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3 本願寺街道 中山峠

虻田街道 中山峠

明治維新とともに新政府は北海道開拓に着手。新たな行政の中心となった札幌への道が、東本願寺によって1870年(明治3年)から翌年にかけて開削されました。

噴火湾岸の伊達から札幌までの103kmの内陸路は本願寺街道、本願寺道路、有珠新道などと呼ばれ、喜茂別ー定山渓間は山越えの難路でした。

1873年(明治6年)に室蘭、千歳回りの札幌本道が完成したために本願寺街道はすぐに廃れてしまいますが、やがて全面改修され、1894年(明治27年)に馬車も通れる道として復活。

定山渓ー喜茂別間は、最初の道とは全く異なる、現・中山峠を越えるルートとなりました。

それが、ここで取り上げる、虻田街道の中山峠越えの旧道(以下「旧道」)です。

昭和に入って戦後には国道230号となり、路線バスも通るようになりましたが、中山峠の札幌側は急カーブの連続で転落事故が後を絶たず「魔の山道」と恐れられました。

昭和30年代に大改修が始まり、1969年(昭和44年)に全く新しい道に生まれ変わりました。

このときに国道が別ルートに付け替えられたことによって幹線道路としての役目を終えた「中山峠旧道」を歩きます。喜茂別町川上地区の黒橋から標高831mの中山峠を越えて札幌市南区定山渓地区の薄別に至る約28〜30kmの部分です。

また、峠の札幌側で、ルートが変わる前の「旧旧道」が「旧道」と並行している部分も歩いてみます。

古道を歩く

黒橋駅逓所跡から中山峠

黒橋駅逓所跡から中山鉱山跡

札幌から国道230号を車で定山渓温泉を経て中山峠を越え、喜茂別川を左に見ながら国道230号を降っていくと、標高450m付近に、左に鋭角に入っていく道があります。ここが「旧道」の入口です。

喜茂別の方から来ると「札幌55km、中山峠9km」の看板を過ぎてすぐ。栄のバス停からは、国道(あるいは町道)を歩いて1時間強かかります。
この道=喜茂別町道・黒橋峠線に入ると右の木立の中に、黒橋駅逓所の遺構があります。
1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)まで、駅逓所が建っていた場所で、炉や浴槽の残骸が残っています。喜茂別川の対岸には、1939年(昭和14年)に建設されたとされる喜茂別鉱山の自家水力発電所の跡も残っているようです。
北東に見える小喜茂別岳(標高970m)へ向かって、国道230号(以下「国道」または「新道」)と並行する平坦な道を300mほど進むと、喜茂別川に架かる長さ20mほどの黒橋を渡ります。集落や駅逓所の名前の由来となった橋ですが、現在の橋は1982年(昭和57年)建設のものです。
南側の山腹を緩く登り、最初の右カーブまで来ると、左下に国道が喜茂別川に沿って左カーブしているところが見えます。その内側の空き地は、かつて喜茂別鉱山の硫黄精錬所があったところです。
国道と喜茂別川の本流を離れて旧道は右へ、南側のなだらかな山稜に深く入り込む喜茂別川の各支流の谷に沿って回り込む形で、うねうねと長く緩やかに中山峠へ登っていきます。
599.4mの四等三角点「北福島」に近い送電線鉄塔まで来ると、送電線巡視路の刈り分けか、木が広く伐られていて一気に視界が開けます。左には喜茂別岳(標高1180m)と小喜茂別岳、その右には、国道の中山峠に近いところにある覆道や、峠の上の蓬莱山(標高980m)頂上にある電波塔が見えます⑥。旧道の喜茂別側で一番眺望が効く場所ですが、昭和初期までこのあたりは針葉樹の大森林だったので、当時はあまり眺望は得られなかったでしょう。

送電線が山の奥へと続くのを見ながら、右の中川右股の谷間に入っていきます。
谷から出て尾根を巻くところで再び送電線鉄塔のそばを通過。このあたりからは、蓬莱山の左に、ちょうど中山峠の部分の国道がわずかに見えます。

先ほどとは別の送電線の下をくぐり、今度は中川の本流の谷に入っていくと、最奥部の標高700m付近に、右に入る「青い川林道」のゲートがあります。
ここまでの道は広く、ゲートから林道に入っている森林管理署関係の車もあるようです。
しかし、ここから左の旧道に入ると、中川を渡るところでは道が崩れ、続いて道の半分以上が崩れて幅数十cmぐらいになっているところがあります。笹もかなり被り、とても車は通れませんが、鹿はたくさん通っています。

727.7mの四等三角点「旧道」のある尾根を巻き、次の広い尾根にかかると、道の両側にトドマツの植林が続いています。右へ曲がって尾根を回り込むところまで来ると、左の稜線の上に、札幌第2の高峰・無意根山(標高1464m)が姿を見せます。

谷の対岸に蓬莱山が近づいてきますが、道はまた右の谷へと深く入っていきます。
標高755m付近で硫黄川の右股を渡るところは治山工事が行われ、砂防ダムや護岸が整備されていますが、長さ10mほどあったであろう橋(黒橋2号橋)は完全に崩落して失われ、橋台だけが残っている状態です。
高さ3mほどの段差を降って沢を渡り、また登り返します。このあたりは、昭和の戦前期に中山鉱山という硫黄鉱山があったところで、硫黄川を少し降った砂防ダムが連続する付近には、未だに鉱山の遺構が残っているようです。
さらに沢沿いに降った現在の国道に近いあたりには精錬所があり、そこまで索道が敷設されていました。旧道周辺には何も残っていませんが、戦後、旧道には「中山鉱山」というバス停留所がありました。この付近からも、無意根山がよく見えます。

中山鉱山跡から中山峠

大きな尾根を回り込む手前、標高715m付近の山側には大岩があります。その尾根を回り込むと、硫黄川左股(本流)の谷の対岸に、この先の旧道脇にある標高800mの岩峰が台形状に見えてきます。岩場は垂直で高さ30m近くありそうです。
その右奥の蓬莱山の電波塔もかなり近づいてきますが、道は右の谷の奥へ入っていきます。

標高765m付近で硫黄川左股(本流)を渡るところは、沢の奥まで入り込んで鋭角に曲がっていた元の道を、数十m手前=下流に土手状の土盛りをすることでゆるいカーブに付け替え、沢は土盛の下をトンネルで通しています。元の道があったあたりの沢には石積みの堰堤か擁壁の残骸があり、滝状になっています。こういう形で道が付け替えられている箇所は札幌側にもいくつかあります。

道はここで、これまでの東方向から北方向へ向きを変えますが、この先の道は広く、しっかり整備されており、自動車も通っているようです。
次に渡る沢は上流部にコンクリートのU字溝が埋設されており、そのすぐ次の沢のところにも上流への作業道があります。ここは、旧道の下に石積み擁壁がありますが、手前の道の土砂が流出してしまい、沢水を通すパイプ=コルゲート管が露出しています。
標高774.1mの一等水準点は、防衛石らしき4つの石はあるのですが、その中央に標石は見あたりません。

尾根の右カーブを曲がると、今度は三角形になった800m岩峰が間近に見えます。次の谷の左カーブの下にも、低いながら石積み擁壁が残っています。
800m岩峰は道から50mほどの距離ですが、標高差は10mほどしかないので、近づくとあまり目立ちません。間の笹藪は濃く、岩場もありますが、上に登れば、羊蹄山(標高1898m)や無意根山、蓬莱山がよく見え、ここまで歩いてきた旧道も見渡せます。

800m標高点のコルを過ぎると、北向きのまっすぐな道が500m以上続きます。道の右側は蓬莱山の西斜面です。
道が東へ曲がる手前、沢形を水平距離で250mほど、標高差にして50mほど降った標高750m付近が、昭和3年建設の中山ヒュッテがあった場所だと思われます。

今では何の痕跡もありませんが、若干平らなところがあり、小屋の目印だった大岩と思われるものもあることからそう推測されます。かつては、旧道から小屋を経て現在の国道のあたりにあった中山鉱山の精錬所まで降る道がありましたが、今ここへ行こうとすれば藪を漕がねばなりません。小屋の周辺を含むこのあたり一帯は、昭和初期まで昼なお暗い鬱蒼たる針葉樹林だったようですが、今ではその面影もありません。
蓬莱山の裾野を回り込んで北東へ進むと、視界が開けて左下に国道が迫り、その上に、小喜茂別岳、喜茂別岳から中岳、無意根山と続く山々の稜線が見えます。
行く手には、中山峠スキー場の三階建の建物が見えてきます。旧道上で初めて目にする建物です。右に広がる蓬莱山の北斜面が、中山峠スキー場のゲレンデになっています。
ここからは舗装道路となり、左下に並行していた国道と合流するところが中山峠です。右手に「北門開拓」の文字が刻まれた「現如上人之像」と「旧本願寺街道」の石碑があります。

前者は、旧道の前身とも言える本願寺街道を明治初期に開削した東本願寺を率いた現如上人・大谷光瑩の遺徳を顕彰するために、新道が完成する前の1967年(昭和42年)に建立されたものです。
その先には道の駅「望羊中山」があります。「望羊」とは羊蹄山を望むということで、喜茂別側を振り返ると、羊蹄山やニセコアンヌプリ(標高1308m)、尻別岳(標高1107m)がよく見えます。

国道を渡った北側には国交省北海道開発局の中山除雪ステーションがあり、その駐車場は登山者に利用されています。このあたりが1894年(明治27年)から1931年(昭和6年)まで中山駅逓所があった場所だと思われますが、昭和初期にその近くに建てられたという「殉難鳩の碑」とともに、今は何の痕跡もありません。
除雪ステーションの喜茂別側ににある「峠の茶屋」付近が羊蹄山がよく見える場所。その前には、札幌-洞爺湖間のバスの停留所があります。バスを利用して2日に分けて歩く場合は、ここでバスを乗降することになりますが、予約が必要なので要注意。

中山峠から薄別

中山峠から安江峠・西定山渓無線中継所

峠の茶屋前のバス停からスタートし、国道の狭い歩道部分を車に注意しながら歩いて、峠で喜茂別町から札幌市に入ります。前方右に札幌岳(標高1293m)、狭薄山(標高1296m)、漁岳(標高1318m)など、札幌南部、豊平川上流部右岸の山並みを見ながら、国道を北東に700mほど進むと、左にゲートがあり、ここから非舗装の中山林道(札幌森林管理署)に入ります。しばらくは、右下に見える国道とつかず離れず、926.8m峰(三角点名=境岳)と979m峰の南東面をトラバースするような形で進みます。このあたりは中山峠から少し登っており、旧道の中で一番標高の高い場所です。

979m峰と961.6m峰(三角点名=東中山)のコルまで来ると、道は左へ向きを変え、緩やかに降っていきます。左の979m峰=喜豊ヶ丘には1953年(昭和28年)に展望台が造られ、このコル付近から道が通じていたようですが、今ではその痕跡はありません。
北向きの500m以上続く直線路は広いものの、両側が丈の高い笹や木々に覆われて眺望はほとんど効きません。このあたりは薄別川右沢の広い源頭部。道の脇などに湿地が点在していて、春なら水芭蕉が咲いています。
834.2mの一等水準点の先で旧道は右にカーブしますが、1937年(昭和12年)以前の道(以下「旧旧道」)はここをまっすぐに進んでいました。しかし、この旧旧道の入口は今では笹藪に覆われてまったくわかりません。

道がゆるく右に90度カーブし切ると、東へ直線路が500m以上続いています。
途中、150mほど進んだところに左へ分岐する林道の入口があります。この大曲6号林道は、少し先で旧旧道と交差したのち、薄別川右沢を渡り、庚申草山980.3mへの登山道にもつながっています。
さらに東に進むと、300mほどで左に中山小屋への細い分岐があります。5分ほど降ると中山小屋で、小屋の前には旧旧道が通っています。
旧道まで戻り、林道になってから作られたゲートの跡を越え、広いまっすぐな道を進むと、標高840mあたりから、道が880m峰の東斜面をトラバース気味に斜めに北東方向へとごく緩く降っていきます。旧旧道は、この880m峰の反対側、薄別川右沢に面した斜面を通っています。両道の間には、すでに撤去された古い送電線跡の刈り分けが定山湖を越えて続いており、大きな木はないのですが、笹が茂るために、冬でないとよくわかりません。
道の両側も木と笹に覆われて眺望は効ききませんが、進行方向には札幌岳の山体が見えてきます。
小屋分岐から1km以上進むと、並行する旧旧道との距離が100m程度に近づく880m峰と832m峰のコル付近。このあたりに大きな木がなく下草が少ないのは、送電線下の刈り分け跡だからでしょうか。あるいは土場があったのか、盛土された場所や、整然と並んだまだ若いトドマツの植林もあります。地形図に表記された旧旧道へとつながる徒歩道を歩くこともできます。

少し右に曲がり、国道の定山渓トンネルの真上あたりまでくると、道の右側に電柱が立ち並んで、ゆるく降る道の先へ電線が走り、この先の北海道開発局石狩川開発建設部の西定山渓無線中継所(以下「西定山渓無線中継所」)まで続いています。右の木々の間から札幌岳が見えるようになります。
832m峰から東に延びる平らな尾根を左に大きく90度曲がって乗越すところが、かつて安江峠と呼ばれていた場所。このカーブを過ぎるとすぐに、右に鋭角の分岐。定山渓トンネルの中山峠側出口の脇に降りる、この大曲7号林道は、旧道を何回かに分けて歩くためのアプローチに利用できます。
安江峠から旧道は、832m峰から北へと降る、豊平川と薄別川を隔てる尾根に沿って付けられており、最初は豊平川=定山湖に面する尾根の東面を巻くように続いています。

100mほどで、旧旧道が左から合流します。この旧旧道に50mほど入った、832m峰とその北の800m峰〈A〉のコル付近に西定山渓無線中継所の電波塔があります。

安江峠・西定山渓無線中継所から薄別

旧旧道分岐のすぐ次の左カーブには、自衛隊員の殉職碑があります。1963年(昭和38年)10月、演習に向かう途中にここから装甲車ごと転落して亡くなった乗員を悼んだものですが、碑が建てられたのは事故の14年後の1977年(昭和52年)で、既に旧道が使われなくなってからのこと。この先のカーブにはガードケーブルの残骸があり、道の下の谷側は低いながら石積みの擁壁になっていて、このS字カーブではその後も事故が起きています。
この付近からは、右下に豊平峡ダムとダム湖の定山湖とがよく望め、旧道の中でも屈指の眺望と言えますが、ダムが完成したのは1972年(昭和47年)で、旧道が使われていた頃には豊平峡の端が見える程度でした。豊平川=定山湖の対岸には札幌岳も大きく見えます。

道の左の山側、800m峰〈A〉の山頂東斜面に石積み擁壁が続くところを過ぎると、右に古い木製の電柱の台座のようなものがあります。左にカーブし、800m峰〈A〉とその北の800m峰〈B〉のコル(標高730〜740m)で尾根を乗越して薄別川に面した西面へ出ると、道の右の山側に木製の電柱が倒れかかっています。

左の谷は、薄別川右沢の一番深く狭いところで、国道の一番の景観ポイント、仙境覆道〜溪明覆道のすぐ上にあたります。

国道まで水平距離で150m、標高差で100mほど。走る車の音はよく聞こえても、その姿はなかなか見えませんが、800m峰〈B〉を回り込む最初の右カーブ(標高710m)まで来て、ガードケーブルが残っているあたりから左下を覗き込んで目を凝らせば、木の間に仙境覆道を通る車を目にすることができます。

このあたりから「魔の山道」と恐れられたカーブの多い道が始まります。勾配はそれほどでもありませんが、道幅が狭いので、特にバスがすれ違うのは大変だったことでしょう。
右の尾根上の801.9m峰(三角点名=大曲山)は近年、その手前の800m峰〈B〉とともに、積雪期に時々登られているようです。大曲山の北西、標高680m付近の左カーブの下は石積み擁壁になっており、ガードケーブルも残っています。
標高660mの左カーブ付近からは、左手の木の間に中岳と無意根山が見えます。

そこからすぐ、標高650mの尾根の突端には左の薄別川へ降る大曲4号林道の分岐があります。
旧道のこの先の藪漕ぎや渡渉を回避するなら、ここから大曲4号林道、大曲1号林道を降り、薄別川を橋で渡って国道に出た方がいいでしょう。分岐のすぐ下の旧道には、国道時代のものと思われるカーブ標識も残っています。

その後は、割と両側の傾斜が緩いところが続きますが、717m<峰の西斜面は急で、道の下の石積み擁壁の下には、転落した自動車の残骸が残されています。このあたりから、道の下の斜面が急になって「魔の山道」らしさが増します。717m峰から北西に細く延びる尾根を右へ回り込むと、道は深い谷に入り、対岸に先の道が見えます。いくつか倒木があり、車の通行は困難。
この谷の一番奥のカーブは、喜茂別側の硫黄川の上流部同様、手前に土手状の土盛をして、ゆるくカーブする形で道が付け替えられています。この土盛によって沢水が堰き止められ、元の道との間には沼ができています。

この先の右には、地形図にない旧道上2号林道の分岐があります。その後も倒木が多く、尾根を回り込む547m標高点のところは山側の岩場が露出しており、落石が点在。次の深い谷の左急カーブも下に石積み擁壁があります。
標高500m付近の右カーブまで来ると、薄別川や国道にかなり近づき、左後方に国道がまっすぐ中山峠方向に延びているのが見通せます。ここから道は、薄別川、国道と並行してまっすぐ続きますが、標高460m付近の小さな右カーブにはガードケーブルがしっかり残っています。

続く標高450m付近の小さな左カーブは、谷側が2段10m以上の石積み擁壁になっています。旧道の中でも一番の高さでしょう。それだけに、転落事故が多かった旧道の中でも一番の危険箇所だったと思われます。その証拠に、今もこの下には、少なくとも2台の自動車の残骸が残されています。下の車はダットサン・キャブライト(3代目)のライトバン、上の車はトヨペット・コロナ(4代目)のようです。

白水川と合流した薄別川が左から道に近づいてくる標高400mの地点では、川の侵食によってか、道が完全に崩れて、ほとんどなくなっています。

手前にロープも張られているので、悪路に慣れていない人は、ここから引き返した方がいいでしょう。
進むなら、左下に間近に迫った薄別川を見ながら、崩れた斜面を慎重に通過し、木につかまって段差を越えて先の道に出なければなりません。
地形図の徒歩道の線に沿って道の跡を歩き、少々藪を漕ぎ降って川原に出ます。ここにあった上薄別橋は、少なくとも1980年代前半には落ちてしまって失われていますが、対岸を見ると、橋台らしきものが2つ見えるので、そちらに向かって渡渉します。左のしっかりしたコンクリート製の橋台が1965年(昭和40年)完成の鉄橋、右の崩れかけた石積みの橋台は1951年(昭和26年)完成の木造橋のものと思われます。こちら側=右岸にも、ほとんど崩れた石積み橋台の跡があります。

渡渉は、水量の少ない時でも靴をまったく濡らさないのは至難なので、水量が多い場合は引き返した方がいいかもしれません。対岸のコンクリート橋台に横から上がると、土盛りされて周りよりも高くなった道の跡が国道に向かって斜めに残っているので、この上を歩きます。

背丈を超える笹が茂っていますが、それほど濃くありません。
100mほどいくと、国道のガードケーブルの脇に出ます。歩道はなく車通りが多いので、車に気をつけてガードケーブルの外などを慎重に右の札幌方面へ進みます。
小川にかかる橋の上はさらに道幅が狭いので通行に注意。
300mほど行くと、薄別のバス停に着きます。バス利用の場合は、ここから乗りますが、予約が必要なので要注意。バス停の奥には無意根山の登山道の入口があります。道のこちら側の札幌寄りには、一軒宿の温泉旅館、奥定山渓温泉・佳松御苑(かつての薄別温泉)があります。
定山渓温泉まで国道を歩いても1時間ほどで着きます。

旧旧道を歩く

中山小屋->西定山渓無線中継所

中山峠旧道の札幌側、834.2m水準点付近から安江峠近くの西定山渓無線中継所までの区間は、1937年(昭和12年)に新しく建設されて付け替えられたとされる道で、それ以前の道(以下「旧旧道」)は、旧道とほぼ並行する形で、北西の尾根の反対側、薄別川右沢に面した斜面に付けられていました。

この「旧旧道」は、戦後、1947年(昭和22年)の空中写真には「新旧道」よりもはっきり写っており、1956年(昭和31年)発行の五万分の一地形図にはこちらの道しか表記されていないことから考えると、少なくとも昭和20年代まではよく使われていたと思われます。その後は林道としても利用されていました。
しかし今では廃道に近く、崩落箇所や笹藪も多いので、藪漕ぎや難路に慣れていない人にはお勧めしませんが、仮定県道・虻田街道の元々のルートであり、何とか歩ける部分も多いので、ぜひ歩いてみたい道です。
ただ、834.2m水準点近くの分岐からはほとんど道の痕跡がなく、藪漕ぎに終始することになるので、中山小屋の前からこの道に入ることにします。旧旧道は小屋の正面を横切っていたようです。小屋が建てられた1952年(昭和27年)には既に道は付け替えられていたものの、この旧旧道もまだしっかり残っていたのでしょう。

なお、石狩森林管理署の地図でこの部分は「東本願寺道路跡」となっていますが、本願寺街道のルートはまた異なるので、これは厳密な意味では誤りです。
中山小屋の横から旧旧道のルートに沿って北東に向かうと、すぐに深い沢=薄別川右沢の支流に阻まれるので、旧道の方に少し戻ったところからこの沢を渡ります。ここも意外に深いので、藪に覆われた急な側壁を慎重に降り、少し下流に行って、登りやすいところから対岸に上がると、やがて道の跡に出ます。
道幅はそれなりにありますが、背丈より高い笹が被り、道の真ん中に何本も木が生えていて、とても車は通れません。小屋から200〜300mも進むと、道らしくなってきますが、藪は濃くなったり薄くなったりを繰り返します。小沢を渡るところもあります。
小屋から500mほど、道が薄別川右沢の本流沿いになるあたりでは、斜面が20mほどにわたって崩れ、道がなくなっているので、慎重に越えます。

笹や倒木ですっきりしないものの、右の880m峰の西斜面を削って作った道の形がよりハッキリしてきます。道はほぼ水平に右沢と尾根の間に続いています。
割と大きなトドマツの植林がまとまってある、なだらかな尾根を右に回り込むと、道の下の斜面にあまり木がないので、左50mほど下に薄別川右沢がよく見えようになります。

沢の中には小滝もあります。目を上げると手稲山(標高1023m)や烏帽子岳(標高1109m)など札幌西部の山が見えます。数十mにわたって斜面が崩れて道幅がほとんどなくなっているところを慎重に越えます。

倒木を越えていくと、尾根の突端に794.1m水準点。苔むした防衛石らしきものはあるのですが、真ん中の標石ははっきりしません。右へ尾根を乗越すと、続く広い谷一帯が崩れていて、木がないために一気に視界が開けます。
これから歩く832m峰から800m峰〈A〉にかけての尾根や、その間に西定山渓無線中継所の電波塔も見えます。

どこが道だったかよくわからないガレた斜面を降り気味にトラバースしていくと、800m峰〈A〉の左に800m峰〈B〉、大曲山(標高801.9m)、825m峰など、薄別川と豊平川を隔てる尾根上のピークも見えてきます。旧道は、その尾根のこちら側の斜面を横切っているはずです。
谷を越え、倒木や笹かぶりの激しいところを抜けて尾根を巻くと、斜面を削ってつくった道の形がまたはっきりしてきます。

左後方には定山渓天狗岳(標高1145m)の岩峰とその左に白井岳(標高1301m)がよく見えます。右の尾根が低くなり、周りが平坦になると、880m峰と832m峰とのコル付近。100m程度の距離に近づいた旧道に抜けることもできます。
濃くなった笹藪を漕いで旧旧道を進むと、832m峰の広い西尾根上、ちょうど国道の定山渓トンネルの真上あたりから、左の木の間に、渓明覆道あたりの国道、そして、その右上には、この後に歩く旧道も見えます。

道はまたはっきりしてきますが、このあたりは道の上に立つ木も多く、傾いたり、倒れかかったものもあります。
やがて前方に西定山渓無線中継所の鉄塔が近づいてきて、丁字路に出ます。左へ行けば50mほどで無線中継所、右に降って行けば、やはり50mで旧道に合流します。

この古道を歩くにあたって

難路、エスケープルート

旧旧道部分および、薄別までの最終盤の部分は藪漕ぎや道路崩落箇所があるので、経験者向き。特に最後に薄別川を渡るところは、橋が落ちていて渡渉が必須。靴を濡らさずに渡ることは至難で、水量によっては危険も伴うので、自分で危険を判断できる人にしかおすすめしない。
最終部分を回避する場合は、標高約650mのカーブのところから左=西に分岐している大曲4号林道大曲1号林道を降り、薄別川を橋で渡って国道230号に出る。安江峠付近から分岐する大曲7号林道から国道230号の定山渓トンネル・中山峠側入口の脇に降ることもできる。

歩く方向

スタート、ゴール地点の標高は、札幌側が380mに対し、喜茂別側が460mで、また札幌側の方が急登が比較的に多いので、どちらかといえば喜茂別から札幌に歩いた方が楽。

歩くのに適した時期

木や藪が多く、眺望が効かないところが多いので、木が葉を落とす晩秋10〜11月、または春4~5月がおすすめ。10月中下旬は紅葉が美しいが、雪が積もることもある。また、10月-3月は猟期で、この道沿いには狩猟可能区域があるので要注意。春も残雪があり、雪解け水で川の水量は多く、渡渉の難易度は上がるが、旧旧道部分など、藪のあるところは残雪期が一番歩きやすい。

公共交通機関

札幌-洞爺湖温泉間を走る道南バスが1日片道4便あり利用可能だが、完全予約制なので注意。利用する停留所は喜茂別側が栄、札幌側が薄別だが、栄のバス停から黒橋の旧道入口までは約5km、1時間強かかる。2日に分ける場合は中山峠のバス停を利用。

行程

1日で歩くとも可能だが、距離が28kmあるので、2回に分けた方が無難。ここでは、バス利用も考えて中山峠で区切っているが、車利用なら、前述の安江峠-定山渓トンネルで区切ってもよい。中山小屋に宿泊することもできるが、要申し込み。

古道を知る

松浦武四郎らが歩いた山越えの道

北海道、太平洋側の噴火湾岸から尻別川の水系を経て山稜を越え、豊平川流域に抜けて石狩低地帯、日本海側の石狩湾岸に達するルートは、アイヌの人たちによってかなり昔から歩かれていました。
アイヌ以外の和人として初めてここを歩いたのは、松前藩から蝦夷地の伐木権を得た木材商の飛騨屋久兵衛(武川久兵衛)で、1752年(宝暦2年)のこととされます。
久兵衛は、良質のエゾマツを求めて豊平川を遡る過程で峠越えをしたと言われていますが、彼が歩いた詳しいルートや越えた峠は不明です。新道開削調査の命を受けて、1807年(文化4年)に札幌側の定山渓から虻田までを検分して歩いた近藤重蔵のルートについても同様で、いずれも踏み分け道程度のものだったのでしょう。
一方、江戸幕府から蝦夷地調査を命ぜられて幕末期の1858年(安政5年)に虻田側から石狩側へ抜け、雪があって歩きやすい3月末(新暦)を選んでこのあたりの山稜を越えた松浦武四郎の行程については、『戊午山川地理取調日誌』『後方羊蹄日誌』などに詳細が記され、絵図もあって、かなり細かく分かります。
しかし、喜茂別川沿いに上流まで進んだ後、どこで稜線を越えて薄別川に降り、定山渓に達したかは定かではありません。喜茂別岳とその北の並河岳とのコルだったのか?それとも喜茂別岳の東の稜線上のどこかだったのか?現在の中山峠でなかったことだけは確かなようです。
武四郎はこの調査結果をもとに、幕府に対して建白を行い、南下策をとるロシアに対する防衛のためにも、大量の入植を進めるためにも、道路開削が急務と、虻田・有珠から石狩へ、川に沿った道の開削を進言しています。これが本願寺街道の開削につながったと言われます。

明治初頭、本願寺街道の開削

1868年(明治1年)、明治維新に伴い、新たな北海道の政治の中心として札幌に本府の建設が始まり、古くからの中心地・函館と札幌を結ぶ道路はより重要性を帯びることとなり、ここをいかに早く結ぶかが明治新政府の重要な課題となりました。これに応えたのが東本願寺(浄土真宗大谷派)でした。
それまで江戸幕府と近く、明治新政府に恭順を示す必要のあった東本願寺は、布教のためにも北海道開拓政策に協力する方針を決定。当時19歳の現如上人・大谷光瑩が自ら約100人を率いて北海道に渡り、道南などで新道の開削にあたりました。
中でももっとも距離が長く、難工事だったのが、噴火湾岸の尾去別(現・伊達市長和町)から山を越えて札幌・平岸に至る道です。
多数のアイヌや、有珠、虻田に入植していた旧伊達家の家臣らを雇い、1870年(明治3年)7月、工事に着手。翌1871年(明治4年)10月、わずか1年3カ月で約103kmの道を完成させています。もっとも、この道は、一から新しく開削したのではなく、アイヌの人たちなどが元々歩いていた踏み分け道をもとにしていたと思われ、また突貫工事だったこともあり、ほとんど笹を刈っただけの部分も多かったようです。
東本願寺街道、東本願寺道路、有珠新道などと呼ばれたこの道が、喜茂別-定山渓の山越えの部分でどこを通っていたかは、あまりはっきりしませんが、喜茂別からは喜茂別川沿いではなく、川の右岸の尾根(カシフニの尾根)上を行き、喜茂別岳とその北の並河岳との間で稜線を越えて、現在の薄別あたりで薄別川本流に出るルートだったという説が有力です。
完成直前のこの道を東久世通禧開拓長官とともに検分した副島種臣参議が命名したとされる「初代」の「中山峠」は、喜茂別岳と並河岳のコルだったのでしょう。なので、本願寺街道のこの部分は、その後にできた仮定県道虻田街道=「旧道」と重なる部分はほとんどないようです。
1873年(明治6年)に、函館から室蘭、苫小牧、千歳を経由する、海沿い、低地沿いの札幌本道ができると、本願寺街道はほどなく藪に埋もれ、ほぼ廃道と化してしまったと言われています。

仮定県道虻田街道の完成

1886年(明治19年)に北海道庁が設置されると、札幌から山越えで噴火湾岸へ抜ける本願寺街道は、入植者が増えて農耕の盛んになってきた地域への、そして札幌本道に連絡して函館への最短路として、その重要性が再認識され、街道の改修が始まります。
定山渓から虻田までは1890年(明治23年)から1894年(明治27年)にかけて改修が行われたとされていますが、このときに喜茂別-薄別間はまったく別ルートに付け替えられ、新しい道に生まれ変わりました。この新ルートがほぼ現在の「旧道」で、このときに中山峠も今の場所になりました。馬・馬車も通れるこの道は「仮定県道虻田街道」に認定され、同時に北海道庁は、人馬の継立として街道沿いに駅逓所を設置。中山峠にも1894年(明治27年)に設置されています。
当初は、入植者など通る人も多く、1920年(大正9年)には「準地方費道札幌倶知安線」となりますが、1928年(昭和3年)に胆振鉄道(後の国鉄胆振線)が倶知安、京極から喜茂別まで開通したこともあり、通行者は激減、たまに通る人は、道庁の高官か、表街道を歩けない罪人や脱獄囚だったという話もあります。
鉄道の発達により、一般の旅行者が徒歩や馬で峠を越える時代ではなくなっていました。
1928年(昭和3年)には中山峠近くに中山ヒュッテが建設されたものの、廃墟と化した中山峠の駅逓所は1931年(昭和6年)に喜茂別村川上の黒橋に移設されています。
この道路は難所だらけで、中でも札幌側、薄別川の右岸の急斜面に付けられた部分は、急峻で狭くカーブも多く危険でしたが1932年(昭和7年)から1935年(昭和10年)までは、フォードの乗用車による洞爺湖温泉-中山峠-定山渓温泉間の乗合自動車(バス)が定期運行されていました。
1935年(昭和10年)に「地方費道札幌室蘭線」となった旧道は、日中戦争が始まった1937年(昭和12年)に、軍用道路としても使えるよう大改修が行われ、この際に、札幌側の834.2m水準点付近から安江峠、現在の北海道開発局石狩川開発建設部西定山渓無線中継所付近までの部分は、尾根の反対側に道が付け替えらたとされています。
それまでの道は、薄別川右沢に面した尾根の北西側の急斜面を削って付けられていましたが、尾根の反対側は平坦で、広くまっすぐな道を通すことができたからでしょう。
ただ、戦後の1947年(昭和22年)に米軍が撮影した空中写真では、「旧旧道」がはっきり写っているのに対し、新しい方の「旧道」は判然としません。

また1953年(昭和28年)修正測量、1956年(昭和31年)発行の五万分の一地形図「定山渓」には「旧旧道」しか記載されていません。現在の「旧道」が地形図に登場するのは、1955年(昭和30年)測量、1958年(昭和33年)発行の2万5千分の一「中山峠」「札幌岳」が最初です。
1938年(昭和13年)には、喜茂別へ出張する北海道庁の役人を札幌から中山峠まで送って行った21歳の馬夫が、その帰りに薄別近くで熊に襲われて亡くなる事件が起きています。旧道脇にはその慰霊碑が建てられていましたが、今では見つけることができません。

戦後の復活

太平洋戦争中、荒れるにまかされた旧道は、橋が落ち、路面に木が生い茂り、とても自動車が通れる状況ではなくなり、薄別(上薄別橋)から喜茂別(黒橋)までの区間は全く交通が途絶していました。
戦後、北海道庁は災害復旧の名目で、難工事の末にこの区間を甦らせ、1949年(昭和24年)秋には自動車が通れるまでに復活します。ちょうどこの年、支笏洞爺国立公園が誕生、中山峠-定山渓がその範囲に組み込まれたこともあり、洞爺湖温泉-定山渓の定期バスの運行が開始されました。
前述のように、戦後、昭和20年代の空中写真や地形図にも「新旧道」の姿が見出せないことから、この部分の道が実質的に付け替えられたのは、戦後のことだったと言えるのかもしれません。
1953年(昭和28年)には2級国道・230号線となり、戦後復興から高度成長期を迎えた昭和30年代、レジャーやモータリゼーションが拡大していく中で、洞爺湖やニセコなどの行楽地と札幌を結ぶこの道は、観光道路としての重要性も高まり、交通量が増大していきます。
しかし、急峻な斜面を縫うように走る薄別川右岸の狭い道、急カーブなどは解消されないままで、もちろん舗装もされていなかったので、転落事故が多発し、「魔の山道」と恐れられるようになります。
1965年(昭和40年)11月からは、中山峠の道路の冬期間の除雪が行われるようになり、それまではほぼ半年間、自動車通行止めとなっていた旧道を一年中走ることができるようになりました。

新たな国道の誕生

戦後の自動車交通量の増大と、それに伴う事故の多発などにより、古いままの道の全面的な改修の要望が高まり、まず喜茂別側の中山峠-黒橋間の工事が1957年(昭和32年)に開始され、カーブを少なく、橋を多くして、主に喜茂別川沿いを通る、それまでより約4km短い新しい道が1963年(昭和38年)に完成しました(舗装工事は1969年(昭和44年)完成)。
ルート選定が遅れていた札幌側の中山峠-薄別間は、1963年(昭和38年)に工事に着手され、6年の歳月をかけて1969年(昭和44年)に開通。魔の山道と恐れられ、一番の難所となっていた薄別川右岸の部分は、薄別川右沢の峡谷の中と薄別川左岸に付け替えられ、無意根山麓の美しい景観を見渡せるルートとなりました。
北海道で初めてクロソイド曲線という概念を導入し、安全対策、雪対策に力を入れ、北海道の道路造りの研究成果や当時の先進的な技術を結集。峡谷を見下ろしながらゆるやかにカーブする無意根大橋や、山腹の渡り廊下、薄別回廊、ワニ口のような薄別トンネル、巨大な片持ち梁の庇の仙境覆道など、ヨーロッパアルプスの山岳道路からも学んだという、景観と調和したデザインの道路は、マイカー時代にふさわしい画期的で未来的な道路と大きな話題を集めました。
この「新道」=国道230号はその後も、道央と道南の物流、そして洞爺湖やニセコなどと札幌を結ぶ観光の道として、交通量を増やし、高速道路が長距離交通の主役となった今なお、幹線道路としての重要な役割を担い続けています。
一方、55年ほど前に80年近い幹線道路としての役目を終え、現在は喜茂別側は喜茂別町道、札幌側は石狩森林管理署管轄の林道となっている「旧道」は、建設から130年を経て、部分的に崩落し、藪に埋れつつも、当初とは役割を変えながら命脈を保っています。

深掘りスポット

黒橋駅逓所跡

旧道入口近くの木立の中には、炉や浴槽などの遺構が残されているが、これは昭和戦前期にあった黒橋駅逓所の跡である。喜茂別町教育委員会では、これを史跡として保護し、今後、調査・研究の予定とのことで、近年、案内看板が建てられた。
「旧道」沿いに初めて駅逓所が設置されたのは、仮定県道虻田街道が開通した1894年(明治27年)のことだが、黒橋駅逓所は、このときにできた中山峠の駅逓所の廃止に伴い、これを1931年(昭和6年)に移転して開設したもの。
初代の取扱人(管理人)は、それまで中山駅逓所の取扱人を務めていた三上喜六で、彼はその時点で、中山ヒュッテの番人(管理人)も務めていた。1940年(昭和15年)、喜六の死亡に伴い、息子の秀夫が跡を継いだが、この年9月に駅逓所は廃止になっている。
黒橋というのは旧道のこの先の喜茂別川に架かる橋の名前だが、「旧道」区間で川の本流に架かっていた橋は、ここと薄別の上薄別橋(現存せず)だけ。なお、現・国道にも新道建設時にできた「黒橋」がある。
黒橋地区には大正期までは入植農民が住み、1916年(大正5年)から1923年(大正12年)までは小学校の分教場「黒橋特別教授所」もあったという。戦後、旧道を走っていたバスの停留所もこのあたりにあった。

喜茂別鉱山跡

昭和初期に喜茂別・川上地区の住民によって発見された硫黄鉱山。小喜茂別岳の南麓、黒橋駅逓所より1.5kmほど上流で喜茂別川に左から合流する黒川沿いに少し入ったところが採掘場所で、坑内掘りと露天堀りの両方を行い、最盛期は従業員200名、戸数50以上を数えた。
鉱業権を買った個人や企業が製錬法の研究を行いながら、さらなる探鉱を進めたが、ヒ素の含有量が多かったこともあってうまくいかず、国策により戦時中の1944年(昭和19年)に休山に至っている。
黒橋駅逓所近くの喜茂別川の対岸には自家水力発電所のダム跡が残っている。1939年(昭和14年)頃に建設されたようだが、送電しないうちに休山となったという。また、鉱山と黒橋駅逓所の間、喜茂別川と国道の大きなカーブの内側の空き地は、硫黄精錬所の跡地である。
火薬や化学薬品などの原料をはじめ様々な用途に利用するためにかつては大量に採掘されていた硫黄だが、1960年代後半以降の公害問題の激化と規制強化により、原油の脱硫が普及し、石油精製の脱硫装置などから大量に回収できるようになって硫黄鉱業は衰退の一途を辿った。

中山鉱山跡

1933年(昭和8年)に倶知安の鉱山師が、旧道の中山峠寄り、硫黄川右股の上流部に発見した硫黄鉱山。1935年(昭和10年)に精錬所を建設し、翌1936年(昭和11年)から製品を出したが、その年のうちに出荷を中止し、1937年(昭和12年)には休山。鉱業権を得た企業がその後も探鉱を続けたが、昭和30年代後半に閉山を迎えた。
旧道の黒橋2号橋(崩落)から硫黄川右股を降ったところ、現在、砂防ダムが連続しているあたりが採掘場所で、ここには今も鉱山の遺構が残されているようだ。製錬所は、ここからさらに硫黄川を1km以上降った標高580m付近、現在の国道近くにあり、採掘場所から鉱石を運ぶ索道が敷設されていたことは、当時の地形図からもわかるが、今は何の痕跡もない。旧道周辺には今、往時を想起させるものは残っていないが、1950年代までこのあたりには「中山鉱山」というバス停があった。
最盛期には23戸を数え、従業員のための物資配給所もつくられたという。喜茂別町に限らず、北海道の山間部には昭和期まで多くの鉱山があったが、現在も採掘されているところはほとんどない。

中山ヒュッテ跡

1928年(昭和3年)11月、北海道庁長官が創設した官製山岳会、北海道山岳会が秩父宮からの御下賜金を基金として、中山峠近く、蓬莱山西面の沢の中、標高750m付近に山小屋を建設した。1926年(大正15年)の手稲山パラダイスヒュッテを皮切りに、山スキーを主目的とした小屋が札幌近郊に次々と建てられた時代で、この小屋は、ヘルベチアヒュッテに続く北海道で3番目の本格的なスイス式山小屋だった。頑丈な丸太造りの2階建で、30〜40人が宿泊できた。番人を務めていたのは、中山峠駅逓所の取扱人として長年、峠で暮らし「山の羅針盤」と呼ばれていた三上喜六。
完成から間もない1929年(昭和4年)3月下旬には、北海道山岳会の幹事で北海タイムスの記者・事業部長であった河合裸石が、同社の主催事業として、ヒュッテの開場式を兼ねた山岳スキー行を企画。札幌から鉄道で喜茂別入りした66人が参加して大々的に実施されている。そのとき、新聞原稿を運ぶために中山峠から放たれた北海タイムス社の伝書鳩2羽のうち、1羽は帰ってこず、もう1羽は本社にたどり着いたものの、数日後に息絶えた。翌月、中山峠駅逓所の廃墟近くの大木の根方に「殉職鳩の碑」が建てられたというが、今は残っていない。
この小屋は、立地や環境の問題か、管理上の問題か、建設から数年で荒廃し、朽ち果ててしまった。胆振鉄道の開通や、定山渓鉄道の電化による増便などで、無意根山や喜茂別岳へのスキーツアーのルートの起点が、それまでの中山峠から、よりアプローチの短い定山渓や脇方に変わり、利用者がいなくなったという事情もあるようだ。
建設から10年後の1938年(昭和13年)10月に定山渓から中山峠を越えて、旧道から歩道を降ってヒュッテの前へ出た一原有徳氏は、窓が壊れ、屋根に大きな穴が空いた、倒壊寸前の姿を目にしている。さらに歩道を降った一原氏は、煉瓦壁が崩れかかった中山鉱山の硫黄製錬所も見ている。その頃には中山鉱山も既に休山していた。今ではほとんど遺構や痕跡はないが、旧道から小沢を水平距離で200mほど、標高差にして50mほど藪を漕いで降ると、標高750mぐらいに若干平らなところがあり、下に、小屋の目印だった大岩らしき岩があるので、ここがヒュッテ跡ではないかと思われる。
小屋の周囲は、建設当時は昼なおくらい鬱蒼たる針葉樹林で、それゆえ、蓬莱山の西斜面は春でもパウダースノーが滑れるところとして知られていたが、戦中・戦後に多くの木が伐採されてしまい、今では若いダケカンバやササしかなく、往時の面影は全くない。

中山峠

中山峠という名前が初めて文献に現れるのは、1871年(明治4年)7月に東久世通禧開拓長官と副島種臣参議が完成直前の本願寺街道を通ったときのことで、東久世の書簡に、副島が「右に余市岳、左に札幌岳を望むゆえ中山峠」と名づけたとある*1。しかし、本願寺街道が稜線を越えていたところは喜茂別岳の北のコルと考えられており、よって、この「中山峠」は現在の中山峠から5km以上離れた別の場所である。
道が現在の位置で山を越えるようになったのは、1894年(明治27年)に仮定県道虻田街道が完成したときなので、このときに、中山峠は今の場所に変わったのだろう。1894年(明治27年)に駅逓所も設置され、北海道を代表する峠の一つとなった中山峠だが、やがて、1928年(昭和3年)の胆振鉄道の喜茂別までの開通もあって、通る人があまりいなくなる。
1931年(昭和6年)に、駅逓所が黒橋に移設されると、中山峠にはほとんど何もなくなる。
中山峠が再び賑わいを取り戻すのは、戦後、道路が改修されてバスが運行されるようになってから。冬季に除雪の始まった1965年(昭和40年)以降、スキー場やキャンプ場、健民センター(国民宿舎や物産館)、ユースホステルなどがつくられた。
1967年(昭和42年)には、東本願寺を率いて本願寺街道を開削した現如上人・大谷光瑩の遺徳を顕彰する「現如上人像」が建立されている*2。1969年(昭和44年)には新道が開通し、中山峠は、さらに賑わいを見せていく。その後、ホテルや美術館まで建てられたが、いずれも、その後、閉館。
現在は、峠の南側に、健民センター物産館を前身とする道の駅・望羊中山、北側に、峠の茶屋がある程度。
宿泊施設はなくなり、一時は北海道でも最も早くオープンすることで知られていたスキー場も、今は不定期営業となっている。それでも、北海道を代表する峠として、あげいもが名物となり、海外からのインバウンド客も含め年間400万人が訪れる人気の立ち寄りスポットとして、多くの観光客を集めている。
*1 余市岳は、現在の中山峠からまったく見えず、旧中山峠=喜茂別岳と並河岳のコル付近からもかなり遠く、たとえ見えたとしてもごく小さくしか見えず、手前の無意根山の方がはるかに大きな存在感を示していたはずである。副島は、形の似た無意根山を余市岳と誤認したのではないか、というのが筆者の私見である。
*2 前述のようにここは本願寺街道の中山峠とは違う場所なので、厳密な意味では、この像を建立する場所としてふさわしくない。

中山駅逓所跡

1894年(明治27年)11月、「仮定県道虻田街道」開通と同時に中山峠にも駅逓所が設置された。初代取扱人(管理人)の三上末吉は札幌・平岸から移り住み、農家として周辺の開拓にもあたった。1909年(明治42年)には、のちに中山ヒュッテの管理人や黒橋駅逓所の取扱人も務める末吉の息子・喜六が跡を継いで二代目の取扱人となっている。
開設当初は、道を通る人も多く繁盛した駅逓所だが、昭和初期には荒れ果ててほとんど廃墟になっていたことが、河合裸石の著書『蝦夷地は歌ふ』に描かれている。
たまに通る人といえば、脱獄囚か土工の逃亡者で、この中で餓死したり自殺した人もいたため、河合は「死の家」と名づけたという。
1928年(昭和3年)に中山ヒュッテができるまでは、中山峠から喜茂別岳や無意根山にスキー登山する人にも利用されていたようだが1931年(昭和6年)発行の『北海道の山岳(登山案内)』には「地図上の中山駅逓は現在ない」と書かれている。
1931年(昭和6年)に駅逓所は廃止となって、黒橋に移設されたが、利用されなくなった理由として、近くに水場がなく、水を補給できなかったことも挙げられる。この駅逓所があった場所は定かではないが、国道を挟んで道の駅の反対側=北側、現在、国交省北海道開発局の中山除雪ステーションの敷地あたりではないかと思われる。
だが、1929年(昭和4年)に近くに建てられたという「殉難鳩の碑」とともに、今は何の痕跡もない。なお、この除雪ステーションは、中山峠の除雪が始まった翌年の1966年(昭和41年)に設置されている。 「駅逓」の名は、中山峠の札幌側に突き上げる豊平川の支流「駅逓沢」に残るのみである。この沢は戦前、林業の重要なルートであるとともに、スキー登山者にも利用されていた。

中山小屋

今も中山峠の札幌側に建つ中山小屋は、戦後復興期の1953年(昭和28年)、中山峠付近の山岳公園化を望む山岳関係者らと、この付近への送電線敷設を進めたい北海道電力の思惑と利害が一致して建てられた山小屋だった。
札幌山岳クラブや札幌スキー連盟などは1946年(昭和21年)頃から、山小屋建設のための用地借用を札幌営林局に出願。アメリカ軍の占領下にあったため難航していたが、1949年(昭和24年)、この年誕生した支笏洞爺国立公園のスキー公園化のための中山峠付近へのヒュッテ建設、将来の山岳ホテル化を掲げて、米軍と営林署から許可を得るに至った。
建設費をどうするかという課題に応えたのが、中山峠付近を通る札幌までの送電線敷設の許可を得ていた北海道電力だった。
この送電線計画には、山岳関係者などが、森林や景観保護の観点から強い反対運動を展開していた。そこで、北海道電力と山岳関係者が話し合い、北海道電力が中山小屋と焼失した札幌岳の冷水小屋、展望台を建設することで、山岳関係者は送電線敷設を容認するとの合意がなされた。
小屋と展望台は1953年(昭和28年)に完成したのち、札幌市と合併する以前の当時の豊平町へ寄贈された。
しかし、豊平町には予算がなく、特に中山小屋は利用者もほとんどいなかった。そこで、これらの小屋等を譲り受けたいと申し出て、冷水小屋の管理運営の委嘱を受けたのが、創設間もない北海学園大学山岳部だった。
3年間のお試し期間を経て1959年(昭和34年)1月、冷水小屋と中山小屋は豊平町から北海学園大学へ無償譲渡された。そして、中山小屋の管理は、同大学II部の山岳部である北海岳友会に委託されることになった。
小屋の建設位置は、はじめ、中山峠の駅逓所があった場所なども考えられたようだが、水が取れるところということで、薄別川右沢の源流部である現在地に決まったという。旧道から120mほど降ったところにあり、小屋建設時には既に使われなくなっていた「旧旧道」に面している。
一原有徳氏によれば、1938年(昭和13年)に、このあたりに柾の香りのするきれいな営林署の建物があったというが、真偽のほどは定かではない。なお、979m峰(喜豊ヶ丘)の山頂につくられたという展望台は朽ち果てて、1965年(昭和40年)頃に倒壊。そこに至る道も残っていない。また、中山小屋や展望台付近を通っていた送電線はルートが変わり、既に撤去されて現在はない。
中山小屋は現在も、北海岳友会員の手できれいに管理されて使用されており、北海学園大学に申し込めば、6月-10月の間は宿泊可能。

魔の山道

中山峠の札幌側の安江峠から薄別までの区間、とりわけ薄別川右岸の急斜面に道がつけられた部分は、狭い上に、カーブが多く、見通しが効かないために、「七曲り」「八曲り」などと呼ばれ、難所として知られていた。わずか8kmの間に小さなカーブが128もあったという。
車がほとんど通らなかった戦前には大きな問題とはならなかったが、戦後に道が復活した際にもこの部分はあまり改修されず、難所がそのまま残されたので、バスが通るようになり、昭和30年代に交通量が増大すると、転落事故が多発。「魔の山道」と恐れられるようになる。
谷側を走ることになる、中山峠から札幌方向に降る車が転落することが多かったようで、バスとすれ違うために脇に寄った際に、路肩が崩れたり、ハンドル操作を誤るなどして転落したようだ。山側の崖にぶつかりそうになってハンドルを切り、谷側に転落する車もあったらしい。
昭和30年代末から40年代前半にかけては、年間20件ほどの車の転落事故が起きていたという。ただ、日本アルプスその他の中部山岳などとは違って、深い谷や切り立った山の少ない北海道の道ゆえ、転落距離も短いためか、意外と死亡事故は少なかったようだ。この道に限らず、全国的に交通事故が劇的に増加していた時代だった。
事故発生場所としては、薄別近くまで降った標高450m付近のカーブが、一番の危険ポイントだったと思われる。谷側が2段15m近い石積み擁壁になっているからだ。1963年(昭和38年)5月に、洞爺湖から定山渓に向かう炭鉱の慰安旅行の貸切バスが転落し、五十数人が重軽傷を負った事故もここで起きたと思われる。現在もこの下には2台の自動車の残骸が残されているが、そのうちの1台、4代目トヨペット・コロナの発売は、新道開通の翌年1970年2月なので、この車は、既に国道として使われなくなった旧道から転落したものと思われる。
標高610m付近のカーブの擁壁下にも、車種不明の自動車の残骸がある。
また、自衛隊員の殉職碑がある1963年(昭和38年)10月の装甲車転落現場は、安江峠に近い標高770mとかなり上部で、薄別川ではなく東側の豊平川に面した場所だが、ここのS字カーブでは翌1964年(昭和39年)10月にも転落事故が起きているので、屈指の危険箇所だったと考えられる。

上薄別橋跡

薄別から中山峠に500mほど進んだところで、旧道は薄別川を渡る。
今は落ちてしまって存在しないが、かつてはここに「上薄別橋」という名前の橋が架かっていた。
「仮定県道虻田街道」ができたときの初代の橋がどんなだったかは分からないが、1951年(昭和26年)1月に、それまでの橋を架け替えて、長さ29m、幅3.5mの木造のハウストラス橋が完成したことはわかっている。
旧道をバスが定期運行するようになって間もない頃のことである。この橋も老朽化したためか、1965年(昭和40年)11月にはすぐ横に、長さ38m、幅5.5mの鋼板桁の橋が架けられた。古い空中写真を見ると、1977年(昭和52年)11月にはどちらの橋も架かっていたが1985年(昭和60年)9月には両方とも落ちてしまっていることがわかる。
今は橋はないものの、橋台らしきものが残っており、左岸側には2つ並んでいる。下流(右)側の石積みのものが古い木橋、上流(左)側のコンクリート製が新しい鉄橋の橋台と思われる。右岸側は、崩れかけた石積みの橋台しか残っていない。

ルート

黒橋駅逓所跡
0.3km ↓ 5分
黒橋
3.2km ↓ 60分
送電線鉄塔・四等三角点「北福島」
2.7km ↓ 55分
青い川林道入口
2.7km ↓ 60分
黒橋2号橋跡
1.5km ↓ 30分
774.1m水準点
1.6km ↓ 25分
中山ヒュッテ分岐
1km ↓ 15分
中山峠スキー場
1km ↓ 15分
中山峠
14km ↓ 4時間25分
中山峠
0.7km ↓ 10分
中山林道入口
2.1km ↓ 30分
865mコル
1.5km ↓ 20分
大曲6号林道入口
2.3km ↓ 35分
大曲7号林道入口
0.8km ↓ 10分
740mコル
1.8km ↓ 30分
大曲4号林道入口
5.2km ↓ 1時間30分
上薄別橋跡
0.5km ↓ 15分

アクセス

公共交通機関

○道南バス・札幌洞爺湖線【予約制】
札幌駅前〜定山渓〜薄別〜中山峠〜栄
https://www.donanbus.co.jp/cms/wp-content/uploads/2024/09/%E9%83%8A%E5%A4%969_R6.10.1.pdf

マイカー

・札幌市内→定山渓→薄別→中山峠→黒橋(国道230号)

駐車場

・薄別バス停/無意根山登山道入口(国道230号)
・薄別5号林道入口(国道230号)
・大曲7号林道入口(国道230号・定山渓トンネル脇)
・中山林道入口(国道230号・中山峠近く)
・国土交通省北海道開発局中山除雪ステーション(国道230号・中山峠)
・喜茂別町道黒橋峠線入口 黒橋駅逓所跡前

参考資料

●坂上信之『ランプの芯 中山小屋創建50周年記念誌』北海学園大学II部 北海岳友会 
●『山小屋 第3号』北海学園大学山小屋管理委員会
●喜茂別町史編さん委員会『喜茂別町史』喜茂別町
●喜茂別町編さん委員会『新喜茂別町史 上下巻』喜茂別町
●三浦宏『北海道の峠物語』(社)北海道開発技術センター
●氏家等ほか『北海道道路史III 路線史編』北海道道路史調査会
●三浦宏『豊平川の橋物語』(財)石狩川振興財団
●堂垣内尚弘『わが半生の点描』(株)時事ジャーナル
●三浦宏『本願寺街道・定山渓国道物語』北海道道路史調査会
●『本願寺街道』国交省北海道開発局札幌開発建設部
●きもべつ歴史プロジェクトの会『史跡ガイドブック きもべつの歴史を歩く』喜茂別町教育委員会
●渡辺惇『中山ヒュッテ物語』
●地蔵慶護『北海道 身近な歴史紀行』北海道新聞社
●三浦宏『北海道の碑物語』北海道開発技術センター
●河合裸石『蝦夷地は歌ふ』富貴堂書房
●『北の道づくり』北海道新聞社
●松浦武四郎『戊午山川地理取調日誌 第一巻 作発呂留宇知之誌』
●松浦武四郎『後方羊蹄日誌』
●田中三晴『北海道の山岳(登山案内)』晴林堂
●『スキー北海道』札幌鉄道局
●『新スキー北海道』日本交通公社札幌支社
●一原有徳「中山峠」「北の山脈」所収
●村上善彦「冷水小屋と中山小屋の建設由来」「北の山脈」所収
●「北大スキー部報」 1号
●各駅倉庫
●北の細道
●旧版地形図
●空中地図

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会北海道支部
田中 健

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