single-kodo120_detail

29 佐渡三山駆け

佐渡三山駆け

古道を歩く

金北山からドンデン山荘

第1日目、佐渡観光のメインとなる大佐渡スカイラインへ続く新夏渡り橋から、林道を概ね3.4km車で入ると、終点が栗ヶ沢である。
ルートはミズナラ林を主体に比較的緩い登りから、下ると「縦池の清水」となる。
これより小沢から緩やかな登りで、やがて右手から横山口と合流する。

比較的平坦から凹地となり、「ジュンサ(じゅんさい)池」でルートはブナの大木等も現れ沢の水音を聞きながら、小沢を詰めれば「祓川(はらいがわ)」。
昔日の人はここで一服し汗を拭き、喉を潤し、身を清めて山頂に向かった。

祓川から凹地をつめての尾根筋はブナ林の登高が気持ちよい。

ブナ林を抜けた尾根は「神子岩(みこいわ)」、南に国仲平野と小佐渡の山々、両津湾や真野湾を望む。ここからは国仲平野を背に「天狗岩」を左に見て、山頂を望みながら急登の尾根を登りつめる。

やがて「左・金北山、右・ドンデン山荘」の標柱(案内板)があり、山頂へはあとわずかだ。山頂からはほぼ全島を望み、晴天であれば能登半島や後立山連峰、越後の連山、飯豊・朝日連峰を望むことができる。

山頂社殿は南向きで幅3間、奥行5間で1986年(昭和61)に改築、戦前戦後までは3間4面であった。二等三角点は社殿の西側にあって、今は石仏等も新しくなっている。
ドンデン山荘へは栗ヶ沢からの標柱まで戻り、金北山の東側の急峻な斜面をトラバ―スの手前右手に境界石があって、ルートの金北山側が横に右から「乙界」その下は縦に「一九三」、石花川側が「北海村」とある。国仲或は両津側が削られ、ドンデン側が宮マークで苔むしており、注意しないと見落とす。急峻をトラバ―スにて下ると「あやめ池」、初夏に咲く花はカキツバタである。ル―トは平坦となって、尾根筋と役ノ行者堂跡への分岐では右側の鏡池へのルートに向かう。

鏡池は周囲100m程度で、池の中にスゲ科のヌマハリイ、水源となる足止清水(別名・行者清水)があって、50m離れてルートの左手4m奥にありブッシュの中で見えづらい。
この清水は夏には貴重な水場であるが、周囲がブッシュに覆われ、泥上げや清掃が必要である。

これより役ノ行者堂跡へ。
石像2体あり「右・役ノ行者(役小角(えんのおづぬ))、左・聖宝理源大師」、いずれも江戸中・後期に加茂郡夷町の信者による奉納である。この行者堂跡の前に加茂口からのルートが合流する。金北山加茂口から望むと行者堂跡一帯が飯を盛ったように望まれることから『佐渡一国山水図』(1842年・天保壬寅)に「メシモリ(飯盛)山」とある。

行者堂跡から、このルートは主稜線に沿ってのトラバースとなり、樹間にドンデンや金剛山等、大佐渡北部の山々と両津湾を望む。
ドンデン側からの主稜線と役ノ行者堂跡からのトラバースルートの合流点では、役ノ行者堂跡を経由しない主稜線に沿ったルートもあるので注意したい。主稜線が両津湾側(梅津村)と海府側(北海村)の村境となり、御料局の宮マーク、縦に村名、横に右から左へ「乙界」、その下には縦に「一五八」の境界番号の三角点がある。

主稜線が開けると前方の丸いシラバ(芝生場)は「天狗の休み場」となって、ここから今来た金北山からの稜線や両津の市街地が良く望まれる。

シラバやザレ場が佐渡の山の特徴であるが、平成に入ると佐渡の山から徐々に放牧の牛が姿を消した。このためススキや低木林のブッシュの進出が著しい。
シラバ、ザレや樹林帯となって海府側が大きなザレとなればイモリ平となり、イモリのコルへと下る。このコルから真砂の峰への登りの中程に、御料局の三角点があり、ドンデン方向に縦に「御料局」、両津側「明治丗一年七月」、金北山側「界一號」と刻まれてある。

真砂の峰は頂のシラバで展望を楽しみたい。標柱の傍に御料局三角点が転倒している。シラバとザレの広い尾根からザレの急登をつめると、ブイガ沢のコルからツンブリ平となって、樹林帯から小股沢のコルへ向かい、ザレの登りからザレを下れば石花越への分岐点で、ハマナスが赤い実をつけている。昔日に海産物を両津や国仲へ運んだ越路である。

石花越から孫次郎山(地形図名・マトネ、俗称・笠峰)への登りを経て孫次郎山となる。後方に今来た金北山が遥かに望まれる。

孫次郎山から樹林帯を越へと向かう。残雪期や雨の日はぬかるみが滑りやすく注意を要する。
青粘越は「青い粘土質」からの命名で両津側の溪谷沿いは、春の花頃にドンデン山への人気ルートである。

尾根に沿って県道へ向かうが、孫次郎山から青ネバ越の主稜線の両津湾側は昭和30年代終わりから40年代初めにパルプ材等による伐採地、また海府側が40年代半ばに伐採され杉の植林地となった。
県道から青粘越への車道跡は木材搬出道である。
なお、これによりドンデン(タタラ峰)へのルートは伐採や車道の開設から、昔のルートが消失した。県道からドンデン山荘へと向かう。

尻立山、金剛山、檀特山

第2日目、ドンデン山荘発、佐渡の山は日本芝による牧歌的風情が大きな特色であった。
放牧馬は昭和40年代に入ると、また放牧牛は平成10年半ば頃になると姿を消した。牛馬が草を食むことや踏み付けから広大な芝草原が維持されてきたが、放牧を終えた佐渡の山は芝草原がススキやツツジ、サワフタギ、タニウツギ、アジサイ等の低木林の進出が著しい。

テレビ中継塔のある三ノ平(別名・蜂ガ峰)からドンデンの最高峰の尻立山へのザレ山は、昭和40年代半ばからの治山復旧(ハゲ山対策)からシート張の植栽工による緑化からザレが消えた。
地形図名の「タダラ」はこうしたザレの「山肌がただれた現象」が、踏鞴(たたら)(=鍛冶屋)伝説へと拡大されたものである。尻立山(940m)からは、檀特山は望めないが大佐渡北部の山々と、正面に主稜線から分岐した金剛山が望まれ、ザレを下れば椿集落と避難小屋への分岐点、ここで山荘からのルートと青粘越のルートが合流する。

平坦な尾根筋をドンデン池へ。
ドンデンとは、この山周辺の「字名・論天(ろんてん)」が明治以降に牧歌的風情が注目され、文人墨客等知識人によって「ロンテンあるいはロンデン」が、ロンよりドンの方が発音にインパクトがあることから「ドンデン」と呼ばれるようになった。

夏でも水の枯れないドンデン池を左に見て、主稜線は広大で蛇行する尾根筋からは、御料局の三角点2箇所、前方には岩肌の金剛山を望み、ルートはナラ等の樹林帯からシラバへ出れば芝尻山。
芝尻とは、ここで「芝生場の山が終える」こと。
ザレを下りシラバから杉を主体の樹林帯となれば展望はきかない。小芝園もノイバラ等のブッシュ帯となってしまった。凹地に水溜まりなどもあって、湿度の高いルートである。
904mの標高点は大きな杉の林であるがザゼンソウ等の湿地の植生である。

ここを抜ければ滑石(なめらいし)、北側は小野見川、南に白瀬川の支流で、これらの沢筋がナメ床で岩盤が主稜線に続いていると考えるが、露出部分は風化してもろい状況である。ルートは凹地から平坦で、スギ林を主体に展望がきかない。
緩やかな登りから平坦なルート、左にトネ平山(四等三角点雪畑山1,002.9m)の標識、金北山以北で1,000mを超える山である。
緩やかな下りから平坦なルートの左側に小野見越の標柱があり、注意をしないと見落とす。

昔日の三山駆け檀特山へは、この小野見越から石名川への尾根に沿っての下降となるが、昭和40年頃に県有林の伐採からルートが消失となった。
このため今は主稜線に沿って金剛山への分岐点に向かい、ここから平滝山の北側をエスケープする。

また、この平滝山から主稜線の海府側がルートだったが、佐渡市への合併前に主稜線に沿って郡市境界線確定のために測量跡が登山ルートとしての維持管理から、昔日のルートが消失した。
ルートは冬期間に積雪も多く、スギが主体の奇木や変木が登山者を楽しませてくれる。998mの和木山に御料局の三角点があり、この和木山からルートを下り、石名県有林天然杉を楽しんでいただきたい。

石名県有林天然杉の終点となる主稜線に展望台があり、橅ガ平山(地形図名・山毛欅が平山)等北部の山や外海府の景勝地である大野亀を望むことができる。
県有林終点から整備され主稜線にそって下降すれば、広域基幹林道石名・和木線からの作業道に出る。
檀特山は、この県有林天然杉入り口から、右へ作業道を四等三角点檀特山附近へと続く、周辺は杉の植林地で終点に「奥の院」の標柱がある。

その奥の院標柱の矢印から凹地を下ると、ルートは石名集落からの登山道と合流。
ここに破損した石地蔵と御料局の三角点がある。
この三角点は西側に御料局と記され、反対側に左から「高界」、その下は縦に「三五四」の境界番号がある。これより左手の緩やかな下りと登りから外海府の関集落海馿(とど)の峰や知行山を望む、また下降から左側に御料局の三角点を足もとに見る。

その奥に大杉4本を見ながらアテビ(ヒノキアスナロ科)とスギの林をさらに蛇行しながら下降する。途中シナノキの古木もあって檀特山奥の院へと続く。
奥の院は霊山深溪にふさわしく、杉の古木に囲まれて幅2間、奥行き2間半の御堂はもう半世紀も前に建て替えられたもので、その後何度か修繕されてきた。
御堂周囲の苔むした石垣や印塔、多くのお地蔵様からは昔日の栄華が偲ばれる。堂内に入ると正面の天井近く、縦に「檀特山大権現」の額が、また釈迦如来像や行者像、鉦や太鼓があって、平成19年7月に熊野修験者入峯の御札を見ることもできた。今も麓の石名集落清水寺が管理する。

帰りは今来たルートを平滝山の南西となる金剛山への分岐点まで戻る。
分岐点から南東へ下り、ザレの登りから高度を上げると南西方向に金北山からドンデン、北東に橅ガ平山まで大佐渡の主稜線を望む。金剛山の頂上付近は岩山で、両津の中心街や国仲方面からも良く望まれる。
頂上は角張ったゴマと称する黒い岩石の斑点(角閃石)が特色の石英安山岩質で、展望は素晴らしい。
鋼製の御堂は平成7年に改築され、南向きの幅1.2m、奥行1.6m、高さ前面が1.8m、後1.65mで、中に麓白瀬集落奉納の手作り薬師如来像がある。
また、令和3年6月に新型コロナ退散を願い、新しく薬師如来像が奉納された。
さらに紅白の南無薬師如来と書かれた2本の小さな幟旗が納められてある。御堂の前には赤く塗られた鋼管の鳥居、その前に三等三角点の標石がある。

金剛山頂上から僅かに下ると、また鳥居があって、ここからが下山ルート。
ザレ場から樹林帯となって展望はきかない。チシマザサのブッシュなどもあり、ブナやナラの木から杉林となれば組上となる。小さなシラバには蟻塚あるので注意したい。

平坦となって、やがて急坂を下ると凹地から、さらに急峻な箇所を下る。平坦となれば三左衛門横路、下山ルートの右側が沢になっているので注意していただきたい。
やがて白瀬川支流の沢はトビガ沢、このルートの水場である。タン平水路跡を経て、緩やかな下りより凹地を右へ回り込んで、杉植林地となった水田跡から登山口となる白瀬川沿いの木戸口に至る。

青粘(あおねば)越からドンデン山へは尻立山の北方をまくルートと、三角点のある三ノ平(蜂ガ峰)への2ルートがあった。三角点のある三ノ平ルートへは現在、県道佐渡縦幹線を経てドンデン山荘の宿泊や車両の利活用もあるので、同山荘から三ノ平、尻立山のルートを含めるものである。

この古道を歩くにあたって

◉ルートは整備されており、難度は中級程度であるがルートとしては長い。尾根筋では展望も楽しめるが、凹地などもあり春の雪解けや雨の日は、汚れや粘土質の箇所が滑りやすいので注意いただきたい。
◉また、金剛山周辺、あるいはそのルートには蟻塚があって、蟻の襲撃を受けることもあるので休息時には場所の選定に注意していただきたい。枯損木等の腐食から塚(巣)づくりの好条件となっている。
◉ルートとしては比較的長く、水場の確保もあるので下調べ等をお願いしたい。
◉不明な点は「佐渡トレッキング協議会」へ問い合わせ願いたい。
電話0259-23-4472・e-mail:info@sado-trekking.com

古道を知る

三山駆け

「三山駆け」は、男子3歳、あるいは5歳になると父親は親戚の人(兄弟や血筋濃い男性)を頼んで、交代で子どもを背負い三山を駆けるという風習で、昭和の初め頃迄盛んにおこなわれていた。
男子3歳あるいは5歳になると、父親は「わが子が丈夫で健やかに育つようにと願い」、また青年(大人)にあっては「一人前になることを願って」、いつでも何度でも三山駆けができた。
最高峰である金北山(1,172m)では、男子3歳や5歳での三山駆けの他、5歳あるいは7歳での初山参りもあって、父親は子どもを連れて一緒に登る習わしがあった。また、帰りにシャクナゲ(ナギ)の小枝を手折って家の戸口に掲げ、近所にも配ったものである。なお、ナギは熊野の象徴である。

初山参りののちの三山駆けは青年(大人)になってからで、これらは集落や地区によって違っていた。
国仲や南部方面からの人は金北山から檀特山、金剛山のルートを、また両津方面の人は金剛山より檀特山を経て金北山へのルートを駆け、相川方面の人は妙見山から金北山、檀特山の三山を駆けることがあった。
これらは必ずしも固定したものではなかった。
なお、両津夷や湊、相川には遊郭があって、下山の無事を祝い飲食したという。
三山駆けの時期は決まっておらず、農繁期でなければいつでもできたようだ。

俚謡(民間のはやり唄)に「御山(金北山)、檀特山、米山薬師(金剛山)三山駆けます佐渡三宮」と唄われ、1911年(明治44)10月17日付佐渡新聞に「御山、檀特山、米山薬師かけてうれしや佐渡参宮」とあって、いずれも「三山駆け(あるいは三山参り)」の喜びが唄われてきた。
また、支那事変(日中戦争・1937)以後中国大陸での戦争が激しくなると、佐渡山岳会や連合青年団等による出征兵士への武運長久戦勝祈願のため三山駆けがおこなわれた。

三山駆けは中世の修験道のなごりと言われ、吉野、熊野、大峯にならったもので「三山形式あるいは三尊形式」として、熊野三山が各地に移されてきたものである。
佐渡の修験の徒(山伏)の誰もが、熊野へ修行に行ける訳ではなく、そのため、この「三山を駆ける」ことで同じ修行ができることとなった。

また、熊野の修験者が入峯(にゅうぶ)として、今でもこの三山へ修行に来ている。
2007年(平成19)に熊野修験者の御札が、これらの山に置かれてあった。
檀特山の御札を紹介すると、右から縦に
平成十九年熊野修験
梵字 奉修行佐渡国檀特山入峯天下泰平如意祈攸
七月吉日那智山青岸渡寺
とあって、青岸渡寺高木住職からは、2名が佐渡へ来られていると聞くことができた。

金北山の御札は風に吹き飛んだのか確認はできなかったが、他に役ノ行者堂跡や妙見山、ドンデン(三ノ平・蜂ガ峰)、金剛山で御札を見ることができた。

金北山の歴史

金北山は佐渡島の最高峰(1,172m)で、「御山」、「北山」、「越の高嶺」、「雪の高嶺」と呼ばれ、古くから「島の総鎮守(しずめ)」として親しまれてきた。
開基は4世紀頃の国造時代「ヤマト王権」崇神天皇が全国平定の任にあたった、四道将軍の一人で北陸道を平定した大彦命(おおひこのみこと)と言われ、火の神迦具土神(かぐつちのかみ)を合祀している。

また、国司・郡司時代の701年(大宝元年)とも、724年(神亀元年)とも言われているが、国府が国仲平野の南にあり、金北山は、国府の北にあることから北山(ほくさん)呼ばれた。
741年(天平13)聖武天皇は仏教により国を治めるため、全国に国分寺・国分尼寺を建てる。佐渡の国府にも国分寺があり、その御本尊が「薬師如来」であることから、島民の崇拝する御山に「薬師如来」を祀ることも考えられる。二ノ嶽に奉られた薬師如来は、金北山にあったとする説がある。
『義経記』(日本古典文学大系37・1982年)に「御舟をば佐渡の島へ馳付けて、まほろし加茂潟(加茂湖)へ船を寄せんとしけれども、浪高くして寄せかねて、松かげ浦へ馳せもて行(く)。それも白山(しらやま)の嶽より下したる風はげしくて、佐渡の島を離れて・・・」とあり、この「白山の嶽」が金北山だと言われている。これは金北山の麓に白山信仰が多くあることからで、今のところ「白山の嶽が金北山」と直接結びつける決定的なものは発見されていない。佐渡へ流された日蓮上人や能楽の大成者世阿弥も北山と呼んでいる。

鎌倉時代からは武士の社会、戦の神「勝軍地蔵は悪行煩悩の軍に勝つ地蔵」と言い、その名から戦勝をもたらすとして、武士の信仰を得てきた。1325年(正中二乙丑)北山に本間佐渡守源貞仁王門建立、雑太の地頭本間信濃守始めて造営とある。また、年を経て慶長中に佐渡奉行大久保石見守再び造営して、佐渡一国総鎮守となす。これより永く官材をもって造営され、この頃から佐渡金山の繁栄を願って北山に金が冠せられ、金北山と呼ばれるようになった。

近世以降の金北山

『佐渡年代記』(昭和11年発行)に女人禁制として崇められてきた金北山、1787年(天明7丁未)前衛峰となる二の嶽に、日蓮宗実相寺の住職日善が石塔を築く、これに相川柴町のイチと言う女が参詣に登り、ついでに金北山に登ると言うハプニングが起こる。
別当寺である真光寺からただちに訴えが出され、佐渡奉行所は「女人禁制の実をわきまえながら、押して登り、その上御普請の堂(金北山社殿)に拝礼した」として、この女を叱り置いた掲載がある。女人禁制は法として決められていた訳でなかったので、処分も軽かった。

1968年、明治に入ると神仏分離令から金北山及びそのルート等で多くの石仏が破壊され、1872年(明治5)「女人禁止が解除」されるが、それでも女性が登るようになるのは、大正の半ば頃からで、積極的に登られるのは昭和の初め頃からであった。なお、8月23日が金北山の縁日、この日は地蔵の日で、昔は前日の22日から多くの人が登った。
また、戦時中まで多くの島民が登り、山頂社殿にお参りする習わしがあり「三山駆け」等で、この社殿や籠り堂での宿泊もできた。
戦後は敗戦から崇拝は忘れられて、1948年(昭和23) 進駐軍の米軍が相川春日崎に7万坪を接收して、米空軍新潟航空隊佐渡無線局基地を設け、レーダー業務を始めるが電波が弱く業務ができない状況にあった。
1952年(昭和27)、米軍司令官が金北山に着眼。調査から山頂にレーダー基地オペレーションを建設、妙見山にレシーバー、ニノ嶽をその予備、平をベースキャンプとして工事にかかり、1956年(昭和31)完了。1960年(昭和35)米軍より航空自衛隊に移管、2010年(平成22)妙見山に新型レーダーが設置されるまで、国防の担い手をつとめた。今、ニノ嶽への分岐点から金北山への防衛省管理道路は荒れるに任せている状況にある。

役ノ行者堂跡の石仏

役ノ行者堂跡に2体の石仏あり、1978年(昭和53)の調査から、向かって右は役ノ小角(えんのおずぬ)像の足元に前鬼(右・男)、後鬼(左・女)の夫婦。その基礎石から、右より縦に
加茂郡夷甼
左且巒堂山道
□永六酉年(1777・安永6丁酉)
□像立行者
八月吉日
右金北山道
同行拾一人
と読むことができた(註・□は不明文字)。

なお、同行11人は夷町の建立人(世話人)で、名前が彫られてあるが一部苗字が数人読める程度である。左の聖宝理源大師像からは
享和二(1802・享和2年壬戌)
權大僧都、法印源養
壬戌天
と彫られてある。
1900年(明治33)8月5日付佐渡新聞に「役行者堂と名くる傾きたる殿堂の・・・」とあり、これは1868年(明治元)神仏分離令による御堂の荒廃からである。

また、1943年(昭和18)佐渡山岳会創設人近藤福雄らと歩いた三田尾松太郎は『紀行と随想』(山溪山岳叢書Ⅱ・昭和22年発行)の中で「堂内に立派な石像が安置されて・・・」とあることから、この頃には建替えや修繕がされていたと言える。戦後は敗戦から信仰心も薄れて、御堂は荒廃から倒壊し石像のみとなり、現在に至っている。

「天狗ノ休場」は1941年(昭和16年8月)、このルートを歩いた山と溪谷社創設人川崎吉蔵の実兄川崎隆章・山と溪谷第2代編集長の命名で、日本山岳会会報『山』109号「北佐渡山脈縦走報告」に、「美しい丸々としたシラバ(芝生場)に出る。思わず尻を下ろし「天狗の休場」とした。天狗様もかかるシラバで、ひと休みしない筈はない」と記している。

山は孫次郎山、峰の総称がマトネ

ドンデン寄りに「孫次郎山」があり、国土地理院発行の地形図名は「マトネ」とある。トネは奥山の意味で、両津や国仲、海府のそれぞれの集落からは遠い山である。また険しいことから「刀根(とね)の文字」を用いている。マトネは「真ノ刀根」で、分水嶺となる主稜線の峰の総称が「マトネ」である。この山の名称は「孫次郎山」、入川集落では暮れも近くなると「正月さーん 正月さん どーこまでござった 孫次郎山の腰までござった・・・」と唄われ、早く正月が来るのを待ち望んだものである。

山の名こそ違うが、こうした民間習俗は古くから、どこの集落でも唄われてきたもので、入川集落側には孫次郎山鉱山(鉱山史報3号『髙千の鉱山』・昭和41年発行)の露頭掘があって、金銀鉛が産出されたが早くに閉山となっている。
マトネは三等三角点「測点名・孫次郎山」である。このマトネを「笠峰」とした出版物もあって、前記川崎隆章氏の命名で、「北佐渡山脈縦走報告」で、石花(いしげ)越近くから望むと「笠の如くスッテンペンのとがった得異の一峰が見えて印象的なので、笠峰とした。笠が嶽ごとく巨きくもなく、笠山のごとく柔しくもなく、笠峰」としている。

檀特山と弾誓、行道

檀特山は金北山から大佐渡主稜線を北へ、和木山(998m)から北に分岐した山で、地形図・檀特山(905m)から、さらに北西に分岐する尾根を下ると「奥の院(浄土宗)」がある。この奥の院は2間4尺四面瓦葺の「釈迦堂」があったが、1967年(昭和42)の台風で倒壊。今は幅2間、奥行2間半の簡素なお堂となって、中の釈迦像は昭和の初め頃の像である。
弘法大師が807年(大同2)佐渡へ渡り開かれたとの伝承から、この山は樹木が繁茂し「流泉美水甘果」備わり、修行者がこの山に釈迦像を本尊とする御堂を建立となった。なお、麓の清水寺(真言宗)では弘法大師の開基を806年(大同元)とある。

木食上人弾誓(たんせい)が1591年(天正19)の冬、檀特山の岩窟に籠って修行をはじめたといわれ、檀特山そのものは、麓石名集落に清水寺が、檀特山の別当として村人の信仰を集めてきた。
弾誓が檀特山に草庵を開いた頃、真更川村山中の山居に念仏堂を建て、周辺集落に念仏を広めたと言われ、また何度も檀特山と山居を往来したと伝えられている。
その後、多くの木食修行者が檀特山を訪れているが、1781年(天明元)行道64歳の時に小木に来島して相川へ、また金北山別当真光寺を参詣し、石名清水寺、真更川山居を訪れ納経。清水寺には妙見山から金北山頂上を参詣し、峰伝いに檀特山へと歩いたと言われている。
荒廃する檀特山を目の当たりにし、弾誓の修行や復興の事跡を聞き、また山居のことも聞きおよんで檀特山釈迦堂建立のため、国仲の村々に勧化帳を回し十万檀那の助成を仰いで、これを成就せんとした。
1782年(天明2)に釈迦堂は完成、行道は仏像を刻んで安置する。清水寺の薬師如来像や地蔵菩薩立像を彫り、堂内の天井に五十余枚の梵字光明真言を残したと伝えられている。
また、行道は金剛山、金北山を含めた三山や山居光明山等の霊山で修行及び御堂復興や仏像を彫り、その足跡を残している。

なお、檀特山の縁日は8月24日で、石名集落清水寺では。前日の23日に幟を立て24日に降ろす。また、「三山駆け」等で奥の院である檀特山の御堂で泊まることもできた。

金剛山と薬師信仰

金剛山(こんごうせん)は大佐渡主稜線の平滝山(991m)より、南へ派生した尾根筋は標高900m附近より南東に向かい、吊り尾根となった先の岩峰である。頂上には鋼製の御堂がある。
また、この山は俚謡に唄われたように古くは米山薬師と呼ばれた。その山容が飯を盛った如く「こんこん(米々)」のようだから米山と言ったのではと、その後修験者によって「こんこんさん」が「金剛山」と雅号をのせられたと言われている。
前記、『紀行と随想』の中で三田尾松太郎は伯耆大山(ほうきだいせん)はじめ、全国の七、八ヶ所の山を例にあげて、佐渡では「金剛山だけをこんごうせんと呼んでいる」ことに注目している。これは支那(中国)の呉音読みから「さん(山)は漢音」は、仏教用語で「せん」になることからきている。

薬師は「薬師如来」で病気平癒や人々の幸せを願い、集落を護り仏の道を教える神である。
山頂の御堂には1995年(平成7)に奉納された手作りの薬師如来像がある。
なお、2021年(令和3)6月に白瀬集落が新型コロナウイルスの退散を願い、新たに薬師如来像と小さな赤・白の幟旗各1本の2本が奉納された。他に家内安全等の御札が納められてある。

大町桂月が1924年(大正13)7月に三山を歩いたおり、山頂での写真は1間半(9尺)四面の御堂であったが、その後落雷で焼失。前記、三田尾松太郎は『紀行と随想』のなかで、「山頂に9尺四面の御堂があり、正面に「法起菩薩(役ノ行者)」の額が掲げられて・・・」とあることから、この頃には御堂は再建されていたようだ。

また、金剛山は古く「金ケ嶽」と呼ばれた。これは山岳宗教研究叢書4『吉野・熊野信仰の研究』(昭和50年発行)に金峯山は古く「金の御嶽」と呼んだ。修験道の開祖役ノ行者が修行した葛城山の主峰が金剛山で、こうしたことからも役ノ行者からつながって来たが、いつしか山頂の御堂も麓白瀬集落の管理するところとなり、人々は日々の暮らしや集落を護ってくれる薬師信仰となった。

白瀬集落には里堂「薬師堂」があって、10月24日が「金剛山祭り」。昔は文弥人形(人形浄瑠璃)や浪花節もあって、祭りを終えると区長が山頂へ登り、御堂を清掃の後、御神酒とお供え物をそなえ、少額ながらもお賽銭を集めて御戸閉め、御堂の周囲を点検の後、清掃のゴミ等不要な物は持ち帰る。

また麓の白瀬集落では年に何回かのお年寄りによる念仏が、金剛山とは直接関係ないが今も行われており、お年寄り達のコミュニティの場となっている。

佐渡の山は自然放牧が盛んであった。このため大佐渡、小佐渡の山に放牧の牛馬が放たれていたが、小佐渡は山が低く、その山域が小さいこともあって早く牛馬の姿が消えた。大佐渡の山にあっては、馬が昭和40年代に入るといなくなり、牛は平成10年代半ば頃になると姿を消した。このため牛馬による動物的踏み付けにより、日本芝の純度が高く広大な芝生場が維持されてきた。佐渡の山は牧歌的風情が注目されてきたが、牛馬がいなくなったことで、ススキや低木林の進出が著しくブッシュ帯となって、今、山の景観は大きく変わろうとしている。


また、1971年(昭和46)に観光道路として、現在の白雲台から金北山、ドンデン山への車道スカイライン建設問題があり、当時は立体観光としての気運が高まるなかにあった。これについて自然愛好家や山岳会等が島民運動として、反対運動が盛り上がり、このルートを残すことができた。

深掘りスポット

長福寺と金北山神社

金北山は麓の新保集落長福寺(前金井町、現在の大慶寺)が北山の別当寺であった。豊臣秀吉の命による上杉景勝の佐渡攻めに、真光寺住職が上杉軍への内通から金北山の里寺が真光寺(前佐和田町)となり、明治の神仏分離令により、真光寺住職が金北山神社の神職(宮司)になったと伝えられている。里宮である金北山神社には「青銅製勝軍菩薩像」がある。

清水寺

檀特山清水寺は海府となる県道佐渡一周線の石名集落(前相川町)にあって、寺の清水は村人の飲料水、生活水で旅人も利用した。この水は「如意の水、長寿の水、知恵の水」と言われ、心の美しい人はこの清水に梵字が映って見えると言い、清水に梵字が映る時、全ての願いが叶うと伝えられている。
また、1781年(天明元)木食行道がとどまり、薬師如来坐像と地蔵尊立像を造る。寺の前の県道沿いにある雄雌の2本の大きな銀杏も信仰対象とされている。
子どもの病気に霊験を示すともいわれ、その多くは安産、子授かりを願ったもので、たくさんの願掛け石が置かれてある。

石名川

檀特山に流れる石名川は天保年間の佐渡地図にダントクサン川、江戸初期の佐渡国絵図に檀特山川とある。この檀特山川は四十八滝、また海府甚句に「檀特山の御滝の水は、川まで梵字が浮く」と唄われてきた。

金剛山薬師堂

金剛山薬師堂は県道佐渡一周線の白瀬集落(前両津市)にあって、この金剛山薬師堂は平成の半ばにリフォームされ幅4間半、奥行4間(増設部分除く)は全てサッシとガラス戸となっている。中の金剛山と書かれた厨子(祠)には薬師如来とおもわれるが両腕が紛失し、他の木像仏も腕の無い物もあって判別がしがたい。他に薬師如来、阿弥陀如来や不動明王、石地蔵が大小二十体余ある。この薬師堂の拝見にあっては、白瀬集落区長にお願いいただきたい。

ミニ知識

低くなった金北山

「金北山がもう3尺髙ければ夕立がおこる」という伝承がある。
佐渡は島国、海洋性の気候であり、山が高ければ上昇気流から、雲が発生しやすく、雲ができれば雨が降りやすいと言うことだ。
島民の崇拝する御山が少しでも高くあって欲しいとの願いからきているが、昔の金北山の高さは1173.4m(大正3年陸地測量部発行5万分の1地形図)、今は1171.9mと逆に3尺余も低くなっている。
これは戦後、進駐軍(米軍)のレーダー基地建設時に、金北山頂を削ったためだ。
二等三角点が測標ごと沢に転落していたのを山頂に引き上げ、1960年(昭和35)11月8日再観測から、今日にいたっている。

御料局の三角点

ルート及びその周辺に御料局の三角点が数多くある。これは御料局以前、佐渡金山の坑道の補強材や金精錬への製炭等から、各集落の山林を幕府へ提供したことによるもので、佐渡奉行所配下のことであった。
1890年(明治23)皇室所有の御料林として編入、三角点の設置は明治31~33年が多い。
1924年(大正13)に佐渡の御用林の全てが不要存知として民間への払い下げにより、新潟県の購入から現在は県行造林地や保健保安林等となって、御料局三角点の標石は撤去されず今日に至っている。
なお、金北山は御山と呼ばれたが、「三山駆けあるいは三山参り」以外で、檀特山や金剛山に関係するそれぞれの集落でも、自分達の檀特山や金剛山を御山と呼んでいた。
金北山へは、昔は海岸の小石を拾い山頂へ持って登った。
石を積む信仰は各地にある。

まつわる話

1 金北山

金北山と鬼の約定

佐渡は昔、猛獣毒蛇がのたうちはびこり、到底人の住む處ではなかった、数百千年斧(おの)を知らぬ森の木は茂りに茂って、陽の光も通さぬ有様であった。越後から何とかしてこの島に移り住みたい人もあったが、これは凡て水の泡に帰してしまった。それ程佐渡には恐ろしいものが沢山はびこっていたのである。

其の頃いずこから佐渡に漂着した男があった。帰ることもできず・・・といってここに居れば猛獣毒蛇の毒牙にかかる外はない。
よし、この悪者を絶やしてやろうと森に火をつけた。
数千萬年来積りに積もった枯れ枝落ち葉はいっきに燃え上がって、全島を焼き尽くし、火は三年三月十九夜燃えたと言う。
こうして佐渡に人が棲むようになり、猛獣毒蛇は除き去ることができたが、一難去って一難がくるので時々鬼の襲い来ることであった。

金北山の神様は、これでは困る折角人間が棲むようになったのに何とかしてやらねばならぬと、或る日人間の代わりになって鬼達と談判をはじめた。
そして神様は豆をまくがその豆が芽を出すまで佐渡に来ぬことを約定した。
神様は節分に撒く豆をまいたのだから、芽を出す筈がない。遂に鬼どもは佐渡に来ることが出来なくなった。

その約定書は今も金北山の頂きの御堂の地下埋められてあると伝えられている。
佐渡の人が御山参りするのは、遠き昔の御恩を忘れぬためであると言う。
『二宮村誌』1938年(昭和13)発行。

金北山の巫女(みこ)(神子)岩

国仲方面から金北山を見ると、山頂近くに大きな岩が見える。これを巫女岩とよんでいる。
昔ある年の山開きの日、大勢い人の中に一人の巫女がいた。同行の人がこの金北山は女人禁制で、女の人が登ると「山の霊にふれるから」と言って、思いとどまるように進めたが、かまわず登った。
すると8合目までくると、一天かきくもり暴風雨となった。人々は木の根や岩の間に隠れた。
そのうち、急に晴れあがった。先の人々は、みんな集まると巫女の姿はどこにも見えなかった。
そして、今まで無かった大きな岩が、前の方にあらわれていた。
『佐渡の伝説』1986年(昭和61)発行。

順徳上皇の金北山参り

金北山へ登るには、それぞれに水場と言われる祓川があって、ここで昔日の人は一服し、身体を清め山頂へと向かった。
昔「承久の乱」(1221年)で敗れた順徳上皇が佐渡へ流されてきた。
村人達は上皇のことを、京の都から来たお坊さんといって親しく接していた。

ある日、上皇に「金北山参りに行かんか」と村人が誘うと上皇は「ドジョウ汁を食べてから行く」と言う。
そんな者にかまってはおれないと、村人は先に出かけた。あとを追った上皇は祓川で帰る村人達に出会った。
「あなた方が帰るなら、ここから私も帰る」と言うと、村人が「ここまで来てそんなことでは・・・」と言うと、「私はここで金北山の神様に会うからいいのだ」と川の水で口をすすぐと、ドジョウは生き返って水に泳いだ。
口をすすぎ終えた上皇は金北山に向かって、柏手を打った。
すると金北山の神様(将軍地蔵)は白馬にまたがり空中を飛んで来た。

村人は「これは普通のお坊さんではない」と言って上皇を一層大切に、尊敬もするようになった。こんな山中にドジョウがいるのは、そのためである。
『平泉小学校九十年誌』1971年(昭和46)発行。

2 アヤメ池から鏡池周辺

雨乞い念仏と千把(せんば)だき

昔のお百姓は害虫が発生すると「虫よけの念仏」、また農作業中に鉈や鎌で虫を殺したり、害虫駆除で虫を殺すことも多いので「虫供養の念仏」をしたり「虫供養の石塔」を建てたりした。
神や仏に感謝し、神や仏に祈る生活が続いていた。

長い日照りが続くと村人は村の堂に集まり、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし「雨乞い念仏」をした。念仏のききめがあって雨が降ると、皆なの願いが聞きとげられたと喜んだものだ。
神や仏に祈っても念仏を唱えても、効き目がないと、山に登って「千把炊(せんばだき)」を始める。村々の一軒一軒から山へ男一人ずつ出て、生木を切って千把だきの焚き木をつくる。焚き木の中に藁(わら)人形を入れ、まわりや上に千把だきの焚き木を積みかさね、一日も早く雨が降るようにと祈り火をつける。

金北山の東の肩から、急峻な斜面を下るとアヤメ池から鏡池周辺は平坦で、焚き木の伐採や集積には最適と言える。
昭和4年にも大旱魃があって、この山で千把だきが行われた『佐渡郷土文化14号』。国仲から千把だきの火が夕方見えると、親から「家から出て拝め」と言われたことが掲載されている。これは急峻な山の斜面に、火を焚いた熱い空気が山肌に沿って上昇、その上昇気流は上空で冷やされることで雲ができる。雲ができれば雨が降りやすくなると言うことである。
『平泉小学校九十年誌』1971年(昭和46)発行、並びに『佐渡郷土文化14号』(1978年・昭和53発行)。

3 ゐ(イ)モリガ平

イモリガ平の貉(むじな)(たぬきと同種)

金北山からドンデンへのルートにイモリガ平と言う牧場がある。
夏は牛馬を放牧して、飼い主は10日に一度は自分の牛馬を見分に行くのである。

長江集落の新助爺さんも牛を見に山へ登った。
夏の夜は山の野宿も悪くない。今日も遅くなったので、焚き木を集めて、火を焚いて横になった。
前々から貉の話を聞いていたので、今にも出るであろう。出て来たら火の粉をアブセテ(かける)、そのように考えて寝たふりをしていると、出てきた。

隣村五郎助爺さんのまんまの姿、貉は腹あぶりをはじめキンタンを広げて手をかざして、今にも爺さんをからかう気振りが見えた。
よし、この時と粗朶(そだ)(焚き木)をウンとはねると火の粉は一面飛散し貉のキンタンに飛ついたことは勿論である。拡げたキンタンは火の粉を巻きこんで、貉は後方へころげ去った。
翌朝見ると近い沢に大きな貉が息絶えていたとのことである。
『加茂村誌』1963年(昭和38)発行。

4 ドンデン山(やま)

ドンデンは草を食む牛馬やザレの状況から牧歌的風情が注目され、佐渡の山の特色でもあった。
そこから多くの伝承が生まれている。

同山の呼び名は「タタラ刀根」であるが、タタラは鞴(ふいご)(鍛冶屋)、刀根は遠山の嶺(背)を意味すると考えられ、ゆえに古い時代の野外精錬所跡ではないかと言われている。

それを裏付けるような伝説がある。「昔、海府の女が、入川の溪谷ぞいにワラビを取りに行った。沢山のワラビが取れたので、面白くなって奥へ奥へと踏み込こんで、タタラ刀根の池近くまで来てしまった。すると、よく見ると池の近くで、赤い肌をした大入道が、真っ赤にやけた鉄を、ドーン、デーンと鎚(つち)で打っていた。女はびっくりぎょうてん、腰をぬかさんばかりにたまげて、ワラビを投げすて山を駆けおり、それからしばらく床についてしまった。」
『日本の伝説9・佐渡の巻』1976年(昭和51)発行

5 檀特山

檀特山は石名の里から二里にあって、金北・金剛二山と併せて、大佐渡の三霊山と言われている。
清水寺(檀特山を山号)寺伝いによると、大同中、弘法大師これを開き、大治中僧(だいちちゅうそう)某(それがし)その跡を訪ねて山中に住して、これを再興。かつ長承元年に至って、里人と計って清水寺をも建てたと言う。

寺には唐代の銅鐸一口を蔵して、大師帰朝の際、恵果和尚の贈ったものだといっている。
寺の前庭には銀杏の大樹(俚謡に「石名の寺の前の銀杏の木は誰が植えた」)があり、山中には、三鈷(さんこ)の松・胎内潜り・梵字丘(明星が瀧、梵字が平(ぼんじがだいら)には釈迦弘法の像がある。) ・九穴(けつ)の池などの霊場があり、また有名な四十八瀧を有しているが、殊に有名なのは梵字水(ぼんじすい)で、大日瀧の不動石に、カンマンホロヲンアハウムの梵字と、大同丁亥(ひのとい)空海と、名石に穿付けてある梵字は、川流の水中に現されると言われている。
『日本伝説叢書・佐渡の巻』1918年(大正7)発行・復刻版

ルート

第1日
栗ヶ沢登山口
↓ 30分 1.0km
縦池の清水
↓ 30分 0.9km
横山口との合流点
↓ 1時間10分 1.4km
神子岩
↓ 1時間30分 1.4km
金北山
↓ 50分 1.2km
役ノ行者堂跡
↓ 30分 1.1km
天狗の休場
↓ 1時間0分 1.1km
イモリ平(イモリのコル)
↓ 18分  0.5km
真砂の峰
↓ 1時間00分 1.7km
石花越
↓ 30分 0.7km
マトネ(孫次郎山・俗称笠峰)
↓ 45分 1.3km
青ネバ越
↓ 30分 1.7km
ドンデン山荘
第2日目
ドンデン山荘
↓ 30分 0.8km
尻立山
↓ 20分 0.7km
ドンデン池
↓ 30分 0.7km
芝尻山
↓ 1時間10分 2.1km
滑石
↓ 30分 1.1km
雪畑山への分岐
↓ 30分 0.7km
金剛山と和木山ルートの分岐
↓ 20分 0.8km
和木山
↓ 10分 0.3km
県有林展望台(石名天然杉展望台)
↓ 20分 0.7km
檀特山三角点
↓ 40分 1.1km
檀特山奥の院(往復)
↓ 1時間20分 2.9km
檀特山とドンデンルートの分岐(金剛山と和木山ルートの分岐に同じ)
↓ 30分 0.7km
金剛山山頂
↓ 30分 1.2km
組上
↓ 1時間00分 1.4km
トビガ沢
↓ 30分 1.4km
木戸口

アクセス

1両津港よりタクシー40分で栗ヶ沢登山口迄。林道は木の枝さが邪魔になったりで、車高の高いジャンボタクシー等はご遠慮願いたい。駐車場あり、10台位可能。
2 白瀬川沿いの木戸口より両津港迄30分。2台程度駐車可能であるが、集落の人も利用するので邪魔にならないように願いたい。

参考資料

1 『山岳研究叢書4吉野・熊野信仰の研究』1975年(昭和50)発行
2 『山岳研究叢書9富士・御嶽と中部霊山』1978年(昭和53)発行
3 『信濃の聖と木食行者』 1983年(昭和58)発行
4 『万治石仏の謎』1985年(昭和60)発行
5 『日本伝説叢書(復刻版)佐渡の巻』 1978年(昭和58)発行
6 『金澤村誌稿本第三編名勝旧跡』1931年(昭和6年)発行
7 『加茂村誌』1963年(昭和38)発行
8 『金井町史・近代編』1967年(昭和42)発行

「三山駆け」についての記録は多くはないが、明治・大正期に「山岳旅行の良さを広く大衆に広めた大町桂月(1869~1928)が、大正13年7月に歩かれた『桂月全集・別巻』に「佐渡紀行」がある。
このことは佐渡山岳会創設人で、案内役の近藤福雄(とみお)が『山と溪谷73号』(昭和17発行)で「大町桂月と金北山に登る」や『越佐の風物』(昭和27年発行)に「大町桂月佐渡遊記」として、三山を歩いた記録の掲載がある。

協力・担当者

《原稿作成》
藤井与嗣明
《協力》
越後支部/佐久間雅義、田邊信行、伊豆野純也、松野敬
会員外/藍原重雄

Page Topへ