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4 殿様街道
江戸から明治初期頃にかけて松前から箱館(函館)に至る道のりは約27里(105.5km)あり、この道はあまり手をかけない海岸の平地や自然道あるいは杣道を利用したものでありましたが、それでも様々な旅人が行き交う幹線道路でした。松前街道(福山街道)と呼ばれ、蝦夷地(北海道)の最古の道と考えられています。
殿様街道はこの松前街道内の大千軒岳山麓の福島町兵舞(ひょうまい)から福島町千軒地区住川までの約3.5kmの道で、峠を挟んで2本のルートを周回する約7kmの道のりです。福島町の南は津軽海峡、北は大千軒岳(1071m)に囲まれた自然豊かな町で、コース内の道有林31.20haは平成18年(2006年)に「ブナの森100年観察林」として設定されました。100年に渡り、ブナ林の生長過程や移り変わりを観察、記録しながら住民と森林のふれあう場として活用し、貴重な財産としての魅力や価値を見つめ直そうとしています。
殿様街道と云う名前の由来は、寛政3年(1791年)に筑後柳川藩医・淡輪元朔(たんなわげんさく)が「東奥遊記」の中で「山中に入り行くこと三里許にして殿峠を越ゆ、嶮岨ここに極まると云ふべく況や山中には猛熊の憂ありと、蓬高きこと数丈にして四方を弁せず、恐怖止まず、福嶋村に至り初めて正気あり・・・・」と記している通り「殿峠」とは累代の多くの殿様が通った峠と云う意味です。このことが背景となり「殿様街道」と呼ぶようになりました。江戸時代には、この峠の呼称は幾通りかありました。「福島峠」、「知内峠」、茶屋があったことから「茶屋峠」、殿様が通ったことから「殿峠」です。この殿様街道は今でも地域住民の多くの皆さまによって大切に維持管理されています。
スタートからゴールまで約7㎞で、所要時間は約3時間30分です。
2本の歴史ルートを周回して元の場所に戻るブーメランルートです。
その間にある見所や名所、旧跡などについては、スタート順に出入口→「砲台跡」→「旧御料林の境界標識」→「大千軒岳ビューポイント」→「国鉄松前線跡の廃線鉄橋、トンネル跡」→「四十八瀬」→「茶屋跡とスモモの木」→「ブナの巨木」→「峠の茶屋」→出入口(ゴール)となっています。
箱館戦争時に、松前城が攻められることを恐れた松前藩は、土方歳三率いる徳川脱走軍を迎え撃つ目的で、大砲2門を運び上げ、殿様街道内の峠に設置しました。
平坦で見晴らしの良い小高い峠から攻撃しようと考えたことが想像出来ます。しかし、松前藩の出張本陣が沖から攻め始められたと聞いて、そちらに移動することにしました。峠を下ってみると、船は箱館に向かって移動したところで、実際には大砲の出番はなかったようです。
観察林周辺の国有林は昭和22年(1947年)までは「御料林」と呼ばれ、宮内省帝室林野局が管理する皇室財産でした。北海道では、明治21年(1888年)から23年(1890年)までの間に官有林から編入されました。御料林内では国自ら丸太の生産を行なう製品生産事業が行われていました。関東大震災時は建築復興用材の供給が行われたとの記録もあります。
御料林と民有林との境界には上部に「うかんむりが広がった『宮』」と刻印された御影石の標柱が設置されています。当時御料林であったことを示してくれる貴重な史料です。
この場所からは、日本山岳会が選定した「日本三百名山」や道内在住の岳人らが選定した「北海道百名山」の一つであり、また、田中澄江著「花の百名山」の一つに数えられている「大千軒岳(1071m)」の全景が望めます。大千軒岳はこの地域で暮らす人たちのシンボル的存在で、山頂へ登ると駒ヶ岳、函館山をはじめ日本海に浮かぶ奥尻島や渡島大島、さらには津軽海峡を挟み八甲田山、岩木山までもが一望出来ます。
大千軒岳は近世初頭においては淺間(せんげん)岳または欝金(うっこん)岳と称したと記録されています。これは山岳信仰の浅間(あさま)信仰を導入して、山自体を御神体としていたと思われ、この山に対し灯明を備える意味の灯明岳、神聖な山へ登拝するための袴腰(はかまごし)(越)岳などの名が付されたもので、古来から千軒岳は神聖な山岳信仰の中心でした。加えて、砂金堀の家が多かったことから「千軒」となったといわれています。
大千軒岳を水源とする知内川流域で砂金の採掘が始まったのは元和3年(1617年)からで、松前藩は労働力の確保のため全国のたくさんの人たちを受入れました。採掘が盛んになると、津軽のキリシタンや東北地方のキリシタンの中には、松前藩の目を逃れて、砂金堀を装って蝦夷地に逃げ込んだ人たちが多くいました。寛永16年(1639年)に幕命により教徒106人が斬首にされています。(松前藩主はこれまで幕府への報告には「領内にキリシタンはなし」としていたが、それでは済まなくなった)
登山道の奥二股コースの途中には、毎年7月にキリスト教徒殉教ミサが行われる金山番所があり、山頂直下の千軒平には十字架も建てられています。このように大千軒岳周辺の地には、えぞキリシタンの生きた歴史が今なお色あせることなく息づいています。
※田中澄江著「花の百名山」からの抜粋;「大千軒の花は、鞍部のタカネオミナエシもチシマフウロもミヤマアズマギクもエゾカンゾウもまだ蕾であったが、帰路、川沿いの熊の出そうな藪の中に、サルメンエビネが2、3本薄緑の萼(がく)に朱赤の唇弁をのぞかせてつつましく咲いているのを見つけた。四国の石鎚山や横倉山でさがして出あわなかった花が大千軒に。もしかして、九州か四国の信者が故郷懐かしくその根を持って来たのではないかと思った。」
昭和17年(1942年)から昭和63年(1988年)まで使用されていた国鉄松前線の線路跡です。全長50.8kmで、木古内駅→森越駅→渡島知内駅→重内駅→湯ノ里駅→千軒駅→渡島福島駅→白符駅→渡島吉岡駅→渡島大沢駅→及部駅→松前駅の12駅がありました。木古内駅から南西部方向へ、北海道南端の松前半島南岸部を松前街道や国道228号線に沿って延びていました。概ね津軽海峡に面する沿岸部を進みますが、知内町と福島町の間で内陸に入り福島峠を越えるほか、白神岬付近では白神トンネルで短縮していました。客車としての役割の他に軍需物資のマンガン鉱や海産物の輸送に利用されていましたが、並行する国道228号線の整備が進むと貨客とも輸送量が減少し廃線に至りました。
全長48mの「茶屋沢鉄橋」と鉄橋の向い側のトンネルの入口はコンクリートで塞がれていましたが、当時の面影をとどめています。
殿様街道を越えるには、山道の他に川を何度も渡らなければならない「四十八瀬」と云われる難所があり、地名の由来もこのような意味が込められています。近藤重蔵らと共に西蝦夷地を調査して「西蝦夷地日記」を著した田草川伝次郎は殿様街道の様子を「知内村より福島村までの道悪しき中々筆紙に尽し難し。行程七里半ともいう。ただし道悪しく候に付十里余に当る」と記しています。
最上徳内は「東蝦夷地道中記」に、福島と知内の間の山道について「此辺(茂山という沢間)より一と筋の河を幾度も越して峠の下に来る、越すこと四十八度なり、峠は急なる坂にて多し、土地の馬は荷物纔(わずか)に附(つけ)るといえ共、此坂を往来す。日本の馬にては中々能(あた)はざる所なり」と記している通り、当時の殿様街道の往来は相当な難路だったことが想像出来ます。また、蠣崎波響は「一水四十八曲翠(いっすいしじゅうはっきょくみどりなり)」と、秋の紅葉時期の四十八瀬の小川に写る光景を詠んだ漢詩を残しています。
北海道の名付け親であり探検家だった松浦武四郎は、日記の中に茶屋峠付近の様子を鳥瞰図として書き残しています。長い間、武四郎が描いた鳥瞰図の場所がどこかは特定することが出来ませんでした。ところが、ドローン(小型無人機)の利用により得られた写真と鳥瞰図が一致し、描かれた場所を特定することが出来ました。
武四郎の日記には、茶屋峠の西側にある1本の果樹の木が植えられている場所が2度も登場しています。武四郎はこの茶屋で休息を取りながら鳥瞰図を描いたのでしょう。最初の記録には「(峠の下にきこりが住み)桃を多く植えたり、春は辛夷雪間に開き、夏は桃梅等翠の間に咲く、実に眺めよろしき処なり」とあります。もう一つの記録には「(峠下には熊打足軽が住み)桃の木を植えた」とあります。しかし、武四郎の見た桃の木は本当に桃の木だったのか疑問が残っています。同じ場所には現在スモモの木が立っていて、このスモモの木は武四郎が記した桃の木の次の世代の木だと長い間考えられていましたが、平成28年(2016年)の台風により倒れてしまいました。細い枝を残して、太い幹を切り落とし植え直せたお陰で年輪を確認でき、樹木医の鑑定では樹齢200年前後とのこと。武四郎は殿様街道を3回歩いていて、ちょうど時代が重なります。もしかすると、今あるスモモの木は、武四郎が見た桃の木なのかも知れません。
観察林内にある一番大きなブナの木で、樹齢約200年、幹廻り369cm、樹高約24mもある巨木です。この地域で長い間暮らしている笹島義廣さんによると、昭和の時代に千軒地区のブナは炭の原料として伐木されていましたが、この木は伐採が困難な急斜面にあったために残されたとのこと。現在、笹島義廣さんの願いにより御神木となっています。江戸から現在までの長い間、行き交う旅人たちを温かい目で見つめていたことでしょう。根元からこのブナの巨木を見上げると、枝の若葉は木漏れ日で輝き、神々しい風格と大地の息吹きが伝わってきます。
茶屋の跡があるため、この峠は茶屋峠と呼ばれていました。変化に富んだ殿様街道を歩いてきた旅人がひと時の休息をした場所です。茶屋では与助と云う人がお茶や駄菓子、草履などを売っていた記録が残っています。
毎年2回開催されている「殿様街道探訪ウォーク」時には、地元の皆さまのご尽力によりとても美味しい抹茶とそば饅頭のサービスが用意され、暖かな気持ちに触れながら一時の休息を楽しめます。
福島町では、往時の面影が色濃く残っている殿様街道の歴史と自然を多くの人に体感してもらおうと、毎年春と秋に「殿様街道探訪ウォーク」を開催しています。ちょんまげのかつらを被り、みのを羽織った伊能忠敬研究会所属で福島町史研究会会長の中塚徹朗さんや地元千軒育ちで森の名手・名人の笹島義廣さん、福島町教育委員会学芸員の鈴木志穂さんらが親切丁寧に解説をしてくれます。野鳥のさえずりを聞きながら解説に耳をかたむけていると、かつて殿様街道を歩かれた先人の旅人たちは山に囲まれた峠でどんな会話を交わしたのだろうか、風雪に耐える樹々こそ、通り過ぎるものの声をじっと聴いていたのかも知れないなどと江戸時代にタイムスリップした気分に浸れます。ゴールした後には、松前神楽の舞い、寒暖差の大きい千軒地区の特性を活かした風味豊かな千軒十割そばも楽しめます。是非とも機会を見つけて「殿様街道探訪ウォーク」への参加をお勧め致します。また、歩く距離もあまり長くありませんので、ハイキングコースとしての利用も可能です。
松前藩は、慶長9年(1604年)に徳川家康からアイヌ交易の独占権を認める「黒印の制書」が与えられた時に成立しました。松前藩の領内統治策の重要な柱となったものに和人地(松前地)と蝦夷地の区分策があります。和人の居住地として城下から西は関内(熊石町)まで、東は亀田(箱館)までとし、この地域を和人地(松前地)と呼び、アイヌの人たちの住む蝦夷地とは区別していました。また、関内以北の日本海岸・オホーツク海岸地域を西蝦夷地、亀田以東の太平洋岸地域を東蝦夷地と呼んでアイヌの人たちが和人地に出入ることを禁じ、交易する場所も蝦夷地内の商場へ移しました。
幕府は将軍の代替りごとに、巡見使を全国各地に派遣してそれぞれの大名の領域に立入らせ、その藩の領地、治政、藩主の性行、城地、物産、住民動向に至るまで詳細に亘って監察を実施しました。巡見使の監察項目は多岐に亘っていましたが、私領(諸藩)及び公儀御料の政治の実態を「美政・中美政・中悪政・悪政」などと格付けした他、キリスト教禁止令などの幕府法令の実施状況についても検分させました。巡見使の発遣が決定すると、松前藩にとっては重大事でありました。何分にも藩の内情が全て明らかになってしまい、事実を隠蔽していることが分かった場合は、正に命取りになってしまいます。従って質問に対する答弁まで統一するように配慮し、あまり必要のない処は巡見させず、ご馳走攻めにしておくことに心掛けました。巡見使滞留中は藩重役の居宅を宿舎とし、場所請負人、問屋株仲間、御用達などの特権商人を介抱人と指定して一切の世話をさせました。巡見使検分の範囲は和人地(松前地)内のみとして、和人地(松前地)では各村の道普請、橋の掛替、各村会所の整備、人馬継立などあらゆる準備に忙殺されました。巡見使の一行は毎回120名以上の大人数でしたので、殿様街道内を巡見する際も介抱人は多忙だったことが窺えます。徳川幕藩体制下で蝦夷地に発遣された巡見使は、寛永10年(1633年)から天保9年(1838年)までの間に計9回実施されました。
(北海道松前郡福島町字三岳32―2)
平成28年(2016年)に念願だった北海道新幹線が開業しました。福島町は北海道側の出入り口で、トンネルの姿を模した記念館では、日本が世界に誇る「世紀の遺産」が誕生するまでの全てを体感できるトンネルミュージアムがあります。世界初の水平ボーリングに代表される高度な技術情報、工事記録などをパネルや大型映像を通して紹介しているほか、削岩機、トンネルボーリングマシンなどが展示されています。
https://be-happy-fukushima.com/attractions/seikan-tunnel-kinenkan/
https://gate-to-hokkaido.jp/ja/spots/1100/
(福島町字福島190)
福島町からは大相撲で第41代横綱千代の山、第58代横綱千代の富士の二人の横綱が生まれています。両横綱の生立ちを知ることができ、化粧まわし、優勝トロフィーなどの展示もあります。1階には九重部屋の稽古場と土俵を再現しています。毎年夏には同部屋の合宿が行われ、朝稽古の様子は一般公開されています。
https://be-happy-fukushima.com/attractions/yokozuna-kinenkan/
大千軒岳の麓から中腹にかけては、ブナを主体とする広葉樹に覆われて、川筋にはサワグルミやハンノキが見られます。
ブナの若葉が萌える5月初旬頃からは、カタクリ、シラネアオイ、エゾエンゴサク、キクザキイチゲ、スミレサイシン、ヒトリシズカ、サンカヨウ、ミズバショウ、エゾノリュウキンカなどが辺り一面に咲き乱れ、その後はエンレイソウ、オオバキスミレ、オオサクラソウなどの可憐な花々が楽しめます。
累代の松前候は北海道最古の知内温泉に度々入湯に出掛けています。寛永14年(1637年)の福山城中出火の折にも公廣候が負傷して、参勤交代を取りやめて傷を癒すために知内温泉に出掛けた記載も残されています。また、知内方面へ鷹狩りをする際にも殿様街道を通っています。白い雄鷹が生まれた時には鷹匠を江戸に向かわせて将軍に献上していました。この様に知内温泉や鷹狩り時などに殿様街道を通っていた記録が沢山残されています。
修験僧であり、仏師であり、歌人でもある円空は蝦夷地の作仏行脚のため、松前を出発して礼髭村観音堂、吉岡観音堂、脇本観音堂を彫った後、殿様街道を通り木古内、汐首、砂原、山越内(八雲)、礼文華岩窟などで彫像しました。有珠山噴火で被害を被った有珠善光寺の再興が主たる目的でした。当時の蝦夷地は内浦山(駒ヶ岳)、有珠山、太平山なども噴火して多数の犠牲者を出しています。これらの山々を鎮めるために祈りを込めて作仏をしていました。その他、太田山神社(旧大成町)や江差にも多数の円空仏が存在していた記録が残っています。
松前藩の家老でもあり、画人、詩人でもあり、「夷酋列像」を描いた画家としても著名な蠣崎波響は、松前から箱館の旅の途中で、殿様街道の9月の秋景色の素晴らしさを表現した漢詩を詠んでいます。「福島の渓中に紅葉を看る」と題した漢詩です(ミニ知識の最後に掲載)。
また、寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシ事件の際、仲介して取り纏めに功のあったアイヌの実力者12名を描いたのが「夷酋列像」です。この実力者の内5名が箱館から殿様街道を通って松前に出掛けている記録も残っています。
江戸時代後期の旅人で、柳田国男に「民俗学の先駆者」と称賛された菅江真澄は、南北海道と北東北をくまなく歩いて詳細な日記と図絵を残しました。寛政元年(1789年)11月に松前から箱館の恵山岬へ昆布刈りの見物をしました。その帰り道に殿様街道を歩いて「雪ふみ分けてよぢのぼり・・・」と紀行文「ひろめかり」に記しています。また、真澄はアイヌの人たちの生活様式を丹念に記録しています。
ロシア帝国の軍人で陸軍中尉、そして北部沿海州守護隊長のアダム・ラックスマンは、伊勢国(三重県)出身の大黒屋光太夫ら漂流民6名と出会いました。この中の漂流民3名の送還と、ロシア総督の通商要望の親書を携えて来航した折、殿様街道を歩いて箱館と松前間を450名の大勢で往復しています。(漂流民で、殿様街道を歩いたのは光太夫と磯吉の2人)
津和野(島根県)藩士の堀田仁助は伊能忠敬に先駆けて東蝦夷地を踏査し、地図を作製しました。
寛政11年(1799年)に幕府天文方として、江戸からアッケシ(厚岸)への外洋航路を開拓するように命じられ、幕府御用船神風丸に乗り込み、西洋測量術を駆使して江戸から宮古(岩手県)を経由して蝦夷地アッケシ間の航路を開拓しました。
帰路は幕命に背いて陸路で太平洋岸を歩き測量しながら松前に向かい、蝦夷地の正確な地図を作ることを決断しました。
アッケシ→クスリ(釧路)→ルベシベツ山道→猿留山道→様似山道→礼文華山道→箱館→殿様街道→松前へと、開削されて間もない山道などを通り東蝦夷地を踏査し、「従江都至東海蝦夷地針路之図」を幕府に提出しました。
伊能忠敬は寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで17年をかけて日本全国を測量し、「大日本沿海輿地全図」を完成させました。津軽の三厩から福島町吉岡に着船し、この地より測量することを始めたので吉岡は日本地図作成のための第一歩の地点であり、蝦夷地測量の開始地点ともなりました。吉岡から測量をしつつ殿様街道を通って箱館へ、その後は礼文華山道、様似山道、猿留山道、ルベシベツ山道などの山道を歩いてニシベツ(西別、別海町)まで、帰路はほぼ同じ道を辿って測量をしました。福島町では伊能忠敬の功績を後世に伝えるために、2018年に「伊能忠敬北海道測量開始記念公園」を建設しました。公園内には銅像や功績を記す説明板などが設置されています。
間宮林蔵は伊能忠敬から測量術を学び、また、松前の獄舎に幽閉されていたロシアの海軍少佐ゴローニンを訪ねて経度の測量法を尋ねた後、文化10年(1813年)から蝦夷地の測量にかかりました。
伊能忠敬の不測量の東蝦夷地に加えて西蝦夷地の測量をして「蝦夷全図」を著しました。
また、林蔵が間宮海峡の発見者と呼ばれるのは、世界最初にこの海峡の両岸を測量し、地図を作って海峡の存在を明らかにし、その測量の経過を示す「東韃地方紀行」、「北蝦夷図説」を著したからです。この地図なくしてカラフトは島か、大陸の地続きかの問題は解決されませんでした。
名奉行で知られる遠山金四郎景元の父親。江戸後期の幕臣で、目付役、長崎奉行、勘定奉行などを歴任しました。
生涯を通して3回蝦夷地に赴いています。
文化2年(1805年)2月に殿様街道を通った様子を「未曾有後記」に「・・・四十八川過て峻路にかかれば、いよいよ雪深く路程三四尺股を没す・・・」と記しています。また、景晋と菅江真澄は松前神楽にも心を奪われていました。笛の名手の佐々木一貫とは顔なじみだったようです。
文化8年(1811年)に、千島列島を測量中のロシア軍艦ディアナ号艦長のゴローニンら8名は、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛されました。
その後、南部藩士により護送されて箱館に、箱館からは殿様街道を通って松前に連行され、奉行直々の取り調べの上、捕虜として約2年3ヶ月間抑留生活を送りました。
松窓乙二は、江戸文化が最も華開いた文化文政時代に東北の俳人の中で第一人者といわれました。松尾芭蕉をこよなく慕い、芭蕉が奥の細道を旅したように諸国を行脚し、漂泊(さすらいの)の俳人と云われました。
蝦夷地には2度訪れ、箱館において斧の柄社を結成して俳壇の指導にあたりました。松前からの箱館への帰路に四十八瀬を渡りながら、周囲の大千軒岳山麓が色鮮やかな紅葉が終わり、葉が散って物寂しさを感じる秋の深まる季節に乙二が詠んだ俳句があります。
『紅葉せで 散るや 梢のある限り』
紅葉になる間もなく、強風で木々の葉が吹き飛ばされて幹や枝の先が際立って見える。そんな様子を詠んだ一句です。
この作品が詠まれた文政2年(1819年)は松前藩が陸奥国梁川(現在の福島県伊達市)に領地を移した時期に重なります。この俳句は、市立函館博物館蔵に画家の蠣崎波響が書いた「山水」と云うタイトルの絵の横に解説のように添えられています。蝦夷地の自然の厳しさと慣れない東北の地に追いやられた松前藩の家老であった波響の思いが重なります。
日本の原風景を描き、幕末維新期の津軽画壇をリードしていたのは平尾魯遷です。
安政2年(1855年)に青森県十三湊から松前に渡航し、福島村から茶屋峠を経て知内村に至り、箱館に到着した折の様子を「箱館紀行」や「松前紀行」に残しています。当時の津軽藩は、箱館警備を命じられたのを機に、対岸の蝦夷地に出入りする異国船を注視していました。
そのような状況の中で、魯遷は箱館に来航した異国人の風貌、服装、携帯品、武器、書籍、楽器、嗜好品、風習などを巨細に書き纏め、これにいくつもの挿話と画図を加えています。
越後長岡藩主牧野忠雅が老中職にあった時、蝦夷地、北蝦夷地(カラフト)の調査に派遣した同家臣森一馬、高井佐藤太が「窂有日記」として著しています。安政4年4月1日に長岡を発して西蝦夷地経由でカラフト北西岸のポロコタンに至り、カラフト南部、東蝦夷地を周廻しています。
5月13日に箱館を発し、14日には知内村に泊り、15日に茶屋峠を経て福島村に来着して宿泊、16日には松前に向って出発していますが、その間当時の福島村の様子、特に御番坂から一の渡り、茶屋峠から四十八瀬を経て福島村に至る街道の様子を克明に記しています。
北海道の名付け親として知られる松浦武四郎は、私人として3回、幕吏(ばくり=幕府取立ての役人)として3回蝦夷地に渡っています。奉行所への報告書「燼心餘赤(じんしんよせき)=心を燃やし尽くしてなお赤心(=丹心=まごころ)を表す意」の控えをこまめに残しています。この記録と武四郎が書き残した多くの日誌により、当時の時代考察を推察することができるようなりました。殿様街道との関連については「茶屋跡とスモモの木」の項で記載しています。
慶応4年(1868年)の箱館戦争時は、土方歳三・伊庭八郎・人見勝太郎など700名もの幕軍の勇士が殿様街道を通り松前城を目指しました。迎え撃つ松前藩兵は鈴木織太郎・駒木根篤兵衛など400名余で、激戦を展開しました。
松前神楽は、その起源こそ定かではありませんが、松前藩成立以前から火狂言や社人の舞いが行われていたとされています。松前藩の歴史書と云える「福山秘府」には、福山城(松前城)では領内安寧と五穀豊穣などを願って「城内神楽」が行われていたと記されています。松前神楽は明治4年(1929年)の廃藩まで厳修され、以後、神職を中心に継承され、平成30年(2018年)に国の重要無形民俗文化財に指定されました。福島町での松前神楽を引継いできたのは福島神宮の神職に携わる人たちが中心となり、神楽の町・福島町の礎を築いて来ました。
次第に和人地(主に現在の渡島地域)の主要産業であったニシン漁の漁獲高が減少してくると、19世紀に入る頃から鰊を追って出稼ぎに行く「追鰊(おいにしん)」の漁夫による蝦夷地(和人地以北)の日本海沿岸での活動が盛んになります。松前神楽も彼らの手により渡島地方から檜山地方、後志地方、留萌地方にまで広がっていきました。小樽では幕末の鰊漁場で神楽が舞われていた記録が残っています。
福島町で毎年行われている「千軒そばの花観賞会」では、そばの花が咲く畑の中で「獅子舞」や「八乙女舞」などの松前神楽が舞われています。このように、長く伝承されてきた松前神楽と地域の人たちが現在でも強く結びついていることを物語っています。
蠣崎波響作の福島渓中看紅葉(福島の渓中に紅葉を看る)と云うタイトルの漢詩は、秋の殿様街道の風景を詠んだものです。参考までに記載します。
春色不如秋色艶 秋色艶在霜葉妍 千樹万樹幾丈錦 巻成山山舒浸川
深渓巳入三十里 両岸層嶺画屛連 左右上下総楓樹 葉間稀開一線天
中間遥流一糸水 一水四十八曲翠 翻滾落紅揚紅波 曾思御溝通錦字
老秋天気雖無窮 宿雨忽収微晴至 藤輪簾褰快望明 時訝桃花使吾行
直是至武陵渓裡 擡耳欲聞鶏犬鳴
春景色は秋景色の艶(ナマメ)かしさに及ばない。秋景色の艶かしさは霜を受けた葉の美しさにある。千樹万樹が織り成す幾丈もの錦の布は、巻いて山脈となり広がって川の流れに浸っている。深い渓谷に入ること三十里、両岸には重なる峰が絵屏風のように連なる。左右上下はすべて楓の木で、葉の間に僅かに線のように細い空が顔を覗かせる。渓谷の中間には長い糸のような流れがあり、流れは四十八曲りの緑の早瀬となっている。回り流れる落ち葉は赤い波をあげる。紅葉に詩を書いて御溝に流した宮女の話を思い出した。晩秋の天気は限りなく変化するものだが、昨夜来の雨があがってかすかな晴天になった。座蒲団から駕籠の簾をあげると快い眺めで、ふと桃の花が私を招いているのかと錯覚する。このまままっすぐに武陵渓に行って、耳をもたげて鶏や犬の鳴き声を聞きたいものだ。
スタート地点(殿様街道の案内板)
40分↓ 1.2km
砲台跡
55分↓ 1.8km
国鉄松前線鉄橋跡
35分↓ 1.1km
茶屋跡
45分↓ 1.4km
茶屋峠
25分↓ 1.5km
ゴール(殿様街道の案内板)
スタートからゴールまで約7km、所要時間は約3時間半
《マイカー》JR木古内駅より車で国道228号線を走り、約40分(約27km)
《バス》JR木古内駅より函館バスで松前行きバス停「千軒」で下車。国道228号線を挟んだ向かい側には「十割そば 千軒そばの店」と「殿様街道」の大きな看板が立っています。後方に歩を進めれば、「千軒神社」や地域活性化センター「あづまーる」の建物があります。大千軒岳登山口へと続く林道を約1.5km(徒歩で約30分)入ると、左側に殿様街道のコース案内板が設置されています。
福島町史編集室編「福島町史 第2巻通説編上巻」福島町発行、1995年
松前町史編集室編「松前町史 通説編第1巻上」松前町発行、1984年
函館市編集「函館市史史料編第1巻」函館市発行、1974年
福島町歴史図書編集委員会編「北海道ふくしま歴史物語」福島町教育委員会発行、2021年
中塚徹朗「北海道千軒殿様街道通行人歴史年表」私家版
中塚徹朗「殿様街道通過者人物相関図」改訂版 私家版、2022年
「殿様街道探訪ウォーク公式ガイド」福島町千軒地域活性化実行委員会編
河野常吉「北海道道路誌」北海道庁、1925年
河野常吉著・編「明治維新前ニ於ケル北海道道路史」1909年
北海道道路調査会編集「北海道道路史Ⅲ路線史編」 北海道道路調査会発行、1990年
北海道史研究協議会編「北海道史事典」北海道出版企画センター(2016年)
上野正仁「昭和までの北海道道路史物語」亜璃西社、2020年
加納信美編著「試論伊達林右衛門」北海道出版企画センター、2009年
神英雄「堀田仁助~蝦夷地を測った津和野藩士~」山陰中央新報社、2023年
木村裕俊「現代語訳新羅之記録」無明舎出版、2013年
尾崎功「『東西蝦夷山川地理取調圖』を読む」北海道出版企画センター、2017年
松浦武四郎著・秋葉実解説「武四郎蝦夷地紀行 渡島日誌 西蝦夷地日記」北海道出版企画センター、1988年
笹木義友編「新版 松浦武四郎自伝」北海道出版企画センター、2013年
内田武志「菅江真澄の旅と日記」未来社、1981年
内田武志・宮本常一編「菅江真澄全集 第2巻」未来社、1971年
大嶋寛「北の芭蕉 松窓乙二伝」北海道新聞社編、1993年
「漂泊の俳人・松窓乙二」宮城県白石市広報誌(平成4年5月号)2022年
亀井高孝「大黒屋光太夫」日本歴史学会編 吉川弘文館、1964年
平尾魯遷「箱館夷人談 完」市立函館図書館編集・発行、1969年
最上徳内著/吉田常吉編「蝦夷草紙」時事通信社、1965年
藤田 覚「遠山景晋」日本歴史学会編 吉川弘文館、2022年
中島武久「伊能忠敬と間宮林蔵の業績」星雲社、2022年
赤羽縈一「未踏世界の探検者 間宮林蔵」清水書院、2018年
菊地勇夫「五稜郭の戦い蝦夷地の終焉」吉川弘文館、2015年
《担当者》
日本山岳会北海道支部
荒田孝司
《協力》(敬称略)
中塚徹朗
福島町「殿様街道探訪ウオーク」担当者
私は毎年春と秋に開催されています「殿様街道探訪ウォーク」に北海道支部の仲間たちとそれぞれ1回ずつ参加させて戴きました。その都度、福島町の多くの皆さまに温かく迎えて戴いた上に、街道内の見所や名所、旧跡では懇切丁寧な解説を拝聴しました。また、執筆にあたっては、「北海道千軒殿様街道通行人歴史年表」・「殿様街道通過者人物相関図」(いずれも私家版)の著者・中塚徹朗さんには資料の提供の他に沢山のアドバイスを戴き大変お世話になりました。この場をかりて改めてお礼申し上げます。