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24 万世大路 栗子峠

万世大路 栗子峠

万世大路は、文明開化期の明治14年、福島と山形を結ぶ「荷馬車が通れる道路」として新たに切り開かれました。
明治9年に山形県令の三島通庸と福島県令との協議が整い、当時世界最新鋭の米国製蒸気エンジン削岩機一台を導入して、「栗子山隧道(全長876m)」を貫通させ、また福島県側では「二ツ小屋隧道(全長333m)」を手鑿(のみ)で掘り進めて開通させました。
万世大路の名は明治14年10月、明治天皇の東北・北海道行啓に際し、当地を御通行になられた天皇から「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」との願いを込めて命名されたものです。
開通後は宿駅ほか巡査駐在所を建設するなど通行の安全を確保して賑わいましたが、明治32年の国鉄奥羽本線開通、昭和41年の国道13号線開通により廃道となりその役割を終えています。

古道を歩く

万世大路は、福島市上町から大滝宿を通り二ツ小屋隧道、栗子隧道を越えて山形の苅安に至る道の総称で、明治14年10月に開削された。実質、大滝宿(現在は廃村)までは自動車道が整備され、そこまでは車での移動となる。よって古道を歩く場合はこの大滝集落跡が起点となる。
<福島県側>

<1日目> 大滝宿からアーチ橋の新沢橋を越えて、最後七曲りを経て二ツ小屋隧道まで

万世大路開通時、明治天皇が立ち寄られお休みになった茶屋跡に、それを示す「鳳駕駐蹕之蹟」の石柱が建てられている。ここが起点となる。
歩き出してすぐ頭上に、現在の万世大路である国道13号線の橋梁があり、仰ぎ見ながら西川橋を左折して、草の生い茂った道を進む。道は草で歩きにくいがしっかりと残っている。

大滝第二トンネルを巻くように進む。ここは岩崖の崩落地帯となっており危険なため、左の沢に注意して慎重に通過する。
ほどなくして大滝第二トンネル西側出口を、車に注意して横切る。
古い石垣の残る沢を渡り、国道右側の擁壁脇を600mほど進む。

すると眼前に大きなアーチ橋が見えてくる。これが昭和期(昭和11年竣工)に建造された新沢橋だ。当時の技術の粋を集めた橋である。
ここから150mほど沢沿いに北上すると、明治期の旧新沢橋梁の橋桁が残っているので見に行こう。開通した当時はこちらが正道であったが、橋が崩落したため新アーチ橋ができた。

新沢橋からほどなく行くと、森元巡査殉職の碑の前に着く。当時二ツ小屋隧道手前に駐在所があり、傷害事件の被疑者を飯坂署に護送した帰り道に、吹雪の中で遭難した森元巡査を弔った慰霊碑で、毎年慰霊祭が行われている。

ここを過ぎると道は大きく2回ほど蛇行しながら登ってゆく。
一つ目の左カーブに分岐点があるが、ここを右に進むと、先ほど見た明治期の旧新沢橋道へと続く。しかし道は途中崩落していて非常に危険である。
林道をさらに蛇行しながら進むと、右手に階段があるが、ここが森元巡査が遭難された場所で、以前はここに慰霊碑が建てられていた。(現在は台座のみ)
ここから30分かけて、沢を3つ越えると、国道13号東栗子トンネル手前から上がってくる連絡林道と交わる。
昭和期万世大路はこの道なりに行くが、明治期万世大路はここから七曲りという7段の道をつづら折りに上がってゆく。現在は木が覆いかぶさりかろうじてわかる段状の道を進む。
カーブの随所には、当時の道路境界杭が打たれているのが確認できる。

この道を抜けたところが今日の目標地点の二ツ小屋隧道となる。

 

<2日目> 二ツ小屋隧道から大平集落跡を経て栗子隧道福島県側坑口まで

二ツ小屋隧道を抜けるといったん50mほど下り、烏川橋を渡る。渡ると道は西へと方向を変える。
やがて烏川に別れを告げ、崖の急峻な道をつづら折りに越えてしばらく行くと、明治期の宿場町であった大平集落跡に着く。現在は原野になっており、見る影もない。
この先で道が崩落しており注意して進む。
すぐ先の頑丈なコンクリート橋の大平橋(昭和9年竣工)を越えると視界が開け、周りの山々も雄大に見えてくる。さらに進もう。

コンクリート橋を一つ渡り、ここまでくれば栗子隧道福島県側東坑口はまもなくである。
滑谷沢の源流部をジグザグに上り詰めてゆくと、やがて隧道入り口が見えてくる。
栗子隧道は途中で崩落しており通り抜けることはできないが、トンネル内を400mほど進むと福島県と山形県の境界銘板をみることができる。現在は立入禁止となっている。

<山形県側>

<3日目> 苅安地区にある米沢砕石㈱の敷地内にある旧万世大路入り口より栗子隧道山形県側坑口まで

米沢砕石㈱の事務所で入山ノートに記入し出発する。
瀧岩上橋がスタート地点となる。
出発してすぐ、明治泉の石碑が目に入る。ここで明治天皇が休憩を取られ、水を飲まれたという。
この先で、1から7までのむずり(まがり道)を通りながら道は続く。
1のむずりにはすぐそばを小屋場ノ沢が流れている。
2のむずりからは長坂と呼ばれる直線の道が登っている。
疲れてきたころに3と4のむずりがあるが、昔はその間に太助茶屋という休憩所があり一服したようである。
5のむずりの先では、当時をしのぶ石積みが確認できる。
6~7と最後のむずりを越えてゆくと、石積みとともにコンクリートのもみじ橋があるが、いずれも昭和の大改修のものと言われている。

やがてS字カーブの肘曲がりを越えると、山を掘り削り、切り開いた切通しを通過する。
しばらく眺めの良い開けた道を進むと、整然と積まれた大きな石積みがあるが、よく見ると石積み部分とコンクリート部分に分かれている。いずれも昭和大改修のものであるが、後で補強したものという。
ここまで来ると栗子山とその稜線も見えてきて、いよいよ栗子隧道に近づいてきたことを感じさせる。

出発地点から3.5kmの大曲を越えると、栗子隧道の最終地点に到着する。
栗子隧道山形県側には坑口が2つある。右の朽ち果てようとしている坑口が明治期のもので、手彫りの跡が生々しい。

奥で昭和期のトンネルと合流しているが、崩落していて通れない。
昭和期のトンネルは福島県側と一直線に繋がれている。

この古道を歩くにあたって

この道は、大滝宿から二ツ小屋隧道までは、杣道と林道の交錯する道となり、藪漕ぎもあり歩きにくい。
大滝第二トンネル西側出口手前の崩落部分は、注意すれば歩くことができる。
新沢橋から先はかろうじて道の跡が残り、森元巡査殉職慰霊碑から先、二ツ小屋隧道を経て栗子隧道福島県側までは、昭和初期自動車道として整備されて以降は林道として古道が残っているため、容易に到着できる。
ただし栗子隧道は山形県側で崩落しており通行不可。
山形側の古道入り口は、現在米沢砕石(株)の敷地内を通過するので事務所で入山許可を取った後に古道に入る。
こちらはしっかりした林道があり山形側の隧道入り口までは安全に行ける。

古道を知る

萬世大路の歴史

福島と米沢を結ぶ道として最も短い板谷峠越えの道は、大変険阻であった。
伊達政宗が八丁目以南へ出陣する際の拠点である大森城へ最短で到達でき、上杉氏もまた、参勤交代や廻米ルートとして利用していた。
出羽国の大名のうちここを利用したのは上杉氏だけで、他藩は遠くても七ヶ宿ルートを利用したことからその厳しさをうかがい知ることができる。
明治時代になって、殖産興業・富国強兵を国是とした近代国家日本としては、福島から馬車・荷車で原料・製品を大量輸送のできる新道の建設が急務だった。明治14年9月、当時の三島通庸山形県令と山吉盛典福島県令による上申書で、板谷峠は馬車の通行が不便容易ならざるものであるため、第4のルートとして福島~中野~大滝~苅安~米沢に達する新道建設が報告されている。
明治9年から本格的な現地調査が行われ、翌10年6月30日に起工式が行われ工事が始まった。
工事は福島側(中野新道工事)と米沢側(苅安新道工事)からと両側から進められ、中野新道工事区間は約30kmで、福島県側には、高平隧道(139m)、大桁隧道(28.8m)、二ツ小屋隧道(350m)の工事と、最大の難工事となった栗子山隧道(867.6m)があった。栗子山隧道の掘削は当時最新鋭の米国製蒸気式削岩機を導入し、日本はもとよりアジアに例を見ない長大隧道建設工事となった。
道路造り、隧道工事も大変な工事だったが、鉄道も自動車もない当時の交通は徒歩か馬・馬車であったため、福島から米沢まで通し一頭の馬が荷物を運ぶこともできない。
江戸時代のように各所に宿駅を設け、馬を交代させ荷物を付け替える必要があった。
新たな宿駅にはそこで仕事をする人々を移住させ、その住人には耕地や宅地山林を付与し、家作についても手厚く世話をして、永住出来る目途をつけるようにしている。
宿駅のうち特に二ツ小屋隧道と栗子山隧道の間の大平宿は、山間寒冷地のため耕地収穫は見込めず、生活が非常に困難な地であることから、移住者には、家作料手当120円、建築費坪6円や牝馬1頭の貸与などの優遇措置を設けた。

当時宿駅は、福島県側では堰場、大滝、大平宿の3ヶ所に置かれていた。
東北・北海道巡行の帰路、明治14年10月3日、米沢を馬車で出発した明治天皇は、途中駕籠に乗り替えて嶮岨な板谷峠を越え、栗子隧道西口で開通式に臨まれた。
山形県令の三島通庸の「庶民通用開業ノ典ヲ挙行スル」の宣言と共に花火30発が打ち上げられ、式典が開始。
明治天皇は明治15年2月9日にこの道を「萬世ノ永キニ渡リ人々二愛サレル道トナレ」の意を込め、萬世大路と命名されている。式典後は栗子・二ツ小屋隧道を通り、二ツ小屋隧道東口で小休止を取られた。
隧道東口付近には、それを記念して建てられた「鳳駕駐蹕之碑(ほうがちゅうひつのひ)」と、工事の無事を祈って建てられた「山神」の碑がある。
また、その先の大滝宿や円部集落にも小休止された場所を示す同一碑が建てられている。

時は過ぎ、明治32年、奥羽本線が開通すると、牛馬車や徒歩による通行を想定していた万世大路の交通量は激減し、メンテナンスも疎かになり、途中の宿駅も寂れていった。
さらに、大正時代を経て昭和時代になると自動車が普及し始め、きめ細やかな輸送のできる自動車が通行できる道路の必要性が高まった。
折からの不況による失業者対策の必要もあり、昭和8年に「時局匡救土木事業・国道五号万世大路改良工事」が始まった。これまでの2m程の幅員は7mの砂利敷きとなり、ほとんどが素掘りだった二ツ小屋隧道と栗子隧道は、コンクリート巻立てとし、隧道内の路面はコンクリート舗装となり、曲線部と勾配を緩和させ、自動車の対面通行が可能な道路となり、昭和12年に竣工した。
しかし、大型バスでここを通過する際のすれ違いが厳しく、昭和38年ごろには、国道13号線の改修工事が始まり東・西二つの栗子トンネルを造り、高速交通時代にマッチした新しい米沢街道は「栗子ハイウェイ」と呼ばれ、昭和41年に竣工した。
現在では、平成29年①米沢街道②万世大路③新万世大路(五号国道改修)④栗子ハイウェイに続く道路として、5代目の東北中央自動車道路(福島―米沢間)が開通している。

深掘りスポット

「殉職警察官の碑」(森元巡査殉職碑)

明治21年(1888年)1月5日、旧万世大路における森元源吾巡査の遭難は万世大路に関わる悲劇の逸話として、また警察官のあるいは公務員のあるべき姿として長く語り伝えられるべきものとされ、現在でもその慰霊祭が執り行われている。
森元巡査は当時、福島警察署飯坂分署二ツ小屋駐在所に勤務していた。

1888年1月4日に被疑者(事件内容については記録がなく不明だが、殺傷事件との伝承がある)を逮捕して飯坂分署に来署。翌5日に出署し帰任の途に着いたが、10日になっても二ツ小屋駐在所に帰所せず、遭難の可能性が高いということで90余名の捜索隊を編成し、捜索が開始された。
沿道はもとより付近一帯の山中まで捜索したものの、2m余りの積雪に阻まれ発見することはできなかった。
その後、若葉が萌え出る5月1日に信夫郡中野村字石小屋地内の山中で、雪の下に横たわる森元巡査の遺体を発見した。享年41歳7月であった。
二ツ小屋駐在所の位置づけは、特に集落のある場所に設置されていたわけでなく、幕藩時代の関所のような役割を果たしていたのではないだろうかとの見方もある。万世大路は開通当時賑わいを極めており、有事の際の検問所として設けられたものであろう。
駐在所から二ツ小屋隧道をくぐり、約3km先の米沢側には大平駅(集落)が、約5.5km手前の福島側には大滝駅(集落)があって、それぞれ旅客荷物の中継点として栄えていた。そのような重要な地に駐在所はあったのだが、この地は急峻な山に囲まれた豪雪地帯であり、その勤務には非常に苦難が伴った。

二ツ小屋隧道氷柱探索

例年、1月から2月にかけて、万世大路福島県側に位置する二ツ小屋隧道には、トンネルから染み出した地下水が凍り付きつらら状の大氷柱が出現する。まさに氷の宮殿である。
天井からはつららが垂れ下がり、地面には氷筍がタケノコのように成長し、大きいところでは大氷柱と化す。
隠れた観光スポットであったが、現在ではネットの普及でその存在が知られ、多くの人たちが訪れる人気スポットとなっている。
<注意事項>
令和5年には、トンネル内で転倒事故が発生しており、ヘルメット、ヘッドランプ、アイゼンの装着は必須である。
また氷には絶対触れない、なるべく氷からは離れて鑑賞すること。
またここは豪雪地帯でもあり、隧道までの行程もスノーシュー、ワカンの装備、防寒対策等、冬山装備は必須である。
また、夏の駐車スペースは、積雪期は除雪ステーションとなるため利用できない。
現地を知るガイドが開催するツアーに参加されることをお勧めする。

ルート

1日目

大滝宿からアーチ橋の新沢橋を越えて、最後七曲りを経て二ツ小屋林道まで
大滝集落
↓ 大滝第二トンネル西側
↓ 新沢橋アーチ橋
↓ 明治期新沢橋橋脚
↓ 森元巡査遭難殉職の碑
↓ 明治期新沢橋橋脚
↓ 森元巡査遭難現場
↓ 明治期七曲り起点(栗子トンネル連絡道合流点)
二ツ小屋隧道福島側坑口
<コースタイム 行き3時間20分  帰り3時間00分>

2日目

二ツ小屋隧道から大平集落跡を経て栗子隧道福島県側坑口まで
二ツ小屋隧道
↓ 明治期新沢橋橋脚 烏川橋
↓ 明治期新沢橋橋脚 大平集落跡
↓ 明治期新沢橋橋脚 大平橋
↓ 明治期新沢橋橋脚 コンクリート橋
栗子隧道福島県側坑口
<コースタイム 行き2時間40分  帰り2時間10分>

3日目

苅安地区にある米沢砕石㈱の敷地内にある旧万世大路入り口より栗子隧道山形県側坑口まで
米沢砕石㈱
↓ 明治期新沢橋橋脚 瀧岩上橋
↓ 明治期新沢橋橋脚 明治泉
↓ 明治期新沢橋橋脚 小屋場ノ沢
↓ 明治期新沢橋橋脚 太助茶屋跡
↓ 明治期新沢橋橋脚 もみじ橋
↓ 明治期新沢橋橋脚 切通し
↓ 明治期新沢橋橋脚 大石積み
栗子隧道山形県側坑口
<コースタイム  行き1時間40分 帰り1時間20分>

アクセス

どちら側からも基本的には公共交通機関はなく、車での移動となる。

福島県側

福島より国道13号線より米沢に向かい中野第2トンネル出口から500m先を右折し、道なりに旧大滝部落へと進む。しばらく進むと廃村があり、そこが古道の出発点となる。

山形県側

東栗子トンネル、西栗子トンネルを抜けて米沢スキー場を越える。栗子橋を渡った先にある「万世大路栗子隧道入り口」の標識を右折。その先に米沢砕石㈱があるので、事務所で入山ノートに記入し指示に従い入山。

参考資料

「殉職警察官之碑(森元巡査殉職碑)について」大滝会特別会員鹿摩貞男氏(万世大路研究会)
「万世大路の歴史」守谷早苗氏
二ツ小屋隧道保存会会長 鈴木信良氏より資料をいただきました。

協力・担当者

《執筆者》
日本山岳会 福島支部
佐久間隆夫
《協力》
歴史の道土木遺産萬世大路保存会総務部長 金子利貞氏

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