single-kodo120_detail

116 霧島山 高千穂峰

霧島山 高千穂峰

古道を歩く

高千穂峰の参道は霧島東神社を出発点とします。
霧島東神社の鳥居よりも手前、最後のカーブを曲がる突き当りに高千穂峰登山口の道標が立ち、10台ほどの駐車スペースがあります。
以前は神社本殿左手からの道がありましたが、フェンスでふさがれており、一旦神社から出てわずかに下って左手に入ることになります。
林の中のはっきりした登山道は、最初はゆるやかですが、だんだんと急勾配になります。

斜面が急になっても登山道はジグザグにならず、一直線に直登して山頂を目指します。
むかしの道らしく、段差の大きい箇所もあります。
標高1200mあたりまで木々の中を進み展望はありません。
二子石に近くなり、巨岩を見上げるころには背丈くらいの高さの木ばかりとなり、ミヤマキリシマの花期には目を楽しませてくれるようになります。
傾斜はゆるくなり、柱2本としめ縄のみの鳥居をくぐれば、ひと登りで砂地の広々とした頂上に到着します。

山頂には奥宮があります。
岩の上には天逆鉾が立ち、周りはロープが張られた結界となっています。
ニニギノミコトが降臨したときに峰に突き立てたとされる青銅製の天逆鉾です。
コンクリート製の避難小屋もあります。
展望がよく、韓国岳の方面や宮崎方向の盆地、桜島や錦江湾もよく見えます。
下りは西方向へ向かいます。
火山特有の砂と岩ですべる急坂です。
下りきった平地、通称背門丘(せとお)に石祠と鳥居があり、霧島神宮元宮となっています。
ゆるやかに登るとすぐに、左手に噴火口がぱっくりと口を広げているのが見えます。

このあたりのミヤマキリシマは、背が低く地面にへばりつくように生えています。
右側の斜面も下までよく見えて、馬の背とよばれる狭い道は、いつも風が強く、慎重に歩きます。
火口壁に沿って歩くと途中から赤い火山岩でゴツゴツした岩場となります。
広い斜面の中でなるべく黄色のペンキを目安に道を選び、細かい赤砂よりもなるべくしっかりした岩に足を乗せて下ります。
赤味がかっているのは、御鉢から噴出した岩石が風化によって酸化したためです。
そのあとは林に入り、岩がゴロゴロした道となり、標高1060m付近で道が二手にわかれ、北のコースをいくと、10分程度で「霧島神社古宮址」に出ます。
以前、霧島神社があったところで、宮址の前に立つと背景には高千穂峰が美しく鎮座し、高千穂峰がご神体であることを改めて感じます。
5分ほどで高千穂河原に到着。高千穂河原ビジターセンターやバス停、休憩所、売店、トイレ、大きな駐車場があります。
さらにここから、霧島神宮までつづく「郷(おたけ)道」をたどっていきます。
この道も神域で、歩くには霧島神社の許可が必要です。
左右に分かれたバス道路の分岐そばに立つ、「霧島神宮の私有地」という看板わきから林の中へ入ります。

下草が少ない林の中に、しっかりした道が付いていて、道標はないものの、わかりやすいルートです。
途中のわかりにくい箇所は、木の幹に巻かれたピンク色のテープを目印に進みます。
何度か車道間際を通ります。
国土地理院の地形図にある川の位置が違っている個所があります。
霧島神宮の裏手の山神社脇に出て、道なりに本殿へと下ります。

この古道を歩くにあたって

まず、霧島連山は活火山であり、火山情報を必ず確認する。
高千穂峰に登るだけなら、高千穂河原から4時間で往復できる。
霧島東神社からの道は歩きにくい箇所はなく道も道標もしっかりしているが、頂上まで3時間半はかかる。
また、5月ごろから夏には蛭(ヒル)が多い。
噴火口の縁を歩くときは、風や雷に注意。
トイレは、霧島東神社と高千穂河原にあり、高千穂峰頂上には携帯トイレ用のブースもある。
高千穂河原から霧島神宮までのおたけ道は、霧島神宮の私有地を通っているため、霧島神宮の許可が必要。

古道を知る

霧島山

霧島山は、単一の山ではなく、大小20もの火山からなる山群全体を指す。
地域によっては、えびの市地域では韓国岳(1700m)を、高原町地域では高千穂峰(1574m)を指して言うことが多い。
主峰は韓国岳であるが、宮崎県南部からのコニーデ型の美しい山容を眺望できる東の主峰、高千穂峰が信仰の中心となった。
現在も新燃岳と御鉢では活発な火山活動が続いており、一部地域では立入が制限されている。数十万年にわたる火山活動によって形成されたこの地には、『古事記』や『日本書紀』などに数々の噴火記録が残されており、火山の恩恵と脅威を受けながらも紡がれてきた人々の営み、信仰や文化が残っている。

霧島信仰の歴史

霧島信仰は、噴火を繰り返して周囲に恵みと畏怖とを起こさせる霧島山が、神の宿る山、農業守護の山、そして水分(みくまり)の山であったことから、山麓の人々の信仰の対象となったことに始まる。人々は、山を望む高台に遥拝所や華立(はなたて)、霧島塚、勧請丘を営み、「霧島様」「オタケ・オタコサア(御嶽様)」「オテンジョサア(御天道様)」として山を拝んできた。大昔から霧島山を取り囲んだ地域で山が崇められ、地域ごとに祭場が設けられ、やがて神社となっていったと考えられている。
霧島神が文献にあらわれるのは『続日本後紀』の承和4年(837年)であり、このとき官社として位を授かり、天安2年(858年)にはさらに昇叙されている。これは『続日本後紀』に記されている延暦7年(788年)の噴火によるものと考えられる。
霧島神宮の社伝によると、その開祖は慶胤(ぎょういん、けいいん)上人で、欽明天皇の時代(510〜570年)に矛峰(現高千穂峰)と火常峰(現御鉢)との中間にある背門丘(せとお、せたお)に社殿が作られた。しかし、噴火によって社殿が焼失した後、天暦年間(10世紀中ごろ)に天台宗の性空上人によって瀬多尾越(高千穂河原周辺)に再興された。
性空上人は、ここへの参詣が困難を伴うため、霧島山の東西南北に別当社を建て、さらに五方に霧島神社と梵刹を建て、中央権現社を含めて「霧島六所権現」と称した。霧島山は修験者にとって格好の道場となり、霧島神宮(当時は西御在所霧島六所権現社)周辺には12の僧坊があったとされるが、修験者の遺跡は少ないのが現状である。
性空上人によって作られた社殿および別当寺は、文暦元年(1234年)の噴火によって焼失し、仮宮のままに置かれた。その後、文明15年(1483年)に島津忠昌によってようやく再建されたものの、再び焼失した。現在に至る社殿は、正徳5年(1715年)に薩摩藩主島津吉貴によって寄進され造営されたものである。なお、神宮の別当寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となった。
霧島信仰は、南北朝期ごろから勢力を拡大した島津氏によって武神として氏神として信仰され、日向各地の人びとに広く伝えられ、各地に遙拝所や霧島塚が設置された。江戸時代には代参講「霧島講」も開かれている。
天孫降臨の古事から稲の山として信仰を集め、特に島津氏とのつながりが強かった霧島神宮が崇拝を集めて発展した。

深掘りスポット

霧島六所権現

現在は、夷守神社が霧島岑神社に合祀されて5か所となっている。
・西御在所霧島六所権現社(現:霧島神宮)
・雛守六所権現社(雛守神社、霧島岑神社に合祀)
・霧島山中央六所権現社(現:霧島岑神社)
・霧島東御在所両所権現社(現:霧島東神社)
・狭野大権現社(現:狭野神社)
・東霧島権現社(現:東霧島神社)

霧島神宮

欽明天皇の時代(510-570年)、慶胤上人を開祖とする。高千穂峰と御鉢(噴火口)との間にある平地、背門丘にあったが、噴火により炎上したため、天暦年間の950年に性空上人により高千穂河原で再興された。その後、文暦元年(1234年)の大噴火により災禍に遭い、藩主である島津忠昌の命を受け、文明16年(1484年)に再興され、現在の社殿は第21代当主島津吉貴により正徳5年(1715年)に建てられた。瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を主祭神とし、木花咲耶姫尊、彦火火出見尊、豊玉姫尊、鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)、玉依姫尊、神倭磐余彦尊を相殿神とする。

霧島岑神社

瓊瓊杵尊、木花咲耶姫尊、彦火火出見尊、豊玉姫尊、鸕鶿草葺不合尊、玉依姫尊を祭神とする。もとは背門丘にあり噴火のたびに社殿を焼失、再建を繰り返し、そののちに現在の場所にうつされたため、瀬多尾権現とも称される。また、中央にあったため、霧島六所権現の中で中央権現ともいわれる。

霧島東神社

高千穂峰の東方の中腹にあり、霧島四十八池のうち最大の火口湖である御池を見下ろす場所に建つ。第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられ、延長6年(928年)に造営があり、康保3年(966年)に改造された。伊弉諾尊、伊邪那美尊の二柱を祀り、さらに天照大神、忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、神武天皇の六座がある。文明の噴火では麓村に一時移転した。文明18年(1486年)、島津忠昌により西御在所(霧島神宮)に対して東御在所として再興したという。高千穂峰山頂を飛び地境内とし、山頂の天逆鉾はこの神社の社宝として祀られている。

狭野(さの)神社

高千穂山麓の高原(たかはる)町狭野にある霧島六所権現の一つ。第五代孝昭天皇の御代に神武天皇生誕地に創建されたのが始まりと伝わる。神倭伊波礼毘古命ほか霧島六神を祀る。高千穂峰山上の宮社を山下に移して霧島山と号を改めるが、文暦元年(1234年)の噴火で東霧島神社の地へ移り、天文12年(1542年)には島津貴久が高原麓村へ移し、さらに慶長15年(1610年)に狭野原へ。享保の噴火では小林細野村へ。新燃岳・高千穂峰に近いため、最も噴火の影響を受けている。直線の参道では日本一長いといわれ、杉並木となっている。

東霧島(つまきりしま)神社

高千穂峰の東方、長尾山の麓にある霧島六所神社の一つ。祭神は主神伊弉諾命で、相殿神は霧島六神、伊邪那美命、神倭伊波礼毘古命である。参道を入ると左手の木々の間に「割裂神石」が見える。次いで、鬼が一夜で積んだという鬼磐階段を登る。

霧島四十八湖

霧島には多くの湖や池が点在しており、古くから「霧島四十八湖」あるいは「四十八池」と呼ばれている。
四十八というのは密教の四十八願荘厳浄土で、極楽浄土のこと。韓国岳南西の火口湖、大浪池や高千穂峰を湖面に映す御池、えびの高原の六観音御池など、伝説や由来を残した聖なる池が多数存在する。

ミニ知識

天逆鉾(あまのさかほこ)と坂本龍馬

高千穂峰の頂上にあり、銅製で地上に出ている140cmの上端に人面二相が鋳出されている。
建立者は諸説あるが、霧島山岳信仰の中心として崇められ、武神のご神体として崇敬を受け、山麓の各神社では祭りが行われている。
江戸時代の文献に掲載され、瓊瓊杵尊が降臨の際に使われた鉾を、高千穂峰の頂上に逆さに立てたものであるとの伝承がある。
明治維新でおなじみの坂本龍馬も妻おりょうとともに新婚旅行の途中に高千穂峰を訪れて登っている。
その際、天の逆鉾を抜いたというエピソードが、姉に宛てた手紙に記されている。
また、書簡の中で御鉢のことを「此穴ハ火山のあとなり三軒斗アリすり鉢の如く、下を見におそろしきよふなり」と記している。
ちなみに、この天逆鉾は火山の噴火で折れ、現在残っているものはレプリカである。

まつわる話

霧島山の山中奥深くには神仙郷があり、中国風の異様な姿をした老翁や絶麗な女性に出会ったり、突然歌舞音曲がきこえ、優雅に舞っている仙女の姿を見たり、鶏や犬の鳴く声がしたり、橘の実の熟した一軒の家にたどり着いたが、翌日探しても見つけられなかったなどの話が『三国名勝図会』にある。

ルート

霧島東神社
210分↓ 4.5km ↑ 150分
高千穂峰
90分↓ 2.3km ↑110分
高千穂河原
95分↓ 4km ↑130分
霧島神宮

アクセス

霧島東神社へは、公共交通機関はなく、車で霧島神宮から国道223号線を東へ約25分、JR日豊本線の霧島神宮駅から約35分、JR吉都線の高原駅から国道223号線で南西へ約15分。登山口に10台、鳥居の前に10台駐車スペースあり。
霧島神宮へは、JR日豊本線の霧島神宮駅からバスで約12分。
高千穂河原へは、霧島連山周遊バスを利用して、丸尾経由、日豊本線国分駅からバスあり。

参考資料

小林市史編纂委員会「小林市史 第三巻」小林市、2000年4月
西海賢二ら編「日本の霊山読み解き事典」柏書房、2014年8月15日
野口逸三郎・柳宏吉編「宮崎の文化遺産(宮崎の自然と文化5)」宮崎日日新聞社、1979年8月
西日本新聞社編「九州自然歩道 山びこの径(下)」西日本新聞社、1977年4月
第五回九州山岳霊場遺跡研究会「霧島連山の山岳霊場遺跡 資料集」2015年8月30日
森田清美「神々のやどる霧島山(みやざき文庫125)」鉱脈社、2017年11月25日

協力・担当者

《担当》
日本山岳会 マウンテンカルチャークラブ
松本博子

Page Topへ