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「岳参り」で祈願対象とした山は、奥岳として宮之浦岳、永田岳、栗生岳の三岳、山中の詣所として花之江河、前岳は七五岳を登拝した。
特に栗生岳は芋生村の芋生御嶽と言われ、三岳の一峰として集落の名前が付加された。
以前の「岳参り」は、栗生歩道を登って栗生岳を詣で、さらに宮之浦岳を参詣し、相対する永田岳を遙拝した。
氷川で禊を行い栗生岳、宮之浦岳、永田岳と三岳を踏破する若者組もあった。
現在「岳参り」は基本的には秋9月1日のみで、日帰りで集落の代表者4〜5人で行われ、高齢化により三岳へは淀川登山口から栗生岳、花之江河の参詣となっている。
なお、この項に花之江河から宮之浦、永田岳への縦走路も記した。
この道は、まだ小楊子林道ができていない昭和40年代まで多く利用された道で、林道ができてから車で上の歩道入口(標高1100m)まで上がっていたが、下の歩道入口から上の歩道入口までは利用する人もなく荒廃していた。
その後、林野庁が巡視のため再び整備し復活させた。
登路は栗生から標高450mの登山口まで小楊子林道を辿り、黒味林道に入って大太鼓岳の東側から南西に延びる尾根を廻り込むと直ぐ左に登山口を見る。
過去には標高およそ60mの小楊子川に流れ込む黒味川を渡ったところより太鼓岳の南西尾根を登って今の登山口に至る古道があったが、現在は廃道となり全く分からなくなっている。
歩道入口から林道を離れて大太鼓岳への急峻な尾根を500m登ると大太鼓岳の東に出るが、尾根と言っても小さな起伏のある尾根で斜面を登るといった感じが強く、複雑な尾根を成している。
大太鼓岳の東の尾根を越えると主尾根の北斜面を辿るようになり、小さな登下降を繰り返す。やがて開けた平坦地に出ると空洞のある大きな杉の倒木大洞杉(おおどすぎ)を左に見る。
これより小さな支尾根を登り、上部で小さな沢を伝って登ると標高1100mで再び小楊子林道に出る。
林道がない時代はこのまま上部へ歩道が続いていたが、現在は一旦林道で遮断され、上部の歩道入口に出る。
栗生から林道伝いで18.5km地点。
ここまで林道沿いで来ることもできるが、途中ゲートがあり、荒廃して大きく蛇行しているため歩道より1時間以上余分な時間を要し現在は利用する人はいない。
上の歩道入口からしばらくは、モミ、ツガ、スギの色調溢れた混交林に満喫しながら小楊子川側の急な斜面を登り終えると主尾根上に辿りつく。
尾根の頂稜付近を左右に巻きながら高度を上げると、右に巨岩が点在する露岩の展望台に着く。
展望台と言っても灌木が茂り、梢の間から七五岳の北壁をわずかに見る程度で展望は良いとはいえない。
尾根に沿って高度を上げると灌木に変わり、左に黒味岳を間近に眺めながら露岩の尾根上を辿ると鈍頂なピークを越えてヤクシマダケをかき分けるようになる。
湯泊から登ってきた道と合流し、左に下ると突然花之江河の湿原が開け泥炭層湿原の中に「岳参り」祠を見る。
花之江河から投石平の間は杉木立の間に小灌木が茂り、投石平を越えると森林限界を超えて主稜の西斜面を辿る。
翁岳と栗生岳の鞍部から急峻な尾根を登ると、宮之浦山体の一角に露岩の散在する栗生岳に至り、歩道から外れて岩の間隙に入ると立派な祠と祭祀された手水鉢や石柱などが散在している。
宮之浦岳は栗生岳から30分もあれば登頂可能であることから、時に宮之浦を参り、永田岳を遙拝して帰路につく。
下る過程で花之江河に参拝、淀川登山口から車で栗生に戻り、栗生神社を参った後、坂迎え直会を受ける。
標高1630mの花之江河は、屋久島の東南部、安房から栗生に至る各集落からの登山道コース、花之江河登山道(「岳参り」歩道外)、尾之間「岳参り」歩道、湯泊「岳参り」歩道、栗生「岳参り」歩道が集まるジャンクションで、ここから宮之浦岳への歩道が一本に集約される。
花之江河の泥炭層湿原の中央には「岳参り」の祠が二基祭祀され、木道が通じている。
木道から祠を拝すれば、丁度黒味岳(黒御嶽)を拝むことになる。
つまり黒御嶽遙拝の祠と考えられる。
花之江河から宮之浦岳へは泥炭層湿原の東の端から花之江河を巡って北へ向かう。
雨に洗われた岩盤の道を辿り、黒味岳に発する東尾根の一角に登りきると黒味岳への分れに着く。
ここから黒味岳へは露岩にかかるロープを頼りに登るなどおよそ30分もあれば登頂できる。
黒味岳の山頂は巨岩の累積から成り、遮るものもなく屋久島全域の山々が望まれる。
特に宮之浦岳に至る屋久島主稜や永田岳は印象的。
黒味岳分れからは黒味岳の東斜面を迂回し、北に廻ってロープが架かる岩場を過ぎて黒滝に出る。
上部の岩盤へはロープを頼りに登るか右の安房川南沢の源流を伝って登り、ヤクザサの歩道を辿ると投石平(標高1700m)の広場に出る。
平たい露岩の広場で筑紫岳と黒味岳の鞍部にあたり、振り返り見る黒味岳の北斜面は杉の枯存木が美しい。
ここは霧にまかれると方位を失うので注意しよう。
投石平(なげしだいら)から北へ5分で投石岩屋に至り、急峻な筑紫岳(1830m・投石岳)の登りが始まる。
途中、花崗岩のスラブがありロープを伝って越える。
筑紫岳山頂下で西の斜面を横断するようになり、森林限界を越えて視界は開ける。
ヤクシマダケの中に萎縮した杉木立が屋久島高山の特徴を現している。
視界が開けて楽しい雲上散歩と一変し、屋久島の樹海や山並を眼下に見下ろし、変わりゆく各山々の姿に縦走の喜びを感じる。
小さな起伏の道を辿り、筑紫岳の斜面が終わると屋久島登山史上最初(昭和31年)に遭難された高倉敏雄氏の遭難碑を見る。
アセビ、シャクナゲ、ビャクシン、足元では可憐な矮小型イッスンキンカ、ウメバチソウ、ヒメコイワカガミ、ヤクシマフウロ、ヒメウマノアシガタ、ハナヤマツルリンドウなどの高山植物に感動しながら小さな沢を下り、安房岳(1847m)、翁岳(1860m)間の西斜面を辿る。
屋久島の主稜をなす筑紫岳、安房岳の山頂へ至る登路はなく、翁岳直下の最後の水場を過ぎて、栗生岳(1867m)、翁岳の鞍部に着く。
鞍部から翁岳の山頂へはヤクシマダケの中に細々とした登路が見える。
翁岳の山頂は30mの3つの岩塔からなり、右のチムニーから上部のフェイスを登れば山頂に立つことができる。
鞍部から急峻な最後の登りとなり、20分で大きな露岩が散乱する栗生岳に着く。
屋久島の三岳又は御岳の一峰で、北へ回ると左の大きく開いた岩隙に栗生集落の「一品法壽大権現」を祀る切妻の立派な祠が安置されている。
周囲に手水鉢や石柱二基が奉納され栗生集落の祈願の一端が伺われる。
途上ガマ石、カメンライダー石、食パン岩、モグラ石等楽しみながら再び急な歩道を登ると東峰を右に見て西峰の宮之浦山頂に立つ。
北西間近に九州第二の高峰永田岳(1886m)の秀峰を見る。
山頂からは遮るものもなく、屋久島の名だたる山々が眼下に望まれる。
山頂から永田岳側に下り、西側に回ると笠岩(露岩)岩隙に宮之浦集落が祀る「一品法壽大権現」の祠が安置されている。
屋久島の権現様と仰ぐ各集落が奉納した多くの供物が祭祀されている。
過去には永田岳にも登って三岳を参拝するのが本来の「岳参り」であるが、現在は宮之浦岳の山頂から永田岳を遙拝して済ませることが多い。
北方間近に見える永田岳へは今登ってきた道とは反対に、宮之浦岳北斜面を下る。
背丈程のヤクシマダケが絨毯のように広がり、左へ大きく迂回すると15分で焼野の三叉路に着く。
ここで右から登ってきた宮之浦歩道が合流する。
永田岳へは左の道を辿る。
ここから永田岳への歩道は登山者が少なく歩道は雨に洗われて荒廃しているので要注意。
吊尾根の左を下り、支流を渡って尾根の右に出ると宮之浦岳と永田岳の最低鞍部に着く。
これから頭上の永田岳南斜面の急峻な胸突き八丁の登りが始まる。
背後の宮之浦岳が登るに従い高くなっていく。
尾根の右斜面を登り終えると露岩の点在する永田岳の肩に着く。
左に下れば鹿之沢へ、山頂へは右へ50m辿り、頭上の10mの岩をロープを頼りに登れば露岩の山頂に達する。
柔和な宮之浦岳とは対照的に、九州第二の高峰に相応しく、周囲を岩壁に囲まれた男性的山容を成す。
山頂から西の展望は足下に神様のクボ、永田の渓谷へと急激に高度を落とし、永田の集落が眼下に望まれる。
北へ目を転じれば障子尾根から障子岳に続く12の岩峰(障子尾根)が競うように峻立している。
永田集落を眼下に見下ろす山頂下西側笠岩(露岩)の岩屋に「岳参り」石祠が安置してある。
栗生集落は屋久島の南西に位置し、まとまった集落として信仰も厚く、神社仏閣、民俗神も多く祭祀されている。「岳参り」は秋のみ9月1日~3日にかけて行われた。
「岳参り」を祈願対象とした山は、奥岳として宮之浦岳、永田岳、栗生岳の三岳、山中の詣所として花之江河、前岳は七五岳を登拝した。
特に栗生岳は藩政時代には芋生村(現在の栗生)の芋生御嶽と言われ、三岳の一峰として集落の名前が付加され、屋久島では山岳宗教に於いて重要な山として位置付けられてきた。
昭和の「岳参り」は基本的には村の青年を中心として三組に分かれて催行され、最も健脚な青年で組織された奥岳の三岳組、花之江河組は二泊三日、前岳である七五岳組は一泊二日で行われた。
花之江河組は前夜栗生神社で宮籠りをし、一日目は栗生歩道を登り、シシノカワの急坂を登り、露岩の展望台を越え、黒味岳を左に見ながら鈍頂な岩尾根を越えて湯泊歩道と合流し花之江河に至った。この日は花之江河の祠に参拝し、花之江河の小屋(昭和36年雪で倒壊)で宿泊した。
翌2日目、花之江河組は早朝小屋を出発、栗生集落が祭祀する栗生岳を詣で、さらに権現様、御嶽である宮之浦岳を参詣し、相対する永田岳を遙拝した。
条件が良ければ永田岳まで足を延ばすこともあった。
その後氷川を渡渉し元来た道を下った。
健脚な青年で組織された集落の代表である三岳組は、前日宮籠りをし、翌早朝集落を出発して同じく栗生歩道を駆け上がる。
途中で下山する花之江河組と出会うこともあったが、氷川で禊を行い栗生岳、宮之浦岳、永田岳と三岳を踏破し、それぞれ参拝を終えて登りと同じルートで下山。
途中で花之江河組と合流して山中で宿泊。花之江河組、三岳組は翌日の昼頃オトシの川に下山した。
一方、前岳である七五岳組は「岳参り」前夜栗生神社に参詣し、翌日七五岳の西尾根を登って山頂の祠に参り、オトシの川で花之江河組、三岳組と合流し、禊を行った後集落へ全員まとまって下山した。
栗生神社では神主、村民の坂迎えを受け、神社では山で採取したシャクナゲの枝を神社に奉納し、集落を代表して「岳参り」を挙行した青年達の慰労会が行われた。
栗生集落の「岳参り」はその後諸般の事情で一時途絶えたが、最近になって再び復活している。
栗生岳に至る「岳参り」歩道は、時代と共に変遷し、昭和8年の旧制第五高等学校山岳部の概念図では、当時栗生から栗生歩道を登り、大洞杉下の山林官舎(現在はない)から小楊子川の下中島を渡渉し、小楊子川の左俣の右岸を辿り、上中島から中島の頭に出て小楊子山の西側を巡り、栗生岳に直接登る歩道があった。
栗生から栗生岳に直接登る最も近いルートで、昭和初期にはこの「岳参り」歩道を利用したようである。
このコースの小楊子山付近には現在も歩道跡やロープが断片的に残されているが、栗生岳付近ではヤクシマダケが密生して歩道は見当たらない。
「岳参り」を含む諸行事は過去青年が中心になって行われてきた。
最近村を挙げての行事や「岳参り」は途絶えていたが、世界自然遺産登録や観光化に伴い近年また復活し、形式的に行われるようになった。
現在「岳参り」は基本的には秋9月1日のみで、日帰りで集落の代表者4〜5人で行われ、高齢の村民によりかろうじて受け継がれている。
そのため奥岳への「岳参り」は、負荷のかからないよう、淀川登山口から栗生岳、花之江河の参詣となっている。
催行日は参加者の都合により変更されることもある。
集落の「岳参り」を行う代表者は、当日早朝栗生の浜でお潮井取りを行い、栗生神社に参拝した後、車で屋久島公園安房線、町道淀川線を登り、淀川登山口から尾之間歩道上部を登って栗生岳頂上下の岩の重なる間隙に祭祀されている立派な祠に、集落から持参したお供え物を奉納し、村の安寧を祈って神式で祈願する。
「岳参り」を終えると、過去には村を挙げて盛大に行われていたが、現在では神社に「岳参り」の報告をした後、関係者に弁当が配布され簡単な直会をもって終了する。
山水に見られる栗生の「岳参り」
栗生嶽 栗生村に屬す、村落より丑寅の方、七里許にあり、屋久三岳の一なり、其嶽の絶頂に、益救神社あり、一品法壽權現を祭れり、勸請の年月詳かならず、毎年秋八九月の間、土人參詣する者多し、婦女十四以上の者は禁制なり、絶頂に一平石あり、其高さ二尺、横三尺、長さ一間ばかり、其石上一穴の周廻一尺許、深さ二三寸なるあり、水泉常に湧出して溢れ、古より四季共に涸ることなし、其水中に蚯蚓二ツ常に居れり、土俗神の使属なりといふ、嶽神に參詣する人、其水と蚯蚓とを去り置に其歸る比をひ、素(モト)の如く水盈滿して、蚯蚓亦居れるとぞ、又絶頂より山下十四五町の所に一川あり、水源、嶽の東西より出、南面へ流る、即ち栗生川の水源なり、川幅一二間、深さ一尺餘、嶽神に參詣する者は不浄を清むるとて、必ず此河水に浴するとかや、此岳、宮浦・長田の二岳より、形勢少し尖小なり、(注;蚯蚓=ミミズ)
・栗生岳山頂下祠:山川石製手水鉢一鉢、鹿児島石製手水鉢二鉢、入母屋型鹿児島石製祠(細工は屋久島の祠中最も立派)、筒型祠、鳥居(崩壊)、碑文はいずれも風化崩壊して判読不可
・花之江河祠:花之江河中央部に二基あり。
一基は寄棟型山川石製祠、宮之浦所中、疱瘡退散、老若男女、息災延命祈所、天保十五(1844年)甲辰年九月吉日宮之浦二才中
二基目は入母屋型山川石製祠、奉勧請一品法壽大権現 天正文十一戌子年(1583年)九月吉日 辰主中間村平治
明暦の頃に作成されたと言われる「屋久島大絵図」では宮之浦御嶽、長田御嶽、芋生御嶽(現栗生岳)、黒御嶽(現黒味岳)と表記され、黒味岳は本来黒御嶽として崇められていたことを示している。
しかし、御嶽として崇拝され、祠が祀られている山は現宮之浦岳、永田岳、栗生岳の三岳で、黒味岳の山頂付近には祭祀された痕跡が見当たらない。
また文献上各集落の「岳参り」の記録にも黒味岳が「岳参り」対象の山として崇拝された記録も見当たらない。
御嶽として崇拝されていたとすれば当然「一品法壽大権現」が祭祀されていてもおかしくないが、山頂付近の露岩をくまなく捜索しても祭祀の痕跡はなかった。
黒味岳は花之江河から遙拝する山ではないかと想定される。
花之江河には二基の祠があり、一基は黒味岳を背景に祭祀されていることから礼拝すると黒味岳を丁度拝むことになり、黒味岳は山頂に登らず、花之江河から遙拝する山ではないかと考えられる。
※黒味岳は本来黒御嶽(くろみたけ)で大正10年発行の大日本帝国陸地測量部地図(1/50000)から黒味岳に転嫁している。おそらく聞き取り調査で間違えたものと思われる。
■町立屋久島町歴史民俗資料館
宮之浦川沿いの畔にあります。
屋久島の歴史や民俗をテーマに、出土した縄文式土器や使われていた農具、漁船などの貴重な資料がたくさん展示されています。
屋久島町宮之浦1593
休館日:月曜日
宮之浦大橋から約3分(約300m)
https://www.town.yakushima.kagoshima.jp/cust-facility/18580/
■栗生岳の「岳参り」歩道
下の小楊子林道登山口(標高450m)
↓3時間40分 ↑3時間15分
大洞杉
↓20分 ↑15分
栗生歩道入口
↓3間45分 ↑3時間
露岩の展望台
↓30分 ↑25分
花之江河
■花之江河から宮之浦、永田岳への縦走路
花之江河
↓20分 ↑15分
黒味岳分れ
↓30分 ↑30分
投石平
↓1時間 ↑50分
最後の水場
↓1時間 ↑45分
宮之浦岳
↓25分 ↑30分
焼野三叉路
↓1時間10分 ↑1時間
永田岳
■栗生岳の「岳参り」歩道
栗生神社―栗生歩道入口(徒歩2時間)
レンタカー
■花之江河から宮之浦、永田岳への縦走路
尾之間歩道、湯泊歩道、栗生歩道から花之江河
【「屋久島 岳参り」共通】
・「古事記」「日本書紀」総覧 別冊歴史続本・辞典シリーズ(第二刷)新人物往来社(平成2年4月17日発行)
・「三國名勝圖會」(仏寺・法華宗の權輿)天保14年(1843年)薩摩藩主第27代藩主島津斎興の命で五代秀堯、橋口兼柄等により編纂された。内屋久島関係は巻ノ五十に表されている。
・屋久島大會圖
・益救神社「益救神社由緒記」
・村田煕「種子・屋久・トカラ列島の山岳宗教」(山岳宗教史研究書⑬)
・石飛一吉「屋久島における山岳信仰県の研究」
・山本秀雄「岳参り」(上屋久町楠川を中心として)
・(楠川区長牧実寛メモ)「楠川の岳参り」
・「上屋久町誌」(1984)上屋久町
・屋久島町郷土誌(第一巻〜第四巻・1993〜2007)屋久町
・ウィキペディア検索
仏教 全日本仏教会、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神道 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法華宗フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山岳信仰 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・楠川天満宮「楠川天満宮の由緒」
・久本寺渡辺智弘御住職「渡部智弘論文」
・「屋久島『岳参り』の研究」「国際言語文化研究」第四号(1998)鹿児島純真女子大学
・太田五雄「屋久島の山岳」(1993、再販1997,再販2006)八重岳書房、南方新社
・太田五雄、三橋和己共著「屋久島の神と仏—神社・仏寺・山岳宗教・民俗神」(2020)自費出版
・太田五雄「屋久島総覧—未来への伝言」(2021)自費出版
・太田五雄論文「屋久島の山岳宗教・法華宗「岳参り」」(2023)自費出版
【「屋久島 岳参り」共通】
《執筆者》
太田五雄(日本山岳会 福岡支部)
《協力》
益救神社(宮之浦) 宮司 故大牟田信文 禰宜 大牟田祐
久本寺(宮之浦、法華宗・本門流) 御住職 渡邉智弘 僧侶 渡邉智旭
日本山岳会MCC
(敬称略)