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そのほかの「岳参り」

以下、15集落の「岳参り」を記した。
(1)椨川集落
・楠川前岳の「岳参り」歩道
(2)小瀬田集落
・愛子岳の「岳参り」歩道
(3)長峰集落
・向岳二の岳の「岳参り」歩道
(4)船行集落
・三野岳の「岳参り」歩道
・明星岳の「岳参り」歩道
(5)松峰集落
・明星岳の「岳参り」歩道
(6)春牧集落
・前岳北東ピークの「岳参り」歩道
(7)平野集落
・平野権現様の「岳参り」
(9)原集落
・本富岳の「岳参り」歩道
(10)小島集落
・芋塚岳の「岳参り」
(11)平内集落
・破沙岳の「岳参り」歩道
・権現堂の「岳参り」歩道
(12)中間集落
・七五岳の「岳参り」歩道
(13)吉田集落
・吉田岳の「岳参り」歩道
(14)一湊集落
・一湊岳の「岳参り」歩道
(15)志戸子集落
・一湊岳の「岳参り」歩道

古道を歩く

(1)椨川(たぶがわ)集落

《楠川前岳(高岳・1124.8m)の「岳参り」歩道》
椨川は春、秋彼岸の日を基本としているが、催行者の都合や少しでも多くの参加者を募るため、彼岸前後の祭日に合わせて行われている。参加者の人口も少なく、「岳参り」の催行も簡素化し、現在は白谷雲水峡宮之浦線を車であがり、標高600mの白谷雲水峡駐車場から林道を東に辿り、楠川集落同様楠川歩道入口から楠川前岳に登って参詣している。
楠川の「岳参り」も時に白谷雲水峡宮之浦線を利用し、楠川前岳の「岳参り」歩道を上がっている。
*「岳参り」は楠川集落と同じコースで行われていることから楠川の「岳参り」を参照の事。

(2)小瀬田集落

《愛子岳(標高1235m)の「岳参り」歩道》
愛子岳は鹿児島から屋久島へ向かう船上から三角錐の特徴ある秀麗な山として見える。
平成時代迄行われた「岳参り」は、まず村の代表者が海岸でお潮井取りとして海岸の清められた小石を採取し、参加者は公民館に集合して詣所である愛子岳権現社(愛宕神社)にお参りし、車で愛子岳歩道入口にから愛子岳山頂を目指す。
歩道に入ると始めは右の支道と平行して行くが、次第に遠ざかり林で見えなくなる。リンゴツバキ、カシ等の灌木が繁り、尾根の10m下の右側斜面を辿り、やがて急峻な尾根通しの道へと変わる。
ヒメシャラの赤い木肌が緑の疎林に映え美しい。尾根筋の急登の連続で、高度を増すに従いハイノキやサクラツツジの木が目立つようになる。登山口から5kmを過ぎると尾根は広くなり、ゆるやかな登りに変わる。道は右に転じて尾根の右斜面を辿るようになる。愛子岳の1.1km手前で枯沢を渡るが40m下方に唯一水場がある。
次第に灌木は小さくなり、美しい林の梢越しに愛子岳の三角錐を見る。西へ続く主尾根が近づくと道は直角に南へ方向を変え、その上部で小杉谷から登ってきた道が合流する。山麓から小杉谷の集落へ行くにはこの歩道が最も近く、至って便利であったが現在利用者もなく廃道となって利用はできない。
これより胸突き八丁の急登に変り、灌木が混在する露岩をロープを伝いに高度を上げる。シキミ、アセビ等の小灌木を分け、浮石やガレ場の露岩帯を越えて急坂を登るとススキに覆われた山頂に着く。この上部の瓦礫の個所は藩政時代の屋久島大絵図で言ういわさく嶽で、岩が裂ける、砕けるの意味を表した場所でもある。
山頂からは屋久島では珍しく低山にもかかわらず展望が開け、安房渓谷を隔てて奥岳、三岳が眺められる。
愛子岳の山頂は自然の猛威をもろに受けるため祠は崩壊著しく原型をとどめていない。
下山すると公民館で坂迎えを受け、集落挙げての慰労会が行われた。

(3)長峰集落

《向岳二の岳(標高628m)の「岳参り」歩道》
まず前浜でお潮井とりとして海岸の清められた小石を採取し、「岳参り」参加者は公民館に集合して長峰神社にお参りし、車で長峰町営牧場から南に伸びる林道を辿って向岳の歩道入口に到る。
歩道入口から尾根の北斜面を登り、向岳の北に延びる北尾根に沿って登り、三の岳を越えて二の岳頂上直下の歩道脇に入母屋型の鹿児島石製祠を見る。向岳は南の一の岳が最も高いが、何故か祠は標高628mの二の岳山頂から下に外れた北側尾根上に忽然と祭祀されている。頂上から外れて安置されているのは、神が宿る山頂を避けたためとされている。
祠では海砂、焼酎、米等を奉納し、下山すると愛宕神社に参り、坂迎を受けたのち公民館で参加者の労をねぎらう直会が行われる。

(4)船行集落

《三野岳(標高943.6m)の「岳参り」歩道》
三野岳の「岳参り」は、船行の前浜でお潮井取りの神事が行われ、船行神社に参って山へ向かった。
対象の山は船行背後の三野岳で、現在は船行川左岸から三野岳に伸びる登山口まで林道船行線を辿り、終点から三野岳「岳参り」歩道に入る。
歩道入口付近の杉林に入るとやがて灌木林に変わり、小さな尾根の斜面を登って尾根上に出る。
道は急峻な登りで照葉樹の灌木林をトラバース気味に登る。
水量の少ない沢をいくつか渡り、小さな沢や尾根を越えて急坂を登り、回り込んで三野岳の北東尾根に取り付く。
急な尾根を登ると東側のピークに着く。山頂にはトタンの箱に囲われた屋根付き石祠が祭祀されている。
三野岳はその名の如く三つの野、つまり三つの山からなり、東峰、中央峯、西峰からなり、祠のある峰が東峰、更に西へ僅かな踏み跡程度の道をたどると中央峯、西峰に至る。一部遠望できるが、低灌木が繁って展望は良いとはいえない。
僅かな展望地からは石塚山、太忠岳、その背後に奥岳の山々が遠望できる。
《明星岳(標高651m)の「岳参り」》
明星岳の「岳参り」は船行から鍋山林道を登り、その途中から明星岳の東面を登るコースがある。このコースは登山者や「岳参り」で利用することなく、また急峻で距離も長いため今では荒廃してこのコースを登る人はいない。現在では長峰や安房の集落が行う西面からのルートがとられている。
三野岳と明星岳の最低鞍部に出ると西側から登ってきた歩道と合流し、以後北尾根を登り、山頂直下で西側を迂回して最後はロープをたより急斜面を登ると展望の開けた山頂に至る。
狭い山頂には御影石の立派な祠が設置され、中に旧来の山川石製祠が安置されている。下山後は公民館で村民を含め慰労会が行われる。
*詳細は松峰集落の明星岳「岳参り」歩道を参照のこと。

(5)松峰集落

松峰集落から明星岳催行は9月23日(秋分の日)に行われ、当日参加者は松峰生活館に集合、その足で安房川左岸の林道にそって明星岳の西側に回り込み、明星岳沢から急峻な「岳参り」歩道を登り、三野岳との最低鞍部で船行からのルートと合流する。
あとは船行からのルートと同じく北尾根を登って山頂下西斜面をたどりロープを頼りに山頂に至る。
松峰は時に船行林道からのルートを辿ることもあり、山頂では持参したお供えを奉納したのち参加者全員で参拝し、下山した後長峰生活館で集落挙げての慰労会が行われる。
*安房集落の明星岳「岳参り」歩道参照。

(6)春牧集落

《前岳(安房・標高965.9m)北東ピークの「岳参り」歩道》
「岳参り」は年一回9月23日(秋分の日)に集落の代表者、一般参加希望者を募り行われる。
代表者は当日早朝、春田浜で海水と浜砂を採取するお潮井取りが行なわれ、春牧福祉館に参加者全員集合、車で安房から屋久島公園安房線を上がり、標高640mの千頭川の前岳岳参り歩道入口に至る。
日頃この登路は「岳参り」以外登る人もなく、道は少々荒れている。
「岳参り」前日には区民による草刈りなど歩道の整備が行われ、登山口から千頭川右岸、左岸、右岸と川沿いの斜面を登ると千頭川源流域に至り、爽やかな疎林の広い谷に変わる。
これを登り詰め、道は左へ大きく尾根の右側を迂回するように登る。
尾根に出ると北へ迂回するように登り前岳北東峰山頂に出る。
山頂には「岳参り」祈願の石祠が二基ある。現在行われている「岳参り」は1970年代に一時絶えていたが、平成9年(1997)に25年ぶりに復活し現在に至っている。
岳参り終了後の直会は過去には坂迎えとして慰労会が行われていたが、現在は区民の人口減等の実情にともなって簡素化され、ビール、おつまみ程度を配布して解散する。

(7)平野集落

《平野権現様(標高300m)の「岳参り」》
「岳参り」の代表者は早朝集落内の海岸でお潮井取りを行い、参加者は公民館に集合し、平成4年に宮之浦の益救神社から分社した神社に参り、車で中瀬川林道の道筋にある樋之口「権現様」(標高300m)の参道入口まで車で入る。
祭祀場所はもいよ岳の南東に伸びる里山歩きで尾根上の露岩が散乱する広場の「権現様」に至る。
到着次第周辺を清掃し、持参したお供えものを奉納し、灯明(ローソク)を灯してはじめに代表者が祈願し、その後参加者全員が参拝する。
周辺は露岩が点在する尾根の一角で、露岩に囲まれるように三基の祠が祭祀されている。
左側二基は山川石製屋根付の祠で、真中の祠は中央部がくりぬかれている。
最も右の祠は鹿児島石製角柱で、風化が著しく碑文は読めない。
さらに右奥には台座と屋根の部分が放置されている。祠の前には手水鉢が置かれ相応の佇まいを見せている。
終了後は公民館で参加できなかった村民の坂迎えを受け、労をねぎらって軽い慰労会が行われる。

(8)麦生(むぎお)集落

《高平岳(493m)「岳参り」歩道》
高平岳は高平の集落から見ると低山ではあるが、三角錐の神宿る山に相応しい岩山をなしている。「岳参り」は最近(平成時代)まで行われていたが、現在はほとんど行われず、形なりに山麓にある山口の祠に参っている。
歩道は荒廃しているものの、まだ高平岳の参詣は可能と思われる。栗生集落から村道を上がりサンカラホテルの横から麦生歩道に入る。トイモ岳の東の斜面を高平岳西の鞍部に向かって踏み跡程度の歩道を辿るとトイモ岳、俵石岳と高平岳との鞍部に出る。
鞍部から東の尾根を登ると痩せた山頂の岩に三基の立派な祭祀祠を見る。

(9)原(はるお)集落

《本富岳(標高940m)の「岳参り」歩道》
本富岳の登拝は名瀑千尋之滝(落差40m)展望の千尋滝駐車場に始まる。
この駐車場までは歩いてもよいが、通常レンタカーで上がることが多い。
農道から千尋滝駐車場までは歩いても50分程度。千尋之滝は一見に値する。
駐車場の奥タナヨケ歩道入口には詣所千尋嶽神社の小社があり、この社を参拝した後すぐ横の歩道から開始する。
この一帯オタギ山とも言われるところで、クエン川を渡り歩道入口から15分で本富岳への歩道入る。
この歩道は上部で尾之間歩道に連絡する原歩道であったが、現在は廃道となって本富岳歩道のから先は行くことはできない。
本富岳への歩道に入るといきなり急峻な胸突き八丁の登りになる。
さらに歩を進め、小さな沢を渡って次第に高度を上げると尾根を跨ぐように大地に根を張る万代杉の巨木に至る。
万代杉の巨木に感動しながら右を巻いてを尾根上を辿り、上部で尾根から外れて右の谷に入り支流を渡る。
右へ迂回しながら次第に高度を上げて行く。
途中10m下方にモッチョム太郎の巨木を見る。
万代杉同様江戸時代の試し切りの跡が痛ましい。
広い尾根を左右に迂回しながら登ると本富岳に至る主尾根上に達する。
尾根伝いに登ると露岩の神山展望台に出る。
本富岳への尾根は次第に険しい岩稜に変わり、岩を巻いたり、小さな登り下りを繰り返し最後にロープを頼りに腕力で登ると山頂に至る。
「岳参り」の祭祀祠は頂上露岩の南側にあり、露岩を越えて南側のテラスに立つと羅列した石の祠が5基安置されている。足下は屋久島三大岩壁の一つ本富岳の南壁を成し、空間を隔てて尾之間や原の海岸線、太平洋の輝きが眺められる。

(10)小島集落

《芋塚岳(794m)の「岳参り」》
小島集落の「岳参り」は旧暦の15夜芋塚山を対象として行われる。
当日催行者は小島神社に集合し、小島集落の東側にシドッチの記念碑に行く道があり、県道に相対して反対の山側の道を辿って芋塚岳の南面を東西に横断する林道を車で上がる。
この道の芋塚岳から南に延びる尾根が交差する所より芋塚岳を目指すが歩道は明確でなく、この尾根を辿ると踏み跡程度の歩道が出てくる。
単純な尾根ではあるが意外と錯綜して解りにくい。
山頂が近付くに従い次第に急峻になり、明確な尾根伝いの登高となる。
山頂は灌木に覆われ視界は利かない。小島集落の祠は芋塚岳の尾根の一角斜面に石祠一基が祀られている。
祠の前で持参した焼酎、塩、米などを奉納し祭事は終わる。
参拝後は再び小島神社にシキミ、サカキなどを奉納し、直来をもって解散する。

(11)平内集落

《破沙岳(1259m)の「岳参り」歩道》
破沙岳は平内から湯泊方向に向かう車窓から特徴ある岩峰の山として眼に映る。
実際登っても急峻な露岩混じりの険しい山である。
平内の西大崎橋のバス停留所から山手へ入り、大崎川を渡って林道を上がる。
上部で林道は二分するが、真直ぐ車の入れる道を標高400m迄登り登山を開始する。
先に延びる旧林道跡を辿り、大崎川の上流を渡り、周辺荒れた林を抜けて再び右岸に渡り支流に沿って登る。
左に岩盤を伝い落ちる滝を見る。やがて一変して本流と右岸支流間の急峻な尾根を稲妻状に登る。
標高700mで国立公園に入ると照葉樹林に変わる。
標高900mに発する急峻な支尾根を登り、南西に延びる主尾根上に出る。
胸突き八丁の急峻な尾根は小さな屈曲を繰り返し、尾根から破沙岳の西側斜面に入る。
所々露岩が露出し、右上部には破沙岳の岩壁を見ながら登路は露岩を避けるように登るが、険しい所ではロープが懸けられている。
破沙岳の西面斜面を迂回し、ロープを頼りに露岩やガレを登り、破沙岳から北西に延びる支尾根に出る。
所々岩が露出した急峻な支尾根の小灌木を手掛かりに北側から迂回すると露岩の山頂に至る。
山頂には三角点があり、展望は360度見渡すことができる。
北に七五岳から烏帽子岳、ジンネム高盤岳に連なる山稜を眺め、目を返せば鈴岳、割石岳が間近に眺められる。
南面は平内から湯泊の海岸線が望まれる。平内の岳参り祠は山頂より少し南に下った岩屋の中にある。
屋久島の岳参り祠は屋根型の祠が多いがここ破沙岳は屋根なしの角柱になっている。

《権現堂の「岳参り」歩道》
権現堂(ごんげんどん)へは平内から八幡神社を経由して山手に伸びるに農道を最上部までたどり山林へ入る。
谷間の歩道は踏み跡程度で注意して登らないと道を外しかねない。
上部で尾根を辿り、標高938m付近より東側の尾根に移り、少々下ると尾根の突端巨岩南側の陰に一基の祠を見る。
過去には前方が開けて山麓から南側の海の広がりが見えたのであろうが、現在は灌木が邪魔をして梢越の展望が眺められる。

(12)中間集落

《七五岳の「岳参り」歩道(七五岳西尾根)》
昔から中間集落の「岳参り」として大いに利用されてきた歩道。
中間からの歩道は中間集落北の外れの中間川右岸の旧農道を辿り、1km程行ったところで小さな沢の右岸を登り、七五岳西尾根に出ていたが、現在は集落の先で新たに上に延びる林道が敷設され、この林道を辿って七五岳入口に至る。
急な斜面を登ると七五岳の西尾根にでる。
尾根上を着実に辿り左へ大きく迂回するとピーク778mに至る。
過去栗生から森林軌道を辿って黒味川の支流横川の二ツ橋から右岸尾根を登り中間歩道と合流する道があったが現在は廃道になっている。
爽やかな照葉樹林の尾根の登下降をくり返す。
1076m地点を越えて次第に高度を上げ、七五岳を前に急角度で七五岳に続く西尾根を見る。
この上部は七五岳の岩峰につながりピナクルの岩稜が山頂まで続く。歩道は南壁の下を迂回し、小さな沢を登ると七五岳東側のコルに出て湯泊歩道からの歩道に合流する。
過去には南壁下を折り返すようにトラバースし、西側の岩にかけられたロープを頼りに登ると鏡岩前の露岩の広場に出た。
過去には立派な祠が鏡岩の広場にあったが、現在祠は崩壊し、鏡岩の前に欠片が置かれ、時に焼酎「三岳」が祭祀されて「岳参り」の痕跡を見る。
現在山頂に到るルートはコルから直接七五岳山頂に登り、北壁側岩盤の上を西へ辿り、岩の間を抜けて鏡岩の前に至る。

(13)吉田集落

《吉田岳(1165.2m)の「岳参り」歩道》
吉田の「岳参り」は春秋行われ、まず、海岸ではお潮井取としてサカキを海水に浸し、お祓いの神事を行なう。
海砂を吉田岳の神供としてまず森山神社に参拝したのち「岳参り」に向かう。
「岳参り」終了後は森山神社で「岳参り」催行者に対し、村民の坂迎え(うちむけ)を受け慰労の宴が開かれる。
現在の「岳参り」は一湊、永田を結ぶ一湊林道が開設されて以来、一湊林道が旧来の「岳参り」歩道を遮断した形になったため、高齢化による催行者の負荷軽減から、車で一湊を回ってこの一湊林道を上がり、吉田岳歩道入口から山頂に至るコースがとられていた。
しかし、直近では吉田の集落の西、吉田川に沿って林道が敷設され、この林道が一湊林道に繋がり、標高580mに吉田岳歩道入口の標柱に従って急峻な斜面を登り右の吉田岳の北東にある1100mの無名ピークから西北に延びた疎林の小尾根を登る。
標高900mで尾根から外れ、右の広い谷を渡り、小尾根から右の大きな尾根を辿り、2つの大石を過ぎると吉田岳の山頂に至る。
山頂には昭和63年に新たに建立された花崗岩の「三岳権現」が建てられている。
屋久島の岳参りでは本来「一品法壽大権現」の碑文が多いが、三岳権現の碑文は屋久島でもここだけで、山頂は灌木に覆われ展望は良くないが、祠の裏に回れば翁岳、永田岳、ネマチ峰、障子尾根、宮之浦岳から高塚山に至る長い尾根が宮之浦川の深い谷を隔てて望まれ三岳を遙拝することができる。
最近まで吉田の「岳参り」は車で一湊を経由して一湊林道を上がり、吉田岳歩道入口から吉田岳を登っていたが、つい最近、吉田川の左岸に林道が敷設され、一湊林道に合流したため、直接吉田集落からこの林道を登って
吉田岳歩道入口を経由し、直接吉田岳を登拝するようになった。
最近まで吉田の「岳参り」は車で一湊を経由して一湊林道を上がり、吉田岳歩道入口から吉田岳を登っていたが、つい最近、吉田川の左岸に林道が敷設され、一湊林道に合流したため、直接吉田集落からこの林道を登って吉田岳歩道入口を経由し、直接吉田岳を登拝するようになった。

(14)一湊(いっそう)集落

《一湊岳(974m)の「岳参り」歩道》
一湊岳の「岳参り」歩道は藩政時代は一湊村から一湊川に沿ってあったが、現在は吉田岳同様一湊から永田に抜ける一湊林道の途中から登るようになった。
一湊から白川村を経て一湊川の右岸に沿って砂利道の林道を登ると車止めゲートがあり、これより歩いて20分、大きく左へ迂回しながら登ると、一湊から10.6km地点で林道は二分する。
左の林道に入るとすぐ終点になり、ここに歩道入口がある。
急な山の斜面から支尾根に取付き、再び右へトラバースして志戸子岳から北に延びる広い尾根を登るようになる。
行き詰まると尾根の右を巻いたり、左を巻いたり、またこの一帯は昭和30年代に伐採され、尾根の左右には所々杉の植林地が見られ景観を損なっている。
しばらく尾根伝いに登り、ピーク730mを越えた所で右へ大きくトラバースする。
眼下には大きくはないがヒメシャラの林が見える。ここで水が得られる。
道は南西に方向を変え、支尾根を越え、広い山の斜面を登る。
再び支尾根を越え、支流を渡り、小さな尾根を伝って登ると志戸子岳と一湊岳を繋ぐ尾根の直下に至り、志戸子岳に至る不明瞭な道が見られる。
一湊岳へは傾斜の緩い支尾根にそって登り、一湊岳の南西側コル、一湊岳から吉田に続く大きな尾根上に出る。
これより北東に密生した灌木の痩せた尾根を辿り頂上に立つ。
頂上には大正14年に建立された「奉山の神大明神」と書かれた自然石の祠と「奉納」と書かれた角柱がある。
展望は北東側の永田岳から障子尾根、永田北尾根の山々、羽神岳から宮之浦岳に至る高塚尾根が遠望され、眼下の宮之浦川が印象的に眺められる。
志戸子岳には先程の合流点に戻り、尾根伝いに北へ30分も辿れば山頂に至る。

(15)志戸子(しとご)集落

《一湊岳の「岳参り」歩道》
志戸子集落の岳参りの山は一湊岳で、一湊集落と同じ山を祀っている。
楠川と椨川が同じ楠川前岳を崇めるのと同じで、他にも一つの山を複数の集落で祀っているところがある。
登路は志戸子から志戸子川右岸の林道を終点まで辿り(車可)、歩道入口から左岸の急斜面を登って尾根に出る。
尾根を暫く登り、やがて左側山の斜面を辿って上ノ山の南側から尾根を越え、一湊からの道と合流して一湊岳に至るものである。
志戸子岳には一等三角点はあるが祠は見当たらない。
この道は荒廃して登路は不明瞭。
コロナウイルスの流行後「岳参り」は行われていない。

古道を知る

(1)椨川集落

椨川は屋久島でも最も小さな集落で、人口もおよそ110人程度と少なく、高齢化により「岳参り」の催行も難しくなってきた。50年ほど前に一時途絶えたが、最近世界自然遺産が登録され復活した。
祈願対象の山は楠川と同じく奥岳は石塚山、前岳は楠川前岳で、催行は彼岸の中日でおこなわれていた。椨川では過去の旧制第五高等学校の文献によれば昭和初期高岳と呼ばれていた。
「岳参り」歩道は本来椨川集落から椨川の左岸を辿り、二俣から楠川前岳の北東尾根P582、P945を越えて山頂に至る「岳参り」歩道があったが、現在は杉山伐採で廃道となり、楠川集落同様楠川歩道又は白谷雲水峡から行われている。
最近では過疎化により「岳参り」そのものを維持することが困難になり、奥岳である石塚山の「岳参り」は楠川集落同様行われなくなり、 前岳である楠川前岳の山頂から石塚山を遙拝している。
現在の「岳参り」は春は春分の日、秋は秋分の日に行われる。催行は村のできるだけ若い2人を選び、特に神社に参ることなく詣所もないため、催行者の相談により椨川を出発。楠川の「岳参り」同様、車で白谷雲水峡駐車場経由で楠川前岳(髙岳)の山頂に至る。山頂には楠川の祠も含めて5基の祠が祭祀されているが、向かって最も左の祠が椨川の祠ではないかと言われている。
帰路は山から土産はなく往路を下山し、催行者の労を労って村人の待ち受け祝いを受ける。現代における最も簡素「岳参り」と言える。

(2)小瀬田集落

「岳参り」の山は前岳である向岳と愛子岳(民話からきた名前、旧名いわさく嶽)の二峰としている。
「岳参り」は旧暦8月16日、10月24日に行われていたが、近年では向岳が9月末、愛子岳は10月の愛子まつりに合わせて年一回行われていた。参加者は過去には18歳以上の婦女子は女人禁制として参加できなかったが、現在は村民及び一般に希望者を募り、集落の行事として参加している。
本来小瀬田の「岳参り」は代表者が小瀬田神社に参拝し、お潮井取りの神事は神社前の階段を下りた前浜で行われる。参加者は小瀬田公民館に集まり全員集合したところで愛子岳権現社を参詣し山へ向かった。
「岳参り」対象の向岳は三峰からなり、参詣する祠は中央二峰の山頂下登路の過程にある。二峰頂上直下に至ると歩道脇に入母屋型の鹿児島石製祠を見る。向岳は南の一峰が最も高いが、何故か祠は標高628mの二峰山頂から外れて北側尾根上に祭祀されている。神が宿る山頂を避けたものと思われる。過去には祠の前に奉納されていた藩政時代の一文銭〕が風に飛ばされて散乱し、皆でかき集めて祠の前に納めていたが、村民の話では最近賽銭泥にあって歴史ある賽銭が無情にもなくなったとのことである。
小瀬田の「岳参りは本来旧暦の9月17日に愛子岳を参詣していたが、多くの参加者を募るためその前後の日曜日に行われた。平成時代には愛子まつりの日10月の最終日曜日に変更、最近ではコロナウイルスで「岳参り」が中断され、村民の老齢化に伴い現在は標高の低い負荷のかからない向岳で行われている。以後愛子岳の「岳参り」は高齢化に伴って行われていないが、いつかまた復活する可能性を含めている。

(3)長峰集落

長峰集落は昭和29年に開拓村として小瀬田から分離し現在に至っている。
もともと小瀬田集落に包含されていた頃は当然「岳参り」は向岳、愛子岳であった。
長峰の「岳参り」は平成23年頃から独自に始められた。
催行は旧暦の5月16日「山まつり」の日に集落の青年団が中心となり、小瀬田の「岳参り」と一緒に行われる。一時は小瀬田集落と合同で愛宕神社に集合し、向岳、愛子岳に神式で参拝していたが、現在は小瀬田集落も「岳参り」と離れて長峰独自で向岳を参拝している。
「岳参り」を終えると長峰神社に報告参拝し長峰公民館で村民による坂迎えを受け、慰労会が催される。

(4)船行集落

船行は信仰厚く、戦前では奥岳として尾立岳、中島権現岳、太忠岳を祈願し、前岳では明星岳、三野岳、愛子岳を「岳参り」対象の山として祀った。
家庭に不幸があると黒不浄としてお参りできないことから、 前岳の明星岳に登り、奥岳である太忠岳と中島権現岳を遙拝し、さらに三野岳、愛子岳を登拝することがあった。
戦後から現在に至っては船行集落の背後に聳える明星岳、三野岳を「岳参り」対象の山とし、参詣は秋分の日(9月23日)に一度行われる。

(5)松峰集落

松峰はもともと開拓村であったが、昭和34年安房から分かれて区制をスタートさせた。
松峰の集落は前岳である明星岳の直下にあり、明星岳の特徴ある山容は安房、船行の「岳参り」対象の山として古来崇拝されてきた。
松峰は本来安房の「岳参り」に参加していたが、平成20年頃から独自に「岳参り」を行うようになった。
催行は9月23日(秋分の日)一度で、村民及び参加希望者をもって日帰りで行われる。
*安房集落明星岳「岳参り」歩道参照。

(6)春牧集落

春牧(はるまき)は平野集落と共に昭和23年に安房から分れ、現在独立した区制をとっている。
過去には安房集落に統括されていたため安房の「岳参り」として行われていた。
現在祈願対象は春牧の背後に聳える 前岳(安房)の北東ピークで行われている。
まだ屋久島公園安房線が開設されてない時代、つまり、まだ春牧が安房に包括されている時代は前岳の「岳参り」は安房集落の「岳参り」として行われていた。
「岳参り」歩道は春牧集落から山裾を登り、 前岳の東面に張り出した尾根を辿って 前岳北東峰の山頂に達していたが現在は廃道として登山は不可。
前岳の祠は前岳本峰(965.9m)ではなく一段低い本峰の北東にある北東峰にある。

(7)平野集落

平野は過去仁田鉱山で栄え、大正、昭和初期に島外から移住した人達で形成され、新しくできた集落である。
そのため伝統行事はなく、安房から分離するまでは安房の諸行事に参加していた。
昭和23年春牧と共に一つの区として安房から独立分離した集落で、現在は平野独自の「岳参り」が行われている。
第二次世界大戦以前は奥岳に、戦後は一時安房の「岳参り」に参加し、主に中島権現岳、明星岳に参っていた。
現在は安房の「岳参り」の名残として9月23日の秋分の日に樋之口の「権現様」を参詣している。

(8)麦生集落

麦生集落は過去「岳参り」対象の山として奥岳は宮之浦岳、永田岳、栗生岳の三岳に太忠岳とし、前岳は高平岳、俵石岳として信仰厚く、「岳参り」は盛んに行われていた。
屋久島の旧下屋久村は秋一回の「岳参り」が通例であったあったが、麦生の集落に限って年2回行われ、春は船の「岳参り」として旧暦4月3日に、秋は旧歴8月1〜3日(二泊3日)、11月24日の3回行われていた。
屋久島の「岳参り」は三岳、御嶽を参拝するのが本来の姿であり、平野、高平の集落は中瀬川林道を登って林道上部で中瀬川を渡り、麦生歩道に合流して標高1200mにある太郎兵衛小屋に出ていた。麦生歩道は上部で再び尾之間歩道と合流し、淀川から花之江河の祠を参り、さらに奥岳を登拝していた。
また、太忠岳は太郎兵衛小屋から安房の太忠岳「岳参り」歩道に合流し、淀川、荒川筋から太忠岳に登り、天柱石北側基部の祠を参拝した。
一方、前岳(詣所)祈願は一時4月1日、9月1日。旧暦8月3日に麦生歩道の過程にある高平岳、俵石岳の祠に参った。
前岳の参拝は奥岳の天候不良や何らかの理由で行かれない場合は前岳の参拝で済ませた。
トビウオ漁の豊漁を願って行われる春の「岳参り」は、本来花之江河までの日帰りで行われたが、通常は奥岳である太忠岳、前山である俵石岳、高平岳、里山である山口詣所の祠に参った。
麦生では数え歳13歳以上の婦女子と3年以内に三等親内に不幸があった黒不浄の場合は友引を恐れ「岳参り」に参加することは許されなかった。
奥岳の「岳参り」は3日かけて行われ、催行の前夜本慶寺でお籠もりをし、翌一日目は山の神々に捧げるお供え物と携帯食を持参し、午前3時に本慶寺を出発、太郎兵衛小屋を経由し、乃木(のんき)小屋まで足を延ばし泊まった。健脚組は翌日の行程を考慮してさらに足を延ばし花之江河小屋(昭和37年雪のため倒壊)に宿泊した。
翌早朝出発し、急ぎ足で宮之浦岳の参拝を終え、下山の途中で栗生岳、花之江河の祠に参拝し、午後3時には下山、時に山中で野宿し、翌朝下山することもあった。
家族、村人は「岳参り」一本松の下(現在枯死)で坂迎えをし、その下でゲコと言う祭が行われた。ゲコの祭は神社で行われたが、ホイドン(神官)の神事が終わると村を挙げて慰労会が行われた。
昭和30年以降「岳参り」の風習は村内の諸事情で行われなくなり、麦生歩道も現在では利用者もなく廃道になり、時に山神の石塔が祭祀されている中足、山口、高平岳、俵石岳に詣でている。
高平岳の鞍部を挟んでトイモ岳の下に「岳参り」の山である俵石岳があるが、近年長い間「岳参り」が行われなくなり現在は廃道として行くことはできない。また高平岳の鞍部から先由緒ある麦生歩道も現在利用者もなく廃道として利用できなくなっている。

(9)原(はるお)集落

過去「岳参り」は、春は旧暦4月3日、秋は旧歴8月1日〜3日であったが、昭和46年以降行事の変更により現在では9月15日に一度行われている。
本来原(はるお)の祈願対象の山は、奥岳は宮之浦岳、栗生岳、太忠岳、花之江河、 前岳は本富岳、割石岳、雪岳で行われていた。
原集落での参加者は10人組、9隣保班の持ち回りで行われ、宮之浦岳組、太忠岳組、本富岳組の三班に分れ、 前岳の本富岳組以外は山中二泊三日で行われた。
太忠岳組と宮之浦岳組は共にスエトリ川を経て山口(現千尋嶽神社)の札所に参り、原歩道を辿り、雪岳(1258m)を参ったのち太郎兵衛小屋に到り、その先の荒川筋への分岐で太忠岳組と分かれ、太忠岳組は荒川筋から安房、麦生の「岳参り」歩道に従って山頂天柱石直下の祠を参詣した。
宮之浦岳組は花之江河に宿泊し、さらに栗生岳を越えて宮之浦岳の祠にお供えを奉納し、永田岳を遙拝、帰路栗生岳、花之江河を参拝した後、鯛之川の渡渉する大淵で太忠岳組と合流。
太忠岳組は小花山で一泊し、太忠岳の「岳参り」終了後、帰路宮之浦組と鯛之川大淵で合流し一泊した。朝9時頃集落に帰着できるよう見はからって大淵を出発し、村に帰着すると永昌寺で「岳参り」の報告と参拝を済ませ、五つ組の御膳と神酒をいただき、区長、接待役、十人組戸頭の挨拶を受け、村人の歓迎慰労会が行われた。
一方、前岳である本富岳はスエトリ川の渡渉点で禊をし、詣所である平石(大石)のお礼所に参拝した後、胴淵川滝下の平水樋、滝上の鼻端水場を経て本富岳南面を登り、現タナヨケ歩道と合流し、本富岳山頂に至った。
祠は山頂露岩の南側直下の展望の良い岩棚にあり、石柱、祠など5基が山頂露岩を背景に祭祀されている。中には笏を持った菅原道真公を祀った祠も見られる。
現在原の「岳参り」は十人組の輪番制で新暦9月15日に日帰りで行われる。
現在奥岳の宮之浦岳と前岳の本富岳のみ催行され、原歩道の廃道により奥岳の太忠岳、前岳の雪岳の「岳参り」は行われなくなった。
前岳である本富岳は、過去本富岳南側から詣所平石を経由して行われていたが、歩道崩壊で岩が露出し登行不可となった。
その後昭和51年に発見された万代杉からのタナヨケ歩道が整備され、以来千尋之滝駐車場から、本富岳歩道入口に新たに建立された詣所千尋嶽神社に参り、タナヨケ歩道から本富岳山頂至り参詣している。

(10)小島集落

小島はもともと秋のみ旧暦8月14日から一泊二日で奥岳は宮之浦岳に参り、 前岳は日帰りで芋塚岳を対象とし、山の神に村の繁栄を祈願する行事として行われていた。
村を3班に分けて黒不浄のない代表者をそれぞれの班から毎年交代で出した。
所願には4人が選ばれ、奥岳の宮之浦岳に2人、 前岳の芋塚岳に2人がそれぞれの山に登り参拝した。
普段は女性でも薪取りで山に入ることは許されたが、「岳参り」の時だけは入山が許されなかった。
代表者は身を清め、奥岳には14日早朝7時頃出発する。
当日は昼食を持参し夕食と朝食は米や副食を持参し、現地で飯盒炊飯を行った。
各戸から集めたお賽銭は奥岳、前岳の両方に分けて持参し、それぞれ祭祀されている山頂の祠に供えた。
登山道は二通りあり、好天の時は鈴川東寄り(尾之間より)のルートを選び、天候が悪いときは鈴川西側のルートをとった。
奥岳の「岳参り」はその日のうちに済ませ、夜は花之江河の小屋に宿泊、翌15日下山する。
帰りにはサカキを手折って下山し、お賽銭を預かった各小戸には神様に供えるよう配布した。
前岳は15日朝7時頃出発し、その日の正午には「岳参り」を済ませ下山する。
奥岳に参った二人は前岳組に合わせて下り、15日の昼には代表者4人が麓で落ち合い、揃って下山した。
村の待ち受けは一本松まで出向いてお迎えし、カカラ団子(サルトリイバラで包んだ団子)とモチを山から「岳参り」の代表者にお礼として渡し、4人は山から持ち帰ったサカキを村人配った。
その後4人は村人々や役員による待ち受けの祝いを受け労がねぎらわれた。
明治時代までは一本松で「岳参り」の祝が行われたが、大正の頃からは神社で行うようになった。
また悪天候のため奥岳参りが危険と判断されたときは、14日の晩から神社に籠り、15日に代表者4人が 前岳に登るという方法が取られた。

(11)平内集落

平内の「岳参り」は秋のみ旧暦9月9日〜10日の一泊2日で催行される。
対象とされる山は奥岳宮之浦岳、前岳は平内集落の背後に聳える前岳破沙(はさ)岳、権現堂の三峰で村の安寧を願って祈願する。
御嶽宮之浦岳には二人、破沙岳、権現堂にはそれぞれ一人ずつ村の代表が当たり、宮之浦岳を参拝する奥岳組は一泊二日で参るため前日の9日に出発。
山口から登山道に入り、大崎川と湯川を横断して湯泊歩道に入り、その夜は花之江河に宿泊、翌10日に宮之浦頂上の笠石に祭祀されている祠にお供え物を奉納し、神式で祈願を済ませる。
「岳参り」の過程では、宮之浦岳から三岳の一峰である永田岳を遙拝し、下山途中栗生岳、花之江河、烏帽子岳、七五岳を参拝して下山した。
前岳の破沙岳、権現堂は9月10日に日帰りで行われ、帰りは奥岳組、前岳組同時に下山してくるため村外れの平石にある大岩で坂迎えとして待ち受けた。
村の役員やホイドン(神官)が米、塩、御神酒をお備えし下山した代表者はお祓いを受けて後、自宅に帰る事なく神社で村挙げての慰労会が催された。
一行が持ち帰ったシャクナゲは神様へ、コウノキ、ビャクシンは仏壇にあげた。
昭和40年頃から宮之浦岳、権現堂には参詣しなくなり、現在では旧暦9月9日に破沙岳のみ行われていた。
権現堂はいつしか参拝しなくなり、一時途絶えて祠の存在位置すらわからなくなっていたが、平成30年に再発見され再び復活している。

(12)中間集落

中間の「岳参り」は一年を通して最も重要な行事であった。
過去の文献から「岳参り」は年に一度旧暦の9月10日に行われ、奥岳は宮之浦岳、永田岳、栗生岳、花之江河から黒味岳を遙拝し前岳は七五岳としていた。
また、「岳参り」の参道は七五岳の西尾根を登り、直接七五岳に到り、湯泊歩道に合流する歩道があったが、昭和の林野庁による周辺の伐採と共に荒廃し、その後中間川の左岸から湯泊歩道に合流する道が造られ、現上部歩道入口から湯泊歩道を登って奥岳宮之浦岳、前岳七五岳を詣でていた。
最近西尾根の歩道も整備され、時に中間集落から直接七五岳に向かい「岳参り」が行われることもある。
「岳参り」の祠は昭和37年に訪れた時は、七五岳山頂西側の広い鏡岩テラスに立派な祠が祭祀されていたが、現在は無残にも崩壊し、わずかに山川石の欠片のみ置かれている。
過去の「岳参り」は集落の代表、船元、網元を所官とし、前日は神社で宮籠りをし、旧暦9月10日夜明けと共に出発した。
「岳参り」は奥岳の神域と俗域に分ける山口を起点に出発し、ヒダの川、シャスの川を渡り、オオヨケの坂を登り、タバコ峰で休憩した後、三岳に向かう道と、七五岳に向かう道とに分かれてそれぞれ目的の山に向かった。
奥岳、前岳ではそれぞれの山頂祠前でお供え物、お賽銭を奉納し、集落住民の無病息災、豊漁豊作を神式で願って祈願した。
下山はオオヨケの坂で奥岳組、 前岳組が合流し、火を燃して狼煙をあげ、村民に無事「岳参り」が終了し下山する旨を告げた。所官は下山すると直接神社で坂迎えの神事を行い、慰労直会が行われた。

(14)吉田集落

吉田集落の「岳参り」催行の山は、吉田集落から南に5km隔てられた永田岳の北尾根上吉田岳で、集落からは前山に遮られて望むことはできない。
「岳参り」は旧暦の4月8日、8月8日一泊二日で登拝されていた。
登路は吉田集落内の中心部を吉田川に向かうと左に吉田霊園へ上がる道があり、その道に入ってすぐ右へ入ると小高い尾根が見える。
昔三本の松があったが現在は枯死してなくなっている。
そこより枝尾根をたどって登り詰めると現在の一湊林道に至り、現吉田岳歩道入り口を経由して山頂に至る。
吉田岳山頂には昭和63年に新しい御影石の立派な祠(標柱)が再建され、裏の雑木を分けると屋久島の主稜、三岳全てが遠望され、「岳参り」に相応しく神々しい景観が広がる。
「岳参り」終了後は過去には下山時にほら貝を吹いて帰還を知らせ村民の出迎えが行われたが、現在は坂迎えとして森山神社に関係者が集まり慰労会が行われている。
旧来の吉田集落からの「岳参り」歩道は荒廃して廃道となっている。

(14)一湊集落

古来一湊は祈願対象の山として一湊岳を崇めてきたが、明治の始めに「浄土真宗」が伝えられ、また、廃仏毀釈により「岳参り」は廃止された。
そのため一湊岳に登る「岳参り」歩道は廃道になっていた。
平成19年一湊集落住民有志による「岳参り」として再整備され、一湊岳への歩道が新たに整備され復活した。
一湊から一湊林道をたどり、白川村(しらこむら)を経て大きく迂回しながら登ると10.6km地点で林道は二分し、本道から外れて左の林道に入るとすぐ一湊岳に登る歩道入口がある。
この入口から一湊岳山頂まで3時間、山頂には一湊集落の祭祀とされている自然石の祠、志戸子集落が祭祀しているとおぼしき角柱が奉納されている。
一湊岳の山頂は永田北尾根の主稜から少し離れた岩稜の鼻にあり、展望は宮ノ浦川を眼下に見下ろし、羽神岳から高塚山、宮之浦岳に続く高塚尾根が遠望される。
古来藩政時代の一湊「岳参り」は春は4、5月、秋は8、9月に参詣し、当時女人禁制として14歳以上の婦女子は「岳参り」として山に入ることが許されなかった。
明治以降今日に至り「岳参り」としての行事は断たれ、現在中学校、一湊集落の行事として春は5月、秋は10月下旬の休日に登山が行われ、僅かに「岳参り」としての名残を残している
現在はコロナウイルスの流行以後一湊集落の行事としての登山は行われていない。

(15)志戸子集落

明暦の「屋久島大絵図」では志戸子集落から黒はげに至り、一湊集落に下る歩道が描かれている。黒はげは現在の志戸子岳を指し、山頂には一等三角点があるが、「岳参り」として祭祀された祠は見当たらない。
志戸子岳という山名が文献上初めて出てくるのは、昭和8年に描かれた旧制第五高等学校の山岳部が出した「屋久島概念図」で、一湊岳は営林岳としている。しかし、一湊岳の山名は一湊の「岳参り」の山として古来伝えられており、第五高等学校の山岳部が登った時代は、宮之浦の営林署がこの一帯の営林事業を進めていたことから、当時ガイドを兼務していた猟師の間では営林岳と呼称していた。
志戸子集落に関する「岳参り」の文献や古老の話を整理してみると、志戸子集落の「岳参り」の山は志戸子としているが、実は現一湊岳を志戸子岳として祭祀していることが判明した。
所謂一湊集落が祭祀する一湊岳と、志戸子集落が祭祀する志戸子岳は同一の山で、現在の山名は標高978mを一湊岳とし、一湊岳の北東500mに位置し、志戸子集落からも見える標高907.9mの山を志戸子岳としている。
往年の「岳参り」は春秋行われ、前夜住吉神社に宮籠りして行われた。特に秋は彼岸の中日には青年全員が登ったと伝えられている。
登路は志戸子集落から志戸子川右岸の林道を終点まで車で行き、歩道入口から左岸の急斜面を登り、尾根を伝って左側の山の斜面から上ノ山の南側尾根を越え、一湊集落からの歩道と合流し、上部は一湊歩道に従って山頂に至る。
現在志戸子集落からの歩道周辺は林業による伐採がなされ、一般の登山者としての利用者が無く、荒廃して利用できない。
さらに志戸子集落の「岳参り」は諸般の事情により休止状態にある。

深掘りスポット

愛子岳権現社(愛宕神社)

愛子岳権現社は別称愛宕神社と言われ、小瀬田バイパスの愛子岳登山口道下にあり、小瀬田集落の「岳参り」では村民に尊崇されている神社である。
神社としての社や体裁は無く、平成11年に新たに建立された御影石の祠と、広場の北側奥には年代不詳無碑銘の祠、手水鉢が祭祀され、愛子岳、向岳の詣所としての役割を果たしている。
■愛子岳権現社
・愛子岳権現社 入母屋型御影石製、表書 愛子岳権現社、裏面 平成十一年十二月吉日建立小瀬田区
・無銘の祠 入母屋型山川石製、碑文不明
■愛子岳山頂 鹿児島石製、奉□寺田助□、末九月吉日、風化著しく一部不明。

千尋嶽神社(原集落)

千尋嶽神社は平成15年に千尋之滝駐車場旧原歩道の入口に建立された。
この地域は山口の札所と言って、山の神の領域と俗世界とに分けた詣所で、「岳参り」は特化された者しか「岳参り」に参加できなかった。
原の奥岳「岳参り」は原歩道(現在廃道)を中心として宮之浦岳、栗生岳、花之江河、太忠岳、その過程で前岳である雪岳が参詣された。
前岳である本富岳は正面歩道が廃道になり、万代杉の発見に伴い新たにタナヨケ歩道が開かれて以来千尋嶽神社、つまり詣所山口を起点として行われるようになった。

祠 碑文など

■向岳二峰山頂下 入母屋型鹿児島石製、 王大権現、寛永五年贈寄進

■三野岳山頂 入母屋型鹿児島石製、三野大権現、文化七年午八月吉日建祈願如意、三之助

■前岳山頂 入母屋型鹿児島石製祠二基あるが、風化のため判読できない。

■モイヨ岳 右上部奥に崩壊した祠の台座と屋根がある。
■平野権現様
・ 写真に向って左側の祠 寄棟型山川石製、傳之助寄贈
・ 中央の祠 寄棟型山川石製、施主安房傳之助八敬立
・ 右の祠 鹿児島石製角柱、文字解読不明。

■高平岳
・東側山頂祠 左の二基は入母屋型鹿児島石製碑文なし。右側の祠は寄棟型山川石製祠、明和六(十七□、奉上一品法壽権現守、三月吉日。
・中足の山神 入母屋型鹿児島石製、正面に大山祇大神、右側面に明治39年旧1月15日、左側面には奉寄進日高太郎吉、弟2名と明記。弟は日高善畩、鎌田親助。
・中足、山口、俵石岳の3神は石塔のみ。

■雪岳 山川石製、家形祠が二基あり。一部割損した祠には本住院、番僧、智覺代、原村と書かれている。片方の祠は正面に奉勧請、一品法壽大権現宮、雪岳鎮座、裏面は長遠院代、右側面は丙寅年、左側面は九月廿三日立之とある。

■本富岳 山川石製、家型祠三基、角柱祠一基あり。山川石製家型、笏を持った仏像(笏を持った菅原道真公?)が浮彫されている。明和二年(1765年)、山川石製、安政五年(1858年)の祠。
明治九年(1876年)尾之間村副戸長岩川比賀助奉納の「奉寄進比賀助」の石塔

■芋塚岳 入母屋型鹿児島石製祠、栗生村之、奉寄進玉寿敬白、五平□、元和六年(1620年)巳年、八月十五日立之碑文あり。

■山口詣所 自然石の祠、一品法壽権現尊、奉請、相良、篠原長政、安政三(1856年)酉丙辰六月廿四日の碑文。
■山口どん 破沙岳登山口(詣所)屋根付山川石製石塔、奉寄進、願主平内村 明和七年(1770年)十二月吉日。

■破沙岳山頂直下南西斜面 墓石型鹿児島石製、妙法一品法壽権現の表書きあり。

■吉田岳山頂祠 御影石製 三岳権現の表書き 昭和63年(1988年)に建立。

■一湊岳山頂祠 花崗岩自然石の祠 奉山ノ神大明神の表書き碑文あり。
角柱御影石製奉納(志戸子集落奉納?)の碑文あり。

翁岳(御船嶽1860m)の祭神は?

「宮之浦村深山の中にあり、絶頂に立石あり、祭神あれども、詳かならず、此岳の下に大池あり、往昔或人其池に船の浮び居たるを見たる者あり、愕然として歸り、其里人に語りける、是より參詣の者絶たりと云傳へり、又參詣する者ありても、必ず途中より雲霧掩遮り、進むことを得ずとぞ、」(三國名勝圖會」山水・御船嶽)
御船嶽は現在の翁岳(1860m)を指し、特徴ある岩峰から神宿る神の山として崇められ、祭神があっても不思議はないが、過去の文献に祭祀した記録がなく、現在も発見されていないことから「岳参り」として祭祀されてなかったのではないかと思われる。
ただ、御船嶽山頂には特徴ある三つの巨岩が直立し、それがあたかも船の帆柱に例えられることから、「神功皇后」の三韓征伐の船の帆柱に見立てて御船山とした言い伝えがある。
「三國名勝圖會」に記載されている史実確認のため何度か周辺を探査したが、祠の痕跡や船を浮かべるような大池は認められず、ただ、わずかにそれとおぼしき支流の小池が安房岳、翁岳の間に認められた。
「詳かならず」と言う文面があり、翁岳の特徴ある山容から神が宿る山として崇めるに相応しい創造的山として記されたものと思われる。

まつわる話

愛子岳の民話

小瀬田には背後の愛子岳から女川、男川が流れている。現在言う愛子岳は「屋久島大會圖」ではいわさく嶽との名前があったが、民話によって現在の名前に変わった。
「昔小瀬田村に仲のよい若者と愛子という娘がいた。娘はあるとき野良仕事に行き、その帰りに増水した川
を渡っていたが、愛子は足を滑らせて川に落ち、おぼれかけているところを猿に助けあげられた。ある日、愛
子は助けてくれた猿に誘われ、愛子岳につれていかれた。しかし愛子は再び村に帰ることはなかった。愛子と
仲のよかった若者はこれを嘆き悲しみ、川に身を投げて愛子の後を追った。
以来、背後の山を愛子岳、落ちた川を女川、助け上げられた石を乙女ケ石、若者が身を投げた川を男川と
言われるようになった。

七五岳の民話

ある日中間集落で七歳の子が神隠しに会い突然行方が分からなくなり、村人は総出で山中を探し回ったが見つけることができなかった。
ある時猟師が狩りに出て山中を巡っていたところ、大木の根元に赤い花尾の下駄があるのを見つけ、再び村人総出でその近辺を探したがとうとう見つけることができなかった。
以来この山を七つの子の山とし七子岳とした。その後七子岳が転化し現在の七五岳になっている。

ルート

■(1)楠川集落
楠川前岳の「岳参り」歩道
宮之浦(白谷雲水峡宮之浦線)
↓車40分 ↑40分
白谷雲水峡入り口
↓30分 ↑30分
楠川前岳入口
↓2時間 ↑1間40分
―楠川前岳

■(2)小瀬田集落
愛子岳の「岳参り」歩道
小瀬田(小瀬田林道)
↓45分 ↑40分
愛子岳入口
↓2時間30分 ↑2時間
水場
↓1時間20分 ↑1時間
愛子岳

■(3)長峰集落
向岳二の岳「岳参り」歩道
小瀬田・長峰(車;町道/林道)
↓車20分 ↑車20分
向岳入口
↓1時間30分 ↑1時間10分
向岳2の岳祠

■(4)船行集落
三野岳の「岳参り」歩道
船行(船行く林道)
↓車20分 ↑車20分
三野岳入口
↓1時間50分 ↑時間20分
三野岳

■(4)船行集落、(5)松峰集落
明星岳「岳参り」歩道
安房屋久島庁舎(安房川左岸林道)
↓1時間 ↑1時間
明星岳入口(明星岳沢)(三野岳/明星岳鞍部)
↓1時間30分 ↑1時間
明星岳
※安房(屋久島公園安房線)―(町道荒川線)―荒川入口―中島権現岳(荒川入口にゲートがあり入山禁止)

■(6)春牧集落
前岳北東ピークの「岳参り」歩道
安房(車;屋久島公園安房線)
↓20分 ↑20分
千頭川前岳岳参り歩道入口
↓1時間20分 ↑1時間10分
(安房)前岳北東ピーク

■(7)平野集落
平野権現様の「岳参り」歩道
平野(中瀬川林道)
↓車20分 ↑車20分
権現様入口
↓1時間 ↑50分
権現様

■(8)麦生集落
高平岳「岳参り」歩道
麦生
↓30分 ↑30分
サンカラホテルー
↓1時間 ↑50分
高平岳/トイモ岳鞍部
↓20分 ↑20分
高平岳(現在荒廃している)

■(9)原集落
本富岳の「岳参り」歩道

↓50分(車20分) ↑40分(車20分)
千尋滝駐車場
↓1時間20分 ↑50分
万代杉
↓1時間10分 ↑50分
神山展望台
↓20分 ↑20分
本富岳

■(10)小島集落
芋塚岳の「岳参り」歩道
小島
↓40分 ↑40分
農道登山口
↓1時間15分 ↑50分
芋塚岳

■(11)平内集落
①破沙岳の「岳参り」歩道
大崎橋バス停留所
↓20分(車) ↑20分(車)
破沙岳入口
↓3時間 ↑2時間40分
破沙岳
②権現堂の「岳参り」歩道
平内
↓30分 ↑30分
農道上部
↓2時間30分 ↑2時間
権現堂

■(12)中間集落
七五岳の「岳参り」歩道(七五岳西尾根)
中間
↓1時間 ↑40分
西尾根上(P547)
↓3時間30分 ↑3時間
七五岳

■(13)吉田集落
吉田岳の「岳参り」歩道
吉田集落(車;一湊林道または吉田林道)
↓ ↑
吉田岳上部歩道入口
↓1時間30分 ↑1時間15分
吉田岳

■(14)一湊集落
一湊岳の「岳参り」歩道
一湊(一湊林道)
↓20分 ↑20分
一湊岳歩道入口
↓2時間50分 ↑2時間20分
一湊岳

■(15)志戸子集落
志戸子・一湊岳の「岳参り」歩道
歩道入口
↓3時間 ↑2時間30分
一湊岳/志戸子岳分岐
↓30分 ↑30分
志戸子岳山頂

参考資料

【「屋久島 岳参り」共通】
・「古事記」「日本書紀」総覧 別冊歴史続本・辞典シリーズ(第二刷)新人物往来社(平成2年4月17日発行)
・「三國名勝圖會」(仏寺・法華宗の權輿)天保14年(1843年)薩摩藩主第27代藩主島津斎興の命で五代秀堯、橋口兼柄等により編纂された。内屋久島関係は巻ノ五十に表されている。
・屋久島大會圖
・益救神社「益救神社由緒記」
・村田煕「種子・屋久・トカラ列島の山岳宗教」(山岳宗教史研究書⑬)
・石飛一吉「屋久島における山岳信仰県の研究」
・山本秀雄「岳参り」(上屋久町楠川を中心として)
・(楠川区長牧実寛メモ)「楠川の岳参り」
・「上屋久町誌」(1984)上屋久町
・屋久島町郷土誌(第一巻〜第四巻・1993〜2007)屋久町
・ウィキペディア検索
仏教 全日本仏教会、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神道 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法華宗フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山岳信仰 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・楠川天満宮「楠川天満宮の由緒」
・久本寺渡辺智弘御住職「渡部智弘論文」
・「屋久島『岳参り』の研究」「国際言語文化研究」第四号(1998)鹿児島純真女子大学
・太田五雄「屋久島の山岳」(1993、再販1997,再販2006)八重岳書房、南方新社
・太田五雄、三橋和己共著「屋久島の神と仏—神社・仏寺・山岳宗教・民俗神」(2020)自費出版
・太田五雄「屋久島総覧—未来への伝言」(2021)自費出版
・太田五雄論文「屋久島の山岳宗教・法華宗「岳参り」」(2023)自費出版

協力・担当者

【「屋久島 岳参り」共通】
《執筆者》
太田五雄(日本山岳会 福岡支部)
《協力》
益救神社(宮之浦) 宮司 故大牟田信文 禰宜 大牟田祐
久本寺(宮之浦、法華宗・本門流) 御住職 渡邉智弘 僧侶 渡邉智旭
日本山岳会MCC
(敬称略)

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