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37 立山参拝道

立山参拝道

万葉の歌人、大伴家持の歌に詠まれた立山は、西暦700年頃、佐伯有頼により開山されたと言われています。
平安時代から修験者が入峯修行しており、江戸時代には富士山、白山とともに、日本三霊山として全国から参拝者が訪れていました。
昔は麓から歩いて登っていましたが、今は立山黒部アルペンルートで誰でも室堂まで行くことができます。
このため、ほとんどの登山者は信仰登山の遺跡や山麓から高山帯に移り行く多彩な美しい自然に触れることなく、素通りしています。
アルペンルートで寸断され、利用されなくなった参拝道は、判然としないところもありますが、かつてのルートに沿って整備された「歩くアルペンルート」を辿れば、沿道に残る石仏など信仰登山の遺跡をたどりながら、立山杉の巨木やブナ林、ラムサール湿地、高山植物の咲き乱れる高原を経て、3000mの稜線まで変化に富んだ自然と迫力ある山岳景観を堪能することができます。

岩峅寺〜芦峅寺

かつて参拝者は、麓の雄山神社にお参りをしてから立山に向かいました。
岩峅(いわくら)寺の雄山神社(前立社壇)から芦峅(あしくら)寺の雄山神社(中宮祈願殿)まで、9.5kmの車道を歩きます。沿道には宿坊や石仏、石碑など山岳信仰の遺跡が多くあります。
芦峅から千寿ケ原までの古道は完全に廃道となり、石造物等の遺跡も残っていないので、歩く対象とはしません。

千寿ケ原(立山駅)〜美女平:「渡り禅定」

参拝道はケーブルカーの軌道で分断されて廃道となり、歩くことはできませんが、軌道北側の尾根に「材木坂コース」登山道が整備されています。標高差約500m、樹林帯の中を一気に登ります。
かつての藤橋はフジ蔓の簡素なもので、ここを渡るのが最初の試練でした。

美女平〜弥陀ヶ原(追分)〜天狗平〜室堂:「鎖禅定」

立山火山の溶岩台地を緩やかに登ります。
美女平からしばらく立山杉やブナの森の中を歩き、その後は追分まで車道沿いの道です。
一ノ谷の獅子岩には鎖場があり、かつては行場でした。
一ノ谷以外は展望の開けた高原で、車道から離れるので静かな自然の中をのんびり歩くことができます。
追分から松尾峠への枝道があります。

室堂〜地獄谷:「地獄禅定」

参拝道は、室堂からミクリガ池とミドリガ池の間を通ってエンマ台に至り、尾根を下っていました。
地獄谷は火山活動の活性化で2021年から立ち入り禁止ですが、エンマ台から地獄谷を見渡すことができます。

室堂〜浄土山〜立山〜別山:「極楽禅定」

地獄を巡ったあとは、いよいよ立山三山を巡る「三山かけ」です。
浄土山では過去を振り返り、立山では現生のあるべき姿を知り、別山からは未来の魂の行く末を見る。
麓からようやく天空に辿り着いた立山参拝のハイライトでした。
現在、立山三山といえば雄山、大汝山、富士ノ折立ですが、参拝登山の時代には浄土山、立山、別山のことでした。

別山〜雷鳥平:「走り禅定」

別山から剱岳を遥拝して引き返します。
真砂岳と別山の鞍部に祀られた不動明王の石仏から一気に下る「大走り小走り」と呼ばれたかつての道は廃道となり、今は真砂岳から尾根筋につけられた登山道(大走りコース)を下ります。

雷鳥平〜室堂:「石積禅定」

浄土沢の広い河原を賽の河原に見立て、六地蔵が安置されています。
浄土沢右岸の一ノ越へ向かう道を行き、一ノ越への登山道と別れて室堂に戻ります。

古道を歩く

岩峅寺(雄山神社)~芦峅寺

岩峅寺の雄山神社は立山山頂にある雄山神社の里宮です。
立山の前に立つことから前立社壇と呼ばれ、室町時代に建立された本殿は国の重要文化財です。
神社北側の表神門から入り、本殿にお参りして境内を抜け、東神門を出て立山に向かいます。
歩き出してすぐ左手にある建物はかつての宿坊で、24軒のうち唯一残っている建物です。
右下に常願寺川の流れを見ながら行くと、左側に石像群があります。
1600年頃から現在に至るまでの墓や石仏があります。

さらに行くと、左手に小高い弥勒塚があります。
田んぼの中の道は車がほとんど通らず、のんびり歩くことができます。
平野から山間に入る手前に西国三十三番札所の2番観音像があります(1番は行方不明)。
2番石仏を過ぎて間もなく、踏切を渡ると立山駅に向かう県道に出ます(雄山神社より3km)。
これより先、県道は常願寺川の谷間に入ります。
立山駅に向かう県道は交通量が多く歩道がない箇所が多いので、注意して歩きましょう。
横江の蔵王社の軒下壁面には開山伝説の白鷹と松、熊が描かれています。

蔵王社前の県道の傍に3番観音像があり、さらに1.5km行くと千垣トンネルの手前に4番観音像があります。千垣の集落に入ると右側に五輪の塔があり、さらに250mくらい行くと悠教寺という寺があります(1/2.5万地形図の寺の位置は間違いで、寺は県道に面しています)。
寺の手前に県道を左側に入る路地があり、大きな石が門柱のように並んだ間を路地に入っていくと、突き当たりに白山社があります。大杉の間を抜けて境内にはいると、右手に大銀杏があります。

白山社を出たら県道に戻らず、左に曲がって県道に並行した集落内の道を行きます。
集落が終わるあたりで県道に出ますが、すぐに左折して行くと5番観音像と不動明王像があります。
5番をすぎてまもなく県道を横断し、200mほどで踏切を渡り、再び県道と合流したところに千垣駅があり、駐車帯にトイレがあリます。
千垣駅から芦峅まで県道を約2km歩きますが、その間に6番、7番観音像と庚申塚があります。

千垣駅からしばらく行くと常願寺川の対岸に渡る車道の分岐にガソリンスタンドがあります。
この辺りの参拝道は、常願寺川の流れ近くまで降りて庚申塚のあたりに登ってきていました。
6番は、参拝道が三途の川に見立てた沢を渡るところにあったのを移設したものということです。
芦峅寺は雄山神社を中心として見所の多いところです。(深掘りスポット参照)。
芦峅寺から千寿ケ原の藤橋までの参拝道は常願寺川と支流の称名川の右岸を辿っていましたが、洪水で流されてしまいました。
途中にあった11、12番観音像は行方不明です。
[コースタイム] 岩峅寺雄山神社 (3.5km、2時間)蔵王神社(3km、1時間30分)千垣白山社(3km、1時間30分) 芦峅寺雄山神社
[アクセス]
岩峅寺雄山神社:富山地方鉄道岩峅寺駅から徒歩15分、同上滝駅から徒歩20分
富山地方鉄道千垣駅〜芦峅寺:町営バスがあるが、事前に確かめましょう。
https://www.town.tateyama.toyama.jp/soshikikarasagasu/juminka/kankyo_anzenkakari/5/1/756.html

千寿ケ原~美女平

参拝登山の起点であったかつての藤橋は、フジの蔓を編んだもので、足を踏み外せばたちまち称名川の藻屑となるスリリングなものでした。
参拝者にとって最初の試練であり、ここで俗世と別れ、覚悟を持って立山へ向かいました。
藤橋の右岸たもとには道元禅師の石像と歌碑、立山駅前のロータリーには13番観音像と熊王の水があります。熊王の水は、かつて参拝道の標高640m付近にあった清水を引いています。
この間の参拝道はケーブルカーで分断されて廃道となったため、「歩くアルペンルート」として新たに整備された道を歩きます。
アルペンルートの賑わいを離れて往時の雰囲気を味わうことができます。
登山口は立山駅の裏手にある国立登山研修所の取り付け道に入ってすぐ右側にあります。

登り始めると右下にケーブルカーの駅舎や線路が見え、しばらく登ると鉄塔があります。その少し上部には石積みがありますが、さほど古いものではないので参拝道の遺跡ではないと考えられています。
この辺りから「材木坂」の由来である六角柱の材木石が見られます。
材木石は立山火山の溶岩が冷却してできた柱状節理で、ケーブルカーの線路脇にもあります。
ハシゴを登り、傾斜が緩くなってスギが出てきたらまもなく美女平です。

この間にあった14番、16番の観音像は行方不明です。標高が低いため夏は暑く、ミズナラ、カエデ、ケヤキ、ブナなど広葉樹の新緑や紅葉の季節がおすすめです。
[コースタイム]登り2時間、下り1時間30分

美女平~追分

この間の参拝道は概ね、常願寺川と称名川の分水嶺を通っていました。
車道で分断されたため、現在の登山道は参拝道と完全に一致しているわけではありませんが、ブナ坂の上部から弘法まではほぼ同じ道筋を辿ります。

弘法から追分までは車道の南側に付け替えられていますが、かつての参拝道から大きく離れることはありません。
美女平駅舎の横には、女人禁制の山に入った女性が神の怒りで杉になったという言い伝えの美女杉があり、バスロータリーの向かいに17番観音像があります。
バスロータリーの右手から遊歩道に入り、ブナ坂までは参拝道の道筋を離れ、歩くアルペンルートとして整備された遊歩道を歩きます。
遊歩道は2本あり、南側のコースは「森林浴の森・日本 100 選」に選ばれています。
春から初夏にはブナの新緑と野鳥のさえずり、秋には紅葉が心地よく、「火炎杉」などの立山杉の大木が点在しています。
ブナ坂で車道を渡ったところにベンチがあり、しばらく行くと19番観音像があります。

車道と並走する登山道は、やがて溶岩大地の北の縁を行き、足下は悪城壁と呼ばれる大岩壁で、遥か下に称名川が見えます。
滝見台からは、日本一の落差350mを誇る称名滝が一望され、21番観音像があります。
滝見台を過ぎると、スギ、キタゴヨウ、ネズコ、オオシラビソなどの針葉樹が増えてきます。
標高1390m付近の車道のヘアピンカーブのそばで桑谷を横切ります。かつて茶屋がありました。
木々がまばらになってくると「大観台」です。昭和天皇が行幸の際にお立ちになられた展望地で、大日岳や称名滝を眼前に眺めることができます。バスは素通りなので、歩いて登ればこそ観ることができる大景観です。
次第に樹高が低くなり視界がひらけてきます。称名滝から登ってくる登山道が合流して車道に沿った歩道を行くと、車道の向かい側に23番観音像があります。

しばらく行くと弘法です。バス停とトイレ、弘法大師像、修験者が利用していた湧水の弘法清水跡があります。
弘法で車道を横断し、追分まで車道の南側を歩きます。
車道の縁を通る箇所もありますが、左に大日連山、右に薬師岳を見ながらの高原歩きで、ゼンテイカ(ニッコウキスゲ)、チングルマ、ワタスゲなど馴染みの高山植物が目を楽しませてくれます。

弘法と追分の間には25番、追分料金所手前に26番の観音像があり、26番の脇にある地蔵菩薩立像の後背部には「右うばがふところ道左一ノ谷みち」と刻まれていて、石像が道標の役割を果たしていたことがわかります。
追分の名の通り、室堂に向かう参拝道はここで二手に分かれていましたが、姥石を経由する姥懐道は廃道で通行不能です。
弥陀ヶ原ホテル前の車道には姥石付近から移設した28番観音像があります。
追分は立山温泉への分岐点でもありましたが、カルデラ壁の崩壊のため松尾峠から先は閉鎖されています。
松尾峠には2本の道がありますが、参拝道は東のルートでした。
松尾峠は立山カルデラや薬師岳の展望地です。

かつて弘法と追分は立山登山の重要な中継地であり、1960年(昭和35年)頃まで山小屋がありましたがアルペンルートの開通で廃止されました。
この間にあった18番、24番観音像は行方不明です。15、20、22番は車道沿いにあるため、バスで素通りです。

[コースタイム] 美女平(→2:40、←2:00)滝見台(→1:30、←1:00)大観台(→1:50、←1:30 )追分
枝道:追分(→0:40、←0:30)松尾峠

(アクセス)
弘法のバス停では季節や便によっては乗降できないので、確認してから出かけましょう。
https://www.alpen-route.com/_wp/information/84667
追分は、弥陀ヶ原バス停から約1km。

追分~天狗平~室堂平

追分から天狗平までは車道から離れて歩き、登山者が少ないので往時の雰囲気を味わいながら自然に浸ることができます。
弥陀ヶ原と大日平は一続きの高原に見えますが、間には称名川の深い谷があります。
一帯の574haが「立山弥陀ヶ原・大日平」としてラムサール湿地に登録されており、弥陀ヶ原には周回コースがあります。
点在する池塘は、餓鬼道に落ちた亡者達が飢えをしのぐために田植えをしたという田んぼに見立て、餓鬼田(がきた)と呼ばれています。
弥陀ヶ原から一ノ谷に下り、橋を渡ります。
小さな尾根を越えて支流に入り、左岸の滑りやすい道を進むと、獅子ヶ鼻岩と呼ばれる巨大な岩が天を突いています。

滑床の浅い流れを渡ると、参拝道一の難所であった急登となります。
鎖が下げられていて修行者の行場となっていました。
今は岩壁に階段が刻まれロープが張られていますが、難所であることに変わりなく滑落事故も起きています。
獅子ヶ鼻岩は、登山道を登ると左側にあり、役行者の石像や弘法大師の木像が安置された洞窟の他、行者一人が坐禅を組めるような岩穴がいくつもあります。
獅子ヶ鼻岩では第27番観音像の傘が確認されていますが、見つけるのは困難です。
獅子ヶ鼻岩の上からの弥陀ヶ原の眺めは絶景ですが、転落すれば命はなく、不用意に立ち入らないようにしましょう。

獅子ケ鼻岩からしばらく登ると、弥陀ヶ原より一段高い高原に出て展望が開けます。池塘が点在しています。車道のヘアピンカーブをかすめてさらに一段高くなったあたりが鏡石平です。
行手に立山が見えて、ハイマツやチングルマの高山帯となります。
標高2150mから2200mあたりは車道から離れていて、人工物も視野になく、静かな高原を満喫できます。
車道を横断するあたりで剱岳が見えてきます。
ここから車道を少し下ったヘアピンカーブの擁壁の上に29番観音像があり、その奥に鏡石と呼ばれる大きな岩があります。いずれも歩道からは見えません。
鏡石には、女人禁制を破って姥石にされた女性の手鏡が岩になったという言い伝えがあります。
追分で分かれた姥懐道は鏡石のあたりで合流していて、鏡石小屋がありました。まもなく天狗平山荘です。
バス停とトイレがあります。

弥陀ヶ原から天狗平間には経年劣化の激しい木道が多く(2024年10月現在)、足元に気を使います。
天狗平から室堂に向かって間もなく、車道を横断する手前に30番観音像があります。
車道を渡ると石畳の道となります。
かつての参拝道は、右側の少し高いところを現道とほぼ平行に通っていました。
アルペンルートの最高地点であり、立山観光の中心である室堂平は標高2450m、観光客で賑わっています。
室堂とは、神官僧侶や修験者の籠堂や社務所を兼ねた宿舎を意味し、現存する室堂小屋は、加賀藩藩主前田家の援助により、北棟が享保11年(1726年)、南棟が明和8年(1771年)に建立され、参拝者の宿泊や建物遥拝のために使用されていました。明治以降は山小屋として1980年代まで使用されていました。
平成4~6年に解体修理が行われ、日本最古の山小屋「立山室堂」として国の重要文化財に指定されています。

室堂前の広場には32番観音像があり、少し足を伸ばせば、地獄谷を見渡すことができるエンマ台や玉殿岩屋、血の池など信仰登山に因む遺跡などがあります。
みくりが池は約1万年前に水蒸気爆発でできた火山湖で、周囲630m、水深15m、室堂を代表する景勝地です。

[コースタイム] 追分(→1:00、←0:50)一ノ谷(→2:00、←1:30)天狗平(→0:50、←0:40)室堂
(アクセス)追分にはバス停なし、弥陀ヶ原バス停から約1km、天狗平にはバス停あり。

室堂平~一ノ越(往復)浄土山~雄山~大汝山~富士の折立〜真砂岳~別山

室堂から一ノ越までは石を敷き詰めた広い歩道を歩きます。
近年、偶然見つかった33番観音像の位置から、室堂から祓堂までの参拝道は現道より少し北にずれていたことがわかりました(高山植物保護のため道路外に出ることはできないので、33番に近づくことはできません)。
懺悔坂を過ぎると祓堂です。この辺りは夏まで雪が残り、雪渓のトラバースになります。
祓堂から上部は雄山神社の神域で、参拝者はここでお祓いを受け、口をすすぎ手を清めてから登ったそうです。
一ノ越の手前で浄土沢から登ってくる登山道と合流します。小さな仏像があります。
一ノ越まで来ると東側の展望が開けて槍穂高や富士山が見えます。

浄土山へは、室堂から直接登る参拝者もいましたが、「三山かけ」の前に祓堂で身を清め、一ノ越から往復する参拝者も多くいました。
雄山からご来光を背にすると浄土山の方向にブロッケン現象を見ることがあり、菩薩を彷彿させることから浄土山と呼ばれるようになったという説があります。浄土山頂付近は平坦で、南峰に富山大学の研究施設、北峰には阿弥陀堂跡があります。
一ノ越から雄山山頂へは岩の多い急登です。落石に注意しましょう。一ノ越から山頂の間に五ノ越まであり、雄山神社の末社があります。

登り切った平坦地が五ノ越で2991.8mの一等三角点があります 。
3003mの頂上には雄山神社の峰本社があります。
北アルプスはもちろん、南アルプス、富士山、白山まで見渡すことができます。
大汝山へ向かうと登山者は少なくなり、行手に剱岳、眼下に室堂や地獄谷を見下ろしながらの稜線歩きはまさしく極楽禅定です。

大汝山3015mは富山県の最高峰で、頂上の北側に休憩所があります。
富士社跡のある富士ノ折立の山頂(2999m)あたりからは黒部ダム湖が見えます。
砂礫の急なジグザグを下り、真砂岳を越えて別山に向かいます。
右手の内蔵助カールに残る雪は、氷河と認定されています。
2750m標高点の手前の鞍部に首のない不動明王石仏があります。

「大走り小走り」と呼ばれていた参拝道は、ここから雷鳥平に一気に駆け降りていました。
別山から真正面に見る剱岳は重量感にあふれ、北アルプスを代表する山岳景観です。
別山には、別山社の祠と経文を書く墨を擦るのにその水を使ったという硯ケ池があります。

[コースタイム]
室堂ターミナル(→1:00、←0:45) 祓堂(→0:20、←0:15 ) 一ノ越 (→0:50、←0:40 )雄山(→0:20← ) 大汝山(←0:15→) 富士の折立(→0:20、0:30←) 大走り分岐
枝道 ①一ノ越(→0:50、←0:40)浄土山北峰
②大走り分岐(→1:20、←1:15)別山

別山~真砂岳~雷鳥平

別山からは来た道を真砂岳まで戻ります。
かつての「大走り小走り」は廃道となっているので、新たに作られた大走りコースを下ります。
転石が多く、急な下りは足にこたえます。夏の早い時期まで雪が残るのでスリップに注意しましょう。
下部の広大な雷鳥平はチングルマの大群落です。浄土沢の対岸にはキャンプ場があります。

[コースタイム]別山(→1:15、←1:20)大走り分岐(→1:40、←2:10) 雷鳥平

雷鳥平〜室堂

雷鳥平の分岐を左に曲がり、浄土沢の支流を渡ると六地蔵があります。
一帯は賽の河原と呼ばれていました。
参拝道はこの辺りで浄土沢の左岸に渡り、室堂に直接登っていましたが、現道は右岸の小さな尾根に取り付き、丸太の階段が続く道を行くと分岐点があります。左が一ノ越、右が室堂です。
コンクリート水路沿いの九十九折りの道を登ると右手に崖が見えます。崖には、立山開山の祖、佐伯有頼が阿弥陀如来に出会い出家を決めたといわれている玉殿岩屋と呼ばれる洞があり、中に石仏が安置されています。

[コースタイム]雷鳥平(→1:30  ←1:10)室堂ターミナル

この古道を歩くにあたって

岩峅寺〜芦峅寺の他は中部山岳国立公園内にあり、美女平から上部は国有林。自然環境保全のため歩道以外には立ち入らないように。
沿道には立山の自然や参拝道について解説した標識があります。
美女平から室堂間には木道や階段が多い。経年劣化で破損したり傾いたりしている所は細心の注意が必要で、体力的にはきつくても登りコースの方が無難。
美女平から追分間は、地形図にない小さな登り下りがある。
残雪期に歩道が雪に埋もれている箇所では、道を見失いがちなので注意。
浄土山から立山、別山の「三山かけ」は、晴れれば北アルプス縦走の醍醐味を満喫できるが、吹きさらしの稜線なので、天候の急変など悪天候に備えて行動する必要がある。

古道を知る

立山登山の今昔

立山の開山伝説は、時代により変化がみられるが、「今昔物語集」に紹介されており、平安末期には地獄も極楽もある霊山として全国に知られていた。
中世における立山の参拝道には、真言・天台という二つの系統があったといわれている(『日本の霊山読み解き辞典』)。
早月川・片貝川から大日岳・立山に至る真言宗系統と、常願寺川に沿って千寿ヶ原から弥陀ヶ原を経て立山に至る天台宗系統である。
天台系勢力の拠点だったと考えられるのが岩峅寺と芦峅寺で、この二大基地に向けて県内各地から参詣道が整備された。
江戸時代に入ると立山信仰は加賀藩の庇護を受け、芦峅寺の衆徒によって全国に布教されていった。
江戸時代末の最盛期には、ひと夏に約6000人の参拝者があった。
越中男子は立山参拝をすませて初めて一人前という慣習があって、13~16歳の少年が団体を組んで立山に登った。
これは少年参拝、元服登山などといわれた。
明治維新後、神仏分離政策により禅定登山は影をひそめ、女人禁制のしきたりが廃止されて女性登山が徐々に成長していった。
大正期には、立山でも近代登山の夜明けを迎え、登山者向けに、沿道に、ブナ小屋、弘法小屋、追分ノ小屋など新しい山小屋が建てられた。(これらの小屋は室堂への高原バスの延伸などに伴って閉鎖されている。)
大正12年に千垣まで開通した鉄道が、昭和12年には粟巣野まで延長されて、立山の登山口となる。
戦後、千寿ケ原(現在の立山駅)まで電車が開通し、さらにケーブルカーとバス路線が伸びて、室堂まで乗り物で行くことができるようになった結果、室堂周辺では過剰利用の問題も起きている。
かつての元服登山の伝統は、現在、県内の多くの小学校が取り組んでいる立山登山(主に5,6年生で夏休み中)に引き継がれており、山小屋で一泊した一行がヘルメットをかぶって、一の越から雄山や浄土山をめざしている。

ライチョウ

日本のライチョウは、氷河期に大陸から渡ってきて定着したもので、北半球北部に広く分布する種の中で最南端に隔離分布する亜種である。
かつては八ヶ岳、白山にも生息していたが、今は頚城山塊、北アルプス、乗鞍岳、御嶽山、南アルプスのハイマツ帯や岩石帯に分布し、冬季には亜高山帯にも降りる。
1980年代には約3000羽だったが、2000年代には2000羽弱に減ったため、2012年、レッドリストの絶滅危惧II(VU)から、より絶滅の恐れが高いI B(EN)に引き上げられた。火打山、白根三山の減少が著しい。
2018年、中央アルプスで約50年ぶりに生息が確認され、現在、野生復活事業が実施されている。
減少要因としては、観光開発と観光客や登山者の増加がライチョウの生息環境を悪化させたことに加え、近年はキツネ、カラス、テン、サル、シカの高山進出による捕食、生息環境の撹乱・劣化、さらには気候変動(温暖化)による生息適地の縮小が指摘されている。
立山(室堂、立山、浄土山、別山)では、1981年から5年ごとに富山県が生息調査を行っている。
一帯の生息数は167羽から334羽の間で推移しており、2021年の調査では324羽であった。他の生息地に比べて立山は、室堂を中心に高山帯が広がっているので、ライチョウにとっては良好な生息環境といえる。
室堂一帯では、4月15日から雪解けまでの間、雷鳥の繁殖活動や越冬中の高山植物に影響を与えないため、ライチョウ保護区域を設定してスキーや写真撮影等で立ち入らないよう呼びかけている。

日本の現存氷河

氷河という語は、憧れとロマンの対象だ。
これまで日本に無いと言われてきた氷河が、2012年に日本で初めて立山連峰で発見された。
氷河とは、「重力によって長期間にわたり連続して流動する雪氷体(雪と氷の大きな塊)」(日本雪氷学会編「雪と氷の辞典」、2005年)と定義され、厚い氷体を持つこと、氷体が流動していることがその条件となる。
これまで、日本国内には、この定義を満たす「氷河」は存在しないと言われてきた。
名古屋大学等の調査により、立山の内蔵助雪渓に厚さ30mに達する氷河流動の痕跡を残す氷体が存在することはわかっていたが、氷体の流動が確認できなかったため、氷河と呼ぶには至っていなかったのだ。
そこで、富山県立山カルデラ砂防博物館の研究チームが、これらの大規模な万年雪の中で現在でも氷河として活動しているものが存在しないか確認調査を実施した。
注目したのは特に規模の大きな万年雪で、立山の雄山(3003m)東面の御前沢雪渓、内蔵助雪渓、剱岳(2999m)東面の三ノ窓雪渓と小窓雪渓、剱岳西面の池ノ谷雪渓だ。
調査では、氷体の厚さ、氷体の流動量を主に調べた。氷体の厚さの観測はアイスレーダーを用いて地面までの距離を測定し、氷体の流動は9月初旬に氷体表面に固定したポールの位置を10月中旬まで高精度GPSで測量して求めた。
調査の結果、各雪渓ともに厚さ20mの積雪の下に厚さ30m以上の氷体が確認された。
特に三ノ窓雪渓の氷体は、最大の厚さが70mに達し、長さも1kmを超える日本最大級のものであった。
また、各雪渓で約1ヶ月間に10~30cm程度の氷体の流動が観測された。
この氷河の規模や流動量は、ヒマラヤなどの小型氷河に匹敵するものである。
雪渓の厚さが一番薄い秋期に有意な流動が観測されたことから、雪渓がもっと厚い他の季節にはさらに大きく流動していると考えられる。
これらの結果は、2012年に日本雪氷学会に学術論文として受理され、立山・剱岳の3つの多年性雪渓は現存する氷河と学術的に認められた。
これにより、極東地域の氷河の南限がカムチャツカ半島から立山まで大きく南下することになった。
また、これらの氷河は、世界的に見れば最も温暖な地域に存在する氷河といえ、今後の調査でその独特な形成維持機構の解明が期待される。
2018年1月、博物館の研究チームによるあらたな氷河に関する論文が日本地理学会に受理され、立山の内蔵助雪渓と剱岳の池ノ谷雪渓が氷河として認められた。
この他にも鹿島槍ヶ岳カクネ里雪渓も氷河となり、国内には合計6つの氷河が現存することになった。
秋に内蔵助氷河を訪れると、見事なカール地形の中に氷体が露出し表面を幾筋もの融氷水流が流れている。
融氷水流は数個の大きなマンホール状の氷の縦穴に流れ込んでいる。
ムーランと呼ばれる氷河独特の構造で、30m近い深さを持つ。
さらに、底の氷は今から1700年前頃に出来た日本最古の氷河氷だと判明した。
当時の測量技術ではなかなか氷体の流動をとらえることが出来ず、氷河として認められていなかったが、最新のGPS測量を用いてようやく有意な流動量を観測することができた。
内蔵助氷河は一般登山者が行くことが出来る唯一の氷河であり、また池ノ谷氷河は平野部から見ることが出来る唯一の氷河である。
さらに、2019年秋に北アルプスの唐松沢雪渓が氷河であることが確認された。
これで、日本に現存する氷河は7つになったが、その全てが北アルプス北部に集中していることが注目される。この地域の世界的な豪雪環境が氷河を維持していると考えられている。

立山カルデラ

立山の弥陀ヶ原の南側に、東西約6.5km、南北約4.5km、標高差1700mに及ぶ巨大なくぼ地「立山カルデラ」が存在する。
ここにはかつて、立山に匹敵するほどの高さの火山が存在していて、何回もの大噴火を繰り返し、それにより弥陀ヶ原台地や室堂平等が形成された。
火山体はその後の侵食作用により崩壊して姿を消し、今では日本最大規模の崩壊地形(侵食カルデラ)が形成されている。
火山性の脆い地質であること、風化が激しいこと、活断層が通っていること、周辺の降水量が膨大であること等から、立山カルデラ一帯は、山体崩壊や土石流が特に起きやすい場所となっている。
1858年(安政5年)、周辺の活断層で発生した大地震により立山カルデラ内の大鳶山、小鳶山が山体崩壊を起こし、膨大な量の土砂がカルデラ内外へ流出した(鳶崩れ)。
その後、川がせき止められて巨大なせき止め湖ができて、それが2回にわたり決壊洪水を起こした。
発生した大土石流は常願寺川沿いに富山平野まで達し、下流域の広範囲に甚大な被害をもたらした。
常願寺川はその後、水だけでなく不安定土砂も流れ下る日本一の「暴れ川」になったといわれ、明治期から下流域では治水工事が、上流域の立山カルデラでは日本有数の規模の砂防工事が続けられている。
立山カルデラ中央には立山(りゅうざん)温泉があり、山深い地でありながら江戸時代から賑わってきた。
鳶崩れによって温泉小屋は土砂に埋もれたが再興され、明治時代には湯治客だけでなく、立山登山の基地として多くの登山者も訪れた。また、砂防工事関係者も加わり一段と賑わいを増した。
立山カルデラへの道は、古くは弥陀ヶ原を越える立山参拝道を通ったが、江戸後期になると常願寺川左岸のルートがあらたに開削された。
明治期には、左岸ルートの延長や道幅の拡張、休憩所の設置など一層の整備が行われた。
中でも、越中原村(現在の富山市原)から信州野口村(現在の大町市)に至る立山新道(針ノ木新道)は、立山温泉(1300m)からザラ峠(2348m)を越えて黒部川(1380m)へ下り、さらに針ノ木峠(2536m)を越えて信州野口へ下るという、北アルプスを横断する厳しい道のりであった。
「開通社」によって道が整備され、1880年(明治13)から1882年(明治15)までの間、日本初の山岳有料道路として料金を徴収して営業された。
維持管理があまりに困難なため営業は短期間で終わったが、その後も越中と信州を結ぶ重要な道として利用された。
明治期に入ると、登山や観光を目的とした多くの外国人たちが立山カルデラを訪れ、通り過ぎていった。
彼らは、雄大な自然、立山温泉、山岳ガイドのこと等を驚きや感動を込めて書き留めている。
立山カルデラを訪れた主要な外国人を以下にあげる。
・ガウランド(冶金技師):「日本アルプス」の命名者。明治8年、信州側から外国人初の立山登山を行う。
・エドムント・ナウマン(地質学者):明治9年夏に地質調査で訪問。信州から立山温泉、さらに松尾峠を越えて立山登山を行う。
・アーネスト・サトウ(英国領事館の書記官、公使)とホーズ(元海軍士官):明治11年7月23~27日に野口~針ノ木峠~立山温泉~室堂~芦峅寺へと旅行した。『日本旅行案内』、『サトウの日記』に記載がある。
・アトキンソン(化学者)とディクソン(英語教師):明治12年8月12日から、富山~立山温泉~松尾峠~立山~針ノ木峠を踏査。アトキンソンの論文に記載がある。
・パーシヴァル・ローエル(天文学者):明治22年、能登旅行の帰り、立山温泉から針ノ木峠を目指すが断念。『能登』に記載がある。
・ヨハニス・デ・レイケ(治水技師):明治24年、立山カルデラの崩壊跡を視察。松尾峠より娘ヤコバとともに立山に登頂した。
・ウォルター・ウェストン(宣教師・英国山岳会員):明治26年に訪問。『日本アルプス登山と探検』に記載がある。大正3年にも訪問し、『極東の遊歩場』に記載がある。
他にも、アイガー東山稜の初登攀で有名な槇有恒、黒部峡谷をくまなく踏査して世に紹介した冠松次郎等、日本人の近代登山先駆者たちも立山カルデラを訪れている。
また、彼らを山に導いたのが立山の山岳ガイドたちだ。立山カルデラは、彼ら山岳ガイドや狩猟の舞台となった。

松尾峠の遭難

大正12年(1923年)1月、板倉勝宣、槙有恒、三田幸夫の3人は、芦峅の案内人らと立山温泉から立山の登頂を目指した。15日、3人は室堂から立山に向かうが、一ノ越の手前で天候が急変したので引き返す。
猛吹雪の中、立山温泉を目指すが松尾峠付近でビバーク、板倉が遭難死した。
槇の著作「板倉勝宣君の死」には、パーティーの装備・食料、各人の服装と板倉の死に至る経過が克明に記されている。これによれば、16日の夕方に板倉は危険な状態に陥り、三田が助けを求めて吹雪の中を立山温泉に下る一方、槇は板倉に付き添った。日付が17日に変わって間もなく板倉が息を引きとったので、槇は夜明けを待って遺体の場所に目印をつけて立山温泉に下り、三田と合流した。
板倉はスキー登山の第一人者で、槙と三田は後に日本山岳会会長となる人材である。
当時を代表する若手登山家の遭難に登山界は大きな衝撃を受ける。
この遭難が契機となり、五色小屋、追分小屋、スゴ小屋など立山一帯で山小屋建設が進められた。
芦峅寺に「板倉勝宣遺蠋之碑」がある。

参拝道沿いの石造物

立山参拝道沿いには多くの石造物がある。
岩峅寺から室堂に至る沿道には、「西国三十三番札所観世音菩薩霊場」になぞらえた33の分霊観音像が置かれていた。
現在残っているのは26体(31番は立山博物館で展示、1、11、12、14、16、18、24番は行方不明。27番は「不明」とする資料もあるが、獅子ヶ鼻岩で笠が確認されている。現在11番として芦峅寺に安置されているものはその後作られた代物)。
風化の激しいものや車道建設などで移設されたものが多いが、建立当時の参拝道がどこを通っていたかの手がかりになる。
概ね等間隔に建てられている他、分岐点、危険箇所、信仰上の重要地点などにもあることから、「里程標」としてだけでなく「道しるべ」でもあった。
文化8年(1811年)の年号が刻まれたものが多く、寄進者の名前などが刻まれていて、全国の信者から寄進があったことがわかる。
番号のない石仏や石塔、地蔵も含め、石塔3基と石仏41躯が「立山参道の石塔並びに石仏群」として富山県有形民俗文化財に指定されている。これらの石像には、それぞれに説明板が併設されている。

深掘りスポット

芦峅寺

立山信仰と立山ガイドの里の芦峅寺は、江戸時代には33の宿坊が並ぶ立山参拝登山の拠点であった。雄山神社を中心に、鎌倉時代の閻魔像がある閻魔堂、元宿坊の教算坊と善道坊、布橋、姥堂、三十三所観音像などの石仏群、立山博物館など見どころが多く、今も往時の面影が残る。

 

「芦峅寺ぶらぶらガイド」に詳しい。
https://www.town.tateyama.toyama.jp/material/files/group/10/ashikurazimap2017.pdf

ミニ知識

立山ガイド

幾多の名ガイドを輩出してきた立山ガイドの系譜は江戸時代の「中語」に遡る。中語は参拝登山者の案内や荷担ぎをし、近代登山の時代になると、中語は岳人のガイドとして活躍するようになる。
大正10年(1921年)、芦峅寺の中語組織を改組して「立山案内人組合」が設立され、佐伯平蔵が初代組合長となった。
同年、常願寺川対岸でも「大山登山案内人組合」(初代会長:宇治長次郎)が設立された。
これら立山の山岳ガイドは立山、剱岳、薬師岳、黒部峡谷などで積雪期の登頂や新ルートの開拓に大きな役割を果たすが、太平洋戦争の勃発とともに登山者が激減して案内人組合は休業状態となる。
戦後、立山の観光開発と登山の大衆化により案内人の需要が少なくなり、多くは山小屋経営などの仕事に就いたが、彼らの出番がなくなったわけではなかった。
1956年(昭和31年)から翌年の第一次南極観測では立山ガイド5人が越冬隊に選ばれ、遭難救助やヒマラヤ登山でも立山ガイドは実力を発揮して、その名を世界に馳せた。
平成になる頃からは、中高年や未組織の登山者が増加してガイドの需要が増え、1991年(平成3年)に「立山ガイド協会」が設立され、現在に至っている。

アルペンルート

富山県立山町の立山駅と長野県大町市の扇沢駅を6つの交通機関を乗り継いで結ぶ、延長37.2kmのルート。
黒部ダムと扇沢間は、黒部ダム建設用の工事用トンネルを利用して、1964年(昭和39年)にバス営業を開始。
富山県側は、1954年(昭和29年)に千寿が原(現立山駅)から美女平までケーブルカーが開通したのを皮切に、山上に向かって車道の建設が進められ、1971年(昭和46年)に立山を貫通する立山トンネルが完成して全線が開通した。
その結果、立山の入山者数は、千寿が原から歩いて登っていた昭和28年の15000人から、追分までバス路線が伸びた昭和31年には48000人、室堂までバス路線が伸びた昭和39年には、登山者に加えて観光客が増えて179000人となった。
さらに全線が開通して利用者は激増し、2023年はルート全体で71万人の利用者があった。
高山帯まで乗り物で到達できることで、誰もが大自然に接することができる反面、車道などの建設や人の入り込みによる自然への影響が指摘されている。
江戸時代、信州と越中の行き来は、糸魚川から松本までの「塩の道」が主要なルートであった。
明治になってザラ峠、針ノ木峠越えの立山新道が建設されたが、厳しい自然条件のため、開通後間もなく閉鎖された。
アルペンルートも、当初、富山県は産業道路としての車道を目指していたが、厳しい自然条件や自然保護上の問題のため、観光目的の現ルートになった。
今も、隣接する県に他県を経由することなく往来できる一般車道を望む声がなくなったわけではない。

立山曼荼羅

芦峅寺の人達が全国に立山信仰を布教する時に持っていった絵画で、立山信仰の世界観を立山の自然に見立てて描いたもの。
富山県立山博物館の https://tatehaku.jp/history/etoki/ に詳しく、わかりやすい。

ラムサール条約

1971年2月2日にイランのラムサールで採択。湿原の保全・再生だけでなく、研究や学習、交流の場として利用(wise use)することを目的としている。
正式名称は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」だが、水鳥の生息地だけでなく、生態系として国際的に重要な湿地を対象とし、天然、人工を問わず、沼、河川、湿原、ため池、ダム湖等の人造湖、水田、用水、遊水池、地下水系、マングローブ林、干潟、藻場、サンゴ礁など水深6m以下の海水域まで含む。
2024年9月現在、我が国では弥陀ヶ原など53ヶ所が登録されている。

まつわる話

有頼と白鷹伝説

立山開山縁起によると、立山は佐伯有頼という少年が開いたといわれている。
文武天皇(西暦701年頃)の時代、有頼は父が大事にしていた白鷹を連れ出して山へ出かけたが、白鷹が逃げてしまった。白鷹を追っていると熊に遭遇。有頼の射た矢は熊の胸に命中するが、白鷹を見失ってしまった。
有頼は血の跡をたよりに山奥へ入っていくと、血の跡は洞窟へと続き、中に入ると胸に矢が刺さった阿弥陀如来が現れた。熊は阿弥陀如来の化身であり、白鷹は不動明王であった。
阿弥陀如来から「世の全ての人が立山にお参りできるよう努力せよ」とのお告げを受けた有頼は、出家して名を慈興と改め、立山開山に努めた。
室堂から10分ほど下った崖に、有頼が阿弥陀如来と会ったとされる玉殿岩屋があり、地蔵や祠が祀られている。
越中男児は有頼のように心身たくましい少年になるようにと育てられ、立山に登って初めて大人と認められた。
室堂ターミナル内と立山連峰を仰ぐ富山市の呉羽山には有頼の銅像がある。
また、有頼の父・有若は越中国司で、館が魚津市と黒部市の境を流れる片貝川の近くにあったという。
片貝川の右岸河川敷には有頼柳と碑がある。

また、国道8号線の有頼大橋にその名を残し、黒部市側には白鷹幼稚園、魚津市側に有若が創建したとされる慈興院大徳寺がある。

立山地獄説話

立山は、『万葉集』では神の山として称賛されたが、後の説話文学では地獄の山として登場する。
『今昔物語集』には、「日本国ノ人罪ヲ造テ多ク此ノ立山ノ地獄ニ堕ツト云ヘリ」と記され、立山は日本最古の生き地獄の山として畏怖された。地獄説話において救済の菩薩は地蔵と観音で、立山禅定道の要所にはその菩薩の石仏が安置された。
救済の経典は法華経であった。後に立山は阿弥陀如来の霊山とされ、地獄も浄土も兼ね備わった霊山であると宣伝されたが、浄土よりも地獄の印象のほうが人々の心を強くとらえた。
『今昔物語集』には、「毎月ノ十八日ニ観音、此ノ地獄ニ来リ給テ、一日一夜、我レニ代テ苦ヲ受ケ給フ」、「地蔵菩薩、此ノ地獄ニ来リ給テ、日夜三時ニ我ガ苦ニ代リ給フ」とあって、菩薩代受苦の思想を説く。
地元には、立山地獄に女人が堕ちたという伝承が伝えられている。
また、越中の男は十五、六歳ごろ立山に参拝するしきたりで、そのため、幼少から立山を目標にして厳しく躾られた。
室町時代の能「善知鳥」は、諸国をめぐる僧が途中で立山に立ち寄り、出会った猟師の亡霊が、生前の殺生を嘆き地獄で苦しむ様子を描いている。
立山は、地獄・極楽だけでなく、畜生道・餓鬼道など十界を兼備していたといわれる。
弥陀ヶ原などの高原には、各所に「餓鬼田」と呼ばれる池塘がある。
餓鬼道に堕ちた亡者たちの田で、稲は実らず、餓鬼は飢えに苦しむという。
立山は、古代・中世・近世・近代の花を色とりどりに咲かせた、多彩な説話文学のお花畑である。

ルート

岩峅寺雄山神社
↓2:00 ↑2:00
蔵王社
↓1:30 ↑1:30
千垣白山社
↓1:30 ↑1:30
芦峅寺雄山神社

千寿ケ原(立山駅)
↓2:00 ↑1:30
美女平
↓1:00 ↑0:50
ブナ坂・車道横断
↓1:40 ↑1:10
滝見台
↓1:30 ↑1:00
大観台
↓0:50 ↑0:40
弘法
↓1:00 ↑0:50
追分 ← 0:30 → 0:40 松尾峠
↓1:00 ↑0:50
一ノ谷
↓2:00 ↑1:30
天狗平
↓0:50 ↑0:40
室堂ターミナル
↓1:20 ↑1:00
一ノ越  ← 0:40 → 0:50 浄土山北峰
↓0:50 ↑0:40
雄山
↓0:20 ↑0:20
大汝山
↓0:15 ↑0:15
富士ノ折立
↓0:20 ↑0:30
大走り分岐  ← 1:15 → 1:20 別山
↓1:40 ↑2:10
雷鳥平
↓0:40 ↑0:30
分岐
↓0:50 ↑0:40
室堂ターミナル

アクセス

岩峅寺雄山神社:富山地方鉄道立山線「岩峅寺」駅から徒歩10分。
車の場合は、神社前に駐車場有。

芦峅寺:富山地方鉄道「千垣」駅から町営バスで5分
町営バスについては、立山町のホームページ参照
https://www.town.tateyama.toyama.jp/kurashi_tetsuzuki/doro_kotsu/kokyokotsu/

立山駅:富山地方鉄道立山線「立山」駅。
県営立山駅前駐車場情報:
https://www.pref.toyama.jp/1709/shizenkouen/senjugahara/gatekanri.html

参考資料

大山町「大山の歴史」1990年3月
立山町「立山町史」1977年10月(上巻) 1984年2月(下巻)
三鍋久雄「立山御案内」2022年4月 桂書房
五十嶋一晃「立山ガイド史Ⅱ」五十嶋商事有限会社 2017年
立山カルデラ砂防博物館「立山をめぐる山岳ガイドたち」第23回企画展
立山カルデラ砂防博物館「異人たちが訪れた立山カルデラ-立山新道と外国人登山-」第17回企画展資料図録 2006年
槇有恒「板倉勝宣君の死」『山行』中公文庫 2012年8月
佐藤武彦「立山信仰遺跡の石仏」『北陸石仏の会研究紀要第12号』北陸石仏の会 2019年
佐藤武彦「地獄と極楽をめぐる旅への誘い」『山と渓谷』平成13年7月号 山と渓谷社
広瀬誠「越中説話」ー立山を中心にー
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/38/0/38_38_22/_pdf/-char/ja
富山県埋蔵文化財センター「立山・黒部山岳遺跡調査報告書」2016年3月
立山ルート緑化研究委員会「中部山岳国立公園 立山ルート緑化研究委員会年報 令和元年度 Vol.18」2020年
環境省関東地方環境事務所、信越自然環境事務所「第二期ライチョウ保護増殖事業計画」2020年4月
高橋大輔「剱岳 線の記」朝日新聞出版 2020年7月
加藤文太郎「厳冬の立山、針ノ木越」 『新編単独行』山と渓谷社 2010年

《古文書、古地図、絵図、絵画など》
富山県立図書館HP 古絵図・貴重書ギャラリー
http://www.lib.pref.toyama.jp/gallery/collection/top.aspx

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会富山支部
鍛冶哲郎
《協力》
富山県立山カルデラ砂防博物館
富山県立山博物館

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