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114 阿蘇山古道

南郷往還

ここでは南郷往還の北向山ルート(年貢米の道)を紹介したい。
藩政の時代、延宝8年(1680年)には阿蘇南郷地域の年貢米は大津の御蔵に運ぶ決まりになったが、それには深い立野峡谷、あるいは急峻な外輪山を越えねばならなかった。重荷を運ぶのに、いずれの道も厳しいものであった。
それを克服しようとして、文政10年(1827年)頃、新たに開削されたのが南郷往還・北向山ルートである。
ただ、北向山は南外輪山が立野峡谷に落ち込む先端にあり、人も獣も容易に入らぬ急崖となっていて、その開削に当たっては大きな困難があったという。
新たな南郷往還北向山ルート開通後は、南郷の人々は上納米を馬の背に、北向山の山頂近くを横切りながら、岩戸神社の崖山の上を通って外牧神社に至り、上大津の御蔵へ運ぶことができるようになった。
それまで俵山峠または二重峠越えの遠く難儀な道が嘘のように楽になった。
新たな年貢米の道としてだけでなく、この南郷往還は大津(現菊池郡大津町外牧)と阿蘇南郷谷(現阿蘇郡南阿蘇村河陰)を結ぶ一本の重要な往還であり、外牧には代官所もおかれていた。
多くの苦労を経て拓かれた道も、他の交通網が発達した現在は、整備されることなく放置され、急崖の北向き谷は崩壊が進み歩行も困難になるまま忘れ去られようとしている

古道を歩く

西の入口:大津町外牧から林道を進み南郷往還三差路へ

大津の御蔵所鶴口から県道205号線を南下、白川右岸の207号沿いの吹田、大林を経て208号で白川を渡り、かつて代官所があった外牧へ、又は白川左岸の県道145号熊本瀬田線を東進し外牧に至る。
その2つが合流する三差路を東へ100m進み、バイパスから左手の旧道に入って400mほど進むと、高い石垣の上に外牧神社がある。
すぐ脇に南郷往還入口の標識があり、ここから北向山へ向けて、緩やかな登りが始まる。
今は杉林に囲まれ舗装された幅2mほどの林道が続く。
2㎞ほど進むと舗装は途切れ、岩戸神社(崖の下方にあり見えない)の上部に達すると道は荒れ、雨季の流水にえぐられた部分も多くなる。

そしてついには林道の跡形もなくなり深い杉林の中に突入する。急斜面の倒木、枯れ枝をかき分け進むと、再びかつての往還と思われる平坦地を見つける。
しかしこれも崩落した大岩に塞がれている。

その先の沢にはいつ築かれたのか、コンクリート舗装された部分もある。500mほど進むと、ヤブに覆われた2m程の径は左に緩くカーブしていく。

南郷往還三差路から原生林へ

その左へ曲がる道は、北向山の肩に行く道であり、次第に原始林が右手後方に遠ざかる。
カーブ地点まで戻り地図を頼りに右の杉林の中に入る。道はなく三差路とはわからない。
杉林は終わりいよいよ北向谷原生林の中へ入っていく。左に落ちる急斜面、径はなく、ほぼ水平を心がけて進むとやがて崩壊地、旧白水村史にいう、落ちれば五、六百間下の白川までという急崖であり、慎重にトラバースする。
このような崩壊地が断続的に続く。6か所程の崩壊地を過ぎると、往還の目印にと植えられた杉の古木に沿って、岩を穿って切り開いたと思える古道跡が続く。

やがて左側の急崖の下方に、樹間から建設中の立野ダムが望める。
2㎞ほどを2時間半程かけて急斜面を抜けると、北向山山頂から北東に延びる尾根、南郷往還出合いに達する。

先端の屈曲点は切通しで一段低くなっている。

南郷往還出合から南阿蘇村河陰、東の入口へ

尾根筋の高さ3mほどの切通しからヘアピン状に右折して、南阿蘇村河陰へ向かう。
急斜面の中、径は消え、古いテープの破片がまばらにあるが定かではない。
徐々に下り気味に進むと、古道跡らしき平坦な部分に達する。
茂ったカヤを押し分けながら進むと次第に古道らしくはっきりしてくる。
県道28号南阿蘇トンネル上の辺りまで来ると草も払われてかなり通りやすい。

尾根の南郷往還出合から約2㎞、1時間半ほどで宝来宝来神社上の駐車場、南郷往還北向山ルート東の入口に到着する。

この古道を歩くにあたって

今は登山者を含めてこの古道を歩く人はほとんど見られない。
断続的に古道と思える部分もあるが、とくに北向谷原始林の中は崩壊や埋没してほとんど消失している。
一部に目印の杉の並木もあるが、どこを進むべきか読図しながら進むしかない。
古道そのものの勾配は緩やかであるが、原始林の中は急斜面であり、数ヵ所の崩壊地を含め滑落に注意しながらルートを見定め、慎重にトラバースしなければならない。一般向けのコースではない。

古道を知る

外輪山越えの峠道

藩政の時代、参勤交代や幕府巡検使の通行、商人による物資の輸送、庶民の社寺参詣など、人々の移動が活発になるにつれて街道筋は次第に整備されていった。
肥後の主だった街道は、熊本城下の新町を起点として放射状に延びるようにつくられていて、代表的なものは、薩摩街道、豊前街道、豊後街道の三つがある。
この主要街道のほかにも脇街道があり、領内の主要地点間の交通を担っていた。
阿蘇谷を通る道は、加藤清正が整備したといわれるいわゆる「清正公道」を通り、西の外輪山の二重峠(ふたえのとうげ)を越える豊後街道が主要経路として拓かれ、江戸時代の参勤交代路としても多用されていた。
現在の国道57号線やJR豊肥本線より北側の北外輪山の麓を通る当時の主要道である。
一方、熊本城下から南郷谷を経て豊後竹田または日向高千穂を結ぶ路線は南郷往還と呼ばれた。
かつて熊本城下の長六橋を起点に大江、保田窪、長嶺を経て菊陽町道明に至り、西原村万徳、俵山を越えて南郷谷に入り、高森町色見から大分県竹田へ、または宮崎県高千穂・日向へと抜ける交流の主要なルートであった。

年貢米の道「北向山之絶壁往還」開削

延宝8年(1680年)には、南郷の高森手永、布田手永の年貢米は大津にある御蔵に納める決まりになり、御蔵払道と呼ばれた。
しかし、この道は、水はけが悪く悪路の(旧長陽村)黒川を経て数鹿流ヶ滝上流の橋場橋で黒川を渡り、難所の比丘尼谷を経て大津へ運ぶか、または内牧(小国)往還といわれる西外輪山の裾を通り、車帰から豊後街道の二重峠を越えて大津へ、そうでなければ高低差の厳しい急勾配で、冬季は西からの寒風に苦しめられる俵山峠を越えるかであるが、いずれにしても厳しい道程であった。
このため高森、布田両手永の惣庄屋が目を付けたのが、悲願の「北向山之絶壁往還」開削である。
『以前からしばしば計画されてきたもののその都度立ち消えになっていた。というのも、立野峡谷の左岸北向山は、岩石を畳んで屏風を立てたような姿であり、切り立った崖は、五、六百間はあろうかという絶壁で、はるかに下の白川を望んでいる。鳥類を除けば猪鹿猿狐などの獣さえ通行が困難とされるような地形が人の手が入ることを妨げている。北向山の開削が実行に移されたのは文政10年(1827)の頃であった。しかし、計画は容易に進められたのではなかった。岩盤を砕き道を開削するために、諸郡から腕利きの石工が集められたものの、彼らの大半は絶壁で大岩を割るという作業に肝を潰して逃げ帰るような始末であった。当時、大きな石材を扱う先進の技術を有していたのは、八代郡の四百町新地などの干拓工事で導入された「備前流」のもとを作った備前石工たちである。惣庄屋はこれらの石工に加えて地元で集めた「強気の石工」を選び、岩石の割落を開始した。この際、割った石が五、六百間ほど下の白川に落ちる雷鳴のような音が数十日間にわたって続いたという。石工や手永の人夫たちは道が絶えたところに石垣を築き、山中を切り開き、心魂を砕いて五千間余の新道を仕立てることに成功した。この間の工事を後で振り返ると「人力之業」とは思えないほどであった。「平地同様之往還」に出来上がった道は、人々に予想以上の恩恵を与えた。人馬の往来が嘘のように楽となり、大津の御蔵までの往復が楽に日帰りで済むようになったし、御蔵払の際のみならず、一般の往来についても、俵山越えしていた人馬の過半が、新道を経由するようになった。現在では新しい道路によって寸断されその経路をたどることさえ難しくなった江戸時代の往還も、このような人々の地道な努力によって開削維持されてきたのである。』(白水村史より)

現在の南郷往還北向山ルート

南郷往還・北向山絶壁往還沿いには目印として杉の老木が並び歴史を物語っている。
少なくとも昭和30年代頃までは子供でも普通に歩ける道であった。
しかし、多大な困難を経て開削され、昭和の初期まで重用された往還も、新たな交通網の開発が進み、利用する人も少なくなり、補修されることなく放置されてきた。
崩壊し寸断され、今は人々の記憶からも消えようとしている。
10年ほど前、会員有志が数回にわたり探査に入ったが、部分的に往還の形跡は残っているものの、崩壊が進み、今まさに消えかかり歩行困難な箇所が多くなっている。
荒れ果てるままの中、2016年の熊本地震はそれに追い打ちをかけたと思われる。
今回の「古道120選」調査を機に熊本支部で再度調査に臨んだが、古道の形跡は一層薄れているように感じた。

深掘りスポット

阿蘇の伏流水、湧水池、水源

度々の噴火を繰り返してきた阿蘇の火山は、幾重にも重なった溶岩流と火砕流の多重の層が巨大な自然の水瓶となって、広く九州の各地の伏流水を生み出している。
県内はじめ各所に阿蘇の伏流水が湧出し、名水の水源として枚挙にいとまがない。
下流の熊本市の上水道の100%は地下水によって賄われている。
最近熊本県北部に多くの半導体関連工場が進出するのも豊富な地下水があってのことといわれているが、無尽蔵ではない水資源に関する人々の関心は高まり、草原や野焼き、また水田湛水の地下水供給の有効性など、自然環境だけでなく人々の営みも密接につながっていると考えられるようになっている。
南阿蘇の湧水群:およそ11あるといわれる南阿蘇の湧水のうち、いくつかを紹介する。
○白川水源:869-1502阿蘇郡南阿蘇村白川2040問合せ先南阿蘇村産業観光課0967-67-1112
阿蘇の湧水群の中でも最も有名であり、日本名水百選だけでなく、くまもと緑の百選にも選ばれている。豊かな自然に囲まれた水源地は水の神様を祀っている白川吉見神社の境内にある。水温14℃、湧水量毎分60tといわれる。
○竹崎水源:南阿蘇村大字両併20
旧白水村の南にある竹崎水源は毎秒2t、1日17万2000tもの量を湧出する南阿蘇屈指の湧水量を誇り、黒い砂を吹き上げている様子は壮観である。付近の水田350町歩への水の供給が可能である。
○寺坂水源:869-1505南阿蘇村大字中松
南阿蘇鉄道の鉄橋の真下にあり、夏はホタルが飛び交うという。湧水量毎分5t、玉泉山教寺の御手洗場として知られる。
○池の川水源:869-1505南阿蘇村大字中松
湧水量毎分5t、飲料水、生活用水、灌漑用水として、用途によって3つに水路が分かれて活用されている。7月、11月の18日には水神祭が開かれる。池の「兜石」の見え隠れでその年の農家の豊凶を左右するといわれている。
○明神池名水公園:869-1505南阿蘇村大字吉田
湧水量毎分2tと少なめだが、池は広く水くみ場、鯉の池、水遊び場と分れている。夏は水草が茂るが、冬は紺色の深い青色になり、モネの名作「睡蓮」を思わせると、ひそかに話題になっている。
○湧沢津水源:869-1505南阿蘇村大字中松759
湧水量毎分5t、湧水が地中から突き上がるように出る様子は力強い自然の神秘さえ感じられる。
○吉田城御献上汲場:869-1503南阿蘇村大字吉田1335
元は阿蘇家の家臣、吉田主水頭が居城し使用した由緒ある水源、湧水量毎分5t、南阿蘇では珍しい硬水の水源である。
○塩井社水源:熊本地震後湧水が止まり話題になったがその後復活を遂げた。神秘的なエメラルドブルーのまさにミラクル水源と人はいう。湧水量毎分5t、不老長寿諸病退散の神水とされ水質も軟らかく別名女水ともいわれている。
○妙見神社の池:869-1412南阿蘇村大字久石
「妙見さん」の名称で親しまれており、毎分1tの湧水は付近の家々の生活用水、農業用水として使用されている。

立野峡谷の橋

〇黒川橋:かつて立野渓谷の白川と黒川の合流地点にあった戸下温泉のすぐ傍、黒川に架かっていた。
立野から白川沿いに「七曲り」を下って行き、この橋で黒川を渡ると戸下温泉、またくねくねと登り返す「戸下九十九曲がり」を登り返して南郷谷へと通じていた。石造アーチ、橋長25.3m(南阿蘇村教育委員会事務局)。
明治33年(1900年)に完成したが、交通の難所には変わりなかった。立野ダム計画に伴い、平成5年(1993年)に長陽大橋が架設されると、渓谷に下りることなく容易にこの渓谷を渡ることができるようになり、役目を終え、人の絶えた黒川橋はその後流失。
左岸には国の天然記念物の北向谷原始林(照葉樹林)、すぐ上流には柱状節理の崖が見られ、その上には新阿蘇大橋が架かる。
〇橋場橋:延宝8年(1680年)に藩は大津に御蔵を作り、阿蘇、南郷の年貢は全てそこに集めることにした。
俵山を越え、会所所在地布田に運んでいた布田手永も南郷の諸手永も運ぶ距離が長くなった。
間もなく、数鹿流ヶ滝の上流、黒川集落の下に、木製の仮橋刎橋(はねばし)が橋場に架かったが、藤蔓を編んだものであり、行く人は皆、恐る恐る通っていた。
天明2年(1782年)、藩主細川公が、莫大な費用と人力を投じ、名石工仁平により、肥後藩初の眼鏡橋に架け替えられ、初めて牛馬を通すことができるようになり、南郷の年貢米はすべてその橋を通り、二重峠または立野を経て大津御蔵へ運ぶようになった。
また南郷と熊本、大津を結ぶ大動脈の役目を果たし、立野が交通の要衝となる始まりとなった。
眼鏡橋は明治10年の西南戦争時、官軍からの防御のため西郷軍が爆破を試みたが果たせなかったほど堅牢であったという。西南戦争時には西郷軍の逃走路ともなり、その過程で官軍との戦闘もあって域内にはいくつかの古戦場、殉難の碑が残されている。橋はその後流失(時期は不明)し、現在はコンクリート橋が架かっている。

〇新阿蘇大橋:熊本市内と阿蘇方面を結ぶ最大の主要幹線道路である国道57号及び325号線、その2国道の結節点の阿蘇大橋が平成28年(2016年)熊本地震で崩落、半ば阿蘇地域は陸の孤島状態となった。
国土交通省は旧阿蘇大橋の下流約600mに、全長525m、橋脚最大高さ97m、最大支間長165m、国内有数のPC3径間連続ラーメン箱桁橋として、2017年3月より、復興のシンボルとして着工。
徹底した合理化施工と多彩な技術、工夫によって、標準工期に比べて1年4か月短縮して早期供用を実現、2021年3月7日開通した。

立野峡谷の神社

〇外牧神社(外牧阿蘇神社)
外牧集落の東端にあり、阿蘇一宮を祀るので「一の宮さん」とよばれる。
神殿横には梅の木を神木としてオテジン(天神)サンが祀られている。寛文11年(1671年)の創建、延宝8年(1680年)現在地に遷宮され、天明5年(1785年)より寛政4年(1792年)にかけ大改修された。平成7年(1995年)全社殿焼失、翌平成8年(1996年)再建復興された。
藩政時代、文政10年(1827年)頃に開削された南郷往還北向山ルートの西の入口であった。
開通後は、当時の大津手永会所(今の上大津付近)を起点として吹田、大林を経て白川を渡り外牧神社横からこの往還に入り北向山に向けて東進して行った。すぐ近くには代官所もおかれていた。
〇岩戸神社
永正4年(1507年)の創建と伝えられ大己貴神、少彦名神を祀り、併せて南北朝時代と推定される量感豊かな阿弥陀三尊も合祀され、今なお神仏混合の形を示す県下でも稀な神社である。
内牧の畑地区から渓谷を登ること1㎞、深山幽谷の中にあり、50m余りの垂直に屹立する断崖絶壁の下、岩窟に半ば隠れるように、滴り落ちる清流の傍らに密かに古い社が建っている。
神社は通称「飛佛(トンボトケ)」といわれている。江戸時代初め、谷向いの立野の山野に観音堂があったが、ある年、野焼きの火で観音堂が燃えたとき、観音さんは難を逃れるために白川を越えてここまで飛んでこられたといわれ、それ以来この名がついたという。

南外輪山越え峠道の現在

南外輪山越えの峠道は現在、西から順に、車道が俵山トンネルを抜ける県道28号と旧道の俵山峠線、グリーンロード南阿蘇、県道319号清水峠線、県道151号中坂峠線、国道265・325号高森峠、町道黒岩峠、国道265号大戸ノ口峠がある。人道としてはほかに、護王峠、地蔵峠、駒返峠、長谷峠があり、かつては多津山峠、天神峠、崩土(くえんど)峠を越える道があった。現在、多津山峠、天神峠、崩土峠はほとんど廃道となっている。

南外輪山縦走路

この南外輪山上の俵山峠から地蔵峠、駒返峠を経て高森峠、黒岩峠までは外輪山上の尾根筋を周回する遊歩道が快適に続いており、多くが九州自然歩道に指定されている。俵山峠、又は地蔵峠はその縦走路の西の入口であり、また駒返峠はその中間点に位置する。アセビ、ブナ、カエデなど広葉樹林と草原が織りなす変化のあるコースで、季節ごとの草花や森林浴を楽しみながら、また樹間からの雄大な中央火口丘の景観を楽しむコースとして登山者に親しまれている。俵山峠から高森峠まで通しての縦走は、一般には1日では厳しい。駒返峠で2分割するとゆっくり楽しめるだろう。(南外輪山全図参照)

立野峡谷

阿蘇カルデラ外輪山の唯一の切れ目、阿蘇谷の黒川と南郷谷の白川が合流し深い谷を形成し、白川となって熊本平野に流れ下る。合流手前の黒川には数鹿流ヶ滝、白川には鮎返の滝があり合流地点の南側左岸は南外輪山の先端である北向山が急崖となって落ち込んでいる。
2016年の熊本地震では黒川に架かる阿蘇大橋が崩落し、白川をまたぐ南阿蘇鉄道の白川第一橋梁も大きく損傷した。2023年までに、いずれも再建された。
一帯は立野峡谷ジオサイトとして、また新装成った新阿蘇大橋の橋梁と渓谷や原生林との取り合わせが興味深いスポットである。
また黒川、白川の合流地点には阿蘇の入口の温泉として知られ、かつて多くの文人もその身を癒したという戸下温泉があった。

立野ダム(阿蘇立野ダム)

昭和28年(1953年)の白川大水害を機に持ち上がったダム計画が、賛否両論の中、半世紀を経て現実のものとなった。通常は水をためず洪水時のみ貯水し、洪水被害を軽減する役目の流水型の穴あきダム。
白川と黒川の合流地点の1㎞ほど下流に建設され、2023年にほぼ完成し2024年1~2月、試験湛水が行われた。
右岸は南阿蘇村立野、左岸は大津町外牧、左岸には国指定の天然記念物・阿蘇北向谷原始林が迫る。

阿蘇北向谷原始林

阿蘇カルデラ唯一の切れ目、立野峡谷の左岸には南外輪山の最先端の北向山が黒川、白川の合流点で大きく落ち込み急崖となっている。そのためそこはほとんど手つかずのまま残され原生林となっている。
低高度での原生林は珍しいといわれ、カシ、シイ、タブ、モッコクなどの常緑広葉樹を主とする、いわゆる照葉樹林帯である。昭和44年には「阿蘇北向谷原始林」として国の天然記念物に指定されている。

立野峡谷の滝

○数鹿流ヶ滝(すがるがたき)
阿蘇谷を流れる黒川が南郷谷を下ってきた白川と合流する地点の1.2㎞ほど黒川の上流にあり滝の高さ約60m、幅30mの滝。造瀑層は安山岩溶岩(赤瀬溶岩)で、滝の上流側には同溶岩の岩盤河床、下流側には深い渓谷が続く。日本の滝百選の一つ。
〇鮎返りの滝
南郷谷を流れる白川の下流、黒川と合流する地点の1㎞ほど上流にあり、滝の高さ約35m、幅9~30m。造瀑層はカルデラ形成直後頃と思われる玄武岩溶岩(鮎返り溶岩)で、滝の上流側には同溶岩の岩盤河床、下流側には深い渓谷がある。

栃木(とちのき)温泉と幻の温泉郷戸下温泉

栃木温泉は鮎返りの滝を望む江戸時代から続く阿蘇地方の老舗温泉の一つである。
その1㎞近く白川の下流、阿蘇の入り口、黒川と白川の合流地点に、栃木温泉の泉源を引いて、阿蘇山麓温泉として明治15年(1882年)に開湯されたのが戸下温泉である。
滝の真下なので「とした」と呼ばれていた。立野渓谷の谷底にあり、そこに下るには立野から白川沿いにくねくねと下って行き、黒川橋を渡りまたくねくねと登り返す「七曲り」「戸下九十九曲がり」と呼ばれる交通の難所であったが、故長野一誠翁の努力により漸次発展し、明治以降、県内3大温泉の一つ戸下温泉・碧翠楼として名を馳せていった。
阿蘇山に登り、日本アルプスをヨーロッパに紹介したウオルター・ウエストン(明治23年1890)、あるいは夏目漱石(明治32年1899)や、更には与謝野鉄幹・晶子ら多くの文人も訪れ、この温泉でその身を癒したという。
また辛亥革命の立役者孫文は日本亡命中の明治33年、一か月余り栃木温泉(小山旅館) に逗留したという。

戸下温泉はその後立野ダム建設に伴い閉鎖され、平成5年(1993年)に長陽大橋が架設されてその大橋の真下になり、幻の温泉郷となった。

ミニ知識

阿蘇の自然と人々の暮らし

阿蘇火山は27万年前から9万年前の間に4回の巨大な噴火を繰り返し、現在の九州が形成され、阿蘇のカルデラ、中央火口丘の五岳(高岳、中岳、根子岳、杵島岳、烏帽子岳)と外輪山が形づくられた。
日本列島が大陸と地続きになった時期もあり、阿蘇にはそのころの貴重な植物も残っている。
中央火口丘は、火山特有の荒涼とした高岳・中岳と、草原の優美な姿形の杵島岳、往生岳、米塚等の対照が、また形成年代的にも最も古い根子岳から最も新しい米塚まで、その対照の妙が際立つ。
さらに外輪山も、1000年以上に及ぶ野焼きによって牧野が維持されてきた北外輪山と、アセビ、ブナやカエデなどの自然林が多い南外輪山との態様の違いのように、阿蘇という一つの地域に多様性を有するのも興味深い。
いまは阿蘇くじゅう国立公園として、火山活動が平穏な時は火口が真近かに覗き込める稀有の火山として観光客にも知られている。
また阿蘇火山の、地域の人々に与える影響は極めて大きいものがある。
カルデラ内に暮らす人々は、噴火や盛んな火山活動の度に火山灰等の被害に苦しめられている。
また痩せた酸性土壌で高冷地のため、農耕作物も他の地域に比して収量は多くなく、野焼きによって牧畜を生業とする傍ら、江戸期には寒冷地の米作りを視察し、今に至る早期栽培法を習得したりしている。
常に厳しい自然と対峙しながら環境に適応し生活してきた。
カルデラ内は外輪山に阻まれた一種の閉鎖区間であるが、時代とともに外部との往来、峠越えの道も増えてくる。
江戸時代には参勤交代路として阿蘇谷を豊後(肥後)街道が通じ、宿場や温泉街を発達させた。
現在では稲作や牧畜、高冷地を利用した野菜園芸等のほか、温泉や豊かな自然を生かして、観光や地域おこし等の様々な取り組みが行われている。

野焼きと阿蘇の希少植物

北外輪山をはじめ、阿蘇の原野では広範囲にわたり千年にも及ぶという野焼きが行われてきた。

野焼きは本来放牧採草を目的とするものであるが、それによって森林化が阻まれ草地が維持されることによって、大陸系の希少動植物が生き残り、阿蘇独自の生態系を維持している。
オオルリシジミ、ヤツシロソウ、ハナシノブをはじめ、ミヤマキリシマ、サクラソウ、キスミレ、ツクシマツモト、オキナグサ等、季節ごとに登山者の目を楽しませてくれる。
地域では景観のみならず、生物多様性などの維持保護を目指して世界文化遺産登録を目指す取り組みが進められている。
近年牧畜農家の減少や種々の開発など時代の変化とともに野焼きの継続が危ぶまれており、輪地切といった防火帯づくり、火引き(火入れ)などの危険な作業も含め、地域の農家だけでなく多くのボランティア活動の支援を受けて行われている。

南郷往還北向山ルートにおける自然観察トピック

2023年10月12日、北向山の西側(西原村)県道28号から北向山の山域へ踏み込み、町村境界を北へ抜けて大津町へ入り込んだ後、そのまま北向山の北側山腹(概ね標高400m~640m)を南阿蘇村側まで、山頂を通過することなしでトラバース的に歩いた。
一部山域が「阿蘇北向谷原始林/国の天然記念物に指定」とも呼称され、植物相ほか自然環境については熊本県のHPでも紹介されているので、本稿では割愛させていただく。
北向山は全体的に見て、スダジイやウラジロガシなどの多い照葉樹林の山であり、低木の少ないせいで林床は比較的明るく、また、俵山バイパス両端側の踏み跡が明瞭な箇所において、「チカラシバ」、「ナガバヤブマオ」、「ヒメバライチゴ」、「コアカソ」の4種が圧倒的な群生又は他種に優占するほど繁茂している。
次に、この南郷往還北向山を歩いて仰天したトピックを記してみたい。
北向山山頂の北西約440m(水平距離)、標高520m地点周辺は山腹の崩壊が著しく、これまでの度重なる風雨に晒され、また平成28年の熊本大地震の影響もあったであろうと推測されるが、土砂が流出して裸地化荒廃してしまっており、昔は人々が往来していたであろう踏み跡はおろか、その風情すら皆無である。
そのようなザレ・ガレ状の石礫地に立っていられる樹木は少なく、当該山腹では唯一ケヤマハンノキ(カバノキ科)だけが林立し、その樹下にはナギナタコウジュほか僅かな種の草がか弱く生えているだけである。
元々カバノキ科の樹木は、自然災害地や林道開削地などに生じやすい先駆(パイオニア)植物であるが、他の樹木が一切見当たらないのもまた珍しい。
仰天したのはそのことだけではなく、この木の葉を食べまくるおびただしい数のヒラアシハバチ(ハバチ科の昆虫・ハンノキハバチかも?)の幼虫と遭遇したことである。
ステップを少し斜めに切りながら傾斜地を電光型に進み上がろうとするとき、ザレに流されまいとして、バランスを保つためケヤマハンノキに手を掛けずにはいられないのだが、葉だけでなく幹や枝にもヒラアシハバチの幼虫がウヨウヨしていて、どうにも困ってしまった。頭は黄色で体は黄緑色、全身縦に黒い斑点があり、何ともおぞましい姿である。おまけに尻をくねくねさせて鯱(しゃちほこ)のような形で眼前を動き回られると気分が悪くなって仕方がない。


ヒラアシハバチの幼虫はもっぱらカバノキ科の葉を食べて成長していくようだが、北向山には二度と訪れたくない気分にとらわれる強烈な経験であった。(戸上貴雄)

熊本地震

2016年4月14日、16日、震度7の揺れが28時間以内に2度発生するという歴史上例を見ない大規模災害であった。
276名の尊い命が奪われ、負傷者2738人、20万棟近くの家屋被害が生じ、熊本のシンボルである熊本城も大きく傷つき、雄大な景観を誇る阿蘇地域もいたるところで土砂災害が発生し、幹線道路が寸断されるなど甚大な被害を受けた。この経験を教訓として、県内各地に点在する遺構を巡る「熊本地震記憶の回廊」が整備されている。

まつわる話

「立野」の由来

その昔、阿蘇谷や南郷谷は外輪山に囲まれた大きな湖であった。伝説によれば、この湖の水を流し出し、人々の住む村や田畑を拓いた神様は健磐龍命(たけいわたつのみこと)といわれている。
祖父である神武天皇の命を受け、九州の中央部を治めるために阿蘇山へ来た健磐龍命は、外輪山の東の端から目の前に広がる湖を眺め、この水を流し出して人々の住む村や田畑をひらくことを考えた。
そこで外輪山の一部を蹴破ろうしたが、一度目に挑戦したところは山が二重になっていて蹴破れなかった。
以後その場所が「二重(ふたえの)峠」と呼ばれるようになった。
少し西の場所で再度挑戦すると今度は見事に蹴破ることができたが、そのはずみで健磐龍命はしたたか尻餅をつき暫く立ち上がれなかったとか。
そのとき「おお、立てぬ」と叫び、以後その場所は「立野(たての)」と呼ばれるようになったといわれている。
また蹴破った所からは湖水が一気に西の方に流れ出て、数匹の鹿が流されてしまったことから、以後「数鹿流(すがる)ヶ滝」と呼ばれるようになったという。
水が引くと湖底から巨大なナマズが現れ湖水をせき止めていたので、健磐龍命は刀でナマズを切り、ようやく湖水は流れていった。ナマズが流されて有明海に流れ着いたと伝えられる所は「鯰」(嘉島町鯰)と呼ばれている。

立野台地の開拓

万治元年(1658年)に立野は大きく変化する。それまで高49石、5軒の立野台地の知行主は家老米田家であった。
米田家は細川家が肥後領主になるずっと前からの家来で、世襲で家老を務め、八代城主松井家とともに細川家由緒の長岡姓を許され、歴代隠居後は長岡監物を名乗った。
山も田畑も藩主の所有でその中から家来に知行を与えたが、細川藩はそのほかに士分の者が開墾した土地に限り、「御赦免開き」として私有を認めた。
藩も家来も百姓も競って田畑、特に水田を広めようとした。
しかし「士」は城下にあって藩の行政を司り、定期的な軍事演習に従事するのが任務で、山野の開墾などはできない。そのため実際は百姓が新しく開墾適地を探し、主人に当たる知行主の名で開墾を願い、開墾後の収穫は知行主と分けるという方法をとるのが普通であった。
立野村の知行主米田家は、立野の傾斜地と数鹿流ヶ滝の上流の黒川の水に目を付け、堰を設け立野の上部まで井手を通し、立野斜面全体を水田化しようとした。多数の人手を要する大事業である。僅か5軒の者ではとても開墾できない。
当時まだ藩内には、主家が潰れて浪人になった者の子孫が多数いた。加藤家、小西家、阿蘇家、大友家などの浪人や、近在の二、三男を募り、藩が城下町熊本の周囲や国境に置いた鉄砲隊と同じ「地筒」の身分を与え、米田家の家来として井手開削、水田開墾に当たらせた。
藩主の直接の家来ではないので「御家中地筒」といった。
この地筒たちの努力で傾斜の急な立野に棚田群が出来上がり、「監物井手」の名が残った(瀬田村郷土資料より)。

「比丘尼谷」の由来

慶長の頃、元菊池家の浪人大島信右衛門は、立野の地を永住の地と定め荒野を開墾し農業を営むうちに世はいつしか太平に帰した。当時荒れ地であったこの地を藩家老米田家(長岡監物家)から賜り、四方の浪人を集めて一村を治め、庄屋を命ぜられた。立野村の起こりといわれる。
聞き及ぶに村の西方の谷間の洞穴に一群の盗賊が住んでいて、昼夜出没し近隣の村民や往来の旅人を悩ましていた。
捨て置けずとして5,6人の浪士を引き連れその岩屋に至り、賊の朝食時、一発の銃声を合図に急襲し平定したが、物音なき窟の奥から山窟の統領が、部下の敵とばかりに薙刀を閃かして現れた。
悪漢かと思いきや、未だ妙齢の比丘尼、一同その女なるを見て侮り、如何程のことあらんと打ちかかると以外にも女の優しさにも似ず、その身体は飛鳥のごとく、目にもとまらぬ早業にて一進一退、討手の人々、皆受け太刀となり、窟の外に押し出された。
その機に賊魁比丘尼は窟を飛び出して峰伝いに走りゆくところ、逃がしてはならじと用意していた種子島の短筒にて仕留めた。今なおその山窟は残り賊魁の名をそのまま比丘尼谷という(瀬田村郷土資料より)。

現在はJR豊肥線、国道57号、県道が隣接してこの谷を鉄橋で渡るが、長い間この狭い急峻な谷に通行が阻まれていた。車での通行が可能になったのは明治18年と伝えられる。
以来、立野は熊本と阿蘇を結ぶ大動脈として交通の最大の要衝となっている。

ルート

大津町外牧 外牧神社:標高160m(南郷往還北向山ルート西の入口)
3.5㎞    ↑ 50分   ↓60分
岩戸神社上の林道:標高400m
2.2㎞    ↑ 60分   ↓70分
南郷往還三差路:標高510m
2.0㎞    ↑ 100分  ↓110分
南郷往還出合い:標高610m
2.5㎞    ↑ 70分   ↓60分
南阿蘇村河陰 宝来宝来神社入口:標高450m(南郷往還北向山ルート東の入口)

アクセス

・熊本市より国道57号線を東進して大津町に至る。またJR豊肥本線肥後大津駅から、いずれかの県道を南進して白川右岸の県道207号線を東進し、県道208号線で白川左岸に渡って県道145号線に至り500m程東進すると、南郷往還北向山ルート西の入口大津町外牧、外牧神社に至る。
・九州自動車道熊本ICから白川左岸の県道145号線をまっすぐ東進すると大津町外牧。
・九州自動車道益城くまもと空港ICから県道第2空港線、県道28号線を東進すると20㎞余で俵山トンネルを抜け、南郷往還東の入口南阿蘇村河陰宝来宝来神社に至る。

参考資料

長陽村史編纂室編「長陽村史」長陽村
久木野村教育委員会「久木野村史」久木野村
白水村史編纂委員会「白水村史」
「瀬田村郷土資料」
熊本県教育会阿蘇郡支会編纂「阿蘇郡誌」臨川書店

協力・担当者

《執筆者》
日本山岳会熊本支部
中林暉幸
(植生)戸上貴雄
《調査担当者》
(熊本支部会員):中林暉幸、三宅厚雄、池田清志、城戸邦晴、田北芳博、戸上貴雄、千々岩泰子
《協力者》
大津町教育委員会
南阿蘇村教育委員会
郷土史家児玉史郎氏
栃木温泉小山旅館

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