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106 石鎚山表参道

保護中: 106石鎚山

古道を歩く

昭和43年に石鎚登山ロープウェイが開通してからは、石鎚登山は表参道経由で日帰りできるようになりました。
ロープウェイ前のバス停から急な坂道を山麓下谷駅まで歩いて登ります。
途中には大きな赤い天狗のお面と大きな下駄を掲げた極楽寺の石鎚山大天狗法起坊堂があります。
法起坊大天狗とは石鎚山開山の祖「役の行者」の天狗名です。
更に登って行くと、西山興隆寺別格第九番文殊院別院「役の行者堂」があります。
説明書きによると、廃道となった黒川道には女人禁制の時代に「役の行者堂」があり、そこから上には女性は登れませんでした。ロープウェイ開通後当地に移設されました。
駅の手前には立派な役の行者尊像が建立されていて、石鎚山が信仰の山であることがよく解ります。

山麓下谷駅(標高455m)から山頂成就社駅(標高1300m)まで、標高差約850mをゴンドラはわずか8分で登ってしまいます。
山頂駅から少し登った広場からは瓶ケ森がよく見えます。

広い道を上っていくとリフト乗り場の分岐があり、ここで今宮道が表参道と合流します。
更に進むと前神寺奥の院。この先に黒川道の合流点がありますが、黒川道は数か所にわたり崩落しているため現在は通行止です。
石鎚神社の大きな鳥居をくぐると、公衆トイレがあり、成就社の日の出屋旅館、白石旅館が並んでいます。
中宮成就社の小さな鳥居をくぐり、まずは本殿で伊邪那岐、伊邪那美大神の第二皇子石土毘古神(いわつちひこのかみ)を参詣。

見返り遥拝殿には、ガラス戸越に峩々たる石鎚山を背景に石鎚山の開祖と云われる役の行者木像、大きな天狗のお面と大きな下駄が配置されています。山頂に登れない方はこの遥拝殿で山頂を拝し、祈りを捧げます。
遥拝殿の右横にはご神水の湧き出る泉があり、八大龍王社殿が建立されています。
大きなしめ縄が掲げられた山門をくぐると、ここからがいよいよ八丁坂の登山道です。
1km程の下り坂で、途中に石鎚神社の額を掲げた石造りの霊峰石鎚山遥拝鳥居があり、木々の間から弥山の山頂神社や岩黒岳と筒上山を望むことができます。

鞍部には八丁坂王子の石柱と納札を入れる金属製の箱と石鎚山三十六王子社の幟旗が設置されています。
鞍部からは一の坂。間伐材を利用した階段が続きます。しばらく登って行くと試し鎖と巻き道の分岐に出ます。

試し鎖を登り、前社ケ森の岩峰を経て下りの鎖を利用して反対側にでると、前社ケ森売店があります。
無理をせず巻き道を辿ると、安全に売店に辿りつけます。
売店で一休みした後、緩やかな坂道を登っていくと石鎚山の北壁や岩黒山、手箱山、筒上山等が見えてきます。
古森王子が登山道脇に祀られ、振り返ると前社ケ森の岩峰が良く見えます。

早鷹王子を過ぎ、坂道を少し下ると夜明峠に着きます。ここには天柱石を経由して西の川に下る登山道の案内標識が設置されています。峠の標高が1650m、西の川の標高は430m、標高差1200mほどあるので、この道は健脚向きの下山道です。
峠の先に夜明峠王子が祀られ、眼前に石鎚山の北壁、天狗岳、弥山。

ここから先が石鎚登山のクライマックスで、昔は草鞋を新しいものに履き替えて登ったといいます。
石鎚山の鎖場には2本の鎖がかけられていて左側通行。左が登りの参詣用、右が下向用。
全ての鎖場に立派な迂回路が設置されていて一般の登山者も安全に上り下りができます。
長さ27mの一の鎖を登りキャンプ場をすぎると土小屋からの登山道と合流します。
鳥居をくぐり急な石段を登ると、二ノ鎖下の避難小屋に到着。ここにはきれいなトイレが設置されています。
小屋のすぐ上に、長さ65mの二の鎖と巻き道の分岐があります。

二ノ鎖を登ると眼前に石鎚山の北壁が見るものを圧倒します。私のお勧めは巻き道です。
立派な階段が所々に設置されており、夏にはイワアカバナ、オオマルバノテンニンソウ、シロヒゲソウ、ダイモンジソウ、タマガワホトトギス、ホソバシュロソウ、ミゾホオズキ、ミヤマカラマツ、ミヤマダイコンソウ、ミヤマトウヒレン、メタカラコウ等の高山植物を見ることができます。
三の鎖は67m。

弥山の頂上には石鎚神社の本殿があり、瓶ケ森、笹ケ峰、冠山、平家平、西の冠山、二の森、クラセの頭、堂ケ森と360度の眺望を楽しむことができます。
鎖場を下り、痩せ尾根を辿ると天狗岳(標高1982m)。頂上には天狗嶽王子の石柱と納札の箱が設置されています。

今宮道を登る

標高200mの今宮道登山口の近くには河口バス停があり、西の川バス停まで一日四便の瀬戸内バスの運行があります。近くに自家用車を停めておくことも可能です。
三碧橋がかかる加茂川の渓谷が美しく、登山口に数軒ある旅館がすべて廃業された寂寥感が少し薄らぎます。横峰寺の別院も少し奥まったところにひっそりと佇んでいます。

成就社ロープウェイ駅をめざして登り始めるとすぐに、鳥居と石仏が見られ、さすがは表参道と感心します。

杉の植林地帯が続き、標高370mで第七番今宮王子社が現れ、その奥には第八番黒川王子社が並んでいます。
さらに登ると石垣が積まれた台地の上に建物が建っているのが見えたため、脇道にそれて石段を進むとお堂がありました。傍らの手水鉢には明治十七年と彫られています。

さらに奥に進むと第九番四手坂王子があり、金属製の箱の中に納め札の束が入っていました。石鎚神社のホームページによると、毎年10月下旬に本社から頂上社までの三十六王子の小祠の一つ一つに、奉納された納め札を納めて参る巡拝行を3泊4日で行っているとありました。

その先には登山道らしきものは見当たらないため、引き返して元の登山道をさらに登っていくと、舗装された車道と合流します。地図では車道と登山道が交差して書かれていますが現在は廃道となっているため、しばらくは車道を歩きます。あちこちに残置された廃屋が見られます。

標高750mのところで今宮の大杉、別名乳杉と出会います。樹齢800年、幹回りは4.6m、高さは30mあります。杉のたもとに参詣道改修工事への寄付金の石碑が立っています。昭和5年12月、寄付金弐百円の石碑と寄付金三百円の石碑で、参詣する信者を泊めて生計を立てていた今宮の住人が、当時としては大金を寄付したものと思われます。

さらに登っていくと、標高975m地点には第十四番花取王子社、標高1070m地点には第十五番矢倉王子社があります。

第十七番女人返し王子社は標高1250mのところにあり、まもなく、石鎚成就スキー場のゲレンデを横切って石鎚山ロープウェイ成就駅からの登山道と合流します。

夜明峠から天柱石経由で西の川へ下る

石鎚本教教会聯合会主催の「石鎚山三十六王子社巡拝」では3泊4日をかけ、石鎚神社から成就ルートで頂上へ至り、夜明峠からお塔谷を経て西の川に下ります。各王子では信者の氏名と祈願を書いた「納め札」を奉納します。
第三十四番夜明峠王子社から成就社の方へ少し下ったところに立派な案内標識があり、赤字で難路と表記されています。登山道はしっかりしていますが、標高1652mの夜明峠から標高480mの西の川まで標高差1172mもあるため、タフな下りのコースです。
峠から急斜面を1時間ほど下ると、鬱蒼とした自然林の中に周径20m高さ78mの天柱石が忽然と現れます。1400万年から560万年前に形成された火成岩で、流紋岩もしくはデイサイトです。天柱石の手前に第二十七番祈滝(いのりのたき)王子社と第二十五番御塔石(おとういし)王子社があります。
さらに下っていくと第二十三番双立王子社が見られ、一旦御塔谷川を左岸から右岸へ渡り、しばらくしてからまた左岸へ渡ってそのあとは西の川まで左岸を下ります。西之川集落は廃屋となっています。

土小屋ルート

石鎚スカイラインが昭和45年に開通してからは、面河渓谷から石鎚山に登っていた人のほとんどが土小屋から石鎚山に登るようになった。
スカイラインの途中から見る石鎚山は均整の取れた山容で、松山や西条から見る石鎚山とは全く違った印象を与える。土小屋の標高は1500mもあるので、石鎚山山頂(1982m)との標高差はわずか500m弱。最も手軽に登れるコースである。
土小屋には広い駐車場と立派な手洗いがあるのでここで身支度をして山道に入る。石鎚山は日本百名山なので登山道はとてもよく整備されていて歩きやすい。鶴の子の頭の巻き道を進むと、瓶ケ森が良く見える。
30分程で第一ベンチに到着。二の森と石鎚山東稜、天狗岳。弥山が良く見える。階段状の登山道を登って行くと第二ベンチ。ここからは尾根沿いの登り道となる。振り返ると岩黒山、手箱山、筒上山がよく見える。歩いて行くと石鎚山がドンドン迫ってくる。
尾根の北側に廻り込み少し下り再び登り返すと、第一ベンチから40分程で東稜分岐の第三ベンチに着くので小休止。
ここからは石鎚山の北壁を巻くように、いくつものルンゼを横切り少しずつ高度を上げていく。
谷沿いには奇岩の天柱石を見られる。二の鎖手前で成就からの表参道と合流する。

この古道を歩くにあたって

黒川道は通行禁止

古道を知る

石鎚山(標高1982m)は西日本一の高峰です。
石鎚山と呼ばれるようになるまでは石土山でした。
古くから人びとに崇拝されており、西条市にある弥生中期の八堂山遺跡には石鎚山の遙拝所が発掘され、また奈良時代には前神寺や横峰寺など石鎚山と関わりのある寺院が開創されています。
平安時代から鎌倉時代には、修験道の祖と言われる役小角の有縁の地として伝わり、弘法大師も若い頃にここで修業したと言われ、修験者が集まる霊場となっていました。
江戸時代には庶民に『石鎚講」が広まっていきます。江戸時代中期に石鎚山頂上直下の三の鎖が架け替えられており、松山のお山講が寄進したことが鎖に刻印されていたことからも、瀬戸内沿岸の村の人々が集団で石鎚山に登っていたことがわかります。
入峰修行が娯楽の要素を含んだ集団登拝になり、修行の山から信仰の山へと変わっていきました。
明治4年に神仏混交が廃止され、頂上と成就、また成就から頂上までの参道は石鎚神社の境内となりました。
これまで先達の案内で登拝していましたが、大正初期頃から個人でも石鎚山に登るようになり、河口(こうくち)集落を起点として黒川道や今宮道を登り、成就社経由で石鎚山に登るようになりました。
大正12年に国鉄予讃線が高松から今治まで開通し、小松駅からバスで河口まで行けるようになりました。
昭和43年に石鎚山ロープウェイが開通し、現在ではロープウェイを使い、表参道経由で石鎚山に登るのがメインルートとなりました。
ロープウェイ開通前は河口(こうぐち)集落起点の黒川道と今宮道が表参道のメインルートでした。
黒川道は土砂崩れのため通行止。廃道となってしまいました。
今宮道は、河口集落を起点として今宮集落経由で成就社まで登る登山道(標高差1100m)で、表参道として栄えました。
今宮集落には最盛期の大正8年には36戸の家があり、普段は炭焼きや林業、ミツマタや茶の栽培に従事。
そのうち11戸がお山市(7月5日から10日)の期間だけ季節宿を営んでいました。
大正8年の記録によると、今宮のお山市の頃は一日2500人ほどの信者が各地から登山し、今宮の農家に宿泊。
一泊2食付きで1円20銭。5日間で千円位の純利益を上げるものもいたそうです。
昭和43年、今宮集落では19戸の家があり、11戸が季節宿を営んでいましたが、ロープウェイ開通後、今宮道を登る信者は激減し、昭和50年代にはほとんどの住民が小松町や西条市に移住。
今宮集落は現在廃屋と石垣だけが残っています。
今宮道は杉やヒノキの植林地帯を通るなだらかな歩きやすい登山道で、途中に36王子社の祠があります。

深掘りスポット

石鎚山三十六王子社

王子といえば世界遺産の熊野古道の九十九王子が有名である。熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社のことをいい、参詣者の守護が祈願された。
石鎚山にも古来から36の王子社があり、石鎚神社本社から頂上までの各所に点在しているが、成立年代は不明である。
日本古来の山岳信仰を背景とした「祈りの場」であり「行場」であったが、一般の人の石鎚参りが隆盛を極めた江戸末期には衰退し、明治初期の廃仏毀釈によって放置されるようになった。
昭和6年(1931年)、第十代宮司武智通定氏により王子社と推測される場所に石碑が建立された。
第十三代宮司十亀和作氏が社蔵の古文書をひも解き、古老の口伝に基づいて、昭和38年と昭和46年の2回にわたる実地調査を経て昭和47年に「石鎚山 旧跡三十六王子社」を刊行。それ以降順次、道標整備、石造り社殿の建立が進められた。
石鎚山旧跡三十六王子社は石鎚神社から成就ルートで頂上へ至り、夜明峠からお塔谷を経て西之川に下るコースで、石鎚本教教会聯合会主催の「石鎚山三十六王子社巡拝」では3泊4日でこの行程を巡礼し、各王子で信者の氏名と祈願を書いた「納め札」を奉納する。

ミニ知識

石鎚山のお祭り お山開き

石鎚の山開きには期日の変遷があったようである。
江戸初期には旧6月1日から3日間であったのが、江戸末期には5月25日より6月3日になり、さらに現在の新暦7月1日より10日までになるのである。
石鎚山山開きの祭礼は、現在は6月30日に口宮の石鎚神社本社から御神像を頂上社に奉遷する神幸祭で始まる。
智・仁・勇をあらわす金銅製の御神像三体を神輿に遷し、山麓の青年たちの奉仕によって、中宮の成就社まで運ばれる。翌朝、信者の背に負われて御神像は頂上社に奉遷されるのであるが、これが石鎚祭礼の白眉である。
「お上り」の神事である。ついで頂上社から10日には本社に還御するが、これが「お下り」神事である。

まつわる話

石鎚信仰の三山

石鎚山を修験道場として開いたのは、修験道の開祖役小角であると伝えられているが、これは大和の金峯山などにもある伝承である。
弘法大師空海も、若い頃に石鎚山で修行したと、その著『三教指帰』に記しているが、この石鎚山が行場として、宗教的体験の聖所として開かれたのは、奈良・平安の頃からであろう。
石鎚連峰は、石鎚山を主峰に、東に連なる瓶ケ森(1896m)、笹ケ峰・子持権現などの山々からなる。
一般に石鎚信仰といえば、主峰の石鎚山を対象とする石鎚神社、前神寺、成就(常住)、弥山(頂上)の考えが常識になっているが、瓶ヶ森・笹ヶ峰の東側の峰も実は信仰対象になっていた。
すなわち、現在の石鎚神社でいえば、山麓の西条市西田に鎮座する石鎚神社が本社で、成就社が中宮、頂上社を奥宮とする三位一体の信仰形態をとっているが、これは明治三年の神仏分離以後の構成である。
それ以前は現石鎚本社の位置に前神寺があり、常住は奥前神寺と称し、山頂を弥山とする信仰形態であった。
この前神寺が石鎚信仰の支配権を掌握したのは鎌倉時代以降であろうと推測されている。
前神寺が支配した西の石鎚山に対し、東の笹ヶ峰や瓶ヶ森を霊域として主張したのはその山麓にあった天河寺、法安寺などである。
天河寺は瓶ケ森の石鎚権現(蔵王権現)の別当を主張し、瓶ヶ森の常住には坂中寺があり、山頂の瓶ヶ森のそばには弥山が設けられていた。
これに対し、西側では法安寺から横峰寺・山頂・天柱石(お塔石)などが、一連の霊地をなしていたと推測される。
つまり、石鎚には東西二つの霊域があるのである。

ルート

石鎚山登山ロープウェイ山頂成就駅
25分 ↓ 0.8km ↑ 20分
成就社
70分 ↓ 1.9km ↑ 60分
試しの鎖分岐
60分 ↓ 1.0km ↑ 40分
二の鎖避難小屋
35分 ↓ 0.7km ↑ 20分
石鎚山弥山山頂
15分 ↓ 0.2km ↑ 15分
天狗岳山頂

アクセス

車利用の場合
松山自動車道小松I.C又は西条I.Cから石鎚山登山ロープウェイ下谷口へ
駐車場:あり

公共交通機関利用の場合
JR西条駅から瀬戸内バス
URL:http://www.setouchibus.co.jp/

参考資料

西海賢二、時枝務、久野俊彦編「日本の霊山読み解き事典」柏書房、2014年
西海賢二「石鎚山と修験道」名著出版、昭和59年

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会四国支部
今井順一

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