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114 阿蘇山古道

修験者の道:馬ノ背ルート、黒川ルート

古来、火山活動を続ける阿蘇山は畏怖の対象であった。
そして世のいろいろな異変は、阿蘇火山の噴火や神霊池(火口湖)の涸減現象とも結びつけられ、信仰や祈祷の対象として崇められてきた。自然崇拝、火山信仰が神の存在と結びつき、その社を形作ることになる。
その動向を時の中央政庁に報告することによって地歩を固め、次第に勢力を蓄えていったのが阿蘇氏である。
阿蘇氏創建の阿蘇神社に山岳仏教が結びつき、比叡山の慈恵大師良源の弟子・最栄が阿蘇氏の許しを得て火口の西の巌殿に庵(山上本堂)を開いて後、多くの修行僧が集まるようになった。
中世にはその西方いま古坊中と呼ばれる地に、最大36坊52庵の宿坊があったという。
これら一帯の、山上本堂、坊や庵を西巌殿寺(さいがんてんじ)と呼んだ。
多くの修行僧は阿蘇神社を発し、現在の藤谷神社を経て馬ノ背と呼ばれる砂礫と岩稜帯(馬ノ背ルート)を登り、山上本堂を目指したと思われる。
戦国時代末期には、大友・島津両氏の対立と侵攻を受けてこれらの宿坊は焼失散逸したが、その後、加藤清正の庇護のもと、麓西巌殿寺が建立されたこともあって再興し、修験者の道もよりなだらかな西側の原野の中のルート(黒川ルート)が多用されるようになった。
その後、明治新政府の廃仏毀釈、修験道禁止令により宗徒、行者、山伏等も再び身分喪失、散逸を余儀なくされた。
廃藩置県により古坊中も寺領返還、ほとんどが廃寺となり、旧学頭坊を西巌殿寺(奥の院)として残し、存続することになった。

古道を歩く

馬ノ背ルート:阿蘇神社から藤谷神社、馬ノ背を経て山上神社・西巌殿寺奥の院へ

阿蘇神社は現在市街地の中にある。
その3㎞余り南西の山裾にある藤谷神社から、牧場へ至る舗装された牧道を約1.5㎞南進し、牧柵の中に入る。
幅2mほどの牧道はさらに1㎞余り続き、牧野の中を登っている。
沿道にはカヤ、ハギ、ヨモギ、クララなどの自然の草木が茂り、左(東)に高岳・楢尾岳の岩稜、右(西)に往生岳、杵島岳のたおやかな山並みを見ながら登る。
初夏にはカッコウやホトトギスの鳴き声も心地よく、振り返れば北外輪山やくじゅうの山並み、眼下には牛馬が草を食む牧野が一望できる。
牧道が途切れると左右両側の沢は次第に深くなっていく。
カヤやミヤマキリシマなどの低木の間の径もほとんど判然とせず、辛うじて牛の踏み跡と見紛う径を、尾根筋を頼りに高度を上げていく。
火山ガスのため次第に草丈も低く乏しくなり、やがて砂礫地になると径らしい径は消える。

乏しい草と砂礫の間にソーラー発電器付きの地震計、その少し上には火山灰計測器が設置されている。
砂礫から岩稜に変わり、急登を登り詰めるとなだらかな尾根に達し、右手西方に杵島岳、往生岳の優美な姿を見て左折すると中岳の噴煙が迫り、風向きによっては火山ガスの臭いがきつい。
左手の気象観測用の小屋の傍を抜けると、非常用に最近整地された広い道に出る。

かつてここはマウントカー道路として、阿蘇中岳の東西の二つのロープウエイ駅を結んでいたものである。
右折して緩やかに下る。沢に架かるコンクリートの橋は頑丈そうだが整備はされないまま。
中岳の火口縁を左に見て回り込み、再びイタドリ、ヤシャブシ等の低木が見えだすとやがて山上広場に着く。
最近こぢんまりと新装された西巌殿寺奥の院、山上神社が背後に佇む。

黒川ルート:牧野の中ののびやかな散策路(下り)

山上広場には広い駐車場と、火口縁とを結ぶバスターミナル駅ほか交番、測候所等の施設がある。
今は観光用道路がここまで整備されているが、測候所脇の歩道を1㎞ほど西方に下るとかつて宿坊があった古坊中である。
現在は単なる草原で、数多くの宿坊があった名残はどこにもない。
各所にあった遺物は散逸し、いくつかの石塔類が辛うじて車道から黒川ルートへの分岐点にまとめて置かれている。
唯一「逆修碑」のみが現地の道路近くに、ミヤマキリシマ等の低木に覆われてひっそり隠れている。

黒川ルートは遺物がおかれた分岐点からは、北にコンクリート舗装の牧道が続く。
右に中岳の噴煙、左に杵島岳・往生岳を眺めながら、四季折々の花を楽しみつつ下る散策路である。

3㎞余り下ると牧野のゲートを抜けて車道に出る。
大曲りと呼ばれる観光道路の屈曲点のすぐ上である。かつての古道はここを真っすぐ通っていたものと思われる。

車道を1㎞ほど下った先の右手には、夏目漱石の文学碑(遭難碑)がある。
その500mほど先から右手の杉林の中の歩道に入り約1㎞、再び車道に出るとやがて(麓)西巌殿寺である。

馬ノ背ルートⅡ:黒川ルートからの短縮ルート

(麓)西巌殿寺から黒川ルートを登り、観光道路の大曲り上から牧場に入る。
左に高岳、楢尾岳の岩山、右前方にたおやかな往生岳、杵島岳を見ながら、40分ほど牧野の中のコンクリート道路(黒川ルート)を登ると、やや平坦になる地点、土砂に埋まった沢の砂防ダム上の橋に差し掛かる。
そのすぐ手前、左側に「火山ガス規制中立入禁止」の古い標柱がある。
コンクリート道路から離れてここから左に入る。カヤの茂る草地をしばらく登るほどに、草丈は低くなり、馬の背と呼ばれる小さな尾根筋を行くようになる。

次第に砂礫の登りとなり、正面には火口に続く岩稜と噴煙が迫り、そして風向きによっては火山ガスの臭いがきつい。
40分ほど登るとその尾根筋を塞ぐように直径5m超の大きな岩、火山弾が鎮座する。
これを過ぎてさらに20分ほど登ると、整地されたマウントカー道路に出る。
これを右折して30分ほどで山上広場、駐車場に着く。

この古道を歩くにあたって

馬ノ背ルートは火山特有の砂礫と岩稜の中を歩く。火山ガスのため植生は乏しい。
一方、黒川ルートは牧野の中のなだらかな散策路といった風情で、雄大な景観と季節の草花が楽しめ、対照的である。
現在は山上まで道路が入り、観光化されて古道の趣はない。
馬ノ背ルートは火山の第2次規制が出ると火口に近いため(1㎞以内)、立ち入り禁止となる。1次規制時も風向き次第では火山ガスがきつい時もあり、呼吸器系の持病がある人は要注意である。また、立木等もなく古道の痕跡、目標となる物もないため、真夏の日射や真冬は寒風に晒されるし、濃霧など悪天候時には注意を要する。
さらにまたいずれのルートも一部牧野の中を通っており、地元の牧野組合は家畜伝染病に対する警戒から牧場への立ち入りを禁止している。また、上部マウントカー道路も立ち入り規制されているため、進入路として、地形図に示す土塁に沿ってトラバースするルートをお勧めする。

古道を知る

僧最栄が阿蘇氏の許しを得て火口の西の巌殿に庵(山上本堂)を開いてから、次第に修行僧が集まるようになった。
確かな資料はないが、当初は阿蘇神社を発し藤谷神社を経て、馬ノ背を通り山上の庵を目指したと思われる。
当時の修行僧はあえて修行のため、噴煙迫る砂礫岩稜の馬ノ背ルートを登ったのかもしれない。
その後、巌殿(山上本堂)の西方、古坊中と呼ばれる地に宿坊が拡大し、最大36坊52庵の宿坊が営まれた頃には修験者、参拝者も次第になだらかな黒川ルートを多用するようになった。
戦国時代後期、島津勢の侵入によりこれらの庵、宿坊は焼失壊滅してしまったが、加藤清正の庇護のもと、今のJR阿蘇駅近くの黒川村に麓西巌殿寺が建立され、山上神社、西巌殿寺奥の院が再建されて、再び古坊中も復活し、修験者や一般の参拝者もこのルート(黒川ルート)を多用するようになった。
その後、明治新政府の廃仏毀釈、修験道禁止令により宗徒、行者、山伏等も再び身分喪失、散逸を余儀なくされた。
廃藩置県により古坊中も寺領返還、ほとんどが廃寺となり、旧学頭坊を西巌殿寺(奥の院)として残し存続するのみとなり、古坊中は再び消滅した。
その後の観光開発などもあり、今はただ原野が広がるだけの平地であり、「古坊中」の形跡は窺えない。
現在黒川ルートは舗装された牧野の中の作業道あるいはハイキングロードとしても利用されている。

深掘りスポット

阿蘇氏と阿蘇神社

太古、人々は火を噴く阿蘇を神の棲む山と崇め、その爆発を神の怒りと畏れ、朝な夕なに祈りを捧げた。
また世の様々な異変が神霊池の涸減現象と結び付けられ、自然崇拝、火山信仰が神の存在と結びつき、その社(阿蘇社)を形作ることになる。
その動向を時の中央政庁に報告することによって次第に地歩を固め、力を蓄えていったのが阿蘇氏である。
阿蘇氏は大和朝廷が国家を統一するまでは阿蘇地方の首長で、統一後の氏姓制度の時代には「古事記」にみえる阿蘇君として国造となり、大化改新後律令制度が布かれると郡司になり、治安維持や戦役を担うようになって阿蘇地方を支配し、武士団の棟梁として成長を遂げている。
奈良、平安時代を経て天皇家や中央貴族との結びつきを深め、本拠の阿蘇神社のある阿蘇谷から南郷谷(南郷の館)、更に永元元年(1207年)には現在の山都町浜町に進出し浜の館と呼ばれる拠点を築いた。
南北朝期には武将として歴史の表舞台にも登場している。
最盛期の阿蘇惟豊の時代には近世の35万石に匹敵する領地を有し、従二位に叙せられた。
このような繁栄も盛者必衰の理どおり、天正13年(1585年)の島津氏の侵攻により浜の館、古坊中も消滅、衰退し、社家や家臣たちは四散して武将としての阿蘇家は終焉した。
慶長6年(1601年)、加藤清正の庇護のもと、大宮司として復興が認められ、その後の藩主細川家の保護もあって今日に至っている。
このように国家形成前から連綿と続いている家柄は少なく、天皇家、出雲大社の千家、阿蘇家ぐらいである。(矢部町史より)
阿蘇神社の主神は神武天皇の孫、健磐龍命(たけいわたつのみこと)といわれ、地域の開発の過程で、12の祭神が祀られるようになる。
孝霊天皇9年、健磐龍命の子、初代阿蘇国造に任じられた速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が両親を祀ったのが始まりで、大宮司は速瓶玉命の子孫と称される初代惟人君といわれ、現在の阿蘇惟邑(あそこれくに)氏で歴史は二千年以上ともいわれている。
肥後国一宮とされ崇敬を受け、国内でも屈指の古式ゆかしい神社である。
豊臣秀吉の九州征伐の際に広大な社領を没収されたが、その後、領主となった加藤、細川氏によって社領の寄進、社殿の造修が行われた。
近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に国幣中社に列格し、明治23年(1890年)に官幣中社、大正3年(1914年)に官幣大社に昇格した。
平成28年(2016年)の熊本地震では国の重要文化財である楼門(日本三大楼門の一つ)が倒壊したが、令和5年(2023年)に復興再建された。

稀な配置の横参道

参道といえば全国的に縦に長く、鳥居から奥まったところに拝殿があるのが通例であるが、阿蘇神社では稀な配置となっている。それは阿蘇五岳の一つ、中岳(火口)と阿蘇神社、阿蘇家の祖先神・速瓶玉命を祀る国造神社は「聖なるライン」として、これら3点を一本の線上に結びつけることを意図して参道を設置したともいわれている。そのために神社の社が参道に沿って配置され、参拝者から見やすく行きやすくなっている。

西巌殿寺

阿蘇山山岳信仰の拠点として、また天台宗比叡山延暦寺の末寺として九州でも最高位の寺格を持ち、約1300年の歴史を持つ寺院である。
元々阿蘇山上の古坊中にあって、日本古来の神道の健磐龍命と十一面観音が神仏習合し、仏教も繫栄した。
正式には阿蘇山西巌殿寺と呼ばれるが、神亀3年(726年)インドの昆舎衛国から来た最栄読師によって開かれ、阿蘇山の火口の西の洞窟に自ら刻んだ十一面観音像を安置し、寺を開いたことに始まるともいわれる。
《西巌殿寺の由来》
伝説によると、当時、阿蘇信仰の中心は「阿蘇のお池」と呼ばれる噴火口の湯溜まりであったが、そもそも日本では山は死者の世界であり同時に豊かな実りを生む水の源として信仰の対象とされていた。
その計り知れない神秘に人々は畏敬の念を抱き崇拝した。
その一方では、山へ入り、修行を積み、神霊の意志を伝えようとする山岳修行者も出現し、火を噴く山、阿蘇山も当時の朝廷から関心を寄せられていた。
そこで神の棲む阿蘇の湯溜まりのもとで修行せんと天竺から来た最栄読師という僧侶が阿蘇山にやって来て、噴火口目指して山を登り修行に励んだ。ところが火口から中を覗くと目を疑うような地獄の世界が広がっていたという。鬼に責められ、お互いを殴り合いその肉を食らいつく亡者達・・・。その光景に読師は心を痛め、悲しい気持ちになり山を下りようとした。
その時、目の前に九つの頭を持つ大きな龍が天空をついて現れ「火口の中を見なさい」と読師に告げた。その龍とは阿蘇神社の祭神、健磐龍命の変身した姿であった。
阿蘇明神の言を受け、読師が恐る恐る火口の中を覗き込むと、そこには先ほどの亡者達をかばい、鬼に打たれ、争う亡者達の仲裁に入る慈愛に満ちた十一面観音菩薩の姿があったという。あまりに尊いその姿に心打たれた読師は、登山途中見つけた霊木に心を込めて十一面観音菩薩のお姿を一心不乱に彫り、火口の西の洞窟(現西巌殿寺奥之院)に安置してご本尊として祀り、毎日法華経を読んで修行に励んだという。
人々はそこを西の巌殿の寺と呼び崇めた。これが西巌殿寺の由来である。

古坊中遺跡(磨崖石碑・逆修碑)

隆盛と衰退の歴史を辿った古坊中であるが、今の古坊中にはその隆盛を示す遺構はほとんど残されていない。
昭和42年(1967年)に阿蘇町町営スキー場が杵島岳の南斜面に築かれた際、その建設と整備によって古坊中の遺物は撤去され、道路脇、黒川ルートの下り口にいくつかの石塔がわずかに残されるだけである。

その中で、古坊中の一角、小高い丘に唯一現存する当時の古坊中の存在を物語る石碑(逆修碑:生前供養碑、弘治2年室町時代の作)を確認することができた。
今はミヤマキリシマ等の小灌木に覆われ、探すのに苦労するが、この存在を県教育委員会の方から聞き、我々古道調査PTで捜索する機会を設け、発見できた。往時を偲ぶことができる、唯一の現地に残る貴重な遺物であるといえる。
古坊中遺跡一帯は、火山活動と山岳宗教の結びつきを今に伝える場所として阿蘇ユネスコジオパークの古坊中ジオサイトになっている。
さらに世界文化遺産認定を目指して阿蘇山を取り巻く各市町村関係者が取り組んでいる。

浜町・浜の館

中世のころ、九州中央部・肥後の一地域を治めていた阿蘇氏の拠点があったといわれ、浜の館と呼ばれていた。
阿蘇家伝書によると、承元元年(1207年)、阿蘇惟次が南郷から矢部(現山都町浜町)に拠点を移し、居館を「浜の館」と呼んだ。ここから浜町の地名が生まれたといわれる。
貞応元年(1222年)に岩尾城、愛藤寺城を築き、阿蘇氏の矢部の本拠にしたと伝えられている。
阿蘇惟豊の頃に阿蘇氏の勢力は最大になり、阿蘇・益城・宇土のほか肥後国外にも及び、浜の館はその政庁となった。やがて天正13年(1585年)島津氏の侵攻を受け、浜の館は焼失し、阿蘇惟光は目丸山中へ逃亡して武将としての阿蘇氏は消滅した。
浜の館最後の日に阿蘇氏が隠したと思われる宝物類も、熊本県文化課の昭和48年からの発掘調査で発見され、21点一括して国の重要文化財に指定され、現在熊本県立美術館に収納されている。
単なる伝承として葬り去られるところ、「浜の館」の存在が確認された。伝承の中に数百年前の史実を秘めて生きていたのである(矢部町史より)。

ミニ知識

阿蘇山信仰について

古来、火山活動を続ける阿蘇山への畏怖を中心とする山岳信仰。
古代には山頂の三石神が信仰の対象とされた。噴火口の湯溜まりが神霊池とされ、火山神に水神、龍伸の性格が加わり健磐龍命(たけいわたつのみこと)がご神体とみなされるようになる。
世のいろいろな異変が阿蘇山の噴火や神霊池の涸減現象と結びつけられ、火山信仰、自然崇拝が神の存在と結びつき信仰や祈祷の対象として崇められるようになる。
一方、阿蘇谷の開拓に伴い、農耕神、開拓神共同体の祖先神としての国造神信仰が発生する。
また、仏教の伝来に伴い天台宗の西巌殿寺を中心とする修験道が栄え、密教系山岳修験者が多く来山するようになる。これにより、中世には山上坊中(古坊中)には最大36坊52庵の宿坊があったという。
これらの宗教活動とともに参詣も盛んになり、一大山岳宗教の聖地となっていく。

古坊中の名称

火口西の巌殿周辺には、次第に堂塔が建立され、寺院周辺には「衆徒」とよばれる僧徒と「行者」とよばれる修験者や山伏も集まるようになる。
坊舎(寺院)をつくり、それに属する山伏たちも庵(支坊、いおり)をつくり仏教的年中行事が行われ祈祷者などが居住するようになって、最大36坊52庵といわれるまでになり隆盛を誇っていたと推測されている。
僧侶と居住する坊舎が集まった場所から「坊中」という地名が生まれた。
戦国時代、大友氏と島津氏の争乱や火山活動により落去するまで勢力を誇ったが、加藤清正によって現在のJR阿蘇駅近くの黒川に再興された現在の本堂(麓西巌殿寺)界隈の「麓坊中」に対し「古坊中」と呼ばれている。

武将としての阿蘇氏の没落と坊中の衰退

天正年間(1573~1592年)に入ると、豊後の大友氏と薩摩の島津氏が騒乱状態になり、その争いの余波は阿蘇山一帯にも及んできた。
阿蘇神社の大宮司であり阿蘇地方を治める戦国武将でもあった阿蘇氏は、大友氏の支配下に入っていたことから島津勢の攻撃に遭い、矢部の拠点であった浜の館を追われて武将としての終止符を打つことになる。
西巖殿寺のある古坊中も阿蘇氏の庇護下にあったことから、山上の寺院群をすべて焼き払われたと伝えられている。
僧侶や山伏達は行き場を失い、山を下り四散していった。かつての隆盛は阿蘇山のどこにも名残なく、坊中はどんどん寂れ、さらにその後の度重なる噴火、火山爆発により坊跡は地中へ消えていった。

加藤清正の加護による復興

豊臣秀吉が騒乱を平定した後、肥後藩の藩主になった加藤清正は朝鮮出兵の際の恩義により、慶長4年(1599年)阿蘇社と阿蘇山の復興支援保護を命じ特別な寺院として新たに黒川村に阿蘇山の坊が復興された(麓坊中)。
加藤氏が改易になった後も、細川藩主は引き続き阿蘇社と阿蘇山に寺領を寄進し経済的にも保護をして、阿蘇山は藩から毎年徳川将軍家への公儀祈祷、藩主への太守祈祷が命じられる特別な寺院として位置付けられた。
また阿蘇噴火に伴う祈祷はもとより、藩内を襲った天変地異や災害の際にも藩から祈祷を命じられて厚く保護をされた。
さらに山上の坊中は火口参り(お池参り)の拠点としても参拝者が多く訪れたともいわれている。
この当時、現在のように車で山上に容易に行ける時代ではなく、交通手段は徒歩又は乗馬によるもので、行きつくまで相当な労力と時間を要した。
また過去には大爆発を繰り返したことも数多く、旅程には危険を覚悟の上で参拝したであろうと推測される。

明治以降の西巌殿寺

江戸時代、再び繁栄を誇った阿蘇山であったが、明治維新の廃藩置県の折に、神仏分離令などの明治新政府の宗教政策により廃仏毀釈、修験道禁止令等で廃寺になり、衆徒、行者、山伏達も身分喪失,転職を余儀なくされた。
坊中にあった36坊52庵も廃藩置県により寺領返還、ほとんどが廃寺となった。
時流をしのぎ地道に西巖殿寺を守り、消滅してはならないと危惧したかつての坊の人々が中心となり西巖殿寺の存続に力を注いだ。
明治4年、有志達は山上にあった本堂を麓(黒川)に移し、住職のいなくなった坊の仏像を学頭坊に集め、学頭坊を西巖殿寺とした(麓西巌殿寺)。
この現在の西巌殿寺界隈を麓坊中という。明治22年、麓坊中の関係者、有志の尽力により山上に阿蘇山西巖殿寺奥之院が建立され、現在の姿に至っている。
麓におろした本堂は平成13年に不審火により全焼し、現在は礎石のみが残っている。その下に学頭坊跡の坊舎が再築され、熊本県有形重要文化財指定の鎌倉時代の作といわれる木造阿弥陀如来坐像(西巖殿寺本坊の本尊)や金剛釈迦如来立像、阿蘇独自の山伏による乙護法信仰の天童木彫像などが保存されている。

さらに国指定有形文化財、紙本墨書仏舎利渡状や西巖殿寺の隆盛と没落の歴史を彷彿させる資料も保存され、西巖殿寺の歴史と山岳信仰の奥深さを改めて察知ことができる。
さらに修験道の名残として、西巌殿寺では4月13日に「阿蘇山観音祭」という行事がある。
山伏の姿をした行者が燃える護摩木の上を裸足で歩く「火渡り」や、湯が煮え立つ釜の中で経を唱える「湯立て」の荒行を行い無病息災を祈る。山岳信仰の原点、修験道の世界を目の当たりにすることができ、県内外から多くの信者や観客が集まり賑わっている。

阿蘇神社の主な年間祭事

太古の昔より繰り返されてきた阿蘇の祭事はたくさんあるが、代表的なものといえば、毎年6月に例大祭として阿蘇山上神社での火口鎮祭である。
火口へ御幣を投げ入れる安全祈願である。
つぎに7月に御田植神幸式(おんだ祭) で、古式ゆかしき神々の行列と白装束を着た宇奈利(うなり)が青田の中を練り歩く。
天孫降臨の際に、猿田彦が道案内をした故事にならうものであるが、阿蘇12神と火の神、水の神の14の神様の御膳を頭に乗せて運ぶ姿は幻想的でもある。

8月には、火焚き神事(霜神社)がある。59日間にわたり、田畑の霜除けを祈願する祭事で、火焚き乙女と呼ばれる少女が神社に寝泊まりして火を焚き、ご神体を温める神事である。
春の風物詩として有名なのが火振り神事で、御前迎えの一環であり氏子や見物人が茅で作ったたいまつを神社の参道で振り回して灯りを設け、神の婚姻を祝うものである。

※火焚き神事について、現在も阿蘇市の西部に的石という地名があるが、健磐龍命が弓の稽古の際の的にしていた「的石」とされ、周囲20m、高さ20mを超える巨石がある。家来の鬼八(きはち)に何度も矢を拾わせていたが、疲れた鬼八は矢を蹴り返すと、腹を立てた健磐龍命は鬼八の首を切り落としてしまったという。それを怨んだ鬼八が霜を降らす疫神となったため、健磐龍命は鬼八を鎮めるため霜神社を建て火焚き神事を行うようになったという由来がある。

ウオルター・ウエストンの阿蘇登山

ウエストンは来日後、最初の赴任地である熊本に2ヶ月半ほど宣教師として在住した(1888年、明治21年10月21日~1889、明治22年1月3日頃)。その後、再び九州を訪れ、1890年11月と1891年4月の2回にわたって九州の6山に登っている。第1回(1890年11月)が金峰山、阿蘇山、祖母山、第2回(1891年4月)が霧島2山と桜島である。当時、刊行準備中だった『日本旅行案内第三版』の取材旅行のためだった。初版や第二版には九州の山岳の記述が少なく、当時の来日外国旅行者に人気のあった阿蘇と霧島の案内記事を加えたい意向が編集者チャンバレンにあったようだ(日本山岳会熊本支部・田上敏行氏談)。
阿蘇山には1890年(明治23年)11月2日ころ、熊本市から人力車で立野に入り、栃木(とちのき)温泉(現在の小山旅館)に泊まっている〔巻末「ウエストンの足跡」地図中①〕。翌日は湯の谷を経由し草千里を経て阿蘇山の中岳に登り、火口を見物したあと坊中に下る〔同地図①→②→③→②→④〕。坊中から人力車で再び栃木温泉に戻って泊っている〔同地図④→①〕。次の日は高森を経て、祖母山に向かう〔同地図①→⑤〕。(この時の下山ルート③→②→④は今回我々が調査した「西巌殿寺修験者の道・黒川ルート」とほぼ同じではないかと思われる)。それまで熊本市内から阿蘇に入るには二重峠を越えねばならなかったが、明治17年から始まった立野の比丘尼谷の工事が完了すると立野経由で阿蘇に入ることが可能になった。この後、明治32年に夏目漱石も同様に立野から入り、内牧を経て阿蘇登山に行っている。(池田清志)

田上敏行氏は『ウエストンの九州登山の足跡を探る』(「山岳(115年)」掲載)のなかで「ウエストンの阿蘇登山」の部分を紹介している。


阿蘇山
人力車は大津街道より低い、白川に沿った道を坊中(注1)まで行き戻りできる。
新しい道(注2)は300年前の松並木のある道ほど面白くはない。熊本を離れると、まもなく道は右の白川の土手に向かって下りていく。道の正面には山の中腹にある湯の谷から立ち昇る蒸気の柱が見える。坊中までの全行程は11里である。熊本から7里半のところに、右の北向山と左の立野山の間に立野村がある。ここで人力車を降りて坊中へ送ったあと、道の右にある栃木新湯へ寄り、そのあと湯の谷を経由して阿蘇山の火口まで登り、坊中へ下ることができる。
旅行者がここから大分へ向かう場合、栃木へ寄る前に約半マイル進み、黒い岩棚から落ちる黒川の二つの滝、すなわち白糸の滝と数鹿流の滝を訪れるべきだ。そこは道路に近い、狭い道を数ヤード進んだ先にある樹木が生い茂った小さな突き出た台地で、そこに立つと両方の滝すなわち右の白糸の滝、左の数鹿流の滝を同時に見ることができる。
背後にはdobin-dake(注7)がそびえ、全体が完璧な山容を形成し、その稀有な美しさは決して忘れられないだろう。
道は立野村から右へ4分の1マイルほど下ったあと、俵山の対岸の川岸までジグザグに進んでいく。ここにある高さ500フィートの密生した森林に覆われた絶壁の麓で二つの川が合流する。突き出た岩の上には、hatashima氏の経営する栃木新湯の宿(よい宿です)がある。(注3)
温泉は近くにあり外国人専用の風呂がある。また高官のための専用の茶室や、すばらしい岩風呂がある。ここから渓谷に沿って2マイルの山道が古い温泉(注4)に通じている。そこでは老若男女が丘の斜面に巧妙に建てられた露天風呂に身を寄せている。また左へ数歩降りて水辺に立つと、対岸にすばらしい鮎帰りの滝が見える。
(これより11月3日の記述―筆者田上氏注)
時間を節約するため、栃木でガイドを頼んだほうがよいだろう。
湯の谷へは草の生い茂った湿原を越えて1里半の登りが続く。背後の谷から眺める熊本方面の景色はとても素晴らしい。湯の谷には、高さ12フィートから18フィート、直径が30フィートの赤泥と沸騰水からなる大きな間欠泉がある。いくつかの粗末な浴場と訪問者のための素朴な山小屋が点在する奇妙な光景が広がる。
ここからちょうど2時間登ると山頂(注5)である。火口から4分の1マイルは臨時の村となっており、3月から10月までは硫黄労働者によって占有されている。1人または2人が訪問客と火口に同行し、噴石とスコリアの上を通る最適のルートを案内する。火口の半分を埋める灰の層まで約15フィート降下して、その端から約150フィート下の開口部を見下ろすと、熱湯と硫黄の塊が絶え間なく大きな音とともに放出されているのが見える。ガイドが降りて非常に粗い硫黄の塊を持ち帰ってくるが、訪問客は危険なため降りることはできない。夏の期間、40人が村に住んでおり、たいていシーズン中に致命的な事故が発生する。
阿蘇山の寺院(注6)に保存されている神聖な剣は人々から非常に崇敬されており、古式の服装をまとった役人によって昼夜を問わず見守られている。
坊中への2時間の下りで、現在のピークが形成される前の古いクレーターの素晴らしいパノラマが明らかになる。外輪山の壁は高さが800フィートあって底はかなり水平であり、周囲30マイルの外輪山の中には100以上の村がある。したがって阿蘇山は、おそらく世界最大のクレーターといえる。
坊中は東の外輪山から1里半のところにあり、熊本からもっとも遠い所にある。
道は立野村まで、ほぼ真西へ3里半の戻りとなる。道の左側には阿蘇山とdobin-dake(注7)、そして湯の谷の蒸気の柱が見え、右側には二重の峠へ登る古い道が見える。古いクレーターの出口で黒川にかかる細い橋を渡り、さらに1里で滝と立野村に到着する。
左(注8)へ大津への道が分岐するが、熊本へ向かう谷間の直進路から外れる旅行者はいない。晴れた日の早朝6時に出発し、ガイドが坊中への下りが遅くなった場合に備えてランタンとキャンドルを用意すれば、熊本から2日間で行って帰ることができる。
注1 かつての阿蘇登山の玄関口で現在のJR阿蘇駅付近の旧地名。阿蘇山が西日本有数の山岳仏教の拠点だった名残で、山上の中岳西側にも古坊中の名が残っている。
注2 現在の県道207号瀬田竜田線
注3 第4版では宿の名はOyamaとなっており現在も小山旅館がある。
注4 垂玉(たるたま)温泉と思われる
注5 中岳火口を指す
注6 阿蘇神社奥宮の山上神社のことで、現在も中岳西側の山上広場に存在する。
注7 山の位置と名称から、「どんべん岳」という別名のある杵島岳のようだ。
注8 正しくは右

近世まで山岳仏教の信仰と修行の場であった阿蘇山は明治に入ると近代登山の対象となる。明治期には外国人による観光登山が持ち込まれ、J・ミルン、W・ウェストン、H・ポンティング、Mビッカーステスなどが訪れている。彼らはいずれも西側の栃木(とちのき)から中岳へ登り、火口を見学したあと北側の坊中へ下山するコースを利用している。おそらく「日本旅行案内」で紹介されている上記のコースが外国人の間で広く知られていたからだろう。H・ポンティングは著書のなかで、「日本旅行案内の手引きが大いに役だった」と述べており、「日本旅行案内」が当時の外国人旅行者に広く利用されていたことがわかる。
ウェストンの登山記の記述と所要時間から推理すると、1日目(2日)は熊本から人力車で立野に進んだあと、近くの滝や温泉を見学して栃木新湯に宿泊。翌3日は湯の谷温泉経由で中岳に登って火口を見学したあと坊中に下り、人力車で再び栃木新湯に戻って泊ったと思われる。なお祖母山に同行したブランドラムは、阿蘇登山の経路から考えて途中から同行したとは考えにくく、熊本出発時から一緒だったのではなかろうか。


(補注)文章中にある「栃木(とちのき)新湯」とは「戸下温泉」のことであり、(注4)の「垂玉(たるたま)温泉と思われる」は「栃木温泉と思われる」(中林暉幸)

夏目漱石文学碑(遭難碑):夏目漱石「二百十日」阿蘇の旅

漱石は明治32年に勤務先五高の同僚山川信次郎と阿蘇山に登った。このときの体験を基に小説「二百十日」を書いた。この旅で多くの俳句を詠み正岡子規に送っている。小説と俳句が旅の行程を考える手掛りになる。
漱石達は熊本から大津・立野へは馬車で行った。難所の谷を通る道が直前に開通していた。
戸下温泉に漱石は泊まった。戸下温泉は阿蘇谷を流れる黒川と南郷谷を流れてきた白川の合流する谷底にあった。漱石は戸下温泉の俳句をいくつか詠んでいるが、狭隘な谷底の雰囲気が出ている。
阿蘇中岳に登るには湯ノ谷からの道が既にあったが、漱石はその道を採らず、この直前に掘削された内牧温泉に向かった。では内牧へはどの道を通って行ったか。江戸時代には阿蘇谷は湿地帯が多く馬車は通行難儀した。小国往還と呼ばれる赤瀬から黒川へ抜ける道が明治31年に出来ていた。漱石はいったん立野へ戻ってこの道を通って行ったと思われる。今も昔の道が残っている。その道は赤瀬神社から入り、林を抜けて、二重峠への入口を経て内牧方面へ、目薬石、茶屋跡と進む。神話伝説で知られる的石の前を通り、その後九里木址、さらに産神社が立つ。この先は豊後街道を通って行っただろう。今は参勤交代の道が整備されており、案内板もある。ここを進むと三久保に出て内牧である。漱石の俳句集の”戸下温泉”の終りに「女郎花土橋を二つ渡りけり」という句がある。この土橋は内牧に入る直前にある花原橋と菅原神社横の橋と思われる。内牧の明行寺は二百十日に出てくる寺ではないかといわれる。大きなイチョウの木があり、本堂まで長い参道があった。寺の門前に漱石の「白萩の露をこぼすや湯の流れ」という句碑が建ち、実際境内には今も白萩が残っている。鍛冶屋の馬の蹄鉄を打つ音が聞こえる、と小説に出てくる鍛冶屋は明行寺近くの電機店辺りのようだ。漱石が泊まった宿は養神館(山王閣)である。現在は廃業しているが建物内には漱石の胸像と記念碑が建ち、往時を偲ばせるゆかりの品が保存されている。小説では戸下温泉と内牧温泉が合体して描かれている。

二百十日の9月1日、漱石は阿蘇神社に詣でた後、阿蘇山を目指す。当時阿蘇神社から中岳に登るには①一の宮からまっすぐ山の方へ向かって行く登山道があった。藤谷神社の前を通り馬の背登山道を経て中岳へ至る道である。この場合阿蘇神社裏手にある極楽寺を小説に出てくる出発点の寺とみる。しかし②漱石は阿蘇神社から(坊中)の方へ廻ったという説もある。同時代に国木田独歩が「忘れえぬ人々」の中に阿蘇山から下る場面を描いているが、独歩は坊中へ下り豊後街道を東へ辿った。漱石もこの道を通ったとみる。西巌殿寺は小説に出てくる描写が旧道と似ている。阿蘇町はここを小説の寺と設定している。西巌殿寺から上っていくと九州自然歩道入口があり、ここから登山道へ入る。漱石が①②どちらの道を選んだかはわからない。漱石らはススキの繁る道を中岳目指して進むが、天候が悪化し、雨・風・火山灰に難儀し谷に落ちてしまう。落ちたのは善五郎谷といわれている。実際のところはわからないが、阿蘇町はこの辺を漱石遭難の地とした。今は二百十日の文学碑が立ち、漱石の歌碑(数少い短歌)が立っている。「赤き烟黒き烟の二柱真直ぐに立つ秋の大空」。落ちた谷から脱出し、頂上をあきらめて下山した漱石らはどこに泊まったのか。小説では翌朝目がさめた所はうどん屋の3軒隣の馬車宿となっているが、俳句集には立野という所の馬車宿に泊まる、とある。漱石らは下山して立野へ出たことになる。馬車宿の名残の家は立野駅近くにあったが今は更地になっている。(城戸 邦晴)

修験者の道(馬ノ背古道)における特徴的な植物等

阿蘇中岳北面の車道脇(大曲り)から牧野や火山荒原を上がり、マウントカー道路を伝い阿蘇山上神社へ辿り着き、時計回りに黒川牧野道(管理道路)を下る周回コースを歩くと、阿蘇大地を指標するような植物やキノコを観察することが出来る。
距離約11.8㎞、単純標高差370m、累積標高差約600mである。
◯ツヤマグソタケ(きのこ / ヒトヨタケ科)
阿蘇原野では牛や馬が放牧され、五岳や外輪山を背景として牛馬が草を食む光景が写真として紹介されることがある。栄養を含んだ草が牛馬の胃袋で消化され、最後に糞としてまた原野に還元されることになる。さらにまた、その糞に姿を現すのが腐生菌の「ツヤマグソタケ」である。名前は如何にもの感があるが、若いうちは傘が白くおどろおどろしい色合いや形ではない。図鑑を見ると、誤食すると頭痛・悪寒・血圧降下などの生じる毒菌のようだが、こんもりと盛り上がった糞からニョキニョキと立つこのキノコに食欲を抱く者がいるとは想像出来ない。春から秋にかけて、阿蘇の風物詩的にその光景を楽しむのが賢明である。
◯クララ(草本 / マメ科)
瑠璃色の羽が美しい蝶「オオルリシジミ」は、春に阿蘇山下部地域の草原で見られるが、このオオルリシジミの幼虫がクララの葉を食草としている。クララの語源は「根を噛むとクラクラするほど苦い」からのようだが、葉を噛んでもやはり苦みを感じる。アルカロイド系の毒を含むせいか、放牧されている牛はこのクララを食べないそうで、春や初夏の頃に放牧地でもよく見かける。
◯オオバヤシャブシ(木本 / カバノキ科)
下部から中腹(草原と火山荒原の境界付近)まで、岩肌に沿って張り付くように生立している。ごく普通の山野では高さ数mクラスの落葉樹だが、ここ阿蘇火山荒原では1~3mのものが多い。しかも下から吹き上げてくる風圧が強いせいであろう、風に逆らわず枝を柔軟にして風に〔そよぐ〕又は〔なびく〕特異な樹形となっている。林道などを開削した後の砂防・法面緑化に適しているようで、つまり栄養分の少ない土壌にもよく育つ樹種であるため、阿蘇火山荒原でも広く生育している。タンニンを多く含む大きな球果は下から見上げてもよく目立ち、草木染めなどに利用されているらしい。
◯ミヤマキリシマ(ツツジ科)
噴火により流出した溶岩上に、5月にはミヤマキリシマの花が満開となる。一般的なツツジに比すとやや小ぶりでビンク色の小柄の花は、阿蘇山の荒々しい地肌とマッチしてよく映える。絨毯上に群生してよく目立つ常緑低木であり、阿蘇を代表する樹木の花ではなかろうか。
しかし近年は「キシタエダシャク」という蛾の幼虫が大発生し、ミヤマキリシマの開花状況に大きく影響を与えることも度々で、落胆することもあるので念のため。
◯イタドリ(草本 / タデ科)
火山荒原の最上部にまで繁殖するイタドリは、岩石累々の荒野における極相種ではないかと思わせるほど、他種を圧倒して勢力を維持している。火山灰に埋まっても消滅せずに、あるいはソンビの如く生き続けるのではないかとのイメージがある。阿蘇のみならず日本全域で普通に分布している山菜資源の一つで、極めて生命力の強い植物である。熊本県では「スカンポ」が別名となっており主に漬物として利用されている。路傍のイタドリを採取し、茎の皮を剥いて生のまま食べて酸味を楽しんでいるが、シュウ酸が多いからたくさん食べてはいけない。
◯コイワカンスゲ(草本 / カヤツリグサ科)
カヤツリグサ科は同定困難な種が多いが、コイワカンスゲは特殊な地理的生育環境にあることから、比較的容易に名前を特定出来る。火山裸地(砂礫地)に生じる多年草で、小岩に叢生したものは「ゲゲゲの鬼太郎」の頭部を想起させる。有毒ガスや蒸気が噴き出すような劣悪な環境でも、匍匐茎(ほふくけい)を伸ばして成長し、群落を作る様は迫力がある。
◯アキグミ(グミ科)
若い葉の裏側と柄は白銀の毛で覆われて光沢があるのが特徴で、株全体白っぽいのが顕著であり、管理道路を歩いていると、アキグミが延々と連なっているのを見落とすことはない。
根がよく発達して痩せ地でも育つらしく、治山のための土留めや風除けとして植栽されることもあるらしい。白からクリーム色、そして黄色へと色を変化させていくのは、実は花弁ではなく咢である。俵形の実のなるナツグミに比して、アキグミの実には少し苦みがある。山歩きに疲れて出発地へと下山する際に、実を少し口に含んでみるのもおつなものではなかろうか。苦い思い出ではなく、楽しい思い出になること間違いない。(戸上貴雄)

まつわる話

役行者(役の小角)の活躍

阿蘇山の五岳の一角に根子岳があるが、その根子岳は、その昔「役行者」によって開かれたという伝説がある。切り立った根子岳の岩峰で鳥のように岩から岩へと移動する者が現れ、役行者または役小角と呼ばれた。その役行者とは、大和の葛城山で苦行修行し、吉野の金峯山、大峰を開いた人物であるが、この阿蘇山でも活躍、山伏達に崇められたという伝説や夫婦像の彫物が存在している。
小角は、生霊(鬼神)を自由に操り、衆望を集めたシャーマンであったため、文武天皇3年(699年)讒言によって一時伊豆に流されたが、後に許されてますます評判を高め、平安初期に天台・真言の密教的な面が山岳信仰に習合していった関係で、修験道が発展するにつれて役行者は崇められ、山伏にとっては理想の修験道の祖師として崇拝されるようになった。小角は罪を許されたのち九州に下って豊前の英彦山を開き、五十代の頃、阿蘇に来て根子岳を開いた。空を飛ぶ鳥の如く、水上を渡ること地を歩くが如しと言われ、根子岳の絶頂から鳥のようにあちこち飛来し、天狗岩(根子岳の最高峰1433m) に立って空を飛び回ったので、時の人は天狗と言い、あるいは火乱坊と呼んだそうである。根子岳に切り立った岩峰の天狗岩、山中に天狗神社もあり、それを見た人々は、その存在を崇めたのであろう。

峰入り修行

山伏の修行には峰入りという行事があり、役行者(役小角)が葛城山で山にこもり苦行修行したことから始まり修験道の厳しい修行があちこちの山々で行われてきたが、阿蘇山古坊中時代にも行者、山伏は春夏秋の三回行っていたと伝えられている。江戸時代に坊中が復興されてからは秋峰のみとなり、およそ7年から10年に一度行われた。7月26日に笈仏(おいぼとけ:背負って同行する仏)を飾る笈開き、28日に山上の堂塔に参拝、勤行、29日駆入(かけいり)となる。阿蘇、大津、菊池、山鹿、と進み、藩外の柳川藩領、筑後藩領、日田の山々を回り、再び熊本の菊池、阿蘇に戻るルートで9月3日に阿蘇山上の堂宇に参る駆出(かけだし)で結願となる。1ヵ月以上に及ぶ阿蘇山峰入りは藩の補助を受けながら、迎えた村々は酒迎(さかむかえ)をして歓待したそうである。(自然公園財団阿蘇支部公園情報センター説明文書および郷土史家児玉史郎氏による聞き取り調査、資料提供より)

乙護法信仰〔阿蘇の独自の信仰〕

阿蘇山峰で修行した役行者が、奥峰に登山したとき山が赤変して光りがさし、窟から当山守護の天童を名乗る声がして回峰修行の事を伝えたという。天童は護法であり、阿蘇山の守護神と理解される。護法と同義で乙護法の呼称にも用いられるようになった。山伏と乙護法の関係は、阿蘇では乙護法信仰は役行者との結びつきから伝承され、山伏がその信仰を重んじた。
阿蘇の南郷に山伏と乙護法をめぐる話が伝えられている。下久木野村に居住する一族に毎年悪病で亡くなる不幸が続き、行者方妙円坊の下山伏、鹿蔵坊が依頼を受けて日夜念珠を行った結果、衆徒中尾万福院の山伏一蔵坊の怨霊が現れ、山伏による呪詛(じゅそ)によることが判明した。阿蘇山の独自の信仰として山伏が広めたのではなかろうかといわれている。※西巖殿寺の本院の仏間に乙護法の童子の姿をした、おさげ髪をした造作の仏像が置かれている。

*呪詛(じゅそ))…恨みに思う相手に災いが起こるように神仏に祈願すること。まじない。呪い。(広辞苑)
*護法(ごほう)・・・仏法の守護のために使役される鬼神。護法童子・護法善神。乙護法とも言う
本来は神仏習合だった阿蘇山の山岳信仰は、この西巖殿寺と阿蘇神社に分かれて引き継がれている。

ルート

(*時間はゆっくりペースであるが、休憩時間は含まない)
藤谷神社:標高605m(馬ノ背ルート入口)
1.2㎞ 25分↓ 20分↑
牧場入口ゲート:標高720m
1.7㎞ 45分↓ 30分↑
原野入口土塁:標高940m
1.3㎞ 35分↓ ↑30分
マウントカー路:標高1196m
2.0㎞、↓50分 ↑50分
山上広場:標高1160m(馬ノ背ルート終点、黒川ルート始点)
0.6㎞、↓10分 ↑10分
古坊中:標高1110m
2.5㎞、↓45分 ↑50分
原野入口(馬ノ瀬ルートⅡ入口):標高990m==原野入口(馬ノ瀬ルートⅡ入口):標高990m
2.0㎞、↑30分↓45分             1.1㎞、↓30分↑25分
牧場ゲート(車道への出口):標高760m     マウントカー路:標高1180m
1.2㎞、↓20分↑35分             1.8㎞、↓45分↑45分
夏目漱石文学碑:標高705m          山上広場:標高1160m
1.5㎞、↓25分↑30分
西巌殿寺(黒川ルート終点・始点):標高550m

アクセス

現在、阿蘇は観光地化され、山上広場まで車で行けるし、さらに火山活動が平穏な時は中岳火口を覗くこともできる。
交通網も阿蘇谷を中心に発達している。
JR豊肥本線阿蘇駅にほぼ並行して国道57号線が走り、阿蘇駅前の道の駅阿蘇から南へ600mで西巌殿寺、また宮地駅から北へ800mで阿蘇神社である。またJRいこいの村駅から南へ約2㎞で藤谷神社である。
阿蘇駅前から観光バスも出ている。
南郷谷には南阿蘇鉄道や国道325号線がつながるが、その先はいずれにしても車でのアクセスによるしかない。

参考資料

「阿蘇郡史」熊本県教育委員会
「白水村史資料集」島根大学考古学資料センター
熊本日日新聞編集局「新・阿蘇学」地域学シリーズ1、熊本日日新聞社
「肥後の山岳霊場遺跡資料集」九州山岳霊場遺跡研究会
鈴木正崇「山岳信仰」中公新書
一般社団法人自然公園財団阿蘇支部公園情報センター説明文書

協力・担当者

《担当》
日本山岳会熊本支部古道調査P.T.
三宅厚雄、中林暉幸、城戸邦晴、池田清志、田北芳博、戸上貴雄、松尾重勝
《執筆者および写真》
三宅厚雄、中林暉幸、(夏目漱石関連)城戸邦晴、(植生)戸上貴雄、(ウオルター・ウエストン関連)池田清志

《協力》
熊本県教育委員会、南阿蘇村教育委員会、阿蘇市教育委員会、大津町教育委員会、
阿蘇神社、阿蘇山西巖殿寺
竹原憲朗氏(阿蘇の自然を愛護する会会長/阿蘇グリーンストック評議員/阿蘇市野生動植物保護審議員他兼務)
児玉史郎氏(阿蘇市郷土史家/阿蘇ユネスコ世界ジオパークガイド協会員)
緒方宏章氏(元県立高校国語科教諭)
田上敏行氏(日本山岳会会員)

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