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1 増毛山道・濃昼山道
交易の場であるアツタ場所の場所請負人、浜屋与三右衛門(よざうえもん)が私費339両余り(現在の約4400万円相当)を投じて1857年に開削しました。
復元された山道は石狩市厚田区濃昼(ごきびる)から厚田区安瀬(やそすけ)まで日本海に沿った10.7kmの道で、最高標高は濃昼峠の357mですが、当初のルートは山側に大きく迂回して標高565mのルヘシベ峠を経由していたとされます。
1893年(明治26年)~94年(同27年)に、濃昼集落のニシン漁場の網元・木村源作が「漁場に通うヤン衆のために」と、資金を出してより海に近いルートに改修し、これが復元された現行ルートです。
江戸時代に開削された道を明治中期に海側に移し替えた現濃昼山道は、国道231号沿いの旧厚田村(現石狩市厚田区)の安瀬(やそすけ)集落と濃昼集落(濃昼川の北側は浜益区、南側が厚田区)を結ぶ区間を10.7kmで結んでいます。
ルーラン海岸と呼ばれる断崖に挟まれた海岸線を迂回するルートです。
最も内陸でも海岸線から1kmあまりしかなく、海岸線に沿っているのが現行ルートになります。
山道途中からルーラン海岸のかつての名所・ブトシマナイ川河口の「アモイの洞門」に出ることも可能ですが、一般道でないので部分的に軽いやぶ漕ぎとなります。
山道の起点としては、札幌に近い安瀬側登山口と遠い濃昼側登山口の2つがあり、それぞれ駐車帯があり、車数台は駐車が可能です。
どちらかに車や自転車などを置いてスタートするか、国道を歩いて戻ることも可能な距離で、近年はトレランでの利用者が増えています。安瀬側からのルートを紹介します。
<歩行1時間30分>
海沿いの駐車スペース前に、「濃昼山道」の大きな表示板、説明版が設置されており、階段状になった山道を斜上していきます。
急傾斜帯のジグザグ道を数分間登り終えると、あとは標高差の少ない山道歩きとなり、眼下に日本海を見ながらのルートが続きます。
ミズナラ主体の広葉樹に囲まれた山道は明るく、よく整備されていて、一等水準点と表示板、道標や案内板が随所に配されています。
馬が歩いた道なので起伏も少なく、晴れていれば木漏れ日の中を気持ちよく歩けます。
山道のほぼ中間地点であるルーラン海岸への下降地点まで、3つの支沢を横断します。
一つ目が滝の沢(馬鹿臭い沢)で、バカくさいほどの回り道になるのでこの俗称が付いています。
二つ目が江戸時代に開削された当初の山道(濃昼古道)があった大沢で、ルヘシベ峠(565m)を経由して濃昼峠の北側まで旧山道までつながっていたとされます。濃昼山道沿いには、沢を越える際に橋を渡していた石垣(橋台)が4か所(滝の沢、大沢、太島内(ふとしまない)川の一の沢と二の沢)残っていますが、大沢の石垣が最大です。三つ目が 空(から)沢で、ピンクテープや標識がある標高200mの屈曲部がルーラン海岸(ブトシマナイ川河口)下降地点になります。
<歩行1時間10分>
下降地点からはブトシマナイ川の二の沢と一の沢を横断して、標高を徐々に上げていきますが、この界隈には、明治時代に山道沿いに設置された電信線を支えていた電信柱跡や、絶縁体の碍子(がいし)の破片なども見つけることが出来ます。
やがて現在の山道で最も標高が高い濃昼峠(標高357m)に達します。
濃昼峠は、安瀬側起点からは7.2km、濃昼側起点からは3.5kmの位置になります。
峠の表示板の少し先、進行方向30m濃昼側から斜面上部に向けて、送電線保守管理用の刈り払い道がつけられています。眺望の良い「展望台」まで標高差で約20m上がることができ、日本海と周辺の山の様子を遠くまで見渡せ、休憩するには良い場所です。
<歩行1時間>
濃昼峠から北側、濃昼集落までの山道は、基本的に緩やかな下り一辺倒になりますが、峠から少し下ったところに旧山道(濃昼古道)との分岐があり、標識が立てられています。大沢を遡った旧山道は、ルヘシベ峠を経由してこの分岐まで続いていたとされています。
そのまま現山道を下降していくと、やがて濃昼集落が見えてきます。沢に降り立ち、堰堤(えんてい)脇の山道を進めば山道の濃昼側起点に下山できます。
濃昼集落では、7~8月には濃昼海浜キャンプ場が開設され、10月中旬までの週末の午前中であれば、地元の漁家が新鮮な魚介を販売しています。
現在の濃昼山道は整備されていて標識も随所にあるが、部分的に北電送電線の保守歩道と交錯しているところがあり注意したい。
江戸時代に開削された元々の濃昼山道(濃昼古道)は未整備で、沢装備が必要なため立ち入らない方が良い。
濃昼山道からは、ルーラン海岸の核心部であるブトシマナイ川河口に降りることができるが、刈り分け道は旧国道の閉鎖されたルーラントンネル南側出口まで付けられており、途中から刈り分け道を離れて北側のブトシマナイ川方向に降りる必要がある。海側にまっすぐ進むと断崖になるので注意を。
濃昼集落は江戸時代以降、ニシン漁で栄え、1790年(寛政2年)に北側のハママシケ場所と南側のアツタ場所の境界が集落を流れる濃昼川となり、その後の村境となっていましたが、平成の大合併で2005年に浜益村と厚田村が石狩市に編入したことで、集落が初めて同じ自治体の一部になりました。
この海岸線でニシン漁場経営の名門だったのが濃昼集落の木村家で、元々の濃昼山道では各漁場への移動に時間がかかるため、多くのヤン衆を抱えていた木村源作が自費を投じて、1893年(明治26年)~94年、海岸に近い現在の濃昼山道にルートを付け替えました。
1954年(昭和29年)まで11ヶ所の漁場を持っていた木村家の栄華を今日に伝えるのが、ヤン衆が寝泊りする番屋でもあった旧木村家住宅で、1900年(明治33年)ごろに和洋折衷のハイカラな建物として建てられたいわゆるニシン御殿です。
2000年代に入ってからも料理店などとして使われていたのですが、現在は閉鎖され内部には入れなくなっています。ただ、濃昼山道の濃昼側起点に近く、異彩を放つ外観は一見の価値があります。
ロシア南下の動きに敏感になっていた江戸幕府は、西蝦夷地警備という名のもとに、現在の石狩市~増毛町の断崖地帯の日本海側で、増毛山道、送毛(おくりげ)山道とともに、濃昼山道の3山道開削を急がせました。
道央から道北に抜ける陸路として3山道とも幕末の同時期に開通したわけですが、断崖に挟まれるようにニシン漁場が点在するルーラン海岸周辺では内陸深いルヘシベ峠まで回り込む濃昼古道は沢沿いを歩かねばならず、3山道の中でも最も労の多いルートだったかもしれません。
1857年(安政4年)、箱館奉行の堀利煕(としひろ)一行31人が松浦武四郎とともに西蝦夷地・樺太巡検の際、この濃昼古道を通っています。その2年後には幕府の命で、ハママシケ場所(現石狩市浜益区)以北の警護・漁場管理・開墾の目的で、庄内藩の藩士約440人、農民約1350人がこの山道を使ってそれぞれの任地に向かったことも分かっています。
実際にこの古道が使われたのは明治中期までの40年弱です。当時のルートは不確かな部分があり、現在は整備されておらず、沢靴などの装備、やぶ漕ぎや地形図読みなど高等なスキルが必要です。
濃昼山道開削の理由は、濃昼集落と安瀬集落の間にあるルーラン海岸で断崖絶壁が断続し、海岸沿いに陸地を往来できなかったことにあります。そんな断崖に挟まれたブトシマナイ(ブトシマナイ川河口の海岸)には、「アモイの洞門」と呼ばれる美しい海食洞があります。1912年(明治45年)に刊行した「ルーラン」(河合裸石(らせき)著)では、濃昼山道とともに「ブトシマナイの龍抜け窟(たつぬけくつ)」「蛇龍が窟(だりゅうがいわや)」の名でこの海食洞が登場し、濃昼山道経由で人の往来があったことが推察されます。
昭和に入ってから、この海食洞は「アモイの洞門」の名前が付けられて、海岸沿いの国道231号の開通により車で行ける旧厚田村(現石狩市厚田区)随一の名所となり、村勢要覧や観光パンフなどでも紹介、地域の行事でも使われてきました。
しかし海岸のガケ崩落の危険性から2003年に現在の「太島内(ぶとしまない)トンネル」が開通して内陸側に国道が付け替えられ、海岸沿いの旧国道は閉鎖(旧国道のルーラントンネルと太島内トンネル出入り口が密閉)され、ブトシマナイには車では行けなくなり今日に至っています。
(石狩市厚田区)=2階に濃昼山道についてのパネル展示あり
http://aikaze.co.jp/
(石狩市浜益区)
http://ishikari-shakyo.org/care-center/hamamasu-onsen/
(4月中旬から10月中旬まで午前6時~午後2時ごろ開催)
https://www.visit-hokkaido.jp/spot/detail_12896.html
北海道の難語地名の代表格「濃昼」の語源については、アイヌ語の原語として、「ポンキピル(pon-kipr)」(小さい方の水際のガケ)、「ポキンピル(pokin-pir)」(下の渦、下の陰)の2説があるのですが、海に突き出したガケ地・濃昼岬など濃昼集落周辺の地形などから前者が説得力があり、「ポンキピル」が「ゴキビル」に転化して「濃昼」の漢字が当てられたと考えるのが妥当でしょうか。
1)山道安瀬側起点→ルーラン海岸(下降地点)<歩行1時間30分>
2)ルーラン海岸下降地点→濃昼峠<歩行1時間10分>
3)濃昼峠→山道濃昼側起点<歩行1時間>
公共の交通機関でのアプローチは難しく、安瀬側起点も、濃昼側起点もマイカーやレンタカー、タクシーが現実的。
両起点とも、車両の駐車スペースは5台程度。安瀬側起点は国道にはみ出さないよう、濃昼側起点は地元の通行車両への配慮を。
「厚田村史」厚田村役場、1969年9月
《執筆者》
日本山岳会北海道支部
黒川伸一