single-kodo120_detail
102 萩往還
萩往還の中で山岳古道としてご紹介するのは萩~山口区間の約34kmです。
今回は、山口から萩を目指して1泊2日で歩くコースをご紹介します。
山口から険しい峠を越えて、最後に萩城下町や日本海に至ることで遠くまで歩いた感慨が湧くことでしょう。
ルートは、山口市内の山口客館跡(藩の迎賓館、現在裁判所、(標高25m、以下同))から北上し、難所の一ノ坂、板堂峠(537m)を経て、盆地の宿場町佐々並(220m)で一泊します。
翌日、大小3つの峠(340~420m)を越え、宿場町明木(50m)に至ります。
最後の悴坂(かせざか)峠(150m)を経て、萩市内の唐樋(からひ)札場跡(5m)が街道終点となります。
参勤交代の道なので、できれば続けて萩城下町を通り萩城跡、指月山(143m)まで目指しましょう。
宿は途中1軒しかない佐々並のはやし屋旅館で豆腐料理を味わいます。
また、山深い休憩所で獣の声を聞きながらビバークするのも一興でしょう。
沿道にはたくさんの遺構や文化財がありますので、歴史の好きな方も楽しめます。
中でも注目したいのは、国宝瑠璃光寺五重塔、難所の一ノ坂と一升谷、最後の指月山(しづきやま)でしょう。
またルート上には、桜の名所(一ノ坂川、瑠璃光寺、山里の桜、萩城跡)があります。
桜の開花時期(3月下旬~4月上旬)は特にお勧めで、この時期は格別な古道歩きになるでしょう。
山口客館跡 → 一ノ坂 → 板堂峠 → 佐々並(約16km 歩行約8時間)
山口駅から北に裁判所があり、ここが要人を迎えた藩の迎賓館、山口客館跡です。
ここから萩往還の街道が始まります。通りには萩往還のプレートも見られます。
商店街の中には、遺構はありませんが山口本陣跡がありました。
東に向かう石州街道と別れ、北に進むと維新の志士達が集会した十朋亭があります。
その先の山口ふるさと伝承センター(旧野村家住宅)は明治19年築の造り酒屋で国登録文化財です。珍しい酒樽茶室は必見です。
4車線の広い道路に出ると、脇に上堅地蔵尊があります。これから目指す板堂峠から地蔵が飛んで来たという言い伝えがあります。
さらに北に進むと左手に国宝瑠璃光寺五重塔と薩長連合が締結された枕流亭がありますので、是非お立ち寄りください。
さらに北へ進むと一ノ坂ダムと錦鶏湖に着きます。江戸時代にダムはなく、湖の底が街道でした。
ここでは、湖の東側の県道ルートが多く紹介されています。しかし、湖の西側のルートが風情もあり、車両も少ないのでのんびり歩けます。
春はダム公園の桜や公園トイレも通過しますので、西側ルートをお勧めします。
一ノ坂は四十ニ曲がりと言われ、急峻な折り返しの石畳が続きます。その先に六軒茶屋が建っており、御駕籠建場跡もあります。
茶屋からは、一ノ坂一里塚、一貫石、キンチジミの清水が続き、板堂峠(萩往還最高標高537m)に至ります。
板堂峠は峠の下に一ノ坂銀山の祈願所として板葺のお堂があったことに由来しています。
その先には国境の碑があります。さらに下った夏木原は番所があった場所で、吉田松陰歌碑があります。
ここは寒暖差が激しく歌碑の奥には氷室跡があります。ここの氷は夏の山口祇園祭りで飛ぶように売れたそうですが、冬には雪で通行できないこともありました。
さらに県道を下ると一ノ坂銀山に由来する逆修石(ぎゃくしいし)があり、その先に当時の姿のまま現存する上長瀬一里塚があります。
県道から左折し田舎道を進むと石風呂(復元)と日南瀬(ひなたせ)休憩所があります。
この裏には、祈願成就の首切れ地蔵があります。
その先、田舎道から国道に出ますが、交通量を避けたければ左側に迂回する田舎道も歩けます。
佐々並の入口に、佐々並市頭一里塚があります。佐々並は、重要伝統的建造物群保存地区に指定され、古い町並みを楽しめます。
ここでは、萩往還おもてなし茶屋で一休みしてください。付近に店舗はなく、必要なものは西に500mほどの道の駅あさひで購入ください。
宿は佐々並に1軒しかないはやし屋旅館で豆腐料理を頂くのがお勧めです。
佐々並→明木→萩市唐樋札場跡(約17.5km 歩行約8時間)
佐々並に別れを告げ、再び山道に入ります。千持峠(340m)を越えると与三原休憩所があります。
さらに下った先に落合の石橋(国登録文化財)があります。小さな石橋ですが、現存する江戸後期の石橋で、はね橋という山口県以外では見られない珍しい工法です。その先の川沿いには落合の石畳があります。
猪よけのフェンスを通過し中の峠(釿切峠、420m)で国道を横断します。ここは交通量も多く注意して横断ください。
その先には、竹林公園と七賢堂の展望台があります。展望台からは萩方向が眺められます。その下には中の峠下一里塚があります。
その先に釿切(ちょうのぎり)御駕籠建場と桜茶屋跡の説明板が見えてきます。茶屋には2人の美しい娘がおり、たいそう繁盛したそうです。お殿様には桜茶が振る舞われました。
地下道をくぐり、猪よけのフェンスを通過し、釿切(ちょうのぎり)の石畳を登ると五文蔵峠(ごもんぞう)(標高346m)に着きます。峠下の茶屋でお茶とわらじを五文で売ったら蔵が建ったことが由来です。
峠からの下りが2つ目の難所の一升谷です。標高差約300mの長い坂で、五文蔵の石畳、根の迫休憩所、根の迫の橋、彦六の道分れ、町田梅之進自刃地と続きます。
自刃地の前後には、江戸時代の石畳が手を加えず残されている一升谷の石畳があります。
山中から明るい里に出ると、赤間関街道(中道筋)分岐の道標があり、2つの街道で栄えた宿場町明木に到着です。
萩往還マンホールもお出迎えです。すぐ先に大きな建物があります。昔の庄屋だった大庄屋滝口家です。
無人休憩施設の乳母の茶屋は毛利家の乳母に与えられたものです。
川沿いに、明木の吉田松陰歌碑があります。その先には、殉難三士の解説板があります。
山中に入った所には三角の烏帽子岩があります。幕末仲裁に入った三士が反対派に討たれ、この岩に首をさらされました。長州内部の悲しい出来事です。
この付近も濃い緑と苔に覆われた石畳、谷川のせせらぎととともに風情が感じられます。
舗装道に合流すると悴坂休憩所に着きます。舗装道の先には、明治16年着工の石造洋風隧道の鹿背隧道(国登録文化財)があります。
少し引き返し、右手山道に上がり、最後の峠となる悴坂御駕籠建場跡に至ります。ここには茶店もありました。
ここを下れば道の駅萩往還に到着です。吉田松陰記念館、観光物産館、レストランがあり、賑わっています。
さらに下ったところに日本で初めて女性が解剖された大屋刑場跡があります。
悴坂一里塚を過ぎると以降は舗装道が続きます。
萩往還梅林園では2月に見事な梅花を楽しめます。
さらに下ると、涙松跡(吉田松陰歌碑)があり、ここから萩の城下も見えてきました。
萩駅(駅舎は国登録文化財)から北上すると右に金谷天神があります。萩城下の入口で大木戸門と番所があった場所です。
橋本川から指月山が見えます。街道はまっすぐ北上ですが、鯉が泳ぐ藍場川に沿って進み、藩校のあった明倫館(日本三大藩校)を通る方が交通量も少なく風情があるでしょう。
最後に街道の終点となる、唐樋札場跡に到着です。ここは、西に下関に向かう赤間関街道(北浦筋)、北に石見に向かう石州街道(海辺街道)、東に岩国、和気に向かう山代街道と交差し、4つの街道の起点です。
唐樋とは、ここが低湿地帯のため海からの潮を防ぐ唐樋門(水門)があったことが由来だそうです。
萩城跡と指月山(約3km、約1時間20分)
参勤交代の道としては、萩城跡が終点になります。萩城下町を通り、萩城跡に入場(220円、約1時間)、城内は見事な連理の松があり、春には桜の名所です。
ガクが緑のミドリヨシノ(県天然記念物)が見られます。
城内の左手奥に指月山登山口があり、築城時とほぼ同じ道を歩いて20分で指月山山頂に登ります。
日本海と山々を一望すれば、歴史の道萩往還を歩いた感慨が一層深まるでしょう。
萩市内の標高は約5m、山口市内は約26mなので、萩から歩いても体力的に差はない。
萩から歩く場合は、一升谷で豆を食べながら歩くといいだろう。
また、海からのSEA TO SUMMITとして、萩往還&東鳳翩山(734m)という楽しみ方もある。
参勤交代はこの区間を1日で歩いている。健脚の方は挑戦するといい。
(日が暮れる可能性があるのでヘッドライト必須。日の長い夏場を選ぶのがよい)
■
整備された道で、危険か所はない。案内看板も整備されている。
唯一、危険を感じるのは、2日目の中の峠(釿切峠)の国道横断である。
峠で車が見通せず、追越し車線のため車速が早いので、充分注意して横断されたい。
1日目の山口市内を離れてからは、店や自販機はない。
佐々並で唯一食品販売のある道の駅あさひは午後4時30分と閉店が早く、それ以降は食品調達が難しい。
山口出発時は、1日目の食料、飲物と2日目の行動食を準備するのがよい。
2日目は、道の駅萩往還のレストランか店舗で食品調達が可能だ。
寒暖差のある地域なので、朝晩が冷え込むことを念頭に準備されたい。
靴は、石畳とアスファルトの固い道が多いので、クッション性のある軽登山靴、トレランシューズがよい。
2日目の一升谷の下りと萩市内の舗装路で、足まめができる人がいるので、慣れていない方は対策をしておくとよい。
萩往還の魅力に石畳がある。
明木の一升谷周辺は江戸時代の石畳が残っている。
一升谷では上部の五文蔵の石畳で、発掘時に古い石畳が2か所で残っていた。
しかし、流出の恐れがあったため古い石畳を生かしながら周辺に石を加えて、新しい石畳に修復された。
下部の町田梅之進自刃の地付近は一升谷の石畳という。落ち葉や小枝に覆われてわかりにくいが、並走する林道より一段高い山側に、江戸時代の石畳がそのまま残されている。
一ノ坂(四十ニ曲がり)、六軒茶屋、板堂峠、千持峠、悴坂峠の石畳は復元されたものだが、いずれも当時の雰囲気を感じさせる石畳となっている。
萩往還の一里塚は4kmよりやや長めで、唐樋札場跡を起点に一里ごとに石積みと道標が建てられた。
萩~山口区間の一里塚は7つで、2つは消失、3つは後に組み直されたものである。
ただし、上長瀬一里塚、悴坂一里塚は当時の原形を残すもので、貴重な交通遺産となっている。
萩藩の大名行列は1000人前後、調達された人夫は約600人、馬は約700頭。
殿様のお風呂や便所まで運んだ大行進だった。
人馬の調達は、藩内では村々が負担し、藩外では口入屋を通じ各地で調達された。
この大規模集団が、萩~山口の山道34kmを、朝早く出発して、佐々並で昼休憩、夕方には山口に着いた。
これだけでも早いと思うが、藩外では1日50kmは歩いたそうだ。
距離の短い萩往還は一番楽だったと記録されている。さて、現代人が萩往還を歩いて、どう感じるだろうか。
狼煙は情報を高速に伝える手段として、当時の主要街道沿いの山々に設置された。
萩往還の狼煙山は、遺構は見つかっていない。しかし、存在の記録があり、およそ一村に一つの狼煙山が任された。
用途は、参勤交代や幕府の巡見使の発着、事件等の連絡に使われたとされている。
現在山々は樹木に覆われ見通しがきかないが、当時の山々は植生が低く狼煙山同士が見渡せたようだ。
しかし、情報は単一で、早馬と比べどれほど有用だったかはわからない。
狼煙山は地図に記載したが、板堂峠周辺は位置が諸説あるので省略した。
地図に記載の茶臼山、方ヶ嶽、高焼山、岩城山は、登ることは難しい。
ただし、明木のいすのこ山は、登ることが可能だ。現在は「石の巷山」と名前が変わった。
登山道はやや荒れ気味だが約1時間で登れる。山頂には狼煙山であることの説明板がある。
展望台からは南の狼煙山である方ヶ嶽(野丸山)も見渡せ、狼煙山の雰囲気が感じられる。
萩はジオパークに指定され,地質学的にも面白い場所だ。
佐々並カルデラは、宿場町佐々並がカルデラの中心にあたり、板堂峠、五文蔵峠が外輪山にあたる。
指月山周辺の阿武火山群は、珍しい単性火山群(1回の噴火で形成された火山群)である。
日本海にはパイを並べたような平らな島々が浮かび、萩独特の景観をなしているが、これは溶岩の粘度が低かったためで、この平らな島々も一つ一つが火山だ。
近くの、笠山は世界最小の火山とも言われ、ここの溶岩石は、城下町の建設に役立った。
維新の志士達を支えた商家の離れである。藩には「越荷方(こしにかた)」という商社(金融、倉庫)部門があった。ここは山口越荷方会所が置かれていた場所でもあり、高杉晋作、伊藤博文らも藩の立場で関わっていた。この萬代家の当主は尊王愛国の思いが厚く、彼らは十朋亭にたむろし、多数の志士達が集まった。
https://jippotei-ishinkan.jp/
山口市内の中央に流れる小さな川である。十朋亭から約200m西から瑠璃光寺五重塔までの川沿いは歩道、景観が整備され市民憩いの散策コースになっている。特に4月の桜並木、6月のホタルは多くの人で賑わっている。
http://yamaguchi-city.jp/details/ac_ichinosaka.html
すっきりした塔身、檜皮葺の軽快に反った屋根は、日本三大名塔に数えられる。
国宝にして、大内文化の最高傑作である。
山口市はニューヨークタイムスの「2024年に行くべき52カ所」において日本で唯一選ばれた。その冒頭に非の打ちどころのない五重塔として紹介され注目を集めた。
この塔は、25代大内義弘を供養するために建てられたものだ。
義弘は、一時期、大阪の堺までも治め西国の雄として勢力を拡大した。しかし、これに恐れた足利氏に討たれたのだ。曹洞宗瑠璃光寺には日本最古級の正法眼蔵の写しが保管されている。五重塔は山口市の観光シンボルであり、一体は香山公園として整備され、毛利家墓所、うぐいす張りの石畳、枕流亭などがある。
http://yamaguchi-city.jp/details/aa_ruri_tou.html
中国一円から来ている毛利家家臣が、中国地方で一番険しい坂と言ったのが由来である。
中腹の六軒茶屋までは平均斜度19度、最大斜度29度と難所の石畳が続く。
「ここは一ノ坂、四十二の曲がり、おりてくだされ旦那様」と駕籠かきが頼んだとの逸話がある。
実際この角度では、籠の中の人も足を突っ張るなどしても辛く、降りて歩いたのではないかと想像できる。
当時、ここにあった六軒の農家が軒先に茶店を出して賑わった。
今は鬱蒼とした森だが、当時は山口の街が見渡せる眺めの良い場所で、坂の中腹のオアシスだった。
建物や殿様の駕籠建場も当時の資料から復元されている。
https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_17052.html
一貫石は現在の道より上に見える。実は街道は一貫石の脇にあったのだ。
当時はお伊勢参りが盛んだった。庶民にとっては旅行ができる公認のレクリエーションであった。
そのころは旅人を守るルールがあり、意外にも誰もが比較的安全な旅ができた。
最盛期で年450万人、日本の人口の6人に1人が参拝に行ったという。このための伊勢講も盛んで、人々が順番を待った。
さて、お伊勢参りの行く途中、講仲間から託された賽銭一貫文(約2万円)を入れた財布をこの石の上に置き忘れてしまった。
帰りにもうないだろうと立ち寄るとそのまま置いてあったそうだ。それが名前の由来となった。
信じがたいことだが、当時の治安の良さを示す話である。
お伊勢参りが盛んで、気付いた人もお金の由来を想像でき、手を付けなかったのかもしれない。
http://cassiopeia.a.la9.jp/cg/rekishi/ishi.htm
その名の通り,当時は夏でも縮みあがるほどの冷たい清水が沸いたという。
ここに茶店があり、トコロテンを冷やして売ったそうだ。上部の夏木原には氷室があるように、冷たい水脈が湧いたのだろう。現在枯れているのは、広葉樹が杉等に植林され、樹層が変わり、山の保水力がなくなったからと言われている。
http://cassiopeia.a.la9.jp/cg/rekishi/kin01.htm
一ノ坂銀山は大内氏が開き、毛利氏が受け継ぎ、江戸初期に繁栄した防長屈指の銀山である。石見銀山を失った毛利氏は、一ノ坂銀山の開発を強力に進めた。採掘された銀は萩城下町の建設に寄与したと言われる。間歩(坑道)、吹屋(精錬所)、ズリ山、山神社跡等が残り、谷あいは鉱夫や技術者等多くの人が生活し、遊女町、魚町、八百屋町などがあり、5000人が暮らしたと伝えられる。
場所は国境の碑から道を下り、金山谷に至り、対岸に川を渡渉して銀山跡に至る。そのまま登れば電波塔のある県道付近に出る。1時間弱で周回できる。しかし、現在は廃道となっており、沢の付近は草が繁り道はなく、マムシも出る。電波塔に出る付近も道はなく、藪漕ぎになり、道迷いされる方があるので立ち入るのは慎重に自己責任でされたい。
ここは一ノ坂銀山で亡くなった者の供養祭をした場所だった。逆修とは現世での功徳を意味する。銀山を閉じるとき管理人が感謝を込めて往来に小玉銀等を配ったそうだ。石には文字が刻んであるそうだが、読めそうな方は挑戦してみよう。
一升谷は、一ノ坂と対照的に直線の石畳が続く。上部の付近は一ノ坂と同等の急峻さである。1合目から10合目までの石柱もある。一升のいり豆を食べながら登ると食べつくしたと言われ、長い坂の比喩であることがわかる。ここは、上部の五文蔵の石畳、下部の一升谷の石畳とともに、古い萩往還の面影を最もとどめるお勧めスポットである。
当時の街道沿いは松並木であったが、ここには特に松の巨木があった。萩城下が遠く見える場所で、萩を去る者、帰る者ともこの場所で故郷を見て涙を流し、いつしか涙松と呼ばれた。
吉田松陰は、江戸幕末から明治維新へ、その先駆けとなった稀な思想家であり教育者であった。松陰は萩往還の途中で3つの歌を読み、その場所に歌碑が建てられている。
松陰は、長州藩期待の天才と評され、若くして全国遊学を許された。その頃の萩往還は希望に満ちた道中だったろう。師となる佐久間象山に学び、アジアにおける欧米の植民地政策から日本を守る必要性を強く抱く。そして、欧米の情勢を知りたいがため、直接ペリー率いる黒船に密航する。ペリーは幕府との重要な交渉時期だったため送り返すが、日本に素晴らしい人材がいることに驚き、幕府に寛大な処分を申し出る。幕府も罪人としてではあるが萩に帰される。
明木で読まれた漢詩の意は、「少年の頃、志しを持ち、明木に帰るときは立派になってからと思っていた。今は檻の中であっても、故郷に錦を飾って帰る思いなのだ。」。松陰は、国を思い、正しいことを為したことを、故郷に堂々と伝えたかったのだ。
松陰は牢獄の後、実家で幽閉となり、松下村塾を引き継ぐ。わずか1年余りであったが、身分に関係なく、個性と才能を引き出す個別指導を行い、講義、知識付与ではなく、師弟に関係なく共に学び合う討論、そして学び得たことの実践を重んじた。これにより個性に秀で、実行力を伴う人材が生み出される。
その後松陰は、幕府を公然と批判するようになり、再び江戸で取調べられることになる。
涙松で読まれた句は、「帰らじと 思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな」。
夏木原で読まれた漢詩の意は「自分は縛られ江戸に送られる。自分は天地神明にかけて意見を述べる決意をしている。夏木原は、雨雲が黒く立ちこめ、辺りのツツジは真紅に燃えている。血を吐くまで鳴くというホトトギスの血のようであり、自分の胸中も同じなのだ。」。嫌疑をかけられたこの機会に、世界情勢と日本がなすべきことを幕府に進言しようと決意していた。
松陰の思いは幕府に届かず、29歳で斬首となる。直前に留魂録を書き残し、弟子達に託す。松陰は、日本のため惜しみなく身を捧げた至誠の人物だった。そして数畳ほどの私塾から日本を動かす人材を輩出させた。弟子達は明治維新の原動力となり、日本を守り欧米と対等の国家として発展させる。これは松陰の存在と先見の教育なくして語ることはできない。
一度登ればこの山の素晴らしさに気づくだろう。城山として樹木の伐採が禁止され、何百年も自然の状態が維持された。シイ、タブノキ、クスノキ等、樹齢600年を超える巨木が全山を覆って鬱蒼と繁っている。温暖帯照葉樹林として稀にみる成熟した極相林(最終到達林相)を形成していることから、国の天然記念物にも指定されている。ここに足をのばす人は少なく、静かな山歩きが楽しめる。山頂には当時の石垣、貯水池、岩を切り出したタガネの痕も見ることができる。
「新日本百名山」に県内で唯一選ばれた東鳳翩山は、山口県を代表する山だ。丁度、街道の途中に登山口がある。主なコースは、ダム公園からのコース(片道約3.5km、約1時間20分)と板堂峠からのコース(片道約3km、約1時間)だ。板堂峠のコースは、周防国と長門国を分ける稜線上の道で、中国自然歩道の一部となっている。山頂では360度の大展望が得られ、遠く瀬戸内海も望める。余裕があれば挑戦してみよう。
山口市惣太夫町2-1 山口駅2階
萩往還の地図、パンフレット等の情報発信、同行ガイドなどを行っている。
https://hagi-okan.yamaguchi-city.jp/
萩市大字佐々並2524ー1(電話0838-56-0033)
観光情報や特産品販売があり,手作りの甘がゆ150円は疲れた体を癒す(要予約)。
https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100096
萩市大字佐々並2660番地(電話0838-56-0007)
風情が味わえる山里の旅館だ。伊藤博文も好物だった名物佐々並豆腐料理がリーズナブルにいただける。
http://y-hayashiya.com/
萩市佐々並2476-1
佐々並で唯一の食料品店。物産館、レストランあり。
https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=1100186
萩市大字椿字鹿背ヶ坂1258
松陰記念館、観光物産館,レストランあり。
https://www.hagioukan.com/wp/
萩市椿3537-3
大正14年の山陰本線開通時に建てられた大正ロマンあふれる洋館駅舎である。全国にも数少ない、鉄道開通時のまま現存する駅舎で、国登録文化財である。
https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100066
萩市江向602番地
萩市の観光博物館,萩ジオパークセンターがあり,萩の歴史、文化等が学習できる。
https://www.city.hagi.lg.jp/site/meiringakusha/
地元の大内氏はその手腕で大陸交易を独占し、博多を支配し、石見銀山を開拓し、莫大な財力を得る。南北朝時代、長門、周防の守護となった24代大内弘世は、京の町や文化に引かれ、公家から妻をもらった。当時未開の山口に、その妻を慰めるため一ノ坂川を鴨川に見立て、京都を模した街づくりを行った。そして京からの文化人を保護した。以降約200年間、山口は大陸文化が融合した大内文化として栄え、西の京と呼ばれた。今でも山口市の文化、社寺、地名には京の名が色濃く残る。
萩藩は、江戸中期からは長州藩と言われることが多い(本稿でも併用するが同じものである。)。
関ケ原で敗れた毛利氏は、石高が130万石から29万石に減る。そのため多くの武士が農民や商人に転身した。
その後、藩の足りない役目を武士から転身していた農民、商人などが担っていた。そのため全国では珍しい農兵は長州では当たり前のことだった。
「地下(じげ)のことは地下で処理せよ、藩にやっかいをかけるな。」という言葉があり、藩は民に干渉しない気風だった。
人材登用は能力主義で、身分の低い者も殿様と面会でき、ボトムアップの気風があった。他藩が厳しい身分制で下から意見を言えなかったのに対し、長州藩は少し変わった藩だった。
藩の石高は37万石と届け出ていたが、実際には53万石あった。幕府からの賦役も軽く、百姓の多くが自作農で豊かだった。
藩の財政危機を乗り越え、藩の商社(越荷方)も利益を上げ、幕末は100万石の経財力があったと言われる。
幕末の長州藩の寺子屋は1480もあり、全国で2番目に多く、百姓も豊かで寺子屋で習えた。幕末には今で言う市報が各戸に配られ、民衆をまとめるのに役立った。それは百姓も字が読めたからできることだった。
長州藩は、海に囲まれ、海路の要所たる関門海峡を有する。そのため、幕末に欧米の脅威にさらされる。毛利の祖は公家だった関係から京や朝廷と深い関係が続いており、尊王攘夷運動(天皇を尊び、外国を撃ち払うこと)が広まる。
長州藩が明治維新の推進役になったことは、こうした独自の素地があったからだ。
1日目 約8時間 約16km
山口駅
↓ 約1時間30分 約2.5km
瑠璃光寺五重塔
↓ 約1時間30分 約3.5km
天花坂口
↓ 約2時間 約3.0km
板堂峠
↓ 約1時間30分 約4km
日南瀬休憩所
↓ 約1時30分 約3km
佐々並
2日目 約8時間 約17.5km
佐々並
↓ 約1時間30分 約4km
竹林公園(の峠付近)
↓ 約1時間 約1.5km
五文蔵峠
↓ 約1時間30分 約4km
明木(萩往還交流施設乳母の茶屋)
↓ 約2時間 約2.5km
道の駅萩往還
↓ 約1時間 約3.5km
萩駅
↓ 約1時間 約2km
唐樋札場跡
オプション 萩城跡、指月山 約1時間30分 約3km
唐樋札場跡
↓ 約1時間 約2.5km
萩城跡
↓ 約30分 約500m
指月山山頂
時間は、一般的なガイドブックより1,2割程度長目となった。実際の現地調査で、遺構の見学、ガイドの説明を聞きながら歩いたからだろう(休憩時間も含む。)。しかし、この時間を目安にすれば、ゆっくり見学したとしても大丈夫だ。
参考パンフレット、地図
https://hagi-okan.yamaguchi-city.jp/pamph/
山陽新幹線の新山口駅から山口線で約25分、山口駅に到着する。
山口駅-萩バスセンター間は、中国JRバスが運行している。このバスの萩往還上のバス停は日南瀬から萩までの区間に点在する。途中での日帰り、緊急時のエスケープとして利用可能だ。
萩バスセンターは、唐樋札場跡からすぐだ。そこからは、前述の山口駅行きバス(約1時間30分)のほか、迂回して、山陽新幹線の新山口駅まで直接出る直行バスもある(防長交通バス、約1時間)。
山口駅~萩バスセンター JRバス
https://www.chugoku-jrbus.co.jp/route_bus/yamaguchi/detail/index.html#yamaguchi_4
新山口~萩バスセンター(スーパー萩号)
https://www.bochobus.co.jp/publics/index/230/
「歴史の道調査報告書「萩往還」」山口県教育委員会
「歴史の道「萩往還」復元整備工事報告書」萩市
「歴史の道「萩往還」保存整備事業報告書」旭村
中澤さかな「萩往還を歩く」萩ものがたり
遠藤薫「伊能図で辿る萩往還」(「九州文化図録撰書」第9号「長州維新の道(下巻)萩往還」)のぶ工房
「松陰と道」山口県教育委員会
金光康資「防長山野へのいざない」
「萩市史」萩市
「防長風土注進案」(天保の大改革において地方の実態調査をしたもの)
山口市観光協会
http://hagi-okan.yamaguchi-city.jp/
萩ジオパーク
https://hagi-geopark.jp/visit/hagi-okan/
《執筆者》
日本山岳会広島支部
澤江 学
《協力》(敬称略)
日本山岳会京都滋賀支部 金光康資※1ほか同会員
やまぐち萩往還語り部の会 久保正人※2
※1 金光康資:山口県在住。『防長山野へのいざない』第1~4集で、山口県の約950座もの山について掲載し、日本自費出版文化賞、今西錦司賞を受賞。日本山岳会京都滋賀支部所属。
※2 久保正人:元山口県庁職員。山好きで、『四方山話』を自費出版される。萩往還の講演多数。実地調査では2日間をボランティアでガイドをされる。歴史にも詳しく文献にないものは、同氏の解説によるところが大きい。
《謝辞》
実地調査等でご協力くださった久保さま、金光さま、写真や録音など提供いただいた山口県在住の京都滋賀支部の皆様、広島支部の皆様に心から感謝申し上げます。(執筆者)