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101 津和野街道 杉ヶ峠・生山峠

津和野街道 杉ヶ峠・生山峠

津和野藩の参勤交代道であった津和野街道は、石見国・津和野と安芸国・廿日市を結ぶ73kmの街道でした。
参勤交代ではこのルートを3泊4日かけて歩いていました。
津和野藩は広島藩と合意の上、瀬戸内海に面した廿日市に上方との中継基地となる御船屋敷を構え、多数の船、蔵、屋敷を持ち、参勤交代のみならず上方との交易を行っていました。
津和野藩主が江戸から帰藩の際は、東海道から陸路で兵庫県の室津に至り、瀬戸内海を海路で廿日市の御船屋敷に着いた後、そこで参勤交代陸路の隊列を整え西国街道で西に向かい廿日市宮内村砂原で西国街道から離れ、津和野街道を辿って故郷に帰って行きました。
参勤交代の経路として利用されたこの道は、津和野藩の経済活動や文化交流だけでなく、さらに幕府のキリシタン弾圧の歴史とも深く結びついています。
慶応3年(1867年)、新政府による大規模な隠れキリシタン弾圧事件(浦上四番崩れ)が起こります。捕縛された信者3392人の内、153人が津和野藩の船屋敷へと送られ、津和野街道を通り配流・幽閉されて長く苦難の旅を辿りましたが、その悲哀は信者の巡礼の道として今に続いています。
津和野街道の風景は、西中国山地を越える険しい道や美しい自然と共に一部には石畳が残り、当時の足跡を想像させます。
街道には二か所に大きな峠越えがあり、その一つが津和野に近い杉ヶ峠(すんがたお、標高650m)で、もう一つは、街道で一番難所の生山峠(なまやまとうげ、標高950m)です。
なお、「古道を歩く」では、杉ヶ峠は津和野から、生山峠は廿日市から歩いています。

古道を歩く

杉ヶ峠編(津和野→杉ヶ峠→唐人屋→柿木)

津和野街道のスタートは津和野藩邸跡で、ここを起点に南下して山口線の踏切を渡り、丸山公園の横を歩き龍帽子山の山麓沿いの県道を進むと右に降りる分岐が現れます。
そこを20m下ると南谷川に架かる古い石橋を渡り元笹山に入ります。
此処には当時茶屋があり、殿様も一休みしたそうです。
木野(この)集落から杉ヶ峠(すんがたお)へ向かい、此処で津和野とのしばしの別れを告げて峠を越えると唐人屋(とうじんや)、かつて秀吉が朝鮮に攻め入った時に連れてこられた陶工李郎氏が陶器を焼いた窯跡が残り、李郎子の墓もあります。
唐人屋を過ぎると街道は大規模林道や県道の下に消え、それを下ると三ノ瀬から福川川に沿った街道となり、亀田、伊豆原、栗ノ木を過ぎて高津川の瀬渡しのあった柿ノ木に着きます。

藩邸跡から元笹山

参勤交代の行列は、藩邸から幸(みゆき)橋を渡り津和野川沿いを少し下り、森総門を潜り外堀を出て、山陰道を南下するのが習いだったようなので、ここでもそのように進みます。
嘗ての森総門は、JR山口線が通るガード下を潜った先の、津和野大橋南詰めにある立派な松の辺りにありました。

参勤交代の一行は、家老以下、大勢の家来に見送られ、ここを右折して南に向かいました。
消防署・警察署を過ぎて森鴎外旧宅手前で鍵型に曲がり、また南進して緩い上り坂をしばらく進むと、左手の白壁に高砂と書かれた大きな酒蔵が見えてきます。
その造り酒屋の角を左折すると、大きな石が積み上げられた石垣が続いている通りに出ます。この石垣は高崎(こうさき)亀井家の屋敷があった場所で、ここが津和野街道の起点です。

山口線の踏切を跨ぐと丸山公園となります。この辺りまで高崎亀井家の屋敷で、元は丸山城とも呼ばれ、津和野城の出城とも言える構えでした。高崎亀井家は津和野藩主亀井家に後継者がいない場合には藩主を引き継ぐ家格とされ、隣接する長門国境警護強化のために外郭を固めていたのです。
丸山城址の北側を進み、分岐を右に取ると南谷川渓谷へと入りますが、現在このルートは水害で荒れてしまって入れません。そのまま舗装された細い道を左折して進むと、国道に出て左に鋭角に曲がります。
150m進むと右上に続く県道に入り、ここからも車道を歩くことになります。
二回ほど折れ曲がりながら急坂を上がって行きます。
以前はこの折れ曲がった道路を短絡する急坂の街道があったとも伝えられますが、今はその踏み跡も見つかりません。
そのまま龍帽子山の山麓を1.5kmほど進むと、右側に案内板が見えます。
そこを降りて旧街道に入ると、昔のままの石橋があります。

時代を経た笹山の石橋です。この石橋は同じ程度の石を二本並べて橋幅は七尺五寸(2.3m)ありましたが、昭和17年に水害があり橋脚の石組が崩れ、上流側の桁が落下、流失して元の半分の幅になったという事です。
この石は青野山から噴出した安山岩の板(板状等の節理がある)で、3㎞離れた場所から修羅で運んだと伝わっています。
石橋を過ぎると、藪の茂った薄暗い杉林から、荒れた竹林の中を登り、低い小山の神社横に上がって、ようやくほっとします。
少し下り、元笹山の集落が見えるところに出ます。津和野のシンボルとも言える青野山をバックにした景色は往時と変わらないような懐かしい佇まいが広がっています。
元笹山には茶屋が置かれ、ここで藩主も休息したようです。
この窪んだ平坦地は、青野山の噴火による堰止湖が長年のうちに干上がって出来たものと言われています。
途中の橋は老朽化して危険なので注意しましょう。

元笹山から杉ヶ峠を越えて「唐人屋」

街道は笹山を過ぎると広い県道に出ますが、ちょうど青野山の登山口にあたります。
県道の山側登山口から山裾に、かつての街道が残っていますが、現在は藪が茂り歩くのは困難なため、県道を進みます。
しばらく進むと道路は二つに分かれます。
右に分かれる道は大規模林道で、柿木方面にトンネルをくぐり、県道を短絡的に結んでいます。県道をそのまま進み、木野集落最後の民家の先で右手に入る細い道が、古道の津和野街道です。
200mほど進むと簡易水道施設があり、左に入ります。

街道は山裾に残り、その先は稜線に導いてくれます。稜線から離れて藪化しますが、等高線に沿い踏み跡を登ると、その先の尾根には人工的に広げたような平地があります。
ここが籠立て場(殿様の籠を休ませる場所)跡と言われている所でしょう。
稜線の先から北側に、青野山が木間越しに見えます。
木が茂っていなければ津和野が見える最後の場所ですが、最近は木が生い茂り、裾野も見えません。
そこを出るとまた暫く山道が続きます。
登りが緩くなり、数百メートルで峠に出ると、ここが杉ヶ峠(スンガダオ)です。

当時は参勤交代に限らず人・文化・物が津和野から出入りする玄関として、歴史的に意義ある場所でしたが、今は滅多に訪れる人も無い、忘れ去られたような静かな峠です。
峠を越すと吉賀町の行政区域に入りますが、南向きで日当たりが良いためか雑草・雑木が茂り、歩き辛いことおびただしく、時間がかかります。踏み跡も無いほどの荒れようですが、左岸を辿って下った方がまだしも下り易いようです。
中間に大きな杉が2本あり、その間の少し上部に石に囲まれたお地蔵が祀られています。
そこまで数段の石段が残っているのを見ると、以前は街道は下に付けられていたようですが、今では沢の底となり、一番歩き難い位置となっています。
さらに下ると、途中に等高線に沿って作業道が街道を横切りますが、ここからも特に下部は藪をかき分け、廃屋の横を過ぎて、最後の雑草ゲートを越えて唐人屋の李郎子(りろうし)の墓に出ます。

豊臣秀吉による朝鮮出兵の折、従軍した津和野藩主に従った家来が蔚山の戦の際、捕らえて連れ帰った李郎子なる陶工をここに住まわせて陶器を焼かせました。その後誰言うことなくこの地を唐人屋と呼ぶようになったようです。
発掘調査により林道の近くに窯跡が見つかり、陶器の一部が採集され、町の文化財に指定されています。
唐人屋には最近まで数件の民家があり、その時の児童たちは木野の小学校に峠を越えて通学していたようですが、今は廃屋が一軒あるのみで無人の地となっています。

唐人屋から柿ノ木村

唐人屋からの街道は谷筋を下り、途中に「欅が休み」と呼ばれた休息場があったようですが、今は大規模林道の下に消えています。
林道がループして県道と交わる所に折橋集落があります。ここでお話を聞いてみますと、昔の街道は使うことも無く荒れている状態の様子でした。4・5軒あった民家も今は2軒になった由です。
ここから県道を南下するとこれまでの狭い谷筋から広くなり、傾斜も緩み、口屋集落に入ります。
藩政のころ口番所が置かれていたのが地名になったそうで、旅籠もあったようです。

昔の街道は県道より左の山側に上がり、民家の続く山裾を通り抜けて福川村の中心地の本郷(もとごう)に出ていたようですが、現在、街道は消えてしまい、ところどころに街道の跡は残っているのみのようです。
福川から三ノ瀬に進むと、右から福川川が街道に突き当たるように迫って来ているので、街道はそれを避けるように20mも上の方に作られていました。当時は、今のように切り立った崖を砕いて川の直ぐ横に街道を作ることはできず、上の方に避けていたのです。今でもその名残りでかなり高い所に旧街道が残り、椎茸栽培や畑に活用されています。
参勤交代が始まった初期の頃は、地形図にあるように三ノ瀬から福川川を渡り福川長崎谷入り、標高700mを越える山と峠を越える長崎新道を通り抜舞に出ていましたが、その後高津川沿いの街道が開通してからは柿木周りとなりました(「古道を知る」の街道ルートの変更を参照)。
しばらく進むと亀田集落に入ります。
県道の左側に亀田の水穴の案内板が立っているのが目に入ります。
亀田の水穴は、江戸時代初期に、伊予国の鉱山師羽生太郎左衛門によって掘られた水穴です。

この地は水利が悪く苦労していると聞いて、山の岩をくりぬいて水を引くのが最良の方法だと教え、工事に取り掛りました。岩盤に全長95m、縦横85cmの大きさの穴を、座って鑿一本で掘り抜くのは大変な忍耐を要したことだったでしょう。
工事は正保2年(1645年)に完成しました。この灌漑によって開拓した3町歩の水田は、今でも耕作が続いています。
村人は、鉱山師の羽生太郎左衛門と、工事に必要な資金を提供してくれた津和野の豪商、青江安座衛門の恩を忘れないようにと、祠を作って祀り、地区の共同墓地に墓を建て、今でも感謝の祀りをしているそうです。
街道は県道に重なり、福川川に沿って伊豆原・栗ノ木を過ぎ、旧柿木村の中心地に着きます。
県道3号線が福川川に沿うカーブから直線になった辺りに、左の山沿いに上がって分岐する道が旧街道のようです。
それに沿って進むと、柿木一帯の視界が開けてきます。
高津川と福川川が合流し、氾濫原が形作られた様子が見えてきます。
風景は往時とは違っていても当時を偲べる景色が広がり、街道は山沿いに名残をとどめ、小学校の裏に続きます。
その途中、少し高い所に澄川与助の墓があります。

与助は慶長年間に、藩命により、その後の藩の経済にとって重要な産業となる紙漉き・和紙製造の発展に貢献した先駆者として知られています。
街道は川沿いに下って、川土手に植わった立派な欅並木の横から川岸に出て、そこから渡船で対岸に渡っていました。
今は国道に出て、国道に架かった赤い橋のたもとから川端に出なければ、昔の渡船場には行けません。
柿木の橋は元禄13年(1700年)にはありましたが、宝永年中(1704〜10年)に流され、京保9年(1724年)に再度架けるも、文化21年(1736年)に焼失したので、以降は船渡しとなりました。

伊能忠敬の測量日記によると,柿木川船渡しは二十七間とあるそうです。当時は幅50mもの深い流れがあったのですね。最近は浅くなってこの橋の下でシーズン中は鮎の友釣りをやっているのを見かけます。高津川は美味しい鮎で有名です。

柿木〜六日市~田野原までの街道概要

柿木から六日町(16km)

柿木からの旧街道は、今ではそのほとんどが、舗装された国道あるいは県道などの下に隠れてしまい、そこを進むしかありません。
しかし当時の川沿いは、切り立った岩壁が続き、峡谷状態の所が多く、そのような所に街道を作るには硬い岩盤を避けて上部に作るしかありませんでした。
月瀬の藤本家は、当時のまま旧街道を利用して、国道から一段高い所で椎茸栽培などをしながら住んでおられます。
その先の鮎ヶ瀬バス停辺りには、今の道路から離れ、10数mほど上部に街道が続いていました。

ここでは高津川に流れ込む沢を越えて山懐に入り込みながら街道が作られ、崖上にその跡が今も残っている個所があり、その街道沿いに祀られた地蔵尊を見ることができます。

そこから上流の伊豆師にも、国道の山側に設置された白いパイプの手摺があり、これを上がるとかつての街道が残り、その脇に六地蔵尊が祀られています。
少し先を行くと、この辺りはヒノキ林の中に旧街道が続いていました。
国道に戻り、田丸に入ると直ぐに、代官所と高札場があったそうです。
街道は山祇神社を過ぎ、町道に重なり山側に続き、峠を越えて七日市に向かいました。

この峠に應安3年(1370年)に経塚が建立され、その後ここを塔ノ峠(とうのたお)と呼ぶようになりました。
この峠道も時代に応じて改良されたようで、昭和に入り峠の下に国道187号線のトンネルが掘られ、1935年には「塔ノ峠隧道」として竣工されました。当時、トンネルの上の街道はすでに、車が通れるほどに拡幅されていました。トンネルの銘板は左読みで、今も「道隧峠ノ塔」とあります。

塔ノ峠を過ぎ高尻川沿いに南下すると、七日市の中心地となっているバス停に着きます。
ここに「右つわの道」の道標が立っています。この道標は近くの七日市橋の西詰めにありましたが、街道の様子が変わる度に何度か転々として、今はここに落ち着いています。
この七日市には近くに「奇鹿(くしか)神社」があります。町内に2か所ある奇鹿神社の一つで、「吉賀」という地名に由来します。(「まつわる話」の悪鹿伝説をご覧ください。)

街道は東に向かい、七日市の家並みを過ぎ、人家が切れる辺りから高津川に浸食を受けた岩盤が高く続きますが、街道として切り開くには大いに苦労した所です。開通するまでは、抜月から降りてきた長崎新道から続く街道から、小野々を経て牧渡瀬を船で渡り、朝倉村折坂に至っていました。

この七日市辺りで、九州から追われてきた途轍もない悪鹿が退治されたため、その祟りを恐れて奇鹿神社に祀られました。その体は解体され、埋められた場所は、骸崩(からだくずし)と呼ばれ、今は七福神として祀られています。

坂の途中に一里塚松があった個所に観音堂が建立され、塚松の代わりとしたそうです。
街道は、その先の新坂折トンネル北側にある峠を越して六日市に向かいましたが、峠道跡は現在私有地となり、通行することはできずにトンネルを歩きます。
トンネルを出て立戸に入ると直ぐに、高津川が作った景色が広がり、街道は左の山に沿って南下します。
広石村には大谷原古墳・名医三宅雄仙の墓・眼に効くといわれる観音堂などの史跡があります。

六日市から田野原・星坂(8km)

六日市には代官所があり、参勤交代の本陣が置かれていました。
津和野から六里,約24kmですから相当の強行軍だったと思います。
代官所は小学校の位置にあり、本陣は元庄屋・村上家の北側にありました。
現在は草茫々の空地となり、そこに通じた御縦道がわずかに面影を残しています。
近くには六日市出身の世界的なファッションデザイナー森英恵を記念した小さなフラワーガーデンがあります。

かつての立派な家並みを過ぎ、東に向けて進みます。

有飯橋を渡ると高津川は左側に移り、水量はずっと減り細い流れになります。
県道から離れ、川沿いに畑詰橋を過ぎると、沖場辺りの土手に「榎ヶ休み」という一里塚の跡があります。

土を盛り上げて塚に榎を植えて、街道の一里塚としました。当時は茶屋も2軒あったそうですが、今では河川工事などが重なりその面影もありません。
近くの史跡として、九郎原には津和野藩を支えた産業とも言える紙漉きにまつわる悲劇の赤子グロの話がありました。
街道は東に進み、藏木・樋口村を過ぎ、田野原村に入ります。
右手には「八町八反畦無の田」と言われる広い沼田が広がります。

御殿様は広大な畦無の田圃を自慢していたそうですが、実際は底無しの泥田で農民は苦しい農作業で苦しんできました。おしも地蔵はその悲劇を物語っています。
田野原村は隣接する匹見や周防の山代、芸州の戸河内・津田、津和野城下などとの交流があり、各所から産物が持ち込まれ、物流が盛んで人馬の往来が行われ、旅籠も賑わったそうです。
江戸時代中期、斎藤作左衛門は17年間庄屋として権勢を誇り、「永安六年丁酉(ひのととり)歳」に没した。その墓が残っており、笠や石塔の縁が朱で彩られ、今でもひときわ目立っている。
高津川はこの上流で何万年か前に起きた河川争奪により切頭川となり、河川の源流が直ぐ近くの水源公園となっているのです。
清水の沸く池の畔に一本松があり、ここが高津川の源流となっています。

水源公園の大蛇池脇には、国境の石柱が立っており「従是西津和野領」と彫ってあります。
国境石はここから東に1.5㎞離れた石見国と周防国境の江堂峠脇に建てられていましたが、今は訪れる人が多く、見やすい場所として、水源公園に移されました。

星坂には国境を取り締まる番所があり、役人が詰めていました。
(河川争奪に付いては深堀スポット参照)

生山峠編(廿日市→明石峠→津田→栗栖→生山峠→星坂)

廿日市から明石峠

芸州広島藩の廿日市にあった津和野藩の御船屋敷から津和野に向かうには、西国街道を西に向かい、当時の宮内村にあった専念寺の先にあった砂原から西国街道と別れて、津和野街道を辿りました。
この街道の起点は、この先にある槍出口とか佐原田とか言われていますが、記録として一番信用がおける「芸藩通志」では、絵図に砂原で西国街道から津和野街道が分かれているので、ここから始まるとしておきます。
この先、絵図にある五厘原に一里塚松があったのですが、残念ながら昭和54年に枯れてしまいました。

県道ができてすっかり様子が変わり、昔の街道には車が行き交い、歩いて楽しむ事はできません。
史跡としては、この街道途中に残るものとしては、黒折辺りでは馬車馬事故が多く馬を弔った馬頭観音、戦国時代に毛利元就と陶晴賢との覇権争いで折敷畑の合戦で敗れた陶方の大将宮川甲斐守が切腹した岩、二ツ橋谷で負けた陶方軍勢死者の血水で毒水となったなどの言い伝えが残っています。
昔の街道は明石から左の谷に下り、御手洗川に沿って汐見坂を上がって行きました。途中に湧き水が出てお茶屋もあり、このまま峠に行きつけたようですが、今は砂防ダムが行く手を阻み、谷筋からは行けません。

明石峠〜津田十王堂〜栗栖

峠上の上峠バス停から1kmほど進み、県道の佐伯工業団地の標識が見える辺りに左に分かれる分岐がありますが、これが旧街道です。
工業団地に入る道路を越して100m先辺りに、差し渡し5mもない、溝のような川を越しますが、これが「芸藩通志」の絵図にある塚松のあった田中土橋という事になります。

なお進んで行くと、右手に変電所が見え、川に沿った細い道を進むと川土手になります。
青く短い鉄の橋を渡り、雰囲気の良い山裾を歩き、人家の横を曲がり、先に進んで川を渡って県道に出るとバラ園の入り口です。
歩道のある反対側に渡り西に少し進むと、速田神社のツクバネ樫を見て、ここを出て最初に右折する道に入り、県道から遠ざかります。
マックスバリューの裏側を進み、車道が勾配を増す辺りで一車線の道が分岐する左側に下り、橋を渡ると右手の土手先に正念寺が見えます。「左つわのみち、右おおむしみち」と書かれた石の道標があります。
此処から低い峠を越え、鷹ノ巣ゴルフクラブの入り口を通り、県道に出て、槙ケ峠まで歩きます。ここには「史跡 長州戦争古戦場津田槙が峠」と書かれた杭が立っています。

旧街道は県道から左に分かれ、のどかな山沿いとなり、遠くにはこれから歩く西中国山地の山並みがみえます。
津田に近づくと、少し上りながら県道に交わります。
津田は昔、街道の宿場で賑わい、十王堂がその中心にあったそうです。
十王堂は県道拡幅工事の際に、西福寺の直ぐ横に移転しました。
津田からの旧街道は、県道から大きく離れる事はなく、栗栖を目指します。
史跡として岩倉に重なり岩・帯掛け明神・津和野への道標が固まってあります。

道標はこの先の岩倉橋のたもとにあったのが水害で川に落ち、後に見つかった時に此処に据えたものです。
栗栖に入りしばらく進むと、車の修理工場の裏にひっそりと六地蔵尊が祀られています。
その先、山側に街道は続き、参勤交代の初期、3泊4日をかけて廿日市に入った頃には栗栖の庄屋宅を使って泊っていましたが、文政二年頃には御小休み(休憩)程度であったようです。
此処を過ぎて小瀬川を観音原木橋で渡るといよいよ、街道で最も標高が高く難関の生山峠越えに差し掛かるのです(木橋は最近の水害で流されてしまいました)。

栗栖から悪谷の休憩所

小瀬川に懸かる栗栖橋を渡ると国道186号線と合流します。
100mばかり南に駐車場があり、津和野街道の案内板等が賑やかに立っています。

北側の端に、西に続く小道が津和野方面に向かっています。
間もなく民家が2,3軒と続いて木工所の横を通り抜けると、道は舗装が切れ、辺りは急に静かになります。
すぐ先に御堂が見えてきますが、扉の無いお堂には大きな石が祀られています。
このお堂は観音堂と呼ばれ、この辺りは観音原といわれています。
この先にトイレのある休息所があり、入山記録のノートも置いてあります。
その横には「石見津和野路」として旧津和野街道の説明板が立っています。
この先は、道幅も狭くなり落ち葉が敷き詰められ、説明板に書いてあるように石畳が現れてきます。
この石畳は昭和41年に廿日市市の史跡に指定されています。

気持ちのいい渓流に沿って街道は続いており、護岸の石垣は苔むして石畳と共に歴史を感じさせます。
しっかりした石畳道は続きますが標高が上がるにつれて気持ちよく歩ける所ばかりではなく、露岩が剝き出しで滑りやすい箇所も出てきます。注意して歩きましょう。
しばらく進み、栗栖から2.4km、松ノ木峠まで1.4kmの標識辺りに、観音滝の看板があります。
径から少し外れますが、この渓流の中で唯一の滝です。
ここを過ぎると街道は段々と勾配も増して険しくなり、崖を高巻くように進んで行くと、ようやく殿様も休息した茶屋床跡に着きます。ベンチもあるので暫し休憩しましょう。
茶屋床から標高で50m上がると街道は横山の中腹700m程の山麓を歩くことになり、植林された杉林の中を西へと進みます。

広い平坦な松葉と杉の混じった落ち葉に覆われた径を歩いて行くと、殿様の乗った籠を置いて休んだという籠立岩が横たわっています、そのすぐ先には「三国横え」という看板が掲げてあり、その説明では、「この辺りは中国山地の山並みが北に望まれるが、それは安芸、周防、石見の国の山々なのでこの名がある」とのことですが、今では植林で何も見えません。

先に進むと「松ヶ峠」の案内看板が立っています。それには「悪谷津和野往還名の如く難所なり、夏分蜂多し 松ヶ峠、栗栖、中道の境なり、夏は熊が出て涼み居る。人に驚くときは災いをなす。依って山中を一人で行くには歌を歌うべし。人声を聞くときは、熊、狐、狸も速やかに去るなり」 (佐伯郡廿ヶ村郷邑記)
と、書かれています。難所だったのですね。
峠らしくない松ヶ峠から下ると小瀬川の支流悪谷川に架かる橋を渡り、悪(あく)谷の休憩所があります。
この休憩所から川に沿って下流に200m行くと、地理院地図にも書いてある比丘尼ヶ淵があり、林道を国道186号線まで出ると、本数は少ないがバスが走っているので何かの場合利用することができます。
距離は道標に1.9kmとなっています。

悪谷休憩所~生山峠

悪谷休憩所の道標を見ると、栗栖4.8㎞、中道2.1kmとなっています。
ここを出ると悪谷林道の300m上流側に道路標識があり、津和野街道への分岐の道が右に分かれています。
間もなく沢が現れ、しばらく沢沿いに進み、そののちに外れて、荒れた林間の道を進むと、沢水が径を流した歩きにくい窪みを過ぎ、杉と雑木林の登り坂を越すと、明るい越ヶ原に着きます。

地理院地図には民家が3軒ばかり書いてありますが、今ではその残骸さえ残っておらず、荒れ地も元は田畑だったのでしょう。中道まで0.7kmの道標があります。左にも径はありますがここは右手中道に進みます。
越ヶ原から中道に続く道は穏やかで、いつの季節でも楽しく歩けます。
途中に「津和野街道」の標識と七十三番のお地蔵さんが優しく立っています(羅漢山山麓には四国の札所になぞらえた88体の石仏が各所に置いてありますが、これは昭和に入ってから中道の住民が祀ったもので、古いものではないようです)。
そこから直ぐに中道の南の端、三島原に降り立つと標識が立っており、左の生山峠に向かいます。
この辺りも廃田が目立ち、空き家となった民家が増えてきました。
川の手前に屋根のある休息所が立っています(この建物は地元のNPO法人佐伯山里クラブが建てたものです。丁寧に使いましょう)。

空き家の横を抜けて、また山道に入ります。
沢沿いの薄暗い緩やかな坂道を歩いて行くと、竹林の先に砂防ダムが現れ、その先で舗装された車道に上がります。
右に曲がるとすぐ、栗栖を出る時に見た「石見津和野路」の説明板が立っています。
その先が板押峠で県道佐伯錦線に合流し、鋭角的に左に進みます。
そのまま進むと山口県との県境となり、生山峠の説明板があり、地理院地図にもこの位置に生山峠の名称が付けてありますが、生山峠は石見津和野路の最高地点に付けられた名称であり、歴史的にもここではありません。

生山峠に向かう途中に、別荘の入り口前の電柱から左に入る旧街道の短絡ルートがあります。
踏み跡を辿るともう一度県道に出て、ここから羅漢山の北に延びる稜線上の生山峠(標高960m)までは1.2km、時間にして30分程で着きます。
峠の一番高い所にお地蔵さんがあり、ここから北の山並みが見えます。
そこから少し下ると、杉林の中に右側、西に下る街道が続いています。

生山峠~星坂番所跡

生山峠から街道は西に向かって、植林された杉林を下ります。

下っていくと、2か所ほど石畳が敷かれていたのが確認出来ますが、最近の雨による浸食でかなり凹凸ができ、滑らないよう気を付けましょう。
ここを歩くにはスニーカーぐらいでは駄目で、トレイルラン用の靴か山を歩けるぐらいの靴を推奨します。
(昔はこの羅漢山一帯は超塩基性の蛇紋岩の所為か、樹木の育ちが悪く、茅や笹原だったと思われます。眺めは良く、津和野に帰る方向の山並みを眺めながらの下りだったでしょう。)
道の上部は、勾配の緩い杉林の中、藪もあって少しジメジメした感じの真っ直ぐな山道から始まります。
しばらくすると窪みが掘れた所がありますが、それほど歩き難いとは感じません。沢状になり深く掘れたところも出てきます。
少し急になった径は一旦林道に出て、50mほど右に進むと、左に続く街道を下ります。
季節によっては雑草が伸びて案内板が見にくいこともあります。
沢のように大きな石も混じって石が剝き出しになり、歩きにくいので注意して下りましょう。
400m程で島の谷(大原)大明神に着きます。この神社は古くから歴史のある神社のようで、樹齢数百年もあるような胸高6mを超す3本の幹に分かれた大木の杉があります。この地域の守り神のみならず、この街道を行き来する旅人を見守り、また、行き交った参勤交代の一行や多くの旅人も峠越えの安全を願い、また、無事に越えてきた感謝の参拝をしたことでしょう。しかし最近は、時代とともに過疎が進み、周囲の住人も神社を維持する事もままならない様子で、神社は朽ちて、鳥居も倒れたままになっているのも痛々しい有様です。
ここを下ると見晴らしの良い林道に出ます。
屋根に龍が降りてきた珍しい農家もあります。

そのまま下ると、左から降りてきた県道59号線と合流します。
この辺りが大原中で、大原の中心ですが、左にあった小学校は平成26年に閉校し過疎が進んでいます。
右の一段高い所に立派な門構えの大きな屋敷があります。これがこの辺りで代々庄屋を務めた讃井(さない)家で、本陣があったところです。本陣の建物は明治に入り取り払われたそうです。
ここから宇佐郷までは、西の山越えの街道がありました。讃井家から600mほど下ると、今は閉店していますが三浦商店が県道沿いにあり、その近くから法面上段に上がるスロープがあります。

これを踏み跡に沿って歩いて行くと舗装道に行き着き、その先に未舗装の作業道が伸び、100mも進むと、左に上がっていく細い旧街道があります。
この径を辿ると作業道を二回程横切りながら松ヶ峠に着きます。
峠からの街道は作業道と重なって、南向きから途中西向きとなり宇佐郷に向かいます。

稜線の途中から方向を変え、回り込んだ所から鋭角的に西北西に曲がり旧道に入ります。
下って行くと、以前田畑にした平地に植林がなされた杉林の道を進み、藪化した中の踏み跡を下り、最後に愛宕神社脇から宇佐郷に降り立ちます。最近はここの街並みも寂れています。
橋を渡ると直ぐに願行寺です。その先の小学校背後に、宇佐郷の庄屋をしていた山田家屋敷跡と、山田家の墓があります。

屋敷跡は石垣が残るのみで、墓は裏山にありましたが、宝篋印塔、五輪塔などと一緒に右奥に移設され祀られています(江戸時代初め、慶長年間に山代一揆の際に中心となった山代十一庄屋の一人山田平兵衛)。
宇佐郷から星坂までは、急斜面に作られた幅1mほどの道を上がります。
大銀杏が目立つ願行寺の横を50m歩くと左に曲がります。
最近の大雨で荒れていますが、石畳が敷かれている所もあります。
参勤交代で担いだ籠を通すのには狭い道幅の個所もありますが、急な斜面を登ると、最近の作業道なのか、幅広くなり平坦になります。
しばらく進み、峠に近づく所で、急な斜面に作られた狭い径が右側に現れるので、気を付けて上がると峠になります。

ここが周防国と石見国との国境で、江堂ヶ峠(えどうがたお)と呼ばれています。
ここには国境の印となる石柱がありましたが、現在はこの先にある水源公園の脇に移設したので、今はお地蔵さんが祀られているだけです。
峠を過ぎて下っていくと、当時は津和野藩の番所があり、何人かの役人が常駐していました。

ここまで来ると、参勤交代の一行は2年間の江戸詰めから解放され、大いに意気が上がったことでしょう。
今は水源公園になっている高津川の水源は1.2km先にあり、その近くに石州に入って1本目の街道松がありました。

この古道を歩くにあたって

旧津和野街道の峠道は普段整備がなされているとは言えません。
特に津和野に近い杉ケ峠(すんがたお)は江戸時代の参勤交代、上方との交流、交易の場合は津和野藩の玄関と称しても良いほどの歴史上重要な峠でしたが、今や地元の人も滅多に歩かない寂れた峠でしかない場所で、普段の整備はされていません。
ここを歩く場合は、事前に現地の様子を聞いてください(と言っても現地の関係者も歩いていないので確実な情報は得られないかもしれません)。
特に夏の間は藪が茂り普通の靴、服装での歩行は困難で、厳しい藪漕ぎを強いられます。
生山峠と栗栖の間はハイキング程度の装備で歩けますが、生山峠を過ぎての西斜面の旧街道は、最近の水害等で山道は荒れています。登山靴又はそれに準じた靴を利用するのが無難です。
生山(なまやま)峠から廿日市間は、廿日市から歩くことをおすすめします。
「古道を歩く」もそのように歩いています。
《廿日市から生山峠への道》
廿日市から街道を歩いて明石峠を越えるのは車の走る県道しかなく、車の通行が激しく迂回も難しいので、バス等を利用するのが良いでしょう。
明石峠から津田方面は歩道もある程度整備されているので、付図のように進めば田園風景も楽しめます。
途中には正念寺の道標、津田の十王堂、岩倉の不思議な重なり岩など、随所に往時の興味深い史跡が散在し楽しめます。
栗栖からいよいよ山岳古道に入ります。
ここからは当分車道とは離れて自然と往時の街道の雰囲気を楽しみながら街道随一の難所の生山峠に向けての登りが始まります。
苔むす石畳を踏みしめながら登っていくと、渓流沿いの休息所の茶屋床、お殿様の一行もしばし休んだ籠立て岩なども現れます。
中道(なかみち)集落を過ぎ、街道の最高地点965mの生山峠を越すと、周防国に入ります。
急坂なので石畳は雨による影響で傷んでおり、歩きにくく、細心の注意を払いながら下りましょう。
途中の大原明神社も最近の風雨で荒れています。
これを越すと本陣となっていた大原の元庄屋の立派な屋敷が見えてきます。
大原を過ぎて宇佐郷に降り立ち、宇佐川河岸の急坂を登ると石見国の星坂となり、かつては番所がありました。

古道を知る

街道のルート変更

参勤交代が制度として定められたのは寛永12年(1635年)です。
福川から柿木村を経て高津川に沿って吉賀に至る川沿いのルートは、西中国山地のただ中を割って流れる高津川が浸食して作った険阻な渓谷が往来を阻んでいるため、当時の参勤交代路は、山越えのルートを選ぶしかありませんでした。
それは、三ノ瀬から長崎谷に入り標高720mもの山並みを越えて七日市の抜月までを山越えする過酷なルートでした。
最初は長崎古道ルートで、後に山道が改良された長崎新道を利用していました。
この山越えが参勤交代に使われたのは、高津川沿いの難所であった田丸付近の街道が寛永12年(1699年)に開かれるまでの65年間で、その後は柿木経由となりましたが、一般の徒歩道としてはその後も最短経路として使われたそうです。
なお、津和野までは伊能忠敬の「日本実測録」では18里18町2間(約73km)となっています。
大名行列の行程は時代によってかなり変わっています。
初期には3泊4日で歩いていたようですが、街道が整備されたのか、経済的に行列をコンパクトにしてスピードを上げたのか、二泊三日で駆け抜けていたようです。

崖上の街道

高津川沿いの街道が今のように川岸近くに作られたのはずっと後の事で、ダイナマイトが発明され、それが土木工事に使われるようになってからの近代以降です。それまでは切り立った峡谷上の岩の上に細々と街道が人力によって作られていました。そのような場所は三ノ瀬の福川川から始まり、柿木からも高津川に沿って延々と続きました。高津川に沿って歩いてみると今でもその風景を見ることができます。ざっとみて15kmの長さにわたって、そのような苦労があった跡が残っています。

折敷畑の戦い

戦国時代にこの地の覇権を争っていた毛利元就と陶晴賢との間で、街道の通る明石峠近くの折敷畑城攻防戦があり、数千人に及ぶ死者が出たと伝えられています。その際に陶軍の大将、宮川甲斐守が切腹したとの言い伝えがあり、それを弔う石碑があります。

長州戦争

慶応2年6月に行われた第2次長州征討は幕府軍が周防大島口、芸州口、石州口それに小倉口の4方面から一挙に攻めることになり陣を進めました。これに対し長州も4方面で迎え撃ちました。芸州口では大竹と津和野街道が通っていた佐伯郡で大きな戦になり幕府軍、長州軍の兵士が多数戦死しました。幕府軍の戦死者は近くの寺院に葬られ、長州軍の遺棄された戦死者は村人達が弔い墓を建てました。

幕末のキリシタン弾圧事件「浦上四番崩れ」

1867年(慶応3年)、長崎浦上村で大規模な隠れキリシタンが見つかり、明治新政権による弾圧が続けられました。浦上村の3392名のうち153名の信者・家族が安芸国廿日市にある津和野藩の御船屋敷に船で運ばれ、そこから津和野街道を経て津和野に配流され、光琳寺に幽閉されました。そこで棄教を責められ、当初は改宗の説得が行われましたが棄教する信者はおらず、その後は酷い拷問が続けられ36名が殉教するという悲劇がありました。その後1870年(明治6年)にようやく禁教解除となり、浦上へと帰されました。
その後、広島教区は昭和14年にその地を購入し、「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる」聖堂として乙女峠記念館を建立しました。今では「マリア聖堂」と呼ばれています。
現在毎年5月3日に殉教者を偲ぶ「乙女峠まつり」が行われています。

高津川源流の河川争奪

清流で有名な高津川は、上流を河川争奪で奪われ接頭川となり、源流は田野原の水源公園にある小さな池となっています。
昔の高津川上流は、図の青い線のように、広島県境の冠山付近に水源を発し、南西に流下し宇佐―向峠から県境を越えて島根県に入り、田野原から下流に谷底平野を形成しながら日本海に注いでいました①。
また、元の深谷川も寂地山から向峠辺りで合流して高津川となり、日本海に注いでいました②。
その後、下刻作用を増した錦川支流宇佐川上流の谷頭浸食進展によって、向峠東方①で高津川上流部を宇佐川が奪い、錦川の流域に組み込みました。その後、その地点から約2km下流の宇佐郷上から北西に延びる宇佐川一支流の谷頭浸食②によって、深谷川も錦川(宇佐川)へ組み込むことになりました。
このような河川争奪で高津川は、田野原から上流を錦川の上流の宇佐郷川に奪われたため、今のような切頭川となり「一本杉の池」湧水が源流となりました。河川争奪の生じた時代は十分に解明されていませんが、更新世後期、およそ3万年程度昔と推定されています。

深掘りスポット

津和野藩御船屋敷

津和野藩は従来から、大阪・江戸への往来には津和野街道を通り、廿日市から瀬戸内海を船で兵庫県御津町の室津へ上陸していました。
そのため元和六年(1620年)には広島藩から東西五十間・南北三十六間の土地を借用し、「船着ノ蔵屋敷」を所有していましたが、船屋敷の宿泊施設は整っておらず、商人島屋七右衛門を定宿としていました。
参勤交代が制度化され、また、藩特産の和紙等の交易を拡大するために、御船屋敷の拡充が必要となり、芸藩からの借地拡大を交渉して、寛永八年(1631年)、五十間四方程度に拡充することが決まりました。
御船屋敷として芸藩から貸し出された土地は毛利氏の長府移封後、桜尾城の居館跡は芸藩の管理となり、その辺りが供与されたのではないかと言われています。
その後、更に買添地があり、御殿を始め御船蔵・土蔵・定詰長屋などの施設が建てられて船頭・水主等が定詰めとなり、御船屋敷として整備されました。
参勤交代時の船は、津和野藩では大小21隻の船が列をなして室津を目指しました。御召船の住吉丸(330石)には御居間が六畳、周りに御小姓部屋四畳半、御側用人の部屋、湯殿もあり、次いで家老の船、吉祥丸(250石)、続いて小鷹丸(220石)、大目付の稲荷丸(150石)等が続いていたといいます。
五万石にも満たない津和野藩でもこのように整えるのですから大変だったと思います。
船屋敷は参勤交代だけでなく、特産物の和紙を江戸、大阪に持って行き、売りさばいていたのですから、大勢の津和野藩の役人や商人が船屋敷に常住して働いて、以後明治になるまで約250年間廿日市と密接な関係を持つことになりました。
このように、藩にとって重要な使命を持った施設ではありましたが、現在津和野藩御船屋敷を偲ぶものはほとんど無く、此処に船屋敷があったことを示す「石州津和野藩御船屋敷旧趾」の石碑しか立っていません。
近くの蓮教寺には、廿日市市の天然記念物となっている立派な蘇鉄がありますが、これは津和野御船屋敷から移植したとの伝承があります。
最近まで、元御船屋敷のランドマークのように、津和野太鼓谷稲生神社から分祀して建っていた稲生神社がありました。
境内にある石灯籠には「寛政三辛亥年正月吉祥日増野源興保敬白」と刻銘があり、津和野藩士が230年前に寄進したものでした。しかしこの神社は、令和4年2月に近くの天満宮の稲荷神社に合祀されて今はありません。

 

まつわる話

悪鹿を賀して吉賀と号し荘名となる「悪鹿伝説」

吉賀町(よしか)の地名の由来です。
昔々、足が8本,角が8又、1尺余りの赤毛に覆われた「八久呂鹿(やくろじか)」が悪行を働き、九州から追われてこの地に来ました。
天皇の命で退治に取り掛かった北面の武士、江熊太郎が矢で射止めましたが、悪鹿の死に際の毒気にやられて自分も死んでしまいます。
江熊太郎は荒神明神となって祀られ、悪鹿の霊も祟りを考慮して大明神として祀り、奇鹿神社が建てられました。
その後地名を付ける際に悪鹿が良い鹿になるよう、よいしか・よしか吉賀としたとか・・・という言い伝えがあるそうです。

生山峠の名称の由来

生山の地名の由来については治承4年(1180年)11月8日夜、ひとむらの黒雲と共に神光が大原明神社の大岩に落ち、村人達が様子を見に行くと一匹の大蛇が巻き付き、大変生臭かったのでこの附近の山を「なまぐさ山」と言い、後年「生山」と言われるようになった。(説明看板より)

ルート

津和野藩邸←→柿木渡船場

津和野藩邸
↓ 30分 2.5km ↑ 30分
高砂酒造
↓ 20分 1.1km ↑ 20分
国道出合い
↓ 50分 1.8km ↑ 40分
笹山石橋
↓ 30分 1.5km ↑ 30分
青野山登山口
↓ 20分 1.2km ↑ 20分
木野
↓ 35分 1.1km ↑ 30分
籠立て場
↓ 40分  400m ↑ 40分
杉ケ峠
↓ 50分  700m ↑ 80分
唐人屋
↓ 50分  2.5km ↑ 70分
折橋
↓ 20分  1.3km ↑ 30分
口屋
↓ 15分  1.5km ↑ 15分
三ノ瀬
↓ 10分  1.0km ↑ 10分
亀田
↓ 60分  3.5km ↑ 60分
柿木渡船場

合計7時間10分 20.1km

栗栖駐車場←→水源公園

栗栖駐車場
↓50分↑40分 2.0km
観音滝
↓25分↑20分 0.9km
茶屋床跡
↓40分↑35分 1.1km
松ヶ峠
↓20分↑30分 0.7km
悪谷
↓35分↑30分 1.5km
越ヶ原
↓60分↑60分 2.0km
中道
↓120分↑100分 4.2km
生山峠
↓60分↑90分 1.4km
大原明神社
↓30分↑40分 1.5km
大原上県道
↓10分↑10分 0.5km
大原本陣跡(旧庄屋、讃井家)
↓10分↑10分 0.5km
大原下
↓30分↑30分  0.7km
松ヶ峠
↓50分↑60分 1.8km
宇佐郷愛宕神社
↓10分↑10分 0.3km
宇佐郷願行寺
↓60分↑40分 1.4km
星坂番所跡
↓  ↑
水源公園        10時間10分 20.5km

アクセス

公共交通機関

JR津和野駅:起点である旧藩庁の嘉楽園は、津和野駅から徒歩でも遠くはない。
柿木(柿木商工会館、柿木温泉口):長距離は石見交通(広島方面、益田方面)、近距離は六日市交通が六日市からJR日原駅間を平日3本運行している。
廿日市側からのアクセス
山陽本線の宮内串戸駅から広島電鉄バスが津田まで、そこから廿日市市運営の「さくらバス」に乗り換えて栗栖~吉和までバスが使える。バスの停留所、バスの時刻等は季節によっても異なる。NAVITIME等でネット検索の事。

マイカー

津和野の旧藩庁、柿木では道の駅の駐車場を利用できます。
廿日市側では、栗栖の登山口に駐車場があります。

参考資料

島根県教育委員会編「島根県歴史の道調査報告書 第六集」
頼杏坪「芸藩通志」
芸藩通志の元となった各村の書き出し帳
佐伯町史編纂委員会「佐伯町史」
佐伯町文化財保護委員会編「佐伯町の文化財」
廿日市町編「廿日市町史」
石田米孝「廿日市の歴史探訪」渓水社
廿日市市郷土文化研究会編「廿日市の文化 21集  廿日市のいしぶみ」
廿日市市発行「図説 廿日市の歴史」
沖本常吉編「津和野町史」津和野町史刊行会
栗本里治「津和野百景図」
山口県教育庁文化課「歴史の道調査報告書5 石洲街道」
尾崎太左衛門「吉賀記」六日市町文化財審議会
「吉賀百景」吉賀町
webサイト「柿木あれこれ」
http://www.sun-net.jp/~kappe/

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会広島支部
後藤 昭

《協力》(敬称略)
沖野信三(NPO法人佐伯山里クラブ)

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