single-kodo120_detail

11 早池峰山古道

早池峰山古道

北上山地(北上高地)最高峰の早池峰山は、霊山として古くから広域の人びとに崇拝されてきた。
東西南北4方の麓には、現在では遥拝所となる早池峰神社、当時は新山宮と妙泉寺など神仏習合の山岳信仰の拠点が創建され、盛んに登拝が行われた。
・南方の遠野口(大出(おいで))のルートは、遠野から薬師岳を巻いて河原の坊から早池峰山へと登拝する道。
・西方の大迫(おおはざま)口のルートは、大迫の岳から河原の坊を経て早池峰山へと登拝する道。
・北方の門馬(かどま)口のルートは、門馬から新山宮に詣でて登拝する道。
・東方の江繋(えつなぎ)口のルートは、関根の善行院から江繋と河原の坊を経て早池峰山へと登拝する道。
なお、最も多く利用された河原の坊から山頂に登拝する「河原の坊コース」は、崩落のため通行禁止となっており、「古道を歩く」では扱うことができなかった。

古道を歩く

ここでは、北麓から登って早池峰山頂(1917m)を経て南麓の小田越へ下るルートを紹介します。
続けて小田越から薬師岳横通りを通り、又一滝を経て遠野早池峰神社の方へと抜けます。
加えて、西麓の岳集落から鶏頭山経由で山頂へのコースも紹介します。

門馬御坂(握沢コース)

門馬口から登拝する人びとは、以前は新山沢にあった新山宮に詣でてから松長嶺から早池峰に登っていました。
大正時代に新山宮は門馬の早池峰神社に遷移し、ここが登山口となりました。
現在の握沢コースの登山口は、御山川林道の握沢を渡る手前にあります。
登山口付近はやや広い平地で、簡易トイレも設置されています。
右手に流れの美しい握沢を眺めながら、ほぼ平らでよく整備された右岸を進みます。
左手の山から流れる小川を、鉄の橋や木橋で渡っていきます。そのうちの一つのみが崩落しており(2024年10月時点)、高巻きする道が造られています。

ずっと右手に見えていた握沢を最後に渡ると、鳥居と5合目の標識の立つ垢離取場(こりとりば)で、修験者は前を流れる川でみそぎを行ってから登りにかかったようです。
やや傾斜の急な坂となり、少し緩くなったあたりに六合目の標柱があります。
以前は、門馬より東にある平津戸からのルートがありましたが、トラロープで通行できないようにされています。

アオモリトドマツ、コメツガなどの針葉樹主体の森を進んで7合目を過ぎ、8合目あたりで木々の高さが低くなり、北方が見渡せるようになります。
登山道に巨岩が多くなり、苔に覆われていることが多いため、乗り越える時に滑らないよう注意が必要です。
9合目の道標の隣ではちょろちょろと水が流れ出ています。ハイマツの絨毯のところどころに白い巨岩が配置され、紅葉の時期には赤やオレンジ色がアクセントとなって庭園の趣が見られるところです。

一旦平らな道になると木道が現れ、再び岩を登ると頂上です。岩々に覆われた平地に、早池峰神社の奥宮の建物や剣や石祠などが数多く見られます。まわりをさえぎるものなく、薬師岳や北上山地が見渡せます。

小田越コース

遠野口、江繋口、大迫口の人びとが利用した「河原の坊コース(正面コース)」は崩落のため通行禁止になっています。
そのため、下りは小田越コースを下ります。
小田越コースの下り口は山頂から東に15分ほど歩いたところにあります。
標識に従って右へ、岩のゴロゴロした道を下っていきます。
高い木はないため見晴らしはよく、途中にハシゴが続く一枚岩もありますが、三点支持(両手両足のうち、3つはしっかりと置いて残りの一つのみを動かすようにして移動する)をしっかりと守れば問題ありません。
傾斜がゆるやかになると樹林帯に入り、携帯トイレブースを過ぎると小田越に到着します。

横通りコース

小田越から薬師岳へと向かいます。
山頂に向かう道もありますが、ここでは山麓をトラバースしていく「横通り」を通ります。
江戸時代初期までは薬師岳を越える道でしたが、妙泉寺によって横通りが開削されたと元禄四年(1691)の記録にあります(「遠野市史」)。
薬師岳への道標に従って平らな道を進むと小田越山荘の前を通り、道標はありませんがしっかりした道をたどっていきます。

ときどき、小さな流れを渡ります。
ごく小さなアップダウンはありますが、ほぼ水平な道をたどっていくと、薬師仏を覆う簡素な建物があり、下りに入ります。

笹が幅広く刈られたゆるやかな下りを進むと、ロープが張られて石伝いに川を渡る箇所もあり、最後は急な斜面をトラバースしてから又一滝の滝壺近くに降ります。
そのあとは、川を右下に見ながら平坦な道を進み、車が数台駐車できる馬留に到着します。
なお、遠野から早池峰山を眺めると薬師岳がちょうど立ちふさがっています。そのため早池峰山の稜線は、への字になって重なります。早池峰山と六角牛山(ろっこうしやま)と石上山とが三山として信仰され、その中でも早池峰山は「御山」と呼ばれました。

鶏頭山縦走コース

岳集落の駐車場から鶏頭山を経由して山頂へのルートを紹介します。
大迫口の人びとは河原の坊から登拝し、鶏頭山コースは修験の行場であったようです。
また、女人禁制であった早池峰山に代わって、女性が登ることができた山でした。
駐車場から北へ向かうとすぐに橋を渡り、舗装道路を5分ほど歩くと登山口があります。
下草が少なく見通しの良い広葉樹林帯の中に、しっかりと踏まれた登山道がゆるやかにカーブして伸びています。
厚みのある畳4畳分くらいの平らな岩が「畳岩」という看板とともに突如として現れます。

だんだんと傾斜が強くなり、ステップとならずにふくらはぎが伸ばされるような、土の登山道をひたすら登っていくと、鶏頭山避難小屋が現れます。
そこから上は、笹が頭上から覆いかぶさっているような細い道となり、両側の灌木の背丈がようやく低くなると、行く手に岩峰がそびえています。
鉄はしごを数か所で通って行くようになると、すっかり眺望が開けて、振り返ると岳集落を見下ろせます。
巨岩の間をすりぬけるようにして通ると、ニセ鶏頭といわれるピークに出ます。
鉄の柵で囲われた地蔵が立っています。


その後方に見えている鶏頭山山頂まではさらにひと登りです。
早池峰山までの縦走路は、見晴らしもよく、途中の岩場を越えながら進みます。

この古道を歩くにあたって

早池峰山の北斜面は、道は整備されてわかりやすいが、急な斜面や大岩に苔が付着して滑りやすい箇所もある。登山口から5合目までの間は、左側斜面から流れてくる小さな流れをいくつもの橋で越えて行くが、昨今の集中豪雨の直後では橋が壊れることもありえるため、情報収集や装備計画をしっかりと行う。
南斜面の河原の坊コースは2024年10月時点では通行止めとなっているので、小田越コースをとる。
岩のゴロゴロしたガレ道のため、落石や転落に注意する。
ハヤチネウスユキソウをはじめとする高山植物の最盛期はかなり混雑する。
薬師岳の山頂を経由して馬留に下るルートは、又一滝の上方で道が荒れている。
横通りは普通に通行できる。小さな流れを渡渉するが、困難ではない。
熊などの野生動物にも注意。

古道を知る

早池峰山への登拝

北上高地(北上山地)の最高峰である霊峰、早池峰山。
山麓の農民にとっては五穀豊穣の神として、三陸の漁民にとっては豊漁の神、ヤマアテの山として、山の民にとっては、狩猟や木材、鉱物などの神として信仰され、加えて、南部藩の崇敬を受け、仙台藩北部も含む広域が信仰の対象となっていた。
江戸時代初期までは、修験者が山の麓の大迫、遠野、門馬、江繋の各集落を拠点に活動を行った。
近世から昭和時代に至るまで、岩手県や宮城県北部の人びとが数多く登拝し、修験者はその先達となった。
登拝は「御山参詣」「御山掛け」とよばれ、女人禁制で「御山道者」という男性のみでの登拝だった。
1~7日前からの精進潔斎中の精進料理も、男性が煮炊きした。白装束に白い袋を肩から斜めにかけ、菅笠か鉢巻を被り、垢離取場で水垢離を取り、新しい草鞋に履き替えて結界地に入った。
御神坂とよばれる急坂にかかると「お山繁昌」「六根清浄」などと声をかけあい、賽の石積や洗米や「おひねり」を置く者もいた。
帰路にアオモリトドマツの小枝を頂いて帰り、早池峰山の御札とともに神棚、門口に供えた。
現在でも地域から代表で参詣する「講中」はつづき、「御山掛け」は行われていないが、再現の動きもある。

早池峰信仰の起源

東西南北、それぞれの登り口や村によって開山説話も歴史も違っている。
ここでは最もよく利用され、起源を争った遠野口と大迫口の開山説話を紹介する。
なお、門馬口は大同元年(806)の開創といわれ、江繋口は天暦九年(955)に開創された言われている。

遠野口

大同元年(806年)3月8日、クマを追いかけて早池峰山山頂にたどり着いた来内村の漁師、藤蔵は、山中で金色に輝く早池峰の山霊を感得した。6月になって山頂に一宮を創建し、山霊を祀り、それが現在山頂にある奥宮の始まりといわれている。弘仁年間(810-823年)藤蔵とその長男は大出村に居を移し、居宅の一室に山霊を祀り、これが新山宮の始まりとなった。藤蔵の死後、長男は長円坊と称して司祭を継ぎ、山頂に早池峰権現とともに、さらに弥陀三尊を安置して両宮を併祀した。慈覚大師円仁がこの地を訪れたとき、長円は、開山の事情ならびに神威が荒々しく、夜奇異な出来事が起こり困惑している旨を大師に訴えた。「俗人妻帯の者が司祭を兼ねているからで、正僧に司祭をさせよ」ということで、長円は司祭権を譲った。大師は、高弟持福院を住持として別当寺を創設、のちの早池峰山妙泉寺(院号は持福院、坊号は大黒坊)である。

大迫口

「邦内郷村志」にある開山伝説によると、大同2年(807年)3月8日、遠野来内村の始閣藤蔵と大迫村田中兵部の二人の猟師が、早池峰山で猟をしていた時に神霊を感得し、宮をつくることを誓った。後の目印のために藤蔵は山刀を、兵部は弓を置いて帰った。雪の消えた6月15日、二人は山頂に登って宮をつくった。
兵部は、兵太郎ともいい、のちに古館の田中神社の神主になる。藤蔵の子孫は妙泉寺に別当をゆずって新山宮の禰宜としてとどまった。

登拝道

山頂に向かう道は、東西南北の4方向からつけられ、「掛所(かけしょ)」「御坂(みさか)」「御神坂」「掛越」などと呼ばれた。

遠野御坂

南方の遠野口のルートは、遠野市附馬牛町(つきもうしちょう)の大出(おいで)から薬師岳を経て河原の坊から早池峰山へと登拝する道で、「遠野御坂」と呼ばれた。新山宮妙泉寺を拠点に羽黒修験が活動した。元禄9年(1696年)に妙泉寺52代宥盛によって普請された新しい御坂が薬師岳「横通り」で、それ以前の早池峰御坂は、新山宮の左側から尾根伝いに薬師岳山頂へ出て河原坊にくだったと伝えられている。「横通り」は平坦な小径で、「二リ三丁」「二リ六丁」などの石の道標が要所に立っている。

稗貫(ひえぬき)御坂

西方の大迫(おおはざま)口のルートは、大迫の岳から河原の坊を経て早池峰山へと登拝する道で、「稗貫御坂」と呼ばれた。新山宮妙泉寺を拠点に修験者が活動した。

門馬(かどま)御坂

北方の門馬口のルートは、川井村門馬から新山宮に詣でて登拝する道で「門馬御坂」と呼ばれた。新山宮妙泉寺を拠点に修験者が活動した。

江繋(えつなぎ)御坂

東方の江繋口のルートは、関根の善行院から薬師川道をさかのぼり、江繋と河原の坊を経て早池峰山へと登拝する道で、「江繋御坂」と呼ばれた。 遠野妙泉寺支配下の関根の本山派の修験・善行院を拠点に修験者が活動した。

現在は妙泉寺、妙泉院、善行院は廃絶し、新山宮は早池峰神社と改称している。
ちなみに「妙泉」という名称は、山頂の霊池水に因んでいる。

深掘りスポット

門馬口の早池峰神社

北麓の門馬集落にある里宮で、新山沢から大正15年に移築された。旧社殿は、総ヒノキ造り、割菱の御紋のついた箱棟を上げ、三間四面の本殿、二間に五間の長床、末社七社があった。そのころの門馬御坂は門馬別当から鳥居をくぐり、里頭の尾根を越え、御山川を渡り、新山宮から新山沢、横垣、松長嶺へとかかった。開山伝承によると、大同元年(806年)、妙泉院先祖、佐々木氏によって早池峰山門馬御坂が開かれ、御嶺に本宮、若宮の二社を立て、本宮には阿弥陀如来、若宮には十一面観音を祀った。
拠点としていた本山派修験、妙泉院は早池峰山御山守も兼ねていて、早池峰檜と呼ばれたヒバ材の生産管理権を掌握していた。今でも標高が高い所はヒノキアスナロに被われているが、昔は閉伊川の川岸まで全山桧山だったと伝わる。かなりの高所まで牛による運搬も行われ、山頂の両宮、籠堂の建築材は門馬別当によって提供されていた。これによって遠野・岳の両妙泉寺という大寺に伍して遷宮式にも列座できた。しかし、貞享元年(1684年)、藩によって門馬御役屋に御山奉行がおかれ、正徳年中(1711-1715年)以降、早池峰檜生産の実権は門馬別当の手を離れ、単に杣頭を兼ねるにとどまり、奥宮の祭祀などにも、遠野・岳両妙泉寺から次第に疎外されるようになった。

江繋口の早池峰神社

小国地区関根にある早池峰神社で、本山派修験の「善行院」の拠点だった。
祈祷を行う行屋や宿坊としての庫裡(くり)、小高い場所に建つ遙拝所、早池峰神社があった。
大槌や山田、船越など三陸海岸の人々の参詣の拠り所で、修験者は早池峰登山者の道案内をつとめた。
大正時代頃まで盛んだったという。
室町時代の制作とされる「懸仏」や「おしらさま」(天正2年(1574))は宮古市指定文化財。

宿の平の籠堂の早池峰神社

三陸海岸の人びとの宿泊所であり、女人禁制だった女性の遙拝所だった。
1泊目を関根、2泊目を宿の平で行い、日帰りで早池峰山に参拝して宿泊し、3日目に関根に戻るのが標準日程だったようだ。


なお、小田越と宿の平の間の薬師川沿いに古道が部分的に残っている。
河原の坊で遠野からの道と合流して山頂に向かっていた。

大迫口の早池峰神社

西の大迫(おおはさま)町の岳集落にある里宮。老杉に囲まれた長い参道を登ると神門、神楽殿、二重の石玉垣、石段の奥に本殿がある。現在の神社本殿は、もとは妙泉寺の新山宮として慶長17年(1612年)に建てられ、県指定有形文化財となっている。
間口五間、奥行五間、蟇股に優れた彫刻をほどこし、屋根は入母屋造りで、現在は銅板葺きとなっている。床は花崗岩のたたきで、峰入りの修験者が草履履きのまま参殿できる配慮をしたものだと言われ、登拝者が増加した後代になって板敷で覆い、宿坊にもあてられていたが、修理のときに元に復した。
妙泉寺の遺構は、参道の左側に庭園、持仏殿、旧庫裡があり、参道途中から右に入ると、妙泉寺累代の墓碑が立つ。

河原の坊

承和14年(847年)遠野の新山宮の長円坊が坊舎を建てて河原の坊と呼んだところと伝えられ、御山参詣者はここの流れで水垢離をとって山頂をめざしたという。
その後、承元~宝治(1207~1247年)の頃、諸国行脚の僧、快賢が、山麓のコメガモリ沢河畔に庵と新山宮を建てて「河原の坊」と称し、山頂にさらに一つの宮を建て、新しい宮には姫神の本地、十一面観音を遷して大宮と、古い宮には阿弥陀如来を安置して本宮と称した。
この河原の坊の社寺は、宝治元年(1247年)に起きた白髭の水と呼ばれる大洪水によって流失した。
正中2年(1325年)に越後の国から来た僧侶、円性阿闍梨が早池峰山を訪れて参籠し、権現の夢のお告げによって、河原の坊の由緒を里に下った岳に再興。
新山宮には十一面観音を安置して早池峰権現として祀り、別当寺を早池峰山妙泉寺、院号を池生院と呼んで早池峰大権現別当となった。

遠野口の早池峰神社

南の遠野市附馬牛町にある里宮。
茅葺の巨大な山門にある随身像は、明治時代の仏師、田中円吉の作。
やはり茅葺の拝殿から石段を上がったところにある本殿は、廃仏毀釈で廃寺となった妙泉寺の新山宮の本堂。
享保3年(1718年)に建てられ、正面の長さ13m、奥行きの長さ10.2m、中央部分には護摩壇が置かれた跡が残り、密教による修法が行われていた。
今では瀬織津姫を祭神とし、中央に早池峰、左右には六角牛と石上の女神を祀っている。本殿右手の社務所は、大黒坊ともよばれた庫裡で、風格ある御成門(黒門)が残る。

ご神体、開慶水

山頂の池の水、開慶水を、山麓の農民はご神体として信仰した。開慶水を源流とした猿ヶ石川、北上川の恵みによって農業を営むことができたからである。
「巓上(てんじょう)に霊池水あり、これを開慶水と称す。旱魃に減ぜず。霖雨に溢れず。もし案内を知らないものが誤って手を入れてすすげば、たちまち池水消失す。この時にあたり観音経を読誦して祈祷すればまた、もとのようになる。故にまさに早池峯と称すべきだ」と「邦内郷村誌」に山名の由来が記されている。

小田越山荘

遠野口登山道の道筋にある。アオモリトドマツの原生林に囲まれ、薬師川源流の谷川がそばを流れ、水芭蕉が咲く。建物は古いが、早池峰ヒバ材で作られたがっしりした山荘で、遠野市で管理している。江繋からの古い登拝路もこのあたりで合流する。

又一滝

馬留から登山道を歩いて30分ほどでつく。薬師岳山中の標高860mの広葉樹林にかかるナメリ型の滝で、落差20m、長さ70m。「那智の滝に劣らず、この滝も又、海内一」と称えられたところから名が付いた。新山神社の修験者、宥水がこの滝を発見したので、古くは宥水滝とよばれ、修験者の行場であった。滝壺の傍らに不動尊石仏がまつられている。

薬師堂

又一滝から薬師川渓谷へ越える尾根にあるお堂で、大正12年(1923)小出森の佐々木祐蔵、上組丁の川村市郎兵衛が寄進した薬師如来の石像を安置する。文禄3年(1594)に再興された由緒の古いお堂。

薬師岳(標高1644.9m)

花崗岩の山で、山頂付近にハイマツが広がり、山腹の林にはオサバグサが見られる。遠野から早池峰山を望むと、手前に薬師岳が大きく見えるため、薬師岳は「前薬師」と呼ばれて、早池峰山と一体とされていたようだ。

神遣(かみわかれ)神社

遠野の町から遠野早池峰神社への昔の参道である長峰道の北口にあたり、神遣峠近くにある。斉衡年中(854-856年)に慈覚大師によって開創された。遠野三山の神霊を祭神とし、その神像を刻した石像を祀る。

来内の伊豆神社

遠野駅南方の上郷町来内にある。早池峰を開山した猟師藤蔵が故郷の伊豆半島伊豆山の伊豆権現を奉じて海岸沿いに北上し、気仙より来内に至り、居を構え、大同年中(806~810年)の建立で瀬織津姫を祀ったと伝わる。
遠野伝説にある、三人の娘を伴った女神が夜を過ごしたのは、この場所といわれる。長女お石は石神山、次女お六は六角牛山、三女お早は早池峰山の女神となって、神遣からそれぞれの山にわかれていった。
のち、天文2年(1533年)に再興して伊豆権現となり、明治維新時の廃仏毀釈で伊豆神社と改められた。
なお、伊豆権現は別名走湯信仰とも呼ばれ、現在の熱海市の伊豆山にある、奈良時代からの修験の拠点であった場所のこと。

早池峰山への峠道

早池峰山の登拝者は、早池峰山に来るまでに険しい峠を越えてくる必要があった。
《遠野》
忍峠(しだとうげ):遠野市松崎町沢の口から附馬牛町安居台(あおだい)を抜け、長峰参道から大出に至る。柳田国男がここから見た早池峰山を「菅笠のへの字に似たり」と「遠野物語」に書いている。
七ツ石峠:遠野市綾織町砂子沢(いさこざわ)から大寺沢に抜ける峠道。無尽和尚の伝説が残る。
五輪峠:遠野市と花巻市、奥州市との境。遠野街道、人首街道として遠野と江刺を繋ぐ街道の要所で関所が置かれていた。早池峰山を遠望する。宮澤賢治が詩篇「五輪峠」を詠んだ。
笛吹峠:遠野市と釜石市橋野を結ぶ峠。笛が好きな少年が焼き殺された話が「遠野物語」にある。近くに近世の物流中継地点、和山の馬次場があった。遠くに早池峰山を望む。
界木峠(さかいぎとうげ):遠野市と釜石市橋野を結ぶ峠で標高は729m。笛吹峠が恐いので界木峠を開削したと「遠野物語」にある。旧大槌街道が通る。境木峠とも。
樺坂峠:釜石市大槌町と遠野市を結ぶ峠。標高821m。高原の牧場にある。
《大迫》
拝峠(おがみどうげ):花巻市東和町から大迫へ抜ける峠。早池峰山の参拝者や参拝が叶わない者がここから早池峰山を拝んだ。山頂には鳥居や拝石がある。
失水峠(うせみずとうげ):大槌町の堅沢と大洞の間にある。鶏頭山を望む。宇瀬水牧野の中。宇瀬水の一本桜が有名。
《小国》
土坂峠:金沢街道。釜石市大槌町から宮古市道又に抜ける峠(標高772m)。沿岸と内陸をつなぐ重要な道で、御山参詣の道としても古くから利用されてきた。街道沿いには信仰の石碑が多数残り、「織姫の道」「代官道路」の名で呼ばれたこともある。
区界峠:盛岡市と宮古市を結ぶ峠(標高751m)。山田線の区界駅がある。盛岡藩の重要な交易路だった宮古街道が通った。宮古街道の別称は閉伊街道(へいかいどう)。現在の国道106号。
立丸峠(たつまるとうげ/たちまるとうげ):遠野市と宮古市を結ぶ峠(標高775m)。国道340号の難所のひとつ。小国街道と呼ばれた交易の道である。

ミニ知識

名前の由来

早池峰山は、古くはアズマネダケ(東根岳、東子岳、東岳)と呼ばれた。
アイヌ語原説では、「東方の脚」の意味の「バヤチニカ」「バハヤチニカ」から、早池峰山の地名になったと説明されている。
開慶水説は、早池峰山山頂にある小さな泉「開慶水」が古くから神の憑代と信じられ、日照りでも涸れず、長雨でもあふれないが、人が手を入れたり飲んだりすると涸れてしまう。しかし、修験者に頼んで祈願してもらうと、すぐに元に戻るという。水が引くのも湧き出るのも早いことから、早い霊地で早池峰といわれ、快賢という僧が名づけたという。
その他、平津戸・川内・箱石・川井の集落は名だたる強風地帯であり、疾風(はやて)を呼ぶ山が山名のもとという説もある。
現在は早池峰山と呼ばれているが、本来は「早池峯(はやちね)」だったのではないかという説もある。

早池峰神楽

早池峰峰神楽は早池峰山の修験者たちが伝えたものである。
明治以降、大迫の大償(おおつぐない)、岳(たけ)に伝承され、夏の祭礼(7月31日〜8月1日)のほか、町内の神社の祭礼や慶事の際に奉納されている。また農閑期(11月〜2月)に「権現さま」をまわしながら家を回り、無病息災の祈祷を行って、神楽を演じる。
神楽の演目は日本神話をテーマとした「式舞」(「鶏舞」「翁舞」「三番叟」など)や鎮魂・悪魔払いを行う「荒舞」など、多数の曲目を持っている。
昭和51年(1976年)に国の重要無形民俗文化財に指定され、平成21年(2009年)にユネスコの無形文化遺産に登録された。

日本でもっとも古い地層

ほぼ中央に早池峰山を主峰とする北上山地(北上高地)は1億年ほど前の造山運動で隆起して誕生した。日本列島形成よりも前から存在し、古生代、中生代の地質が風化して、標高500-1000mの準高原となっている。地層は日本でもっとも古いといわれている。
稜線はやせてごつごつし、山肌には亀裂が無数に走っている。東は絶壁となって太平洋に落ち、西は北上川近くまで山麓を伸ばしている。早池峰山周辺には非常に古い時代の蛇紋岩や海洋底に堆積した粘板岩などを見ることができる。
江戸時代に北上山地の南では砂金、北では砂鉄がとれた。遠野近辺は金山地帯であり、慶長年間に最盛期を迎え、藩主南部利直が小友金山を巡視しているほどだった。
なお、早池峰山は金の神でもあり、金山関係者の信仰も集めた。

高山植物の宝庫

北上高地の最高峰である早池峰山は、ハヤチネウスユキソウやナンブトラノオなど、ここにしか分布しない高山植物の宝庫としても知られている。固有種5種をはじめ、南限種、北限種、希有種などが数多く分布し、標高1300m以上全域が早池峰山高山植物地帯として国の天然記念物に指定されている。天然記念物のアカエゾマツ隔離小集団もきわめて貴重であり、自然環境保全地域に指定され、保全されている。

まつわる話

遠野の山の神

「大昔に女神あり、三人の娘を伴いてこの高原に来たり、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止まりしを、末の娘目覚めて之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり」(柳田国男「遠野物語」より)
三人の女神のバージョンはいくつかあるが、天の意図とは違うところに早池峰山の成立があるのは興味深い。
ほかにもこの物語に出てくる山の神は、人間が山の神を攻撃したりタブーを犯すと祟る。山の神は、人間に予言をしたり占いの術を授けたりしている。山の中に入って術を得たというのは、山中の修行で験力を得る山伏の姿を思わせる。
遠野には三種類の山の神が見られる。
三面独眼一本足のように妖怪のような早池峰山の主。
空から舞い降りる霊華の夢で早池峰山の神となった美しい姫神。
そして、背が高く赤い顔の早池峰神楽の山の神みたいな神。
妖怪のような神は狩人の話として語られているが、多くの地方で語り継がれる単眼の金属・鉱山民との関係もある。
姫神のイメージは、里人が遠くから眺める早池峰山の姿。早池峰神楽に出てくるような山の神は、夜の村や近くの山の中に出現する。

ルート

握沢登山口(門馬口登山口)
70分↓ 2.5km ↑ 55分
五合目鳥居口(垢離取場)
180分↓ 3.2km ↑ 120分
早池峰山頂(早池峰神社奥宮)
110分↓ 2.3km ↑ 140分
小田越
55分 ↓ 2.7km ↑ 65分
薬師堂
45分 ↓ 1.8km ↑ 70分
又一滝
15分 ↓ 1km ↑ 20分
馬留

岳集落の駐車場
5分 ↓ 350m ↑ 5分
鶏頭山登山口
120分 ↓ 2.4km ↑ 90分
鶏頭山避難小屋
20分 ↓ 600m ↑ 15分
ニセ鶏頭のピーク
30分 ↓ 500m ↑ 20分
鶏頭山山頂
180分 ↓ 3km ↑ 150分
中岳
120分 ↓ 2.2km ↑ 100分
早池峰山山頂

アクセス

門馬登山口

門馬登山口(握沢登山口)へは、国道106号線の門馬集落で右折して林道を6km進む。JR山田線では平津戸駅が一番近いが、平津戸コースは荒れているので、門馬を経由する。
盛岡駅と宮古駅を結ぶバスも国道106号線を通っていて、門馬バス停で下車して林道を登山口まで95分歩く。
10数台の駐車スペースがある。

馬留登山口

JR釜石線遠野駅から車で約60分。公共交通機関はない。
駐車スペースが10台ほどはある。

江繋早池峰神社

江繋早池峰神社に小田越を通らずに行くには、東北自動車道から釜石自動車道に入り、遠野I.C.でおりて国道340号線を北上し、里の駅おぐにの約3km先を左折して県道25号紫波江繋線に入る。右手に薬師川を見ながら細い道を進むと、峡谷から谷あいの平地が開けた場所に出て、左側に江繋早池峰神社が見える。
または、国道106号線を盛岡から宮古方面へ東進し、宮古市川井で右折して国道340号線に入って南下する。約8km先で小田越方面へと右折する。

大迫町岳

大迫町岳集落の早池峰神社や鶏頭山・早池峰山の岳登山口付近へは、東北自動車道の紫波I.C.から県道25号紫波江繋線に入って東へ。
または、東北自動車道の花巻I.C.から国道396号線の方へと向かい、道の駅はやちねのすぐ先で右へ。県道25号線を東に進む。100台ほどの駐車スペースがあり、6月第2日曜日から8月上旬までの土日祝日には車両交通規制があるため、岳駐車場に停めて小田越までシャトルバスに乗る。それ以外の日も、一般車は小田越まで入れず、河原の坊駐車場(約50台)に停め、河原の坊コースは崩落により通行止めのため、小田越まで2km歩く。
6月第二日曜日から8月上旬の土日祝日には、新花巻駅・花巻駅から小田越までの直行バスもあるが、予約制となっている。

参考資料

遠野市史編修委員会「遠野市史第一巻」万葉堂書店、1974年
芳門申麓「霊峰への誘い 早池峰探勝ガイド」社陵印刷、昭和61年11月
遠野市立博物館編「早池峰山妙泉寺文書―遠野の信仰・学問・文化の記帳文献」遠野市教育文化振興財団、1984年1月
鈴木正崇「日本の山の精神史」青土社
菊池照雄『早池峰修験と妙泉寺』、月光善弘編「山岳宗教史研究叢書7 東北霊山と修験道」名著出版、2000年11月
内藤正敏「東北の霊山と山の神」東北芸術工科大学東北文化研究センター研究紀要2003(1)
内藤正敏「遠野物語の原風景」筑摩書房、1994年10月
柳田国男「遠野物語」新潮文庫、平成26年6月
大巻秀詮「邦内郷村誌」
日本山岳会編「新日本山岳誌」ナカニシヤ出版

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会マウンテンカルチャークラブ
松本博子
中村真由美

Page Topへ