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13 仙北街道 十里峠・柏峠

仙北街道 十里峠・柏峠

古道を歩く

仙北街道(せんぼくかいどう)は奥州街道水沢宿(岩手県奥州市水沢)から奥羽山脈を越えて秋田県の仙北地方とを東西に結ぶ街道である。
ここで山岳古道として紹介するのは、そのうちの奥州市の奥州湖(胆沢ダム)畔から東成瀬村手倉(秋田県雄勝郡)を結ぶ、十里峠(859m)と柏峠(1,018m)を越える全長24kmの古道である。

仙北街道 十里峠・柏峠越え

水沢から国道397号線を胆沢ダムに向かい、奥州湖畔・焼石岳つぶ沼登山口から栗駒焼石ほっとライン(奥州市道谷子沢南前川山線、一関市道鬼頭明通線)に入り、2㎞ほど進むと「下嵐江入口」の石碑が設けられ、数台の駐車スペースがある。
ここが仙北街道の下嵐江口となる。
なお、その手前、奥州湖大橋を渡りきったところに「おろせ広場」がある。
江戸時代にあった下嵐江(おろせ)藩境番所跡の石碑やダムの湖底から引き上げられたという「弘法の枕石」があり、真っ正面に猿岩を見ることができる。


「下嵐江入口」から「野がしら」を経て、小胡桃山(783m)へ。
ブナ・ミズナラ・カツラ・トチ等の広葉樹林。
年代を経た巨木も観察される。

「アドレ坂」をたどり、大胡桃山(934m)までは3時間。
大胡桃山山頂は360度の展望が楽しめる。
焼石岳、室根山、五葉山が見える。

大胡桃山から「ツナギ沢」の碑までは1.5kmの急坂を降りる。
ツナギ沢から「小出の越所(おいでのこえど)」までの2kmは沢筋沿いの登山道を歩くこととなる。
倒木や流木等の状況によっては、複数回の渡渉や沢歩きが必要となる。
長靴の持参や履き替え等、足元の防水対策を推奨する。
栃川や小出川に出ると沢幅も広くなり、歩き易い箇所も出てくるが、苔で滑り易い箇所もあるため、転倒には十分注意すること。また、降雨時の増水にも留意が必要である。

「小出の越所」付近の小出川源流部は渓谷の紅葉が楽しめる。
「小出の越所」の石碑から中山小屋までの道のりで注意箇所が2つある。
1つ目は「小出の越所」の石碑から小出川に出た後は沢筋に沿って遡上する点である。
石碑を通過し沢に出た後、流れに沿って下流に向かってしまい道を外す可能性がある。
2つ目は中山小屋に向かう急登への取り付きが見逃し易い点であり、いずれも注意すること。
「小出の越所」から「山神」の石碑付近までの3kmは急登が続く。
中山小屋の跡には小屋があったとおぼしき少し平らな場所がある。
仙北街道の中間地点である。
中山小屋は宿ではあったが秋田藩側の荷物と川内藩側の荷物を中継した倉庫でもあったらしい。
「お助け小屋」とも呼ばれていた。
しばらく登ると「山神」があり、文化年間の年号が刻まれている。
ブナの巨木が多くそびえる。
しばらくアップダウンを繰り返すと柏峠に出る。
柏峠は中山峠とも呼ばれていた。

その後、「姥懐(うばがふところ)」までの4kmは若干のアップダウンがある稜線歩きとなる。
稜線付近のブナにはいたるところに熊棚が見られた。登山道には熊の糞が多数見られ、生息数の多さを想起させる。
「引沼道」から「丈の倉」に至る稜線部では北東方向に焼石岳が見える。

仙台藩と秋田藩の境界である「藩境塚」がある。

「姥懐」は、豊ヶ沢林道の終点である。
「一ぱい清水」、「弘法の祠」、「お園の越所」、「曲坂」を経て、手倉の狼沢口旧道入口に出る。

縦走以外のコース

「下嵐江入口」から東成瀬村まで縦走すると12時間近くかかるため、3分割にして歩くのがいいかもしれない。

東成瀬サイド旧道コース

出発を国道342号手倉バス停近くの「手倉御番所跡」(石碑あり)にとり、「首もげ地蔵」の道しるべに寄った後、狼沢口旧道入口から「曲坂」、「お園の越所」、「弘法の祠」、「一ぱい清水」を経て2時間で豊ケ沢林道終点「姥懐」に至る。
コース途中でも豊ヶ沢林道に出るので往路か復路に車の利用も可能である。
ブナの巨木をたっぷり楽しめる。

姥懐から大胡桃山山頂コース

豊ヶ沢林道終点の「姥懐」から大胡桃山山頂まで約1.5kmのブナ林を登る。
柏峠、「小出の越所」、「栃川落合」を経て大胡桃山山頂まで、6時間以上かかる健脚コースとなる。
往復は厳しいので、大寒沢林道終点まで車を回しておくのがお勧め。

大寒沢林道コース

「下嵐江入口」から栗駒焼石ほっとラインをさらに2.7km進むと、大寒沢林道がある。
大寒沢林道はこの先5㎞ほどの終点(標高700m)まで整備されており、大胡桃山の登山道に合流する。
大寒沢林道終点から大胡桃山山頂には約1時間で到達できる。
山頂から尾根伝いに戻り、分岐を越して小胡桃山、「下嵐江入口」に下山する。
大胡桃山から「下嵐江入口」までは約3時間のコースである。
逆に、東成瀬村手倉に下りるのもいい。
大胡桃山から「栃川落合」、「小出の越所」で小出川源流を何度も渡渉し、県境の柏峠、十里峠から豊ヶ沢林道終点「姥懐」に至る6時間コースも可能である。
なお、大寒沢林道終点までは車で到達できるが、車高が高い四輪駆動車が望ましい。
また、11月~5月末までは、積雪の状況によるが林道の車両通行はできない。

この古道を歩くにあたって

■熊棚
山神の石碑から姥懐までは稜線歩きとなるが、稜線付近のブナにはいたるところに熊棚が見られた。
登山道には熊の糞が多数見られ、生息数の多さを想起させる。
熊鈴やラジオの携帯等、十分な熊対策を推奨する。
■道ははっきりしているが、渡渉を繰り返す沢があり(登山靴は不可)、迷いやすい。
上級者のルートである。

古道を知る

仙北街道とは

仙北街道は奥州街道の水沢宿(岩手県奥州市水沢)と秋田県の仙北地方を東西に結ぶ街道である。
「仙北」とは仙北郡、平鹿郡、雄勝郡の地域を総称しており、岩手側では仙北街道、秋田からは別名「手倉越」、あるいは奥州市がかつて仙台領であったことから「仙台道」と呼ばれていた。また「中山越」、「下嵐江(おろせ)越」、古くは「手倉越仙北道」、『続日本紀』には古代五道のひとつとして「柳沢」とも記されている。
地元公民館発行のパンフレットには「ブナ道」「ブナ古道」の記載もある。
現在は、岩手県奥州市胆沢の下嵐江から秋田県東成瀬村手倉に至る山道の部分を称している。
山林作業道として車両や牛馬が利用されてきたが、山岳地帯深奥部の約12㎞は険しく狭いアップダウンの道である。
往時には道幅は2.8mだったという。
通常の交通は大型車の通行にも支障はない国道397号線が用いられている(奥州市胆沢と秋田県境の区間を「焼石連峰ビーチライン」と呼ぶ)。

仙北街道の歴史

陸奥国の蝦夷が出羽国に侵入し反乱を起こしたことが『続日本紀』に記されているが、この記録に「五道」の名がある。古代五道とは、鷲座、楯座、石座、大菅谷、柳沢(手倉越え)のことであり、この頃、仙北道は「柳沢」と呼ばれていたことになる。
道の歴史は古代平安時代に遡り、蝦夷(えみし)を制圧した坂上田村麿呂が延暦21年(802)に胆沢城(いさわ)を築城し、軍事拠点であった雄勝(おがち)城と結ぶ軍事の道として拓いた(それ以前に、蝦夷の時代から用いられていたという説もある)。
前九年合戦・後三年合戦では、「清原武則が救援の際に通った道も、源義家が沼柵を攻撃するために通った道もこの道であった」(『岩手県「歴史の道」調査報告書 仙北街道』)。
当初は要路だったが、陸奥・出羽が平定されると生活の道、商いの道として利用されるようになった。
横手から下嵐江まで6日程度を要した仙北街道は難所ではあったが、重要性は高く、冬季でも往来があったという。
宿場であった手倉の村人は旅人の案内や歩荷をしたという。
横手市と北上市を仙人峠・白木峠越えで繋ぐ沢内街道ができてからは、仙北街道は裏街道として使われるようになった。
秋田藩側からは山越え禁止されていた米や酒が運ばれ、仙台藩側からは、魚類、金物、衣類などが運ばれた。
明治20年(1887)には横手町と黒沢尻町を結ぶ平和街道(国道107号)が開通し、大正13年(1924)には鉄道横黒線(現在のJR北上線)が開通した。
仙北街道の通行は疎らになり、やがて埋もれていった。
そんななか、1990年に胆沢区愛宕公民館の成人大学での活動が契機となって、1996年に東成瀬村公民館(秋田県雄勝郡)で「仙北道を考える会」が発足。
1998年に胆沢区愛宕公民館(岩手県奥州市)で「仙北街道を考える会」が結成された。
自然環境保全を慎重に意図した地元有志「仙北道を考える会」と「仙北街道を考える会」の努力によって、刈り払いが行われ案内板が設置された。
かつ峠越えの要所にしっかりとした石碑が10基以上も据えられた。
同会のホームページによると埋もれていた道の7割ほどがわかったという。
したがって今日なお廃道になってはおらず、山岳レクリエーションルートとして今後に期待される。
2019年に文化庁の歴史の道百選に選ばれている。
国土地理院の地形図からは姿を消したが、「山と高原地図」(昭文社)では姿を見せている。

深掘りスポット

猿岩山

猿岩山(549m)は古くから信仰の対象であったらしい。
昔は山頂に神社があり、於呂閇志(おろへし)神社という。
弘仁元年(810年)、嵯峨天皇の勧請で須佐男之命(すさのおのみこと)と木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀ったと「於呂閇志神社縁起」にある(奥州市教育委員会)。
『延喜式神名帳』にも記載された由緒ある神社である。
その後、山頂から少し下がったとこに遷座している。
近世には猿山神社として猿山大明神を祀り修験道の山だったという説もある。
現在は、奥州市胆沢若柳に再興、明治4年(1871)に胆沢川(いさわがわ)神社と合祀し、於呂閇志胆沢川神社となっている。
猿岩山中にある神社は奥宮となった。
なお、胆沢川神社は、大同2年(807)坂上田村麻呂による勧請で祭神は胆沢川の水速女命(みつはのめのみこと)。
於呂閇志神社では、猿岩山に群生するユキツバキの枝を依代としクマザサに願いを込めて、田の神様(作神)に虫よけや五穀豊穣を祈っていたという。現在でも春の例祭で、同様の神事が行われている。
猿岩山にかかる猿岩橋を通って奥宮への参拝が可能である。

猿岩隧道

猿岩隧道は、猿岩山の下を手で掘って作った素掘りトンネル。
全長696m。昭和22〜23年に掘られ、水沢営林署森林軌道があった。
胆沢ダム完成によって水没したが、渇水などで貯水位が下がると姿を現す。

仙北街道の石碑

要所に以下の石碑がある。(岩手県側から順に列挙)
 1.大胡桃山(おおぐるみやま)
 2.ツナギ沢(つなぎさわ)
 3.栃川落合(とちがわおちあい)
 4.小出の越所(おいでのこえど)
 5.中山小屋(なかやまごや)
 6.粟畑(あわばた)
 7.山神(やまのかみ)
 8.柏峠(かしわとうげ)
 9.引沼道(ひきぬまみち)
 10.丈の倉(じょうのくら)
 11.藩境塚(はんきょうづか)
 12.十里峠(じゅうりとうげ)
なお、三等三角点が柏峠にある。

ミニ知識

菅江真澄と罪人の追放

江戸時代の旅行家・菅江真澄が文化11年(1814)5月から翌年の3月までかけて雄勝郡を調査したのが『雪の出羽路雄勝郡』である。
そのなかで仙北街道について書いている。
「手倉山とて、いといと高き山あり、そこを手倉越へといふ、《くにののり犯したるもの、この峠を越して追いやらうことあり》。その大山をこゆれば、みちのおく胆沢郡下嵐江といふ処に出るとなむ」(『菅江真澄遊覧記5』東洋文庫、平凡社)
江戸時代の刑罰に、地域外に放逐する「追放」があった。
仙北街道は秋田藩の罪人を仙台藩側に追放する道でもあり、また仙台藩の罪人は秋田藩側に追放される道でもあった。
秋田藩は手倉御番所が追放を行っており、番所には門があり、役人が常駐して、人や物の出入りを監視していた。

下嵐江鉱山と切支丹の迫害

下嵐江鉱山は、古くは「渋民沢」や「かね山」と呼ばれ、仙台藩の重要な銀(銅)鉱山だった。
「千軒原」と呼ばれる所には1000軒の小屋があったという。
当時の鉱山は治外法権であり、罪人などが働いていた。
ポルトガル人宣教師ディエゴ・カルワリオ神父(日本名:長崎悟郎衛門)ら60人は、切支丹の迫害によって「かね山」に逃れていたが、仙台藩に捕えられ、広瀬川で水責めにあって殉教した。
仙台市の広瀬大橋の袂には、「仙台キリシタン殉教碑」があり、9名の殉教者が記されている。
「かね山」は中世から江戸時代中期に繁栄をむかえるがやがて廃鉱。
その後、昭和に至るまで何度か持ち主が代わりながら再開されるが、うまくは行かなかったようだ。
なお、近くには万治3年(1660)から寛文3年(1663)まで下嵐江藩境番所があったが、市野々(奥州市胆沢若柳)に移されている。

ルート

手倉
140分↓↑120分
姥懐
90分↓↑80分
柏峠
130分↓↑150分
小出の越所
40分↓↑40分
栃川落合
110分↓↑90分
大胡桃山
20分↓↑30分
大寒沢林道分岐
60分↓↑80分
小胡桃山
100分↓↑130分
下嵐江入口

アクセス

■「下嵐江入口」
《車》
水沢から国道397号線を胆沢ダムに向かい、奥州湖畔・焼石岳つぶ沼登山口から栗駒焼石ほっとライン(奥州市道谷子沢南前川山線、一関市道鬼頭明通線)に入り、奥州湖大橋を渡り500mほどのところ
数台の駐車スペースがある
■大寒沢林道
《車》
水沢から国道397号線を胆沢ダムに向かい、奥州湖畔・焼石岳つぶ沼登山口から栗駒焼石ほっとライン(奥州市道谷子沢南前川山線、一関市道鬼頭明通線)に入り、奥州湖大橋を渡った「下嵐江入口」からさらに2.7km進む
■手倉「狼沢口旧道入口」
《公共機関》
JR奥羽本線十文字駅から羽後交通バス岩井川線椿川行きで椿台もしくは手倉下車
《車》
横手市あるいは湯沢市から13号線で十文字バイパス。佐賀会沖田交差点から342号線を約22km栗駒山方面へ

参考資料

「仙北街道を考える会」
http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/fe8
高桑信一『古道巡礼』ヤマケイ文庫
岩手県教育委員会『岩手県「歴史の道」調査報告書 仙北街道』

協力・担当者

《調査担当》
日本山岳会岩手支部
中屋重直(原稿作成)
日本山岳会マウンテンカルチャークラブ(原稿作成)

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