single-kodo120_detail
9 岩手山古道
岩手山の登拝道として、近世には3つのルートがありました。
東側の柳沢コース、南側の御神坂コース(雫石コース)、北側の上坊コースです。
ほぼ現在のルートと同じ道筋です。
御神坂(おみさか)コースは、南麓をほぼ直線に登る健脚向きの急峻な登山道で、むかしから登拝のために使われていた歴史がある道です。
歴史的地点名が残り、大滝展望地からの眺望や高山植物が魅力ですが、厳しいコースのため体力と装備が必須です。
秋田街道の雫石町広養寺入口斜め向かいから分かれて巌鷲山道に入り、北へと進んで岩手山神社を参詣し、南麓を北へと真っ直ぐに登っていくコースです。
御神坂コース以外に、雫石口とも呼ばれています。
本来は、麓の岩木山神社で参拝を行って登拝道を登るべきですが、岩木山神社から登山口に直進する道は、小岩井農場が所有する土地であり、かつ藪で覆われているため、参拝後は車で登山口に移動するのが現実的です。
段差が大きく、途中でロープが張られたトラバース箇所もありますが、道はわかりやすくしっかりしています。
1270mあたりに「大滝展望台」があり、遠くにやや細い大滝が拝めます。
「大滝」は修行の場所でした。
「笠締」(1600m)の看板から先は、低木となり、段差がさらに大きな岩の道となります。
柳沢コースのようなガレ場はなく、最後まで狭い道の左右には低木が茂っています。
左へ鬼ヶ城への道が分かれる箇所から下りとなり、不動平避難小屋へはすぐ着きます。
上半分は、段差が大きいため、ストック使用などを考慮。水場は登山口にはなく、八合目避難小屋前のみ。
急登が続く厳しいコースのため体力と装備が必須です。
また、立木伐採による入山規制が頻繁に実施されるため、所要時間やコースの変更が余儀なくされるおそれがあります。事前に必ず最新の情報を確認する必要があります。
*「柳沢コース」共通*
岩手山の信仰は、古代の自然崇拝に始まり、中世・近世の修験道を経て、現代の登山文化へと受け継がれています。
中世以降、岩手山は山そのものが「岩鷲山大権現」という強力な神仏として崇められました。これは山そのものを神体とする自然崇拝の信仰に、阿弥陀・薬師・観音などの仏教の要素が加わったものです。
中世から近世にかけて、岩手山には柳沢(東)、雫石(南)、平舘(北)の3つの登山口に「新山堂」と呼ばれる修験の拠点が置かれました。これらは山頂の「奥宮」に対する「里宮」で、それぞれの拠点の山伏たちが競い合いながら、霊場としての岩手山を管理しました。
修験者にとって岩手山への登拝は、現世の穢れを払い仏の境地を目指すもので、登拝の前に「浄屋」で精進潔斎や水垢離をして身を清め、険しい岩場や滝を巡りました。山頂のお鉢(火口)を巡ることは「浄土」を歩くことと同義でした。
近世になると、岩手山は盛岡藩(南部藩)の安泰を祈る守護神として格別の保護を受けました。
藩主の代替わりや国家安泰を祈る政治的な役割を持つ一方で、山伏たちはガイド(先達)として庶民の「岩手山講」を引率しました。
これにより、かつては修行者のための霊域だった山が、徐々に庶民が功徳を求めて登る山へと大衆化していきました。
明治の神仏分離により、岩鷲山大権現の称号は「岩手山神社」となり、「新山堂」も「巌手山神社」「岩手山新山神社」「岩手山神社」となりました。
*「柳沢コース」共通*
2026年1月時点で、岩手山は噴火警戒レベル2、火口周辺規制となっていて、入山が規制されています。
江戸時代には大きな噴火が2度ありました。
貞享三年(1686年)2月29日から3月中旬にかけて有史以来の大爆発が起こり、山麓の人畜は大きな被害を受けました。薬師岳(新山)が誕生したのもこのときの噴火です。
このとき南部藩は噴火を鎮めるために岩鷲山大権現に「正一位大権現」の位を献上したり、登拝前に行屋籠りや精進潔斎を行うように通達をだしています。
享保四年(1719年)の噴火では、焼け走り溶岩流を現出しました。
奥宮は岩手山山頂にある火口噴気孔近くにあり、神威の存するところと考えられ、神社から硫黄が配られました。
天明三年(1783年)の浅間山の大噴火などによる天候不順(冷害)で、盛岡藩は「天明の大飢饉」によって7万5000人を超える死者を出しました。人々は飢饉の再来を恐れ、五穀豊穣を願って、岩手山が噴煙を上げるたびに「お山がけ」をより一層熱心に行うようになりました。また、女性たちは里宮に集まり、大規模な「お百度参り」が行われました。
雫石駅の北東に残る八幡神社は、もとは雫石城で、南北朝時代に南朝方の戸沢氏が築いた。
北畠顕信をこの城に迎えて北朝方の斯波氏・稗貫氏や奥州探題と戦った。戦国時代の混乱の中、足利氏の一族、斯波氏が入り雫石御所とよばれ、越前堰を築いたが、その後、南部氏のものとなり、江戸時代は南部藩の代官支配が続いた。
戸沢氏はその後、角館に移り、新庄藩を領有した。
小岩井農場は、越前堰を利用してつくられた。
(「岩手県史 第3巻」)
*「柳沢コース」共通*
近世には東・北・南にある岩手山の三つの登拝道には遥拝所として新山堂が置かれた。
山号を岩鷲山とし、東は滝沢村にある柳沢新山堂で別当寺は盛岡城下新山小路の大勝寺。北は新山堂で別当寺は平館村(現在の西根町)の大蔵院。南は長山村(現在の雫石町)の新山堂で別当寺は雫石村の円蔵院。ちなみに別当寺とは神社を管理していた寺のこと。
修験者や神職がその地に集落を構え、登拝を行う者は精進潔斎して白衣をまとい、六根清浄を唱えて頂上をめざした。
明治の神仏分離によって権現号を廃して、柳沢新山堂が巌手山神社、平笠の新山堂が岩手山新山神社、雫石の新山堂が岩手山神社となって今日に至っている。
なお、本宮は貞享三年(1686)の岩手山噴火後に御室付近に設置された祠である。
*「柳沢コース」「上坊コース」共通*
岩手山を一望できる高台にあり、県内の山岳信仰や歴史、動植物に関する資料が豊富。
https://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/
十和田八幡平国立公園の拠点施設。岩手山や八幡平の自然、生態系、火山の成り立ちなどを紹介。
https://iwatetabi.jp/spots/5578/
松尾八幡平ビジターセンターに隣接する、火山について学べる施設。
https://iwatetabi.jp/spots/4992/
盛岡城跡公園内にある博物館で、歴史的な史料の中に見える岩手山の存在について触れることができる。
https://www.morireki.jp/
*「柳沢コース」「上坊コース」共通*
毎年、旧暦の5月27日に「お山がけ」と呼ばれる岩手山への登拝が行われていました。
「お山がけ」で登拝するのは未婚の男子が多く、盛岡藩(南部藩)の各地から多くの男性が集まったといいます。
それまで七日間、浄屋(こもり小屋)で精進潔斎して白衣をまとい、先達の案内で六根清浄を唱えて頂上をめざしました。
奥宮の参拝後は、守札、ハイ松、硫黄などを持ち帰り、田畑の葦や短い笹に結び付けて立て五穀豊穣、無病息災を祈りました。
江戸後期には「お山がけ」が盛んになり、参詣者や講中によって、道標や接待小屋、石仏などが設置されるようになりました。お鉢にある清水権現、7合目にある鉾立権現、8合目の接待権現、山頂の三十三観音など当時のものが現存します。
女人禁制が解かれ女性が登拝できるようになったのは明治時代の半ばころです。
*「柳沢コース」「上坊コース」共通*
岩手山の別名を「巌鷲山(がんじゅさん)」といい、春に鷲の形をした雪形が残ることからそう呼ばれていたという説が有力です。「いわわしやま」と呼ばれていましたが、「岩手」の音読み「がんしゅ」と似ていることから、転訛したものだとも言われいます。
古くは「霧山岳」「大勝寺山」とも呼ばれ、「南部片富士」と呼ばれることもあります。
御神坂駐車場
3時間50分↓ 5km ↑3時間30分
鬼ヶ城分岐
10分 ↓ 0.2km ↑ 15分
不動平避難小屋
以下、柳沢口と同じ
雫石口のアクセス
御神坂駐車場へのバスは無い。
雫石駅より御神坂駐車場まで約20km。駐車場は40台ほどの駐車スペースあり。
*「柳沢コース」共通*
谷川健一『日本の神々:神社と聖地 第12巻』1984年5月 白水社
小原兄麿『厳手山記』大正9年 岩手山講社
河東乗五郎『日本の山水 山岳編』大正四年 紫鳳閣
高橋与右ヱ門執筆編集『甦る雫石郷の歴史:雫石町通史編』2013年 雫石町教育委員会
滝沢市の歩み作成委員会『滝沢市の歩み』2018年3月 滝沢市
担当者
日本山岳会マウンテンカルチャークラブ
松本博子