に基づいた支配体制)を敷けず、松前藩は当初、商場での経営権を家臣に与える俸禄としていました(商場知行制)。
18世紀に入ると家臣は商人にこの経営権を代行させ、一定の運上金を得る仕組み(場所請負制)に変わり、石狩~留萌の海岸線ではニシン漁の漁場経営の比重が大きくなっていきます。
1869年(明治2年)に場所請負制度は廃止され、ニシン漁は1871年(明治4年)から、個人経営体制に移っていくのです。
幕末から昭和初期まで続いた北海道独自の施設で、開拓者、旅人や馬の宿泊・休憩の場として、交通の要所に設けられ、郵便物の中継所にもなっていました。
増毛山道では武好駅逓が唯一の駅逓として戦前まで機能していたのです。
北海道の日本海沿岸は江戸時代以降、主漁場を徐々に北上させながらニシン漁が活況を呈し、増毛山道と濃昼山道とも密接に関連した歴史を刻みました。
ニシン製品は木造帆船「弁財船(北前船)」で本州に流通し、地域経済を支えました。
漁法の改良とともに漁獲量は明治30年(1897年)にピークを迎え、乱獲や魚群の北上により大正時代以降、道南からニシン来遊が徐々に激減し、最終的には昭和30年(1955年)代前半を最後にニシンは消えてしまうのです。
1)幌稲荷神社→国有林起点へ<歩行2時間、車利用なら車通行20分+歩行5分>
2)国有林起点→浜益御殿➡雄冬山分岐へ<歩行3時間30分>
3)雄冬山分岐→岩尾分岐へ<歩行1時間30分>
4)岩尾分岐→別苅側起点へ<歩行3時間>
公共の交通機関でのアプローチは難しく、石狩市浜益区幌側起点も、増毛町別刈側起点もマイカーやレンタカー、タクシーが現実的。
駐車スペースは、浜益区幌側起点では幌稲荷神社周辺が車は1~2台、石狩森林管理署チェーンゲート前が林道わきに寄せてとめるしかない。別刈側起点は駐車できるのは数台がせいぜいで、周囲に迷惑のかからないように駐車を。
増毛町史編纂委員会編「増毛町史」増毛町役場、1974年
増毛山道の会編 「増毛山道あれこれ」 2011年 「増毛山道マップ」 2020年
《執筆者》
日本山岳会北海道支部
黒川伸一