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12 沢内街道 白木峠

沢内街道 白木峠

古道を歩く

小松川御番所跡を出発

出発は小松川御番所跡ですが、ここは国道107号に面しており、近くの山神社を経由し古道の起点となる小松川登山口(標高174m)まで舗装道路を歩きます。

秋田県側は、山道→林道(白木林道《以下林道》)→山道→林道→山道と繰り返して白木峠に至ります(総距離6.50km、標高差427m)。
道は、楢や栗など広葉樹林から薄暗い杉林に変わり、やがてヤブツバキの群生地を通ります。
整備され歩きやすいのですが、途中、林道から右側の山道に入る地点(距離2.39km、標高395m)が迷いやすいので、枝に付けたピンクテープや踏み跡に注意してください。
一汗かいたところで、五輪塔に到着します(距離2.66km、標高447m。ここは、1845年(弘化1年)。
吹雪で遭難した旅人を供養したもので、当時の困難が忍ばれます(詳細を後述)。
見晴らしも良く、旧山内村黒沢方面の景観が展望できます。
最後の急坂を上ると、白木峠頂上に至ります(標高601m)。

頂上からは、三森山(標高1101.7m)や焼石岳(標高1547.3m)など、秋田側から岩手側の山並みを見渡せます。

ユキツバキの群生地などの景勝地を歩く岩手県側

頂上から岩手県側への山道は、まず頂上直下は薄暗い杉林の中、急な狭い道をしばらく下ります。
その後、林道に出会いますが、僅か(20m)進んで再び、左手の山道に入ります。
山道も緩やかになり、楢の木などの広葉樹林に変わってきますが、その中に幹周りや枝振りも威風堂々の巨木「一本杉」が現れます(頂上から0.73km、標高489m)。
なだらかな林の中をしばらく下ると右側の視界が広がり、数メートル下には一面の湿原が連なり、「ミズバショウの群生地」となっています。
さらに進むと、ユキツバキが多くなってきます。この一帯が群生地として紹介されており、特に鮮やかに咲く花は必見です。

林の中を進むと、杉の木立の中に、「ふきどり地蔵」が佇んでいます(頂上から1.37km、標高454m)。
1794年(寛政6年)、秋田県美郷町の遭難した親子を供養したものです(詳細は後述)。
楢の木など灌木の中、山道がしばらく続き、視界が開けた平場に出たところが「牛泊まり」です(頂上から1.95km、標高384m)。狭隘で急坂の続く中、峠越えの際の休憩地として利用されていました。

越中畑登山口まで

牛泊まりから狭隘で急な曲がりくねった山道が続きますが、やがて坂道も下り終えるところで小さな沢を横断します。
サワグルミの林に変わり、沢沿いの道を抜けると、急に視界が開けて越中畑登山口に出ます(頂上から2.51km、標高325m)。
ここからは舗装された道路となっており、ここを古道の終点とします。
さらに車道を進むと越中畑御番所跡に出ます(詳細は後述)。

この古道を歩くにあたって

秋田県側は、山道と林道を交互に歩くことになるので、その出入り口に注意していただきたい。
特に迷いやすい分岐点は、案内板がないのでピンクテープや踏み跡などに注意していただきたい。

古道を知る

白木峠古道の成り立ちは、室町時代に成立したと推定される義経記巻第一に登場していることから、室町時代には一部が開かれていたと思われます。また、同書では、秋田領横手と南部領を結ぶ道は、山内道、小松川街道、白木街道、沢内街道などがつながりあって一本の路線を構成しています。
(沢内街道は、盛岡城下から陸奥和賀郡を横断して秋田領横手に至る街道の総称を言っています。)
古道の呼び名は、秋田側と南部側などで様々ですが、後に「平和街道」と共通名で呼ぶようになりました(「平和(小松川)街道」秋田県教育委員会)。

白木峠越えの道が主に使用されたのは、秋田県側の小松川番所が開設された1648年(慶安1年)ころから1869年(明治2年)までです(山内歴史・文化便覧)。 
また岩手県側の越中畑番所が開設されたのは、1686年(貞享3年)から1869年(明治2年)とあります(西和賀町教育委員会設置の看板)。

昔は自給自足の生活でしたが、生活に必要な全てを自給できたわけではありません。
近世になってからは、例えば塩や鍋釜などを他所と融通しており、ことに藩政時代の中期以降は生活の質が進み、農民も色々な商品を売って生活するようになり、物を売ってお金をとりそれで必要な物を買うために、是が非でも峠を越えて〝かげ〟へ行き来しなければならなかったのです(湯田町史)。

白木峠に至る番所を通る路線は、土崎港(秋田市)より雄物川の水運によって角間川に至り、横手、小松川、白木峠を越えて南部領の越中畑(中略)を経て黒沢尻に至り、以下は北上川の船運によって石巻港に達し、海路江戸へ行く重要な交通路でした。
白木峠は、相当な難所で一駄三斗入二俵しか運べないと言われています(湯田町史、史料第2集「交通編」)。日本海と江戸を結ぶ交通の要所が白木峠であったことがうかがえます。
白木峠の麓の小松川村と越中畑村(岩手県湯田町)に境口番所が置かれ、旅人や物資の監視にあたっていました。秋田・南部の最も重要な交通路、峠であったのです(山内村郷土史年報)。

深掘りスポット

牛泊まり

昔は牛の背に物を載せて運んでいました。 ここは、その牛の隊商が休んだ休憩地だったと言われています。
また一説には、ここで荷物の受け渡しが行われていたともいわれています。(看板)
「白木嶺の路は甚だ険しく、裸馬を牽くも物を運べず、ただ牛により重荷を載せ通ずるのみ。牛の性質は柔順で徐々に歩む」(湯田町史交通編「沢内風土記」)。

ミニ知識

白木峠を使用して運搬したもの

白木峠で検問が行われたものは、 1761(宝暦11)年、小松川御番所御留所物札によると、
男女、二ツ刀、二ツ脇差、兵具類、馬、牛、鷹、米、大豆、材木、漆、蝋油(ろうゆ)、鉄、銅、鉛、熊皮、馬皮、牛皮、綿、紫、麻糸、硫黄、黄連、ならし、丹土(たんど)、塩、たばこ など
でした。

規則を犯すものは厳罰に処せられましたが、庶民(百姓、町人)の場合、前もって許可証(檀家寺から寺手形、または御境口調役所から出切手)を受け、御番所でそれを提示し、所定の役銭を支払えば通過を許されました(山内村教育委員会・湯田町教育委員会)。

まつわる話

五輪塔

仏教思想に基づいて空・風・火・水・地(宇宙の要素)を、宝珠〝ほうじゅ〟から順に団形・方形などの形を借りて表した五輪塔は、中世から死者の供養のため造立されました。
この塔も、厳冬の峠路で吹雪に巻かれその身を凍らせた、悲運の霊を慰めています。 
それは、1845(弘化2)年の真冬でした。猟に出かけた地元の鷹匠2名が、雪道の下から遭難者を発見したのです。6名のうち1名は辛くも存命していましたが、下山中に息絶えました。角間川村(大仙市)の平野助右エ門(通称忠蔵、23歳)一行で、念願の伊勢参宮・京阪観光に出立し、わずか3日後(旧暦1月23日)のことでした。
遺品の笠・合羽・印篭・矢立と道中日記は、当時の旅の苦難を今に伝えています。(山内村教育委員会・湯田町教育委員会)

ふきどり地蔵

1794年(寛政6年)の冬に秋田県六郷馬街(美郷町)の沢野権之助という人がふきどり(吹雪で遭難すること)し、死亡したことから供養のための地蔵さんと伝えられています。
この人は、子どもを抱いて倒れていたといわれ、その子どもの助けを求める泣き声が、吹雪の音に混じって下の集落まで聞こえたと伝えられます。(看板)

ルート

小松川登山口(秋田県側)(出発)
↓ 80分  2.66km  ↑ 70分
五輪塔
↓ 41分 1.32km  ↑ 35分
白木峠頂上
↓ 18分  0.73km ↑ 23分
一本杉
↓ 16分  0.65km ↑ 20分
ふきどり地蔵
↓ 16分 0.58km  ↑ 21分
牛泊まり
↓ 18分  0.56km ↑ 21分
越中畑登山口(岩手県側)(到着)
合計 約3時間10分  6.50km

アクセス

公共交通機関

JR東日本 北上線
秋田県側 小松川駅  小松川番所まで1.2km
岩手県側 ゆだ高原駅 越中畑番所まで1.5km

マイカー

秋田自動車道
秋田県側・横手I.C. → 国道107号 → 小松川駐車場(約30台)
国道107号を秋田から岩手に向かい、小松川地区の右手に駐車場あり
岩手県側・湯田I.C. → 国道107号 → 市道 → 越中畑登山口駐車場(約15台)
国道107号を岩手から秋田に向かうと右手に「中村・越中畑入口」の標識があり、ここを右折し、踏切を越えて越中畑小学校の裏を進むとハイキングコース案内板がある。山沿いに続く舗装道が終点となるところが登山口である(岩手県の山)

参考資料

秋田県教育委員会「歴史の道調査報告書 平和(小松川)街道」秋田県文化財調査報告書第145集、昭和61年3月 
「山内歴史・文化便覧」(山内村は、横手市と合併。)
「山内村郷土史年報」
「湯田町史」
「湯田町史 史料第2集 交通編」
藤原優太郎編「秋田の山歩き」無明舎
藤原直美、照井克行「岩手の山」山と渓谷社
山内村教育委員会・湯田町教育委員会設置の看板(湯田町は、沢内村と合併し西和賀町となる。)
西和賀町教育委員会設置の看板

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会 秋田支部
三浦昭男
小松芳美
高橋雄悦

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