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112 宝満山古道
宝満山は福岡県のほぼ中央に位置し、福岡平野とその南にある筑紫平野との境界の一部をなしています。
古い時代には、その山の形から「御笠山(みかさやま)」と呼ばれていましたが、後に「竈門山(かまどやま)」と呼ばれるようになりました。現在も麓には竈門神社が鎮座し、頂上を形成する巨岩の上にはその上宮があります。
今から約1300年前、太宰府に政庁が置かれた際、太宰府から見て東北の方角にあたるこの山は「鬼門」の守護として、多くの神々が祀られました。古くからの文献資料も多く残されており、頂上をはじめとする山中の各地からは、製塩土器とともに祭祀遺物が出土しています。
また、宝満山は、仏教の歴史においても重要な役割を果たしています。伝教大師最澄は、遣唐使として唐に渡る前にこの山で安全を祈願し、帰国後には「六所宝塔」のうちの一つを建立しました。
さらに、宝満山は修験道の山としても知られています。役行者(えんのぎょうじゃ)によって開かれたと伝えられており、福岡・大分県境の英彦山(ひこさん)との間を修行する「秋峰」、孔大寺山(くたいじやま)との間を歩く「春峰」の道筋や霊場が今も残っています。
明治維新の際の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、山中の多くの坊(僧侶の住居や修行の場)は失われました。しかし、宝満山は2013年に国の史跡に指定され、その価値が改めて認められました。
現在では、歴史と自然に恵まれた山として一年を通して登山者が絶えることはなく、多くの人々に親しまれています。
竈門神社境内を通り、本殿に向かって左側から境内を出て汐井川沿いに少し登ると、大きな石の鳥居が立っています。
右手の川の中には、表面が滑らかな巨石があり、昔は禊が行われていた場所です。
ここが1合目で、左に式部稲荷を見ながらやや急な登りを進むと、一旦舗装道路に出て300mほど車道を歩きます。
右への舗装道路と分かれて、左の山道を進むと、右手に池が見えます。
ゆるい登りを25分ほど進むと、左に高圧線鉄塔が現れ、広場となっていて、ベンチが置かれています。
車を数台置けるスペースがあり、ここが内山林道の終点です。
山道を少し登るとすぐに、二合目の標識があり、大きな石の鳥居をくぐります。
まだそれほど急ではない石の多い道を登ると、約20分で3合目の標識、休み堂跡で、左側に水場があります。
ここから石段の段差が大きくなり、ジグザグに道がついています。
約10分で四合目の標識、さらに約20分で「殺生禁断」と彫られた大きな石碑があります。
その先が通称「百段ガンギ」で、整った石段がちょうど100段続きます。
登り終わると広場となっていて、七合目の標識が右に、閼伽の井の説明看板が左に立っています。
まだまだ石段は続き、芭蕉の句碑を過ぎて少しすると、中宮跡に出ます。
竈門山の大きな石碑や、多くの礎石や奉納寄進石塔が立っています。
この先で、上へ登る「正面登山道」と、平らな「女道」とに分かれます。
正面登山道を登っていくと、巨大な石が多くなり、袖すり岩や馬蹄石などを通るとまもなく、急な石段を手すり伝いに慎重に登って上宮の祠前に到着します。
その奥に磐座である拝礼岩があります。
北方には福岡市街から博多湾方面がさえぎるものなく、見渡せます。
下りは、女道を通ります。拝礼岩の右側に急な石段があり、左手にある手すりを支えにしながら慎重に下ると、手がかりの少ない一枚岩に打ち込まれた鉄のステップや鎖を使いながら垂直に下ります。
巨岩をくだりおわると二方向に道が分かれ、左手の道を10分ほど進むと仏頂山山頂に到着します。
林の中に石の祠があり、心蓮上人の像が安置されています。眺望はありません。
キャンプセンターに直接下る道は荒れているため、元の道を戻ります。
巨岩を鎖で下りきった箇所まで戻ると、左手へキャンプセンター方面の道があり、広場に出ます。
奥には避難小屋とトイレの建物があり、宿泊できます。
避難小屋の前に立って広場に入ってきた道を見るとそのすぐ左隣に階段があり、そこを下っていく道が女道です。
少しだけ下るとすぐに平らな道となり、ブナの林を10分程で登りに使った正面登山道との分岐に戻ってきます。
この先は、登りと同じコースで下っていきます。
百段ガンギをはじめとして、段差の大きな石段が多いため、場合によってはストックを上手に使ったり、ペース配分に注意したりして、登り下りともに、足や心肺機能への負担を小さくするように心がける。
山頂に近い箇所は、巨岩の上り下りがあるため、集中して通過する。
岩が濡れている時は滑りやすいので底面にグリップ力のある靴を使用する。
羅漢道では、急斜面でのトラバースや下降や登りがあるため、落ち葉や濡れている時は特に注意する。
正面登山道を往復する場合は標識に従って進めばよいが、その他の道を通る場合は、道迷いに注意。
宝満山山頂と仏頂山山頂との間から、南東斜面に下る道は、急斜面での登り下りで、踏み跡やピンクテープを探しながら、場合によってはGPSアプリや地図読みをよく行いながらの行程となるため、時間に余裕をもって計画する。
宝満山は、古名は「御笠山」で、南東側からの姿が左右均等に裾野を広げる独立峰に見えるためともいわれている。
日本書紀の中で、神功皇后の笠がつむじ風で吹き落とされたとの記載があり、古くは、太宰府や筑紫野のあたりは御笠郡とよばれていた。
時代が下がっての呼び名は、竈門山で、雲がかかる光景がかまどからの煙のようとも、山頂近くに竈門岩があるためともいわれる。
南麓を流れている宝満川は万葉の昔は、蘆城(あしき)川と呼ばれ、筑紫平野を南へ下り有明海に注ぐ。
一方、北斜面の水を集める御笠川は博多湾へと流れるため、宝満山は分水嶺(水分・みくまり)の山ともなっている。
周辺の太宰府市や筑紫野市を含めて、古く硬い岩盤として花崗岩が分布しており、浸食されて宝満山では急峻な地形をなしている。
天智天皇の時代に太宰府が現在の大宰府政庁跡に置かれ、その北東の方角に位置したことから、鬼門除けのために山頂に神を祀ったと伝わる。
天武天皇2年(673年)、心蓮上人が山中で修行していた満願の日(2月10日午後8時頃)、山谷がにわかに震動して何とも言えない香りが漂い、玉依姫の霊が現れ、金剛神に姿を変えて、手に錫杖をとり、十神を従え、九頭の龍馬にのって飛行したため、心蓮は感激し、天皇に奏聞した。天皇は宣下をなして、今の上宮を建てたといわれているが、この山の神が「宝満大菩薩」と称されていた。
もともとの農耕神・水分(みくまり)神として信仰されていた御笠山に、太宰府守護のために海外から新しく導入された「竈門神」を祀ったために「竈門山」と名付けられたともいわれる。
伝教大師最澄が延暦22年(803年)に来訪したときにはすでに「竈門山寺」があった。
竈門山寺は、大山寺、有智山寺と寺号が代わり、明治2年には宝仲寺と変化する。
山中の十数か所で8世紀から9世紀頃の祭祀遺物が採掘され、そのほとんどが製塩土器を伴っていたのが特徴となっている。奈良時代から平安時代の国家祭祀、特に、遣唐使との関係が考えられている。
さらに、役行者が文武天皇の時代(697~700年)にこの山に登山して、七窟で神仏を祈り出したと「竈門山日記」にある。
十一面観音はこの山の神である玉依姫の本地仏で、山頂にある上宮付近で小さな観音像(鎌倉時代から室町時代の作)が多く見つかっている。
役行者はさらなる修行により、宝満山を金剛界、彦山を胎蔵界とし、宝満・彦山間の大峰(秋峰)および宝満・孔大寺山間の春峰を開いたと伝わっている。
12世紀後半まで太宰府は九州を統括する行政機関として機能し、西の都の役割を果たしていた。
その後は南北朝の戦いに巻き込まれて、有智山寺は衰退に向かい、弘治3年(1557年)の大友宗麟による検地で僧侶・社家・神人が離散し、神事祭礼も廃れ、伝法修行の血脈も絶えた。山中にあった多くの坊も失われた。
明治維新時の廃仏毀釈を経て、竈門神社は村社から、官幣小社に列せられた。
かつては九州の総鎮守であったことや、祭神が神武天皇の母、玉依姫であることによる。
入峰修行の本格的な復興は、昭和57年の心蓮上人千三百年遠忌の時となる。
一合目から二合目へ登る途中に、右手に見える池を通り過ぎて次の車道を右方に歩いて行くと看板が立っている。
または、一合目から登った先で車道から山道へと入らず、分岐を右へと、舗装道路をさらに歩いて行くと分岐があり、左手へゆるやかに上がっていく。
標高280m地点で一段高くなったところに、縦横四個ずつの小型の礎石が並んでいる。
伝教大師最澄は、遣唐使で唐に渡る途上、瀬戸内海で暴風雨にあって難破した遣唐使船の修理中、筑紫で過ごしていた。太宰府では、竈門山寺(現在は礎石のみ残る)で安全祈願のために薬師仏を彫って納め、羅漢道の途中にある窟で修行したと文献資料に残されている。
そして、無事に唐から帰国した際に、中国の六都護符の制にならい、六所宝塔を建立した。
六ケ所に宝塔を建てて、上層には法華経一千巻を納め、下層では毎日、法華三昧の法を修し、法華経の功徳により国家の安泰と人々の幸せを祈る。
下野国都賀(つが)郡大悲寺の安北塔、上野国緑野(みとの)郡緑野寺の安東塔、山城国比叡山西塔の安中塔、近江国比叡山東塔の安総塔、豊前国宇佐弥勒寺の安南塔、そして、ここの安西塔である。
承平3年(933年)、沙弥証覚(しゃみしょうがく)が建立したと伝わるが、創建当初のものは存在せず、東塔のみが昭和55年に伝教大師最澄ご出家得度千二百年を記念して、比叡山根本中堂の上に再建された。
延宝7年(1679年)、平石坊弘有が勧進し、福岡藩三代藩主黒田光之が建立した。
江戸時代初期にはまだ石段ではなかったようで、百段坂といわれていたと伝わる。
坂の途中に、岩本坊、福蔵坊、山中坊があった。
百段ガンギを上がりきった広場の右奥に石造りの建物の跡が残る。もともとは亀石坊があったところ。
福岡市松屋百貨店の宮村社長が紀元二千六百年記念に、1940年に計画した、80人収容できるホテルだが、完成までいたらなかった。
広い平坦地の中央には九重塔があり、心礎のみが残る。小高い丘の前には大講堂が立ち、十一面観音を本尊とし、左右には不動、毘沙門が立っていた。講堂の右手前には神楽堂、手前の小高い所には鐘撞堂があった。
熊野峯ともいわれ、熊野本宮・熊野権現・太神宮・法華塔・大威徳明王を祀った道。
途中に竈門岩がある。高さ約2mの3つの石が向かい合い、かまどにも見え、その一つには「仙竈」と彫られている。
近くの石に、「竈門岩の3本のうちの1本が倒れていたため文化3年(1816年)に福岡の魚屋武史郎が願主となり、仲谷坊を仲介として、博多聖福寺の仙崖和尚に仙竈と書いてもらって彫り込んで元通りにした」と記録されている。
社殿は西北西を向いて建っている。海に向いていて、海外からの敵が侵入してこないための国境の神社の役割と考えられる。山頂全体は巨岩からなり、社殿の北東にあるしめ縄が張られた拝礼岩は、玉依姫命が降り立った場所として祀られている。
現在のキャンプセンターの場所は、山伏のトップの院が置かれていた。
中宮跡から正面登山道を少し登ると左手への道標がある。
奥村玉蘭の「筑前名所図会」の中に、「寛政年間に、役行者千五百年忌を記念して、竈門山の西に樵路があったのを切り開いて上宮に通ずる道をつくり、仲谷坊の隠居が勧進して五百羅漢、千体地蔵の石仏を安置した」との記載がある。巨岩が切り立っている間を上下しながら山頂に到る健脚コース。
竈門神社本殿の左にある坂を下り、汐井川に沿って左手へと少し下り、すぐの分岐を右へ入って舗装道路を道なりにゆるやかに登っていくと、開けた台地に標識があり右へ。
山道に変わり、植林帯を進むと「石垣跡」「二重空濠跡」の標柱が立っている。今は密生した針葉樹林だが、宝満山の西麓、標高310mにあたる広い台地の前後は深い切掘で囲まれた、守りの固い有智山城があった。
築城の時期は不明だが、発掘調査により鎌倉時代後期の立派な屋敷の跡が見られた。山中の尾根をひな壇状に造成して土塁や石垣を築き、枯山水の庭園とその北東には離れと考えられる建物跡もある。
源頼朝が建久6年(1197年)頃に鎮西奉行として九州に遣わした武藤資頼を初代とする少弐氏の本城であった。資頼(すけより)はまた、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の守護も兼ね大宰府に居を構え、嘉禄2年(1226年)には朝廷より大宰少弐の官職を得て「少弐」を名乗った。
蒙古襲来の折には二代資能、三代経資が現地の最高指揮官として元軍と対峙した。
『太平記』には「内山ノ城」と記され、『梅松論』には平時は「宰府ノ宅」を館として使用し、有事には「内山ト云山寺ヲ要害ニ」していたことが記されている。
その後、建武3年(1336年)、都落ちしてくる足利尊氏を出迎えに、少弐頼尚が赤間関に出向いた留守に菊池武敏・秋月入道寂心らに攻められて落城し、城内は焦土と化した。
その際少弐貞経が自刃しその末子宗応蔵主が放火し自らも焼死した「持仏堂」があったことが記されている。縄張り構造は幅10mの横堀が100mを超える長さであり、その背後の北東側に曲輪があり、中央に石垣を設けた虎口もある。
この様な構造から現在残っている城郭は南北朝期の城郭ではなく、戦国時代の宝満城の出城または高橋氏あるいは筑紫氏による城郭ではないかとみられている。(福岡県の中近世城館跡 筑前地域編1:九州歴史資料館)
西鉄太宰府駅下車、徒歩で約10分
9時30分〜17時00分(入館は16時30分まで)
特別展開催期間中の金曜・土曜は【夜間開館】
9時30分〜20時00分(入館は19時30分まで)
https://www.kyuhaku.jp/
NPO法人九州登山情報センター(代表:重藤英世)が運営する図書館で、通称「山の図書館」と呼ばれている。登山に関する資料、情報の集積を行い、登山愛好者が登山の多様な文化性、社会性を学ぶ取り組みを支援し、登山の安全性向上の啓発や啓もう活動を通して、登山文化の発展ならびに事故防止に寄与することを目的としている。
登山に関する蔵書が豊富で雑誌のバックナンバーも揃っており、約8,000冊を蔵するといわれている。宝満山登山口にあるログハウスの建物で、登山者が気軽に無料で利用することができる。
宝満山では、5月下旬から7月初旬頃までの梅雨の時期に、一合目と二合目の間の右手にある池(野々道池)からヒキガエルが登山道を山頂まで登る。もともとは山中に生息していたカエルは、2月頃に野々道池に降りてきて産卵し、10万個以上もの卵を産む。3月には孵化してオタマジャクシとなり、約3か月かけて子カエルへ。池から上陸して、高度差600m、約25kmの道を約1ヶ月かけて登頂する。
宝満山修験における入峰行には、英彦山と宝満山などの山々を廻る回峰行、そして宝満山山中で行われる大巡行とがある。
宝満山内の行場や祭祀場については、「五井七窟」と呼ばれる遊水地および石窟(岩屋)が知られている。江戸期に記された『天保八年大巡行法』によれば、その巡行ルートは、薬師堂を起点として、法城窟、福城窟、益影の井、冠石、中院、大南窟、中宮の大講堂、行者堂(梵字石)、馬蹄岩、上宮、仏頂山、普池窟、船石、剣窟、獅子宿、雨宝童子(元水場)を経て、再び薬師堂に戻るものである。
巡行の際には、堂舎、窟、井、石塔、石仏、瓶の置かれた沢、巨石、崖、あるいは「立場」とされる見晴らしのよい岡や岩の頂部などで、供華(花)を捧げ、読経し、遥拝を行いながら移動し、修行を行ったと伝えられている。
竈門神社
40分 ↓ 1.3km ↑ 30分
一の鳥居
50分 ↓ 1km ↑ 40分
中宮跡
25分 ↓ 0.4km ↑ 20分(正面登山道経由) 女道の場合は、登り15分、下り10分で羅漢道の場合は、登り55分、下り45分
宝満山山頂
福岡空港から福岡市営地下鉄、西鉄天神大牟田線、西鉄太宰府線経由で太宰府駅まで約50分。駅前から太宰府市コミュニティバス「まほろば号」の内山行きに乗り、約10分で終点の竈門神社前(内山)バス停下車。
JR博多駅から鹿児島本線でJR二日市駅まで約25分。約15分歩いて西鉄二日市駅から西鉄太宰府線6分で太宰府駅。
または、JR博多駅から福岡市営地下鉄、西鉄天神大牟田線、西鉄太宰府線経由で太宰府駅まで約45分。
九州縦貫自動車道を太宰府I.C.でおりて県道574号線・76号線・35号線・578号線を経由して竈門神社まで約8km。
または、九州縦貫自動車道を筑紫野I.C.でおりて、県道7号線・112号線・35号線・578号線を経由して竈門神社まで約12km。
竈門神社近辺に参拝者用の駐車場は多い。
森 弘子「宝満山歴史散歩」葦書房 2005年5月
筑紫野市ホームページ
宝満山ヒキガエルを守る会パンフレット
《担当者》
日本山岳会 マウンテンカルチャークラブ
松本博子
高橋潤一
《協力》
奥藤秀世氏(日本山岳会福岡支部)
磯野文雄氏(日本山岳会北九州支部)