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永田集落の「岳参り」

日増上人は永田集落の長壽院(現永田嶽神社の前身)に滞在し、永田岳に登拝して「岳参り」の素を築いた。
永田集落は土地柄、神仏や民俗神への信仰が厚く、山岳宗教たる「岳参り」は村民の間に広がり、やがて全島に伝播していった。
西方に火山島である口永良部島を望み、奥岳永田岳を眺め、峨々たる岩峰群は屋久島随一の山岳景観として際立っている。
まず浜でお潮井取の神事を行い、奉納の浜砂を持って永田嶽神社に参詣後、永田岳を目指す。
永田歩道の標高差1500mを一日で登って鹿之沢小屋に宿泊。早朝、永田岳の笠石の祠に参詣し、三岳である宮之浦岳、栗生岳を永田岳から遙拝する。
「岳参り」が終了すると永田川の横川で禊払いを行い、永田嶽神社に「岳参り」の報告を行う。

古道を歩く

永田岳(1886m)「岳参り」歩道

永田のバス停から永田川の左岸に平行して新町を過ぎ、永田川に架かる日の出橋から右の林道を登る。
横川(よっご)渓谷入口を経て、モチダ川に架かる橋を渡って30mも行けば、林道の切り欠きに永田歩道の入口を見る。
昭和30年代までは、横川渓谷を経て永田川の左岸伝いにモチダ川の吊橋を渡り、直接現在の永田歩道入口に出たが、林道がこの登山道を遮断するようになってからは、遠回りになるが林道を伝うようになった。
歩道入口(モチダ)から1186mの岳の辻に発する急峻な北尾根を登るが、この歩道は屋久島で最も体力を要する歩道で一般には敬遠される。
歩道に入ると暫くは植林された杉林をたどる。
やがて永田川とモチダ川を分ける尾根に出る。
4〜5月の頃にはサクラツツジが周囲の照葉樹林に映えて美しい。
また、この道の標高1000m以下では、湿度が60%を越えるとヤマビルが多く難儀する。
水呑沢(みっどんさわ)の水場を過ぎ、歩道入口から5時間もの急峻な尾根の登りは大変な体力を要するが、島の東面の雰囲気とは異なり、爽やかな照葉樹林の尾根には見るべきものを備えている。
主尾根にある標高1200mの岳之辻に出ると、永田岳から国割岳に続く大きな尾根を伝うようになる。
森は深みを増し、小さな登下降の快適な登りが始まる。
八井之鼻の西斜面にある七本杉を左に見て、八井之鼻の東側を大きく巡ると支流、辻の川を渡る。
その先で南から北へ尾根を越えると姥ケ岩屋を右に見る。
長い尾根を左右に蛇行しながら登降を繰り返し、次第に高度を上げていく。
原生の姿を残す森はこれまでの苦労を忘れさせ、感動すら覚える。
途中、右の谷間に左巻大檜の大木を見る。

少々登ると尾根上鞍部の桃平広場に出る。
標高1517mの桃平では、永田川側の斜面を小さな枯れ沢を渡って横断して行く。
桃平の東側主尾根に出ると、露岩の桃平展望台に着く。
ヤマグルマが多い美しい主尾根を辿り、南側に斜面を下ると大川の上流七ツ渡シに出る。
第一の徒渉点は転石を伝って渡り、大川の左岸に沿って灌木を分けると再び第二徒渉点で、右岸に渡る。
浅いナメラの河床と川面に映える周囲の森が実に美しく心地よい。
この二つの渡渉点は水量が増すと渡れないので要注意。
七ツ渡シから鹿之沢へは大川の右岸に沿って高度を上げ、大川が接近したところで岩場のトラバースがある。
次第に大木は失せ灌木林に変わる。
大川の支流を渡り左折すると標高1600m地点に、昭和36年に建設された鹿之沢小屋が現れる。
スギ、モミ、シャクナゲ、アセビ、ハイノキ、シキミなどに囲まれた小さな小屋が周囲の森に良く合う。
ここで栗生から上がってきた花山歩道が合流し、永田岳へは小さな尾根や雨に浸食された歩道を辿り、岩場をロープを伝って登ると森林限界を越え、高距160mのローソク岩展望地に達する。
永田川を隔てて障子尾根、障子岳の峩々たる山岳景観に感動する。
急なヤクシマダケの斜面を登ると永田岳の肩に出て前方に露岩の重なる永田岳の山頂を見る。
「岳参り」の祠は永田岳直下を左にヤクシマダケを分けた先、永田源流を見下ろす笠石にあるが、気を付けてないとわからない。
笠石の下は岩屋を成し、永田集落を向いて安置されている。

この古道を歩くにあたって

・この歩道は屋久島で最も体力を要する歩道である。
・標高1000m以下は湿度が60%を越えるとヤマビルが多くなる。
・2つの渡渉点は水量が増すと渡れないので要注意。

古道を知る

永田集落は屋久島の西方に火山島口永良部島を望み、屋久島の奥岳、三岳の一峰である永田岳を集落から唯一眺められ、障子尾根や障子岳の峨々たる岩峰群は屋久島随一の山岳景観として際立っている。
日増上人は法華宗伝播のため、永田集落の長壽院(現永田嶽神社の前身)に滞在し、永田岳に登拝して「岳参り」の素を築いた。
山麓から永田岳の峨々たる山稜を仰げば、山岳宗教の敬仰に駆られる。加えて永田集落は土地柄神仏、民俗神の信仰が厚く、山岳宗教たる「岳参り」は村民の間に広がり、やがて全島に伝播していった。永田の「岳参り」は旧歴の4、8月の好日に一泊二日で行われた。一日目は海岸で穢れを落す禊を行い、永田嶽神社で宮籠りを行い、翌2日目は早朝お潮井とりを行った後、永田岳「岳参り」歩道を登り、現鹿之沢小屋の1km下にあった永田小屋(現在はない)を経由し、鹿之沢にあった赤い鳥居(現在はない)を抜けて昔から利用されてきた化粧岩屋に宿泊した。
翌三日目は「岳参り」祭祀にあたり、化粧岩屋で服装(紋付き、袴)を整え、化粧を施して早朝山頂下の笠石内の祠に村から持参したお供え物を奉納し、村内安寧を祈願する参拝を行った。
永田岳「岳参り」歩道の登下降の過程には姥ヶ岩屋、永田小屋、化粧岩屋があり、当時「岳参り」の重要な拠点としてこれらの岩屋や山小屋が利用された。「岳参り」が終了すると下山途中、永田川の横川(よっご)で禊払いを行い、その足で永田嶽神社に「岳参り」の報告を済ませ、前浜の千本松原で慰労の宴が開かれた。
古来永田集落でも女人禁制がとられ、14歳以上の婦女子は「岳参り」に参加できなかったが、戦後禁制が解かれ希望者は自由に参加できるようになった。
永田集落の「岳参り」は一時途絶えていたが、世界自然遺産登録後復活し、一時多くの参加者を迎えて盛大に行われていた。
また、永田歩道からの「岳参り」は屋久島で最も体力の負荷が大きく、コースは宮之浦集落同様、淀川登山口から尾之間歩道上部、花之江河、栗生岳、宮之浦岳、永田岳と屋久島主稜を縦走し、三岳を登拝した後、鹿之沢の小屋で一泊し、翌日永田岳「岳参り」歩道を下ることもあった。
最近は本来の「岳参り」に従い、春はシャクナゲの咲くころ、秋は10月の好日に行われている。
まず浜でお潮井取の神事を行い、奉納の浜砂を持って永田嶽神社に参詣後、永田岳を目指す。
昭和の永田歩道は横川から永田川の左岸を登り、モチダ沢にかかる吊橋を渡って現在の登山口に通じていたが、現在はモチダの林道を経由し標高100mの歩道入口からの登山になる。
永田歩道の標高差1500mを一日で登って鹿之沢小屋に宿泊、早朝永田岳の笠石の祠に参詣し三岳である宮之浦岳、栗生岳を永田岳から遙拝している。
「岳参り」が終了すると下山途中永田川の横川(よっご)で禊払いを行い、その足で永田嶽神社に「岳参り」の報告を済ませ、村民の坂迎え(サカムケ)を受け、公民館で慰労会が行われる。

深掘りスポット

三國名勝圖會

山水に見られる永田の「岳参り」
長田嶽 長田村に属す、村落より東の方、八里許にあり、屋久三岳の一なり、此岳の絶頂に、笠石と稱せる石あり、其石に窟穴あり、其中に益救神石祠を建、一品法壽權現を祭れり、其勸請の年月詳かならず、毎年八九月比、土民參詣せり、婦女十四歳以上の者は禁制なり、此岳四面巌石崔嵬として、其巓近き處、最急峻にて、登陟の者は、梯子に登れるが如く、手に細竹を攀ぢ、身を側て艱難を極め、其絶頂に登ることを得つべし、さて其嶽面最急峻なる處の下に、一圓池あり、周廻三四十間許、澄清して鑑すべし、又絶頂より山下十四五町の處に、一巖窟あり、高さ二三十間、深さ二十間、横三間ばかり、登嶽の者、投宿の處とせり、洞窟の傍に、水泉湧出し、又窟中の地上には、苔蘚生じたる故、木柴を敷き臥に、其だ安便なりとぞ、三嶽の内、宮浦栗生の二岳は村落より見えざれども、此嶽は、海邊より突然として聳えたる故、長田村より遥に望むといふ、
*一巌窟 現化粧岩屋を指す。

祠の碑文

永田岳山頂下笠石の祠は二基ある。
・一基は花模様をあしらった屋久島で最も立派な入母屋型鹿児島石製祠、享保七年(1722年)寅歳十二月廿四日 顕壽寺番任本隆寺 奉寄進御嶽様
・一基は鹿児島石製竿部 願主作浦 岩元安兵衛

永田嶽神社

岳参り発祥の地といわれる永田集落の詣所。
天津日高彦火火出見命(アマツヒコヒコホホデミノミコト)を御祭神とし、古くは宮之浦にある益救(やく)神社の摂社格として、益救神社の例祭・新嘗祭には神官が出向する習わしだったという。
拝殿の右手奥に屋久島町指定記念物(史跡)の磨崖題目が残る。
花崗岩の巨石に「明暦三年 丁酉 南無妙法蓮華経 萬霊位 二月大吉日」と刻まれている。
日増上人が永田岳で勤行をおこない山頂への道を開いた長享2(1488)年から169年後にあたり、「南無妙法蓮華経」には日蓮宗独特のひげ文字が使われている。
屋久島での法華経信仰の定着がうかがえる。
近くには白い鳥居が目を惹く大山祇神社(中山神社)がある。
いずれの社も境内には白砂が敷かれ、ウミガメ産卵地として知られる永田浜らしさを感じさせる。

ルート

■永田岳「岳参り」歩道
永田
↓1時間 ↑1時間
歩道入口
↓5時間30分 ↑4時間20分
岳の辻
↓1時間40分 ↑1時間20分
姥ケ岩屋
↓1時間30分 ↑1時間20分
桃平
↓1時間30分 ↑1時間10分
鹿之沢
↓1時間20分 ↑1時間10分
永田岳

アクセス

■永田岳「岳参り」歩道
永田集落から永田歩道全行程徒歩

参考資料

【「屋久島 岳参り」共通】
・「古事記」「日本書紀」総覧 別冊歴史続本・辞典シリーズ(第二刷)新人物往来社(平成2年4月17日発行)
・「三國名勝圖會」(仏寺・法華宗の權輿)天保14年(1843年)薩摩藩主第27代藩主島津斎興の命で五代秀堯、橋口兼柄等により編纂された。内屋久島関係は巻ノ五十に表されている。
・屋久島大會圖
・益救神社「益救神社由緒記」
・村田煕「種子・屋久・トカラ列島の山岳宗教」(山岳宗教史研究書⑬)
・石飛一吉「屋久島における山岳信仰県の研究」
・山本秀雄「岳参り」(上屋久町楠川を中心として)
・(楠川区長牧実寛メモ)「楠川の岳参り」
・「上屋久町誌」(1984)上屋久町
・屋久島町郷土誌(第一巻〜第四巻・1993〜2007)屋久町
・ウィキペディア検索
仏教 全日本仏教会、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神道 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法華宗フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山岳信仰 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・楠川天満宮「楠川天満宮の由緒」
・久本寺渡辺智弘御住職「渡部智弘論文」
・「屋久島『岳参り』の研究」「国際言語文化研究」第四号(1998)鹿児島純真女子大学
・太田五雄「屋久島の山岳」(1993、再販1997,再販2006)八重岳書房、南方新社
・太田五雄、三橋和己共著「屋久島の神と仏—神社・仏寺・山岳宗教・民俗神」(2020)自費出版
・太田五雄「屋久島総覧—未来への伝言」(2021)自費出版
・太田五雄論文「屋久島の山岳宗教・法華宗「岳参り」」(2023)自費出版

協力・担当者

【「屋久島 岳参り」共通】
《執筆者》
太田五雄(日本山岳会 福岡支部)
《協力》
益救神社(宮之浦) 宮司 故大牟田信文 禰宜 大牟田祐
久本寺(宮之浦、法華宗・本門流) 御住職 渡邉智弘 僧侶 渡邉智旭
日本山岳会MCC
(敬称略)

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