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52 子の権現・髙山不動

子の権現(表参道、芳延口参道、小床口参道)

奥武蔵古道を巡る「子の権現」及び「高山不動」への参詣道並びに信仰・交易のための歴史を重ねた峠道を歩きます。
子の権現の参詣道は主として5コースが知られています。
・表参道として知られる飯能市中藤上郷の青石橋から子ノ権現に登る「中藤コース」
・吾野駅の芳延から子の権現に登る「芳延口(よしのべぐち)参道コース」
・西吾野駅から小床口を経由し子の権現に登る「小床口(こいかぐち)参道コース」
・吾野の下久通から登る「日用口(ひゆうぐち)参道コース」
・名栗の穴沢から登る「名栗口(なぐりぐち)参道コース」
また、
・高山不動尊への参詣道は、越生の黒山から顔振峠に登り関八州見晴台を経て高山不動尊から吾野に降るコース
・越生の龍穏寺から横吹峠に登り関八州見晴台へ抜ける高山道(四寸道)
・ときがわ町の慈光寺または馬生バス停から新柵山を越えてブナ(檥)峠を経由するコース
などがあり、いづれも古くからよく知られた道です。
なお、子の権現までの距離は、表参道の表口からは五十二丁、吾野口からは三十二丁、名栗口からは三十丁、小床口からは二十五丁、日用コースの久通口からは十五丁となっています。
「一丁」は約109mに相当します。

ここでは、初めに飯能市中藤バス停から子の権現に至る現在の中藤(表参道)コースを登り、吾野駅に降る芳延(吾野口)コースを紹介します。次に西吾野駅から小床経由で子の権現に登り、芳延に降る小床コースを併せて紹介します。

古道を歩く

中藤→子の権現(表参道/中藤コース)

飯能駅から国際興業バス(中沢行)に乗り(1日に4本のみ)、中藤バス停で下車します。終点の中沢バス停の方が子の権現には近いのですが、表参道(表口)登山口にあたる五十二丁目の丁目石(道標)を出発点としたいので、中藤バス停で下車します。五十二丁目の丁目石は青石橋にあります。
中藤バス停は南飯能線と前沢・吾野駅方面(北)への車道の分岐にもなっています。

バス道の左側の中藤川とガードレールとの間に、向かって左の道標には「子の山表道入口 是ヨリ五十二丁、武刕西川材木商同業組合建之、大正十三年(1924)、うめの香や 今をむかしの みちしるべ」と距離と句が記された大きな石標があります。
大正13年は60年に1度の甲子の年に当り、子の権現の「子年ご開帳」を祝して参詣道に丁目石を建てたものと考えられています。
向かって右側は「子ノ山四谷講社・是ヨリ五十二丁」の自然石に刻された道標があり、真ん中には「南無阿弥陀佛・右高山道、左子のごんげん道五十二丁・三峯山十三里(自然石)、元禄三年(1690)」の3基の立派な道標・供養塔が並んで建てられています。
また、大きな「中藤・原市場地区文化財マップ」が設置されています。
分岐である車道に挟まれた尾根の先端の石段の上には、小さな神社(山の神?鞘堂の中に祠2基)があり、金属とガラス製の現代的な灯篭が2基並んでいます。
左手に中藤川を見ながら舗装されたバス道を直進すると戸丸バス停につきます。
そこから先の右側の民家の入口に馬頭尊石像(昭和5年)がありますが、文字の判読は困難でした。
赤久良橋で中藤川を越えると左手にゆずの庄(うどん店)、次に材木を高く積んだ田中製材所が右手にあります。
中沢バス停「右に子ノ権現、左は竹寺方面」(林道原市場名栗線起点の標識あり)の分岐には公衆電話ボックスが並んで立っています。

中沢バス停の左には公衆トイレ、右に進むと左手に鬼灯と菊が手向けられた地蔵尊とその上方に石碑「南無阿弥陀佛(ひだり、こつてん王みち是より十六丁 ミギ子のごんげんみち是より三十六丁(明治3年)」及び「富士登山三十三度」供養碑があります。「こつてん王」は牛頭天王を祀った竹寺であり、子の権現道との分岐を示しています。
分岐から約300mで正面に笠木のついた朱色の両部鳥居が目立つ権五郎神社が見えてきます。
ここは子の権現道(左)と栃屋谷林道(右)との分岐です。社殿の朱色に屋根には千木と鰹木4本が載せられ、「御霊大神」の扁額が掲げられています。
なお、権五郎は平安時代後期に活躍した鎌倉権五郎景政のことと考えられます。この地域の祖霊として祀られ、地元の人々の篤い御霊信仰に基づく神社と思われます。
「新編武蔵風土記稿」には「御霊明神社」として鎌倉權五郎景政及び岡部六彌太忠澄の靈を祀ったことが記され、中沢地区の鎮守として「疫病除け」などに篤く信仰されたものと推測されます。
次がその文章です。
「鎌倉權五郎景政、岡部六彌太忠澄の靈を合殿に祀れり、神禮白幣、例祭九月十九日、上中中澤の鎮守なり、社地杉樹繁茂生す、社前に鳥居を立、慶安年中三石の御朱印を附せらる、神職落合飛騨、吉田家の配下なり」
ちなみに鎌倉権五郎景政は右目を射られながらも奮闘した武将ですが(「奥州後三年記」)、歌舞伎「暫」の鎌倉権五郎景政とはまったく関係がありません。
一方、岡部六彌太忠澄は源頼朝に従って一の谷合戦で薩摩守平忠度を討ち取ったことで知られる武蔵武士で、埼玉県深谷市岡部に館があったとされますが、鎌倉時代には飯能を治めたことによるものと考えられます。

車道右側の曹洞宗自在山宗穏寺の石段前には、三十丁目石及び「本橋久蔵先生謝恩の碑」があります。
石段の横には徳川家の菩提寺であった増上寺由来の大きな石灯籠が2基並べられていました。また、境内には「佛心禅師碑」(明治21年4月)や、「西国坂東秩父供養碑」(宝暦3年)には、富士山・現世安穏及び湯殿山・後生善處の記載も確認できます。
石段下の右側に地蔵尊2基(安永)及び石仏が多数並んでいます。美しい石仏は聖観音像(元禄6年)でしょうか?
文化9年銘のある地蔵尊もありました。「新編武蔵風土記稿」には宗穏寺に行基作と伝わる本尊十一面観音があると記されています。
車道に戻り、左側にあるオレンジ色の鉄橋を渡ると鬱蒼とした木立の中に天神社が鎮まっています。
同じく「新編武蔵風土記稿」には、天神社には「神禮束帯せる木坐像長八寸五分、古色に見ゆ、村内の鎮守なり、・・・木猊二軀、長八寸許、社内に置く、土人は左甚五郎が作といへど、肯がたき説なり」と、左甚五郎作と伝わる神體束帯の木坐像があると記されています。しかし確認できませんでした
また、車道に戻り小さなお堂に入った地蔵尊を越えると、右側の石垣の上の梅林の中に二十八丁目石があります。二十六丁目石は車道の左手で向かい側は民家です。
右側の旧道に下ると右側に二十五丁目石及び異なった種類の丁目石(?)が2基あります。

中沢川を5号橋で渡り車道に戻ります。
前方左側に特徴のある石の仏堂(火灯窓があります)があり、内部を覗くと本尊は不明ですが蓮台の上に半跏像(右足を左の腿にのせ、左足は下げている)の仏像が納められています。
更に、道の左側に二十四丁目石、その先に地蔵尊、左側の民家のブロック塀の下に二十三丁目石(大正13年)があります。
左側の斜面はお茶畑となっていて、生活の様子が窺い知れます。
車道左の橋を渡ると小さな仏堂があり、内部にある本尊は未確認ですが、白い小さな観音像が数体と千羽鶴と共に釈迦三尊坐像(?)のような仏像が安置されています。仏堂の前の道が車道開通以前の旧道(子の権現表参道)とも推測されます。
民家の戸口には「両神神社・大口真神・火盗除」と記された三峯山と類似のお犬様像や「高山不動・防火」のお札が張ってあり、地域の信仰の様子が良くわかります。
子の権現道(左)と林道九々戸線(右)分岐の標識を過ぎ、林道笹能線を左手に見送り、民家が散在するなかを進みます。
並沢橋で中藤川を渡ると杉林の左側に上部に仏像の浮彫が見事な「諸国神社佛閣供養塔(現世安穏、後生善所)」があります。

左手の倒れた十丁目石を見送ると庚申塔と浅間神社庚申塔が並んでいます。
子の権現への分岐(右が中藤口参道、左が林道双沢線)を右折すると、沢沿いの車道が子の権現への本格的な登りです。
表参道途中の左手に木製の狸の置物等が多数並べてある大きな木造旧宅(屋号:旅人宿中川屋)があります。
休日にのみ飯能市内からここの旧宅に戻ってくるとのことで、庭先に八丁目石が設置されていました。
車道造成時に失われた丁目石を、たまたま掘り起こしたので、庭先に設置しているとのことです。夜ともなると、イノシシやシカが庭先で遊んでいるとの話が聞けました。
旧中川屋はこの地域の広大な山林地主で、かつては「旅人宿中川屋」を営んでいたとのことで、多数の古い看板が玄関上部に掲げられています。また、裏の斜面には石碑が多数並べられていて、刻まれた文字がはっきりと確認できませんが、稲荷大明神、摩利支天、普寛行者などが見分けられ、御嶽信仰との関連が推測されます。
車道を先に進むと右手に「山型に七の文字」の印が入った屋根のある大きな民家があり、かつて七丁目の丁目石があったとの情報もりますが、残念ながら今回は確認できませんでした。
右側のガードレールの上にある「子の権現あと300m」を過ぎて急坂を上ると、子の権現の入口に当たる二本杉につきます。
二本杉の碑には由緒が記されていて、子ノ大権現が食事に使ったスギの箸をさしたのが根づいて大樹になったとされる御神木ですが、残念ながら二本の杉の1本は半分から上が切り取られています。昭和34年9月の伊勢湾台風による被害と思われます。
大杉の横に「表口一丁目、吾野口一丁目(大正13年)西川材木商同業組合」の丁目石、自然石による「一丁目道」(右・江戸相州、左・秩父高山・安永八年(1779))、土産物店、公衆トイレなどがあります。

傍らに子の権現の由来を簡単に記した説明板があります。また、赤い鳥居の右横には、寺院(子の権現)らしく「禁葷酒」の石碑が並べられています。
子の権現の参道を進むと天龍寺の正門と考えられる黒門(扁額に大鱗山とある)及び極彩色に輝く巨大な露座の仁王像があります。
本坊手前の右側に「大正十三年甲子年三月吉日開帳記念、登山道丁標起点、吾野口三十二丁、表口五十二丁、名栗口三十丁、武刕西川材木商同業組合建之、天壽庵主人書」とあり、各参詣道の距離を示す大正期に整備された原標と思われます。正面に江戸時代末の創建当時の姿を止める茅葺の大屋根を持つ天龍寺(子の権現)本坊があり、歴史を感じさせる佇まいです。

また、左側に道標「関東ふれあいの道 吾野駅5.0km-竹寺・天目指峠」があり、竹寺への分岐となっています。
石段を登った右手の境内には、足腰の神様に相応しく巨大な「黄金色のわらじ」と「下駄」が奉納されています。
また、子の権現本堂には「日本一社、子聖大権現」の扁額が掲げられています。
いまに残る子の権現の神仏習合の形態は、子ノ聖が出羽三山での修行を経て吾野に来たことから回国聖(行者)としての影響が強く反映されたものと推測されます。
本堂の右下に説明板「飯能市指定有形文化財 木造不動明王立像」があります。また、本堂の左側には、絵馬ならぬ小さな「藁草履」が多数願掛けに用いられています。本堂の右横奥に閻魔堂があり、堂々とした閻魔大王が単独で安置されています。
その右側の石段を登ると地蔵菩薩立像が安置されている地蔵堂です。

子の権現→吾野(芳延口参道/芳延コース)

子の権現入口の二本杉から吾野駅方面に下ると正面に阿字山への分岐があります。阿字山は子ノ聖の母である阿字女(阿字長者とも呼ばれ、紀伊国天野郷の生まれと伝わる)の霊を祀ったところと云われ、大日如来を安置した堂があったとされる場所です。阿字山への石段を登ると右側に大日如来石像があります。
その奥は広場になっていて東屋風の休憩所があります。
更にその奥は少し高くなっていて、眺望はありませんが、智拳印を結んだ大日如来石像が鎮座しています。台座には「阿字山 大日尊」と刻されています。
二本杉の前に戻り、箒を持った地蔵尊及び「関東ふれあいの道」の説明板の向かい側から急坂を下ると教育地蔵です。

また、車道を直進し駐車場から奥武蔵の展望を楽しむことも可能です。
駐車場から車道を下ると教育地蔵の前で、二本杉からの下り道に合流します。
車道を左に進んだ先にある道標「西吾野駅」及び「関東ふれあいの道・吾野駅4.6km」・「子の権現0.4km・竹寺3.4km」・「休暇村」分岐に従い、明確な登山道を吾野駅に向って下ります。
古道と言うよりは文字通りの登山道で、滑りやすく、大きな岩が散在しています。雨で抉れた赤土の登山道をジグザグに急降しますので、足の置き場に充分な注意が必要です。
途中の要所に道標「関東ふれあいの道、吾野駅‐子の権現」が設置されていて、丁目石は見当たりませんが整備の良い登山道です。
右手の鳥居の奥に神社(山の神)がありますが、社殿の前まで近づいてみても神社名の記載はありません。
白木の神明鳥居に石段が積まれていますので、地域の氏神とも推察されます。
しかし、風土記稿に「今の下あま寺これなり」と示されたように、神社の近辺は子ノ聖が初めて山に登った際に、地元の悪鬼たちに放火されたため、猛火で足腰に大やけどを負い、火傷を癒した場所として「下天寺」と呼ばれて、観音堂(十一面観音を祀る)及び「山の神」が祀られていたと伝えられています。
また、「子ノ大権現十二丁目石」(安永八年)があり、まもなく朱色の欄干を持つ降魔橋につきます。降魔橋は子ノ聖がこの山域に住む悪鬼による火災に巻き込まれた際に、天龍の降雨(仏教用語の法雨とも記されています)により難を逃れたとされるところです。また、下半身に負った火傷を癒された場所として、足腰に霊験がある根拠となった伝説の地と思われます。
鬱蒼とした樹林に覆われた薄暗い降魔橋の両側に「子ノ権現、天龍寺」の石柱と「降魔橋石碑」(昭和十年十一月十日)が、橋を挟んで建てられています。この先に道標「関東ふれあいの道があり」があり、左側に芳延口からの最奥の民家があります。子の権現の参詣道はここから車道に変り、間もなく浅見茶屋につきます。

浅見茶屋から下ると芳延口からの丁目石である十五丁目(大正13年)があります。
朱色の堂を持つ不動尊の右側には様々の形をした庚申塔が5基並んでいます。
不動堂の裏側には不動の瀧と呼ばれる小さな滝が流れ落ちています。
車道の左の雑草が刈り払われた場所に十八丁目石及び二十四丁目石があり、車道の左側の鬱蒼として樹林の下に馬頭観世音の文字塔が隠れていました。
秩父御嶽神社および芳延橋の先の国道299号沿いに標識「子ノ山入口三十二丁、右ハ秩父道、左ハ子の山道、武刕西川材木商同業組合寄附」(大正十三年)、「子ノ山登山道」等が3基並んで建てられており、吾野・芳延口の登山口であることが理解できます。
これらの道標はかつて芳延橋の袂にあったものと伝えられていますが、国道299号のバイパス開通と共に現在の場所に移動されたものと考えられます。
芳延橋の手前を右折する道が旧国道299号と考えられる吾野駅への道で、南側に諏訪神社があります。

「新編武蔵風土記稿」坂石村の条に「諏訪神社 神體白幣、例祭七月廿六日、當村及び南村阪元村の鎮守なり、慶安年中三石の御朱印を賜る、」とあり、近郷の鎮守であることが分かります。
神社の正面に絵馬が掲げられていて、新田義貞(稲村ケ崎で太刀を海中に投じた伝説)や那須与一(屋島の戦いで扇の的を射ている絵)と並んで白蛇(信仰)の絵馬が多数奉納されています。
神社から高麗川沿いの道を通って、西武秩父線の高架橋(陸橋)を乗り越え、西武秩父線の踏切を渡り、西武秩父線の地下道を潜ると吾野駅につきます。

西吾野→子の権現(小床口参道/小床コース)

奥武蔵古道の多様な信仰の道の中から、往時の古道が残る子の権現小床(こいか)道を歩きます。
西吾野駅に降り立つと登山者の多くは高山不動尊や関八州見晴台をめざすようです。
西吾野駅から左に下ると西吾野橋を渡ります。左側に古い道標「子ノ権現、約90分-高山不動尊、約90分」があります。
また「北川“まっぷ”」の大きな看板があり、高山不動尊へ向かう北川周辺の詳細地図や子の権現の概略図などが描かれています。
国道299号手前の右側の綺麗に刈り込まれたお茶畑の中に金属(銅製か?)が被せられた神明鳥居がすっきりとした姿を現し、石段を登ると天満宮につきます。

神社名の表示は見当たりませんが「疫病退散」の幟が建てられ、社内には「疫病消除御祈祷神璽」が、また社殿の正面上部には大きな「梅鉢紋」が掲げられ、天神様の社であることが理解できます。
更に国道299号(かつての秩父往還・吾野道)に向って進むと、右側に椚平自治会館があり、旧地名が椚平であることが分かります。
国道299号・西吾野駅入口の信号機のある横断歩道を渡ると道標「子の権現-秩父方面」が正面にあり、左方向へと国道横の歩道を進みます。右側にあるコスモ石油ガソリンスタンドを越えると、野生動物から畑を守る囲いの中でネギ、キュウリ、里芋などが栽培されている里山の風景を見ることができます。
右側に小床橋があり、高麗川を渡ると橋の上の大きな看板には「足腰守護の神仏、厄除開運、子の権現、天龍寺、徒歩約50分、この道は車では登れません」と記され、子の権現への入口であることが分かります。
両側を杉の植林帯に囲まれ舗装された緩やかな登りの車道を進むと、右側に小床自治会館があります。
杉の植林帯のため、薄暗い車道の左側はガードレールが設置されています。
自治会館前には“こげ茶色”の石碑が設置されていて丁目石(二丁目?)のようにも思いましたが、文字の判読ができませんでした。
子の権現の丁目石は神社や仏閣の参詣道に一丁(町とも記され約109m)毎に設置された石製の道標です。
子の権現の丁目石は登るにしたがって数字が少なくなり、参道入口付近が一丁目になります。
この先の右側に石製6面6体地蔵があり貴重な地蔵尊と思われますが、説明板などが無く詳細は不明です。

「宝暦」、「小床」などの文字が確認できますので、江戸時代からの歴史のある六地蔵と考えられます。
しかし、一般に六地蔵は寺の入口などに置かれていますが、寺や墓などは見当たらず単独なのは珍しいと思われます。
民家の左側に分岐と思われる古い道標「子ノ権現」があります。
道の両側は墓が多く残されていて、往時の小床地区の繁栄が偲ばれます。
小床地区の最奥の民家の前で舗装された車道から狭い登山道に変わります。
ガードレールの道標の先に丁目石らしき石碑が2基(安永8年設置?)あります。
真ん中に穴の開いたこげ茶色の自然石でできた石碑は「十八丁」の文字と「右天寺」と記されていて、丁目石として道標の役割も果たしていたようですがその他の文字は判読できませんでした。
道標「子ノ権現-小床橋・西吾野駅」の先の登山道の右側に、清之神社の赤い鳥居があり、その奥の岸壁に喰い込む形式で小さな白木の社がありますが、神社名の記載はありません。社の中に「岡象女神・奉上棟大元尊神家家内長久栄昌守護所・五帝龍神」と記された木札が奉納されています。
小床地区の氏神様とも考えられ、一般に清之神社と呼ばれていますが神社名の由来は未確認です。
社の右側には稲荷社が置かれていますので、鳥居が赤く塗られている理由もわかります。
登山道に戻ると左側の岩塊上に石製の小さな清心地蔵坐像があります。多少苔で覆われていますが地蔵尊の下部に「清心」の文字が読めます。「清心」の由来については、昔、清心というお坊さんが、小床から子の権現への参詣道が荒廃していたのを造り直したとの伝説を残し、小床地区の住民の篤い信仰を今に伝えています。
ここからが本格的な登りとなり登山道に変わります。良く踏まれた登山道の左右は杉の植林で、青々とした下草のシダ類が一面に広がり清々しさを感じさせます。久沢に沿ってなだらかに登り、最後のジグザグな急登を越えて尾根にでると有名な「天寺十二丁」の比較的大きな丁目石があります。

子の権現への参詣道であるイモリ山コースと小床コースとの合流点になります。
丁目石はイモリ山から標高465mのピークの稜線上にあり、「峰ノ前」と記された記録(地図)を見たことがありますが、昔からの交通の要所であったことが容易に想像されます。
しかし、丁目石は樹林の尾根上に佇むのみで、標識や説明板はまったくないので、由緒や何故この場所に置かれているかが理解されず何とも残念なことです。
斜面を横切りながらジグザグに登ると「柿ノ木峠」と呼ばれる分岐にでますが、標識は設置されていません。
子の権現の参道の一つである南川口(久通川の日用橋から子の権現に至る)参詣道との重要な合流地点ですが、道標や説明板もありません。
小床道の丁目石があったと古い記録にありますが、丁目石の存在は未確認です。また、峠名から推察するに此処に大きな柿の木があったのではないかと推察されますが、未調査です。
まもなく左側の杉の大木に、小床峠への分岐標識「西吾野駅-小床峠-子ノ権現」があり、尾根上に踏み跡が小床峠から御嶽神社方面へと下っています。
樹林に覆われた急な登山道を登り切ると、舗装された車道(久通から子の権現入口へと至る)に出ます。
道標「子の権現-西吾野駅・小床」及び「休暇村奥武蔵-小床峠・御岳山経由」が設置されています。
車道を左に進むと、左のガードレールが途切れた所に吾野駅への分岐道標「関東ふれあいの道・吾野駅4.5km-子の権現0.4km・竹寺3.4km」があります。
ここは子の権現の参詣道である小床口と芳延口との分岐点でもあり、丁目石や古い道標が残されていても良さそうですが、車道工事で拡張整備されたためか、旧道の面影はありません。
吾野駅への分岐の先に子の権現へ登る山道(近道)の分岐が右側にあり、教育地蔵立像があります。
赤土の登山道をジグザグに登ると子の権現の入口にあたる二本杉の手前にでます。
以降は、中藤上郷から子の権現を経由して芳延に降る表参道・吾野コースの記載と同様です。

この古道を歩くにあたって

子の権現の表参道コース、芳延口参道コース、小床口参道コース、共に参詣道としてよく整備されていて、歩行が困難な箇所は確認できません。

古道を知る

子の権現

「子の権現(ねのごんげん)」は、かつて武蔵国を代表する山岳修験寺院の一つでした。
寺号は大鱗山雲洞院天龍寺(だいりんざんうんどういんてんりゅうじ)で、通称、子の権現と呼ばれています。
天長九年(832)、子ノ年子ノ月子ノ日子ノ刻に紀伊の国で生まれった子ノ聖(ねのひじり)大権現を本尊としているためです。
天龍寺の由緒には、延喜11年(911)に子ノ聖が天龍寺を創建されたことに始まるとあります。
火難除け・足腰の病に霊験を示すことから、奉納された巨大な金の草鞋や鉄の下駄を見ることができます。
「出羽三山において修行をかさね、ある日、月山の頂上に登り、年来読誦する般若心経を取り出し、「南無三世仏母般若妙典(なむさんぜぶつもはんにゃみょうでん)、願わくば、われ、永く跡を垂るべき地を示し給え」と空高く投げました。すると、そのお経は南へ飛んで、当山の奥の院(経ヶ峰)に降りたち光を発しました。この光を目当てに当山山麓まで来られ、山を開こうとした聖は、悪鬼どもに襲われ火を放たれました。しかし、十一面観音が天龍の姿となって現れ 大雨を降らしその火を消してくれました。 その後、当山で修行教化に励まれた聖は、長和元年(1012)「我、すでに化縁つきぬれば、寂光土に帰る。然れども、この山に跡を垂れて、永く衆生を守らん。我、魔火のために腰より下に傷を負い悩めることあり、よって、腰より下に病ある者、誠の心で我を念ずれば、必ず霊験を授けん。能除一切苦。(のうじょいっさいく)」という御誓願を遺し、齢百八十一才で化寂されました。
それ以後、子ノ聖の尊像をお祀りして、足腰守護の神様として広く信仰されることとなりました。尚、「子」には、物事の始まり、全てのものを生み出し育む大本の意味があります」(天龍寺由緒より)
また天龍寺の名称から「あまでら」、「天寺」とも云われています。
入口には鳥居があり、明治元年の神仏分離令による廃仏毀釈、その後の修験宗廃止令の大波に洗い流されることなく、神仏習合の形式を今に残しています。
ちなみに「新編武蔵風土記稿」秩父郡中澤村の条には「子權現社 上中下澤の西邊山上にあり此山は一區をなして頗る高く殊に其名世に聞へて繁盛せり、諸堂社及び別當など、悉く棟宇を連て、年ありし古跡なり、・・・北の麓より峻阪曲折して登ること一里許、此外東口南口より二條の捷徑あり、縁起の略に、昔時紀伊国天野郷に阿字長者と云賢女あり、一生貞寡にて既に耳順に及べり、ある夜氣高き梵僧来て我に救世の願あり、姑く長者の胎に託せんと、・・・淳和天皇天長九年壬子歳子月子日子時に降誕し給ふ、・・・長壽に及て貴賤渇仰して天野の聖と號し、又降誕の年月日時等く子にあたりければ、子の聖とも称す、・・・曾て羽州湯殿の奥に練行すること数年、ある時月山の峰に登りて年来所誦般若経を撃て南無三世佛母般若妙典、願くば我が永く跡を垂べき地を示給へと、誓て虚空に投ければ、遥に南に飛て武蔵國秩父郡我野の峰に止り、光明虚空を照せり、聖此光を認て我野の郷に尋入り、麓に暫眠臥したまふ、ここに此山に住處の鬼類、その隙を窺ひ、火を放ければ、山野悉く火烈となり、衣のすそに燃つきぬ、聖端座合掌して火坑變成池と念じたまへば、たちまち天龍あらはれ、『寺を天龍と號す、この謂なり』、法雨をそそぎければ、猛火即消滅せり、聖奇異の思をなし、頭を回せば天龍は十一面観音と現じ、・・・聖猛火のために腰膝を傷ひたまいければ、暫其所に止りたまふ、『今の下あま寺これなり』かくて峯に登り給ふに、果して彼穏経あり、即石函に容て峯に納め、『この故に経のみねと名づく、・・・三條院長和元年壬子三月十日に昇天せり、道俗悲慕して則その所を鎮坐と定め、社を建子の権現崇祀る」との記述があります。

子の権現の参詣道

子の権現は修験者の修行の地であり、尾根伝いに伊豆ヶ岳、正丸峠から武甲山及び秩父へ、または奥武蔵の峠を越えて、高山不動尊や越生の黒山にあった武蔵国を代表する修験・山本坊などと交流を持ったであろうことが容易に推測されます。
子の権現への参詣道は、
・表参道:飯能市中藤上郷の青石橋(中藤バス停)から五十二丁を登る中藤コース、
・芳延(よしのべ)口参道道:吾野駅の芳延から登る吾野口からのコース、
・小床(こいか)口参道道:吾野の小床橋を渡り小床集落から山道を登る小床口からのコース、
・日用(ひゆう)口参道道:西吾野駅の下久通から日用橋を渡る南川口からのコース、
・名栗口参道:名栗の森河原橋から穴沢峠を登る名栗口からのコース、
が知られています。
また、越生の山本坊の本拠地黒山から、顔振峠を越えて吾野に至る道は代表的な古道です(子の権現道とも記されます)。
坂東9番札所の都幾山慈光寺から多武峰神社を越えてブナ(檥)峠に登り、西吾野駅に降る峠道も、生活や信仰の道として古くから良く知られています。
そのほか、修験や参拝などの信仰の道や、物資を運んだ生活の道が交差する峠越えの古道が多数存在します。
神山弘、新井良輔共著の「増補ものがたり奥武蔵」には、「里修験の峯入りみち」について「中藤川と天王山」と題して、「奥武蔵の峰入り 天覧山、多峯主山より始まって、天覚山。大高山を経て子ノ山に至り、さらに伊豆が岳に登り、正丸、刈場坂、檥峠から高山を踏破して物見、日和田山に終る、一口にいえば高麗川源流の分水嶺一周を、昔は峰入りとよんでいました」と紹介されています。
現在でも奥武蔵の峠や分岐に残された古い「道しるべ」には、子の権現へ導く道標が多数確認でき、「子ノ権現」、「子のごんげん」、「子ノ山」、「あまでら」、「天寺」などと表示されています。
また、慈光寺、子の権現、高山不動、秩父一番札所四万部寺への交差点であり、信仰の十字路として知られるブナ(檥)峠の古い道標(安永三年(1774))の四面には、「此方 ちゝぶ一ばん目江」、「此方 たか山ふとう江」、「此方 志こうしミち」、「此方、子のごんげん江」と記されています。
更に、越生町堂山の最勝寺にある古い六地蔵には、上部に頭部が欠けた大日如来の浮彫があり、左に「あまでら江」、右に「ぢこう」の文字が彫られた石仏(兼道標)があり、慈光寺への道しるべであると同時に子の権現への分岐であることを示しています。

深掘りスポット

秩父街道と吾野宿

江戸と秩父を結ぶ道は、熊谷を経由する秩父往還、川越を経由する川越秩父道、そして飯能を経由する秩父街道がありました。秩父街道は江戸秩父道や吾野通と呼ばれ、平安時代から武蔵国の国府(東京都府中市)と秩父大宮を結んでいました。
江戸日本橋(あるいは半蔵門)から内藤新宿、田無宿(西東京市)、久米宿(所沢市)、扇町屋(入間市)、吾野宿(坂石町分(さかいしまちぶん))、芦ヶ久保(横瀬町)を経て秩父大宮に至る約二十二里の道のりで、吾野宿と芦ヶ久保の間で正丸峠を越えます。
所沢から西武秩父駅までの西武池袋線、西武秩父線とおおよそ同じ経路です。
吾野宿は、江戸時代は馬継ぎ宿として栄え、近代まで秩父絹や西川材の取引、また秩父三山(秩父神社、宝登山神社、三峯神社)参りや秩父三十四ヶ所観音霊場の巡礼の道としても賑わいました。
「新編武蔵風土記稿」には「・・・民家29軒を並べ、秩父街道の左右にありて、馬継ぎの宿場なれば・・・町は東西の通りにて、幅十間ばかり、長さ三町余り」との記述があり、民家29軒が並ぶ長さ三町(約330m)のまち並みは今でも当時の面影を残しています。

本堂の不動明王像

本堂の右下の説明板には「飯能市指定有形文化財 木造不動明王立像 飯能市大字南461番地 昭和62年4月1日指定 この不動明王像は本堂左側壇上に安置されており、像高101.7センチメートルの1本造り(材質は不明)の三尺像である。不動明王像は護摩の香煙によって木理も判然としないほど黒ずんでいる。そのため、一見忿怒の面相が厳しく見えるが、素地は穏やかな面貌である。丸面の面部、面高な頭部、肉付きの良い体躯、部厚い条帛(じょうはく)を左肩にかけて簡素な裳を薄手に彫り出し、右腰をわずかに前に出している。これらのことから、この像は、藤原様を伝えた地方仏師の作と見られ、十二世紀を降らない頃の貴重な平安仏である。なお、両腕は肩から別材が用いられ、両脚も膝下から継がれており、後補されている。 平成十一年三月 飯能市教育委員会」と詳細な解説が加えられ、古い歴史を伝えています。

宗穏寺

「新編武蔵風土記稿」には「宗穏寺 自在山と號す、曹洞宗、阪石町分法光寺末、本尊十一面觀音、木坐像長一尺五寸、行基の作、開山入間郡越生郷龍穏寺十二世日峯伊鯨、天正九年九月廿一日示寂、開基は村民平沼某、慶安二年六月廿一日歿せり、除地壹段貮畝、この寺四世の僧全國と云るは、博議の聞あり、人これを鬼全國と稱呼せりと云、後年江川青龍寺に移居せり」とあり、旧宗国寺にあったとされる阿弥陀如来の記載はなく、元々は十一面観音が信仰されていたようです。
明治11年(1878)の火災で全焼し、昭和37年(1862)に本堂が再建されました。
なお、宗穏寺には飯能市指定有形文化財の阿弥陀如来像があります。
山門前の説明板には「飯能市指定有形文化財 木造伝阿弥陀如来立像、昭和六十二年四月一日指定、寺伝によれば、この像は南栃屋谷(とちやがい)の旧宗国寺にあったものが、宗穏寺に寄託され、阿弥陀如来として信奉されてきたものである。檜材の一木造りで、像高五十一センチの小ぶりな立像である。両手先は欠失しているが、頭部から蓮肉の一部を含めた全身を一材から木取し、内刳(うちぐ)りも施していない平安初期一木造りの古い様式を伝えている。半面、丸顔に伏眼がちの眼や、ふくらみのある頬、肉鬢(にくけい)をやや小さく見せる表現・なで肩の造形などに新しい藤原様式が見られる。これらの特徴をもつ本像は、市内に残る貴重な平安仏である。 平成四年五月 飯能市教育委員会・自在山宗穏寺」との記載があり、宗穏寺の歴史を伝えています。

阿字山

子の権現の入口の南側に阿字山があります。
山名は、子ノ聖の母親が阿字という名だったことにちなむものです。
阿字が剣を口に突き刺して懐妊し、子の年、子の月、子の日、子の刻に子ノ聖を産んだとされています。
阿字とは、密教で「空」を象徴するものとされ、大日如来のことでもあります。
「新編武蔵風土記稿」に「阿字山 山上の山にて登ること一町許、此所に大日堂ありて阿字女の霊を祀り、及び當山歴世の墓碑あり、又大日の露坐せる銅像あり」とあり、また「來迎岩 一に経掛石と云、子聖月山の峰より投ぜし般若経の留りし岩にて、茲に來住せし古蹟なり」の記載があります。
阿字山の階段途中の右側に大日如来の石像があり、その上の広場には東屋があり、休憩場所となっています。

二本杉

二本杉の碑には「子の権現の二本スギ 昭和13年3月31日指定、飯能市吾野南46番地 天龍寺の縁起によると、このスギは延喜11年(911年)この峰に初めて登った子の大権現が食事に使ったスギの箸をさしたのが根づいて大樹になったと伝えられ霊木として守られてきました。木は南と北に二本並び、樹齢は両方ともおよそ800年と推定されます。木の大きさは、つぎのとおりです。南のスギ 目通り7.8m、根まわり10.9m、樹高36.0m、枝張り二本合わせて約15m、北側のスギ、目通り5.4m、根まわり7.9m、樹高23.60m、昭和49年3月25日、埼玉県教育委員会・飯能市教育委員会・大隣山雲洞院天龍寺」と記されています。

竹寺

一般的に竹寺と呼ばれるのは通称であり、医王山薬寿院八王子が正式な名称です。
竹寺は神仏習合の形式が今も残されていて、牛頭天王の別当寺院になります。
明治元年(1886年)に神と仏を分けて祀る神仏分離令が出されましたので、竹寺から牛頭天王を分離して、八坂神社や素戔嗚尊(神社)に分けることが求められましたが、子の権現の別当寺院が天龍寺であるのと同様に神仏習合の形式が今に残されています。

ミニ知識

飯能の木材

江戸時代は「火事と喧嘩は江戸の華」とか云われ、火事からの復興に木材の需要が多かったものと考えられます。飯能市周辺は、江戸時代には「西川材」のブランド銘(江戸から見て西の方にある入間川や荒川の水運を利用して運ばれた木材の産地の意)で活況を呈していた名残が、市内の街並みや神社仏閣などに感じられます。

丁目石

町目石とも記されます。一丁は約109mで、めざす寺院の本堂までの距離を〇〇丁と表し、道標として用いられています。主に四角柱や自然石に文字が彫られています。

正丸峠

江戸時代に所沢から飯能、吾野を経由して秩父に向かうには、正丸峠(現在の旧正丸峠)を越えて芦ヶ久保に下る秩父(甲州)往還が利用されていました。
最短距離であるため古くから利用され、最盛期には秩父絹が馬の背で越えていきました。
新編武蔵風土記稿の秩父郡・葦ヶ久保村の条には「小丸峠 東の方南川村境の峠なり、こなたの麓より頂まで廿町餘、道幅三尺より六尺に及べり、盤回して難所なり、秩父街道の一條なり、」とあり、少なくとも幅1m以上の街道が峠を越えていたものと考えられます。また、峠名は小丸峠と記されていますが、明治40年測図の5万分の1地形図「秩父大宮」には正丸峠と表記され、小丸から正丸に峠名が変更された理由は未確認です。また、蘆ヶ久保村に関し「村名の起こりを尋るに、小丸峠の下澤間窪き所によりて、往古は葦など多く生茂りし村なればかくよべり、四境東は阪元村、小丸峠の峰境、西は横瀬村谷間につづき、・・・」と阪元村と横瀬村の境にある峠を江戸時代には小丸峠と記されています。
歴史の道調査報告書(第11集)「秩父甲州往還」(埼玉県教育委員会編集、平成2年4月発行)には「この旧正丸峠は、旧国道299号線の通っていた南方約1kmにある正丸峠と区別するため、「旧」の名が冠せられている。ここから、尾根上を右に行けば苅場坂峠、左へ行けば正丸峠を経て伊豆ヶ岳方面に至る道が「関東ふれあいの道」の一環として整備されています。

ルート

中藤バス停
↓ 40分 2.2km
中沢バス停
↓ 5分  0.3km
権五郎神社
↓ 60分 2.6km
双沢林道分岐
↓ 40分 1.5km
二本杉

子ノ権現
↓ 55分 1.8km
浅見茶屋
↓ 50分 1.9km
芳延橋
↓ 40分 1.4km
吾野駅

西吾野駅
↓ 15分 0.4km
小床橋
↓ 20分 0.5km
清之神社
↓ 30分 0.6km
十二丁目石
↓ 40分 1.4km
二本杉

アクセス

《子の権現》
・西武鉄道飯能駅からバスで中藤バス停下車、約2時間半
・西武鉄道吾野駅から約3時間
・西武鉄道西吾野駅から約1時間半
駐車場は子の権現駐車場
《高山不動》
・東武鉄道越生駅からバスで黒山バス停下車、約2時間
・東武鉄道越生駅からバスで上大満バス停下車、約3時間
・西武鉄道西吾野駅から1時間半

参考資料

埼玉県教育委員会編集「歴史の道調査報告書(第11集)秩父甲州往還」平成2年4月発行
神山弘、新井良輔「増補ものがたり奥武蔵」(金曜堂出版)1984年12月10日
「新編武蔵風土記稿・秩父郡・中澤村」(雄山閣)昭和46年2月25日発行
5万分の一地形図「秩父・大宮」、明治40年測図・明治43.7.30発行

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会埼玉支部
松本敏夫
《協力》
日本山岳会埼玉支部
熊谷友昭、児嶋和夫、小島千代美、浅田稔、本村貴子、山崎保夫

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