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8 鹿角街道 車之走峠
盛岡を起点として鹿角を通り、大館で羽州街道につながる鹿角街道(または秋田街道、南部街道、津軽街道とも)。
その一番の難所が標高710mにある車之走峠(くるまのはしりとうげ)越えでした。
新日本百名山にも選ばれている七時雨山(ななしぐれやま、標高1060m)の西麓を越えて行く道です。
峠付近には牧野(ぼくや)がのびやかに広がり、岩手山や八幡平の山々を見渡せます。
山道の入口となる西根寺田の「七時雨憩の湯」近くから標高差300mをゆるやかに登っていきます。
途中にはマンダ(シナノキ)の巨木や一里塚、石仏がほどよい間隔で現れて歴史を感じさせられます。
坂上田村麻呂のひ孫である坂上好蔭が軍勢を通すために整備したとも、藤原泰衡が平泉から落ちのびる時に通ったとも、尾去沢銅山の銅を運んだ道ともいわれ、奥州道中の脇街道でしたが往来は盛んでした。
江戸時代に造られた一里塚が二基一対で現存しているところも多くあります。
鹿角街道のほとんどは国道282号と重なっていますが、七時雨峠を越える道は、県道17号と県道227号(七時雨カルデラライン)になります。
七時雨峠越えのスタートは、この県道227号に面する七時雨鉱泉「七時雨憩の湯」および公衆トイレがある体験観光施設とします。
「七時雨憩の湯」から県道を南に約300mほど行くと右手、七時雨牧野に分岐する車道があるので曲がります。
50mほど進んで橋を渡ると白坂八幡宮の鳥居と祠があり、四つ辻の左手に白坂薬師堂跡の標識と看板があり地蔵菩薩が祀られています。
右手前方の刈り払いされた山道が、鹿角街道の古道に入るために七時雨ロマンの会が整備した道になります。
右手には染田川の水音が聞こえ、川に沿ってしばらくの間、背の高い笹の間を進みます。
20分ほどで大滝への道の分岐にでます。
昔の鹿角街道は県道227号で「七時雨憩の湯」の前をとおり、このあたりで橋を渡っていました。
いまは橋が壊れたため、白坂薬師堂跡を通る道をきました。
とりあえず、大滝を見るため、50mほど先の大滝まで往復します。
元の道に戻ってからすぐに、車之走峠まで4.0kmという標柱が立っています。ここからが鹿角街道の古道になります。
標柱は古道を整備している七時雨ロマンの会会員の手作りのもので、この先も導かれながら歩みを進めることになります。
登りには急坂は少なく、路面はよく踏み固められて石もほとんどなく、歩きやすい道です。
右手の木々の間に七時雨山が二つの頂上を見せています。
さらに5分ほど進むと坂はなだらかになり、左手の木々の間に緑の平原がのぞけます。
私たちが歩いた時には、馬のような茶色の毛並みをした短角牛が10数頭、群れで草を食んでいました。
右手の一段高いところに舗装道路が並走していて、「峠まで2.0km」の標柱を通り過ぎると10分で留ノ沢一里塚のある広場に出ます。歩き始めて1時間20分くらいの場所なので、休憩適地です。
広場からさらに北へ進むとすぐに舗装道路を横切りますが、切通しのようになっていて、段差が急なので注意して下り登りします。
そのあとは平坦な道で左手に未舗装の細い林道が並走しています。
飛脚の殉職した地には石碑と立て看板があり、さらに5分ほどで七時雨山登山道入口が右手に分かれます。
このあたりの小広い平地に「助け小屋」があったため、標柱が立っています。
再び登り坂となり、「七時雨マンダ並木道」の入口ではマンダ(ハンノキ)の巨木が出迎えてくれます。
道の左右にマンダやダケカンバが見られる落葉広葉樹の林を進みます。
5分ほどで「賽の神跡」を通り過ぎますが、下草の生えた塚の下をよく見ると、石積みが残るのがわかります。
すぐ先に七時雨山登山道入り口の二つ目があり、右へ向かって分岐となっています。よく見ないと左の道はわかりにくいので、右へ入っていかないよう注意します。
5分ほどで車之走峠に到着します。
峠のすぐ手前で、左への踏み跡があり、少し辿ると岩手山の展望ポイントとなっています。
峠の地形ではなく、今は刈り払いされた小さな広場となっています。
そこからさらに林の中の平坦な道を約30分進むと牧野に出て、視界が開けます。牛の糞に気を付けながら下っていく途中に振り返ると七時雨山が裾野を大きく広げています。
道はあってないようなものなので、壊れかけた建物めがけて牧野の中を下っていきます。
牧柵を開けて閉じ、砂利道の林道をさらに進むと左手に管理事務所があり、林道から離れて左に曲がるとマダ並木道の説明看板があります。その看板の脇を先へと下っていきます。
10分ほどでまた、先ほどの砂利道の林道と合流しますが、逆コースをとった場合、下りてきた右への山道に入る時に注意します。
砂利道を5分ほどで七時雨一里塚に出会います。
ここまで車が入って来られますが、路面が掘れている箇所が多いので、走行に注意が必要です。
計画する際に、入林届を東北森林管理局に提出する。詳細はホームページで検索のこと。
車之走峠から七時雨一里塚の間で私有地を通過することもあり、八幡平市立寺田コミュニティセンターに連絡して道案内を頼むことが望ましい。また、七時雨一里塚から上の林道をやむを得ない事情等で車で入る場合も同様に要連絡。
熊の生息地に入るので、単独行動は避け、走るなど速い速度で移動せず、複数人で鈴・笛・ラジオなどで音を出しながら歩く。
「古道を歩く」欄で注意喚起した箇所では道をはずさないように注意するが、全般的に道はしっかりとして歩きやすい。ごく小さな流れを横切るときもあるが、よほどの大雨の最中か直後でなければ、特に問題ない。
・入林届を東北森林管理局 岩手北部森林管理署 総務グループ管理担当(0195-72-2221)
・八幡平市立寺田コミュニティセンター(0195-77-2024)
鹿角街道は、盛岡城の東、鍛治町一里塚跡(盛岡市紺屋町5番地)を起点とし、四ツ家で奥州街道と、夕顔瀬橋の西で雫石街道と分れて北へ向かい、岩手山と八幡平の東をさらに北上して奥羽山脈を岩手県最北部で越えて秋田県に入って西へ進み、大館市で羽州街道とを繋いでいる。
鹿角道は太平洋側地方と日本海側地方とを結ぶ、奥羽山脈横断路の一つである。
ルートのほとんどは国道282号と重なっているが、七時雨山山麓を越える道は、県道17号と県道227号(七時雨カルデラライン)になる。
途中で秋田県鹿角市を通るため、鹿角街道と呼ばれるが、秋田県側では南部道・南部街道、岩手県側では秋田道・秋田街道、明治時代初期には津軽街道とも呼ばれた。江戸期、尾去沢鉱山の輸送路として御銅山道と呼ばれたこともある。中世には流霞道(りゅうかろ・ながれしぐれみち)とも呼ばれていた。
古道・鹿角街道入口となっている西根寺田の白坂観音堂跡には、奈良時代、聖武天皇勅願により白坂観音が開創され、平安時代のものとされる鏡が白坂薬師堂から発見されるなど、歴史の古さを物語る。
平安時代初期の弘仁2年(811年)、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の蝦夷征討において、今の二戸・閉伊地方への進撃路として利用されたと考えられている。
また、元慶2年(878年)、出羽の蝦夷が反乱して秋田城を襲ったため、陸奥(岩手県)側にいた陸奥権介、坂上好蔭(よしかげ)率いる朝廷軍が流霞道を通って上津野(かづの・鹿角の古名)に入り援軍に行ったと、「日本三代実録」に記されている(元慶の乱)。
好蔭は坂上田村麻呂のひ孫で、その部下2000人によって道が整備されたとも記載がある。
また、「吾妻鑑」に記載される、源頼朝に追われた藤原泰衡の平泉からの逃走経路は、二戸郡から鹿角を通過したと伝わる。鎌倉時代、津軽地方に北条執権家の得宗領(とくそうりょう)があり、その地頭代と鎌倉府との往来にも鹿角道が使われた。
その後、南北朝期における八戸南部氏の津軽・比内への作戦行動や、戦国時代における三戸南部氏による津軽制圧時も鹿角道を経由したと考えられている。
慶長3年(1598年)には、鹿角郡石野村の白根(しらね)で金山が発見され、その後、尾去沢五十枚(ごじゅうまい)、槇山(まきやま)、西道(細動)金山の発見と続き、金鉱石の運び出しにも使われた。金の鉱脈が尽きたのち、寛文6年(1666年)に尾去沢で銅鉱が発見され、江戸幕府によって大阪へ集めさせられるのにこの街道が使われた。奥羽山脈と七時雨山西麓の峠を越える時には馬が使われ、盛岡からは北上川の水運によって石巻港へ。そして東廻り航路で大阪へ運ばれて精錬された。そのほか米代川を下って能代湊へ。茜染も運ばれた。銅山の必需品(塩・木綿・刃金・半紙・薬・茶など)は帰牛を利用して野辺地から運ばれた。
江戸時代には領内巡察の盛岡藩主や幕府巡検使や旅人が通り、太平洋側の塩(主に漬物用の八戸塩)と日本海側の塩(上質な能代塩)の塩の道、魚の道など、交易路でもあった。
そして、明治維新前夜、去就を誤って官軍側の秋田を攻めた楢山佐渡の率いる南部藩勢も往復した。
鹿角街道は、冬は通行すらままならない七時雨の難所、梨ノ木峠の中央分水嶺を越える峠、米代川の険しい岩を削って作られた湯沢渓谷の道、川渡りの難所や山越えの険路が続く厳しい街道でもあった。また、この道を支える道橋普請も村々の大きな負担であったことが記録に残っている。
七時雨山は約110万〜90万年前に活動した火山で、南峰と北峰の2つのピークを持つ溶岩ドームである。
田代山、毛無森、焼岳、西岳が外輪山を形成し、牧場となっている田代平(たしろたい)カルデラを囲んでいる。
中心には赤い屋根の七時雨山荘が営業されており、田代山から七時雨山方面の展望が素晴らしい。
奥州街道筋の宿駅であった盛岡城下の鍛冶町(現在の盛岡市紺屋町5番地)に石碑が残る。慶長年間(1596~1615年)の築造とみられる鍛冶町一里塚は、江戸日本橋から139里35町目(約550km)にあたり、139番目の一里塚と93番目の宿駅がおかれたので、ここを元標として鹿角街道、雫石街道(秋田街道とも)、志和街道、閉伊街道、遠野街道、野田街道への里程が算出され、一里塚の起点となった。鹿角街道の起点であり、一里元標があったが、文化年間(1804年~)に撤去されたと伝わる。
徳川幕府は、慶長9年(1604年)、街道と宿駅伝馬制度を整え、一里(約4km)ごとに道の両側に塚を築き、その上に榎などの木を植えさせた。南部藩も寛永年間(1624~1645年)に領内脇街道に一里塚を設置したが、幕府が一里を36町(3924m)としたのに対して脇街道は42町(4578m)。奥州街道の一里塚に比べて規模が小さく、塚の土盛りもやせたものが多い。
遺跡としての標柱のみ。
今も当時の原形を残す、八幡平市指定文化財史跡。盛岡にある起点から7里の場所にある。左右とも個人所有の畑地の中にあり、道路が整備された結果、幅員などの旧状は不明。
破壊されて痕跡も無く、畑地の中に目印の標柱が立つ。
開田のために消滅し、標柱のみ。
車之走峠に登る手前1km、標高600mの尾根鞍部平坦地に、街道をはさんで一対が現存する。盛岡の起点からは11里。高さは約3.0m、裾は約7m、二つの塚の裾部間は約5mで道路幅になる。
盛岡の起点から12里の箇所にある。高さは約1.8m、裾は約7m、二つの塚の裾部間は5m、頂部間は約14m。正保4年(1647年)の南部領総絵図の中に一里塚の印とその南の七時雨山が描かれ、その脇に「七シキリ山大難所三里間雪中牛馬不通」と書かれ、冬季通行止めとわかる。八幡平市荒屋新町新町睦也農業協同組合所有・占有。
荒屋公民館の裏手、現在も使用している山道の中にあり、山林としてから松を植林した。江戸末期の作。
山林として雑木が繁茂し、上部も麓も削られている。江戸末期の作と推定されている。
盛岡の起点から15里の地点。一基は道路建設時に消滅し、西側のみが台地上の雑木林の中に杉が植えられて残る。岩手県内の鹿角街道一里塚として、最も西側に所在し、昭和48年に旧安代町の史跡指定を受けている。
「追分け」「分れ」とは道の分岐のことで、そこに立つ石の道標を追分け石と言った。
明治時代になって整備された国道4号線(新陸羽街道)と鹿角街道との分岐点で、岩鷲山参道の柳沢入口でもあり、道標が二つ建っている。
四角柱形の高さ1.6mの石碑には、「(中央上)巌鷲山 (右下)右かつの道 (左下)左柳沢道」と彫られている。
高さ約1mの自然石には、「(中央上)奉納正一位田村大明神 (右)文化四年 右かつの道 (左)五月吉日 左おん山道」とある。
八幡平市田頭第1地割りの分岐点に高さ1.3mの自然石の道標がある。安永五年(1776)7月建立。
「(中央)南無阿弥陀仏 (右)みぎり てんとふみち (左)ひたり よりきむら」
脇に百万遍供養塔がある。
「留め沢一里塚」近くに、桜松神社・不動滝方面への沢道の分岐に立つ道標がある。
天保三年(1832)4月3日建立。高さ1.4m。
「(中央上)金比羅山 (右)不動明王 右かつの江 (左)岩鷲山 左不動江」
軽井沢集落のはずれ、安比川に接するそばに道標がある。
高さ70cmほど。
「(右)右ハ桜松神社 (左)左ハ寺田 道」
寺田の宿場にあり、境内には白坂観音を遷した観音堂がある。
仙台に国分寺が建立された時期より早く、白坂観音が聖武天皇勅願所として開創され、寿応山沢両寺(たくりょうじ)、白坂薬師堂が相次いで建立された。沢両寺は川の合流点の山ふところに建てられ、先に建立された白坂観音堂も寺の境内に移されて以降、一緒に何度か遷座し、明治8年6月、白坂観音堂だけ寺田の聖福寺境内に移り、沢両寺は幻の如く消えている。七面観音も珍しい。また、白坂薬師堂から、平安時代の線刻八稜鏡が発見され、聖福寺に残存する。
盛岡藩からは街道の並木として松や柳を植えるようにとのお達しが出たが、根付かなかったためか、もともとこの地域に生えているマンダ(マダとも言う)の並木が植えられていて、七時雨山西麓に2か所残っている。マンダ(マダ)はハンノキの地方名と言われているが、ハンノキとは異なるという説もある。
江戸時代の資料では梨子木峠と記され、国界峠だった。また、太平洋に注ぐ安比川と日本海に注ぐ米代川の日本列島の中央分水嶺でもある。峠付近の古道は灌木の中で廃道となり、田山側(盛岡から峠を越えてすぐのところ)に「塞ノ神」の祠がある。
近くにある「越戸塞ノ神(こえとさいのかみ)」看板(田山地域振興協議会による設置)によると、
藩主の領内巡視時の記録である「北奥路程記」の安政3年(1856年)に、越戸には三軒の家があり、峠には梨ノ木があったと記されている。また、松浦武四郎の著した「鹿角日誌」には、「梨ノ木峠は上り半里下り半里といえども遠し。峠に小さき像あり。鹿角郡二戸郡との境なり」と記され、現在も祠が二つ現存している。塞ノ神は道祖神と言われ、集落の外れにあって外部から悪い霊が侵入するのを防ぐために置かれ、安産と子供の守り神でもある。
鹿角街道の難所の一つである湯瀬峡谷では、湯瀬から小豆沢の間の大崖(おおがけ)や天狗橋のあたりが特にけわしく、かなり後世に街道が通ったといわれている。盛岡藩「雑書」では、正保二年(1645)から湯瀬番所の存在を確認できるため、その頃にはすでに道があったと知られる。
それ以前は湯瀬峡谷を避けてその南側で八森の麓をたどり長嶺に抜けたともいわれる。長嶺に残る牛渡(うしわたり)や塩俵(しおだわら)などの地名は、古い交易路の跡を留めたものとも考えられる。
さらに湯瀬の板戸沢から八森の南側を越えて谷内へでる古道があったとも伝わる。
湯瀬から大崖のあいだでは毎年そばだつ巌から鷹の子取りが行われていたと伝わる。松の木の追分から対岸の神田(しんた)へは舟渡しによるしかなく、道は人ひとりがようやく渡れる崖道で、転落も多く、人々や馬は紀の国坂を通った。
現在は「湯瀬渓谷散策路」が近世の鹿角街道に作られているが、道が崩れていて危険なため、通行禁止となっている。
〒028-7533 岩手県八幡平市叺田230
TEL 0195-63-1122 FAX 0195-63-1123
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東北自動車道西根I.C.から自動車で約20分
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鹿角街道と呼ばれる街道は3つあり、メインの鹿角街道は、江戸時代初期に南部氏が盛岡城を拠点としてからのもので、盛岡~滝沢~寺田~七時雨山西麓~荒屋新町~田山~湯瀬~花輪への道筋。
浄法寺鹿角街道は、南部氏の本拠が福岡城(旧九戸城)だった頃から、その後も福岡代官所と福岡通りエリアを結ぶ幹線道として使われた。福岡から浄法寺(じょうぼうじ)を経て曲田(まがた)でメインの鹿角街道に繋がる。
三戸鹿角街道は、南部氏の本拠が三戸城だった時代のメインであり、その後も銅の道として不可欠。三戸~田子~関~夏坂~大湯の道筋。
3つの街道は互いに補完しあう形で環状線となり、盛岡藩にとって大きな役割を果たしていた。
一般には、1日に7回もしぐれると言われるほど天気の変わりやすい場所であることから七時雨と呼ばれる、と言われている。また、七時雨の字を当てるようになって一定したのは、旧藩時代の後半期となってからだと解説されている。
別の説には、中世での呼称だった「流霞道(ながれかすみみち)」を「流霰道(ながれしぐれみち)」と誤記して、「流れしぐれ道」の呼称が生まれ、「流れしぐれ道」が通る山なので「ななしぐれ山」になったという説もある(中谷充「新日本山岳誌」)。
また、逆に「流霰道」が先で、誤記で「流霞道」と呼称されるようになったという説もある。
ちなみに、山麓の寺田地区には「流れしぐれは誤字ではない。中国の古代詩人は詩文の中に流霰の文字を使っており、漢和辞典にも出ている。りゅうかと呼んでいいのだ。」という人が多く、同所の老人いこいの家にも「流しぐれ荘」と命名している。
一里塚の歴史は比較的新しく、天正14年(1586)織田信長が領国内に、一里を36町(約3924m)として一里塚を築き、塚の上に松、榎を植えたのが最初。部分的にあった一里塚を全国に設置したのは徳川幕府。二代目秀忠が日本橋を起点に東海道、東山道、北陸道を幅5間に整備し、一町を60間(109m)、一里を36町(3924m)とし、直径5間の一里塚を道路の両側に設置した。目的は、旅人に里程を知らせることと、人夫や馬を提供する者が不当な料金を請求するのを防ぐため。諸外国にも前例がない施設だったらしく、ジョンサリスというイギリスの船長が旅行記「ザ・ボエージ・キャプテン・ジョンサリス・ツー・ジャパン」(慶長十八年1613年)の中で、先進的施設と推賞している。脇道の一里塚が七里塚とも呼ばれるのは、36町を一里とした「大道」に対して、6町を一里とした「小道」だと、42町(4578m)で一里としたから。明治3年に混乱を防ぐ理由で脇道も36町と改められた。
*菅江真澄(1754年~1829年)三河生まれ。蝦夷地までの旅の記録を残した。鹿角街道を通ったのは天明五年(1785年)。十和田から来て、花輪、湯瀬、折壁の関所を通り、梨木峠を越えて曲田から一戸に向かっている(「けふのせば布」)。
*高山彦九郎(1747~1793)上野国生まれ。寛政2年(1790)に通り、「北行日記」を著した。尊王論提唱者。
*松浦武四郎(1818~1888)伊勢生まれ。蝦夷地から千島・樺太までを探検した地理学者であり、北海道の名付け親。嘉永2年(1849年)7月、松前からの帰途に鹿角街道を南下し、「鹿角日誌」を著した。
*谷文晃は「日本名山図会」に岩木山、姫神山、早池峰、七時雨山を収めている。
七時雨鉱泉・憩の湯
4分 ↓ 350m ↑ 4分
白坂八幡宮・観音堂跡
25分 ↓ 650m ↑ 25分
大滝
60分 ↓ 2.6km ↑ 55分
留ノ沢一里塚
30分 ↓ 1.4km ↑ 25分
車之走峠
50分 ↓ 2km ↑ 60分
マダ並木道の看板
20分 ↓ 1.2km ↑ 25分
七時雨一里塚
距離 8,2km 時間 3時間10分
JR花輪線平館駅より西根団地行きバスで約30分、老人憩の家下車。
東北自動車道西根I.C.から国道282、県道17号岩手平館線に入り、七時雨カルデラライン(県道227号)を15km北上すると、七時雨鉱泉・憩の湯が見える。広い駐車場あり。
東北自動車道松尾八幡平I.Cでおりて東へ約5km進むと、県道17号への左折箇所あり。
JR花輪線荒屋新町駅から南へ進み、白山神社前で花輪線線路を横断して南東方向への舗装道路を進むと橋があり、東へ渡り、東北自動車道をくぐり、さらに4kmほど東へ行くと七時雨一里塚がある。
岩手県教育委員会編「岩手県文化財調査報告書 第46集 鹿角街道」岩手県教育委員会発行 1980年
秋田県教育委員会編「秋田県文化財調査報告書第130集 歴史の道調査報告4 鹿角街道」昭和60年
青森県立郷土館編「青森県歴史の道調査報告書 鹿角街道」青森県教育委員会 1985年
「八幡平市の鹿角街道」鹿角街道まちづくり実行委員会 平成25年
「鹿角街道紀行」鹿角街道まちづくり実行委員会 2015年
西根町史編纂委員会編「西根町史 上巻」西根町 1986年9月
「鹿角市史 第二巻(上)」鹿角市 1986年
「鹿角市史 第二巻(下)」鹿角市 1987年
「鹿角市史 第三巻(上)」鹿角市 1991年
「鹿角市史 第四巻」鹿角市 1996年
大館市史編纂委員会「大館市史 第三巻上」大館市 昭和58年
大館市史編纂委員会「大館市史 第四巻」大館市 昭和56年
「歴史の懐道–鹿角街道を往く」岩手県八幡平市教育委員会発行
日本山岳会編著「新日本山岳誌」ナカニシヤ出版
《担当者》
日本山岳会山岳古道調査プロジェクト本部
松本博子
《協力》
七時雨ロマンの会:工藤忠義氏、畠山城司氏、駒田氏、山本氏
八幡平市市民部文化スポーツ課:東本茂樹氏