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28 会津街道 諏訪峠・鳥井峠・車峠・束松峠
会津街道の中で特に険阻といわれていたのが諏訪峠(518m)です。
峠は阿賀町角島と同町行地の境界になっており、現在の阿賀町が成立する以前は、当時の津川町と三川村の境界でした。峠入り口付近には、一里塚が一対の完全な姿で二つ残り、かつ石畳の道も阿賀町により整備されています。
諏訪峠の由来は、元々犬吠峠と言いましたが、応永9年(1402年)新宮氏との戦の時、諏方明神が現れ、蘆名氏の勝利を告げたので、蘆名氏は同社を勧請して峠の名前を改めたといいます。
峠は一昔前の岳人たちのスキー場でもあり、峠から西側1km辺りの白髭山(657.4m)は残雪期登山の対象となっています。
また、鳥井峠は、福島県西会津町宝坂から阿賀町八ツ田までの旧会津街道の峠です。
現在は国道49号線が八ツ田集落の入り口から別ルートで新設されたため使用されなくなりました。
惣座峠は旧津川町八木山集落までの約3kmの旧道(会津街道)です。
八木山は会津街道の駅所の一つであり大名通行の際の休憩地として使われていました。
(出典:「越佐之地名」第6号より部分転載)
行地(ゆくち)から諏訪峠を歩き、角島へ降りるルートを紹介します。
標高120mほどの行地部落の辻から先の坂を左手に進むと、白い車庫脇に会津街道の標識があります。
幅3mほどの道が杉林に向かっています。切土の道を通過。
完全に一対がそろっている、行地の一里塚が出てきます。案内板は一部消えかかっている。
杉林と広葉樹林帯の間に平坦な道が通っています。時々分岐が現れますが、標柱の側が古道です。
小沢の中、笹をかき分けて中ノ茶屋跡に出ます。案内板も消えて、椅子も苔むし座れる状態ではありません。
次に現れるのは、殿様街道の大ブナ、参勤交代の途中の休み場です。いつもは籠の殿様も諏訪峠は徒歩との記録があります。
林道交差点では、林道を左右に見て送電線に沿って登ります。
峠に近くなるにつれ周囲の明るさが増し、ススキをかき分けると諏訪峠に到着します。
まず目に入るのが松陰の詩碑、その後ろに東屋がありますが、朽ち始めており雑草の中です。多分茶屋跡に建てたものと推定する。井戸もあった筈だが?
舗装された管理道路を下りにかかります。白髭からの派出した尾根を眺めながら進みます。
左手に石垣を確認。斜面を切り崩した補強の為か?
角島側の最初の旧道に入ってしばらくすると、石畳が幅2m程度で現れます。
管理道路は、カーブを設けて設置され、左右の段丘に注意しながら歩きます。
現れた柳新田の一里塚は、草が刈りはらわれて、綺麗な状態が確認できます。江戸時代始めからの街道の整備により、一里(3.9km)毎に造られ、会津街道には三カ所(行地、柳新田、福取)が現存しています。
角島側は杉林が無いために明るく、コナラ、クヌギ、栗と広葉樹林の雑木林となっています。
草藪の中の、平坦な細い道となります。
槙沢川の支流を渡り、倒木をくぐり抜けると柳新田の集落は近く、左手に餅倉山、兎ケ倉山方面の展望が開けます。
今は3軒の集落です。猪の掘り返しが散見されます。芝生の街道を進むとお屋敷から奥様が出てきて会津街道について教えてくれました。ガイドの経験もあり、蛭対策も教えてくれました。
古道は、三川温泉スキー場へ行く道のガード下を通過して石畳になります。
ここが道心坂で、このあたりから保存は進み、旧会津街道石畳の道4000mを五カ所に渡って歩く事になります。
各々の入り口に標柱が立っています。(上部から、NO5:500m、4:290m、3:150m、2:320m、1:140m)
NO.4区間には地元の人が切腹石と呼ぶ岩があり、近くには清川高原保養センター(温泉)があります。
最後に草藪に入り、杉林の古道らしき所を抜けると、前方に田圃が見えます。
そこを目指して堀を越え、田圃のあぜ道を阿賀野川方面へ行くと、追分の史跡に到着します。
小高い杉の木の脇に馬頭観音、湯殿山、地蔵様、追分道標があり、(右新発田、村上道 左水原、五せん、小川通)と刻まれています。
後は阿賀野川沿いに津川駅までの道を行きます。
福島県西会津町宝坂側の鳥井峠入口で身繕いをし、R49を後にして、草に覆われた舗装道路を歩きだします。
途中で金網に囲われた水道施設があり、道を離れ、上にある会津街道へ草を分けつつ登ります。
宝川から来る本来の鳥井峠旧道に至ります。
峠への道をしばらく進むと径はなくなり、右手に峠の看板が見えてきます。
木の枝つかまりながら崖を降り鳥井峠に到着。
峠の茶屋跡を過ぎると、一枚の道路標識が天高くつり下げられています。
表示は、「平168.9km 野沢17.0km 福島県」と三段に記されています。福島県設置の道路標識看板です。
右手に「馬頭観世音」の石柱があり、明治39年旧7月21日、施主山口善一と刻されています。
新潟県阿賀町の八ツ田(やつだ)集落に至ります。現在八ツ田集落19軒。その昔は25軒ほど在ったとか。
八ツ田集落から下を見ると国道49号線が通り、車は坂道を轟音を立てて走っています。
この高台の集落から北側方角を振り向くと、好天のなかで真っ白くなった大日岳と飯豊山が見えていました。
現在鳥居はありませんが、きっと過去に鳥居があったので、この辺りから見上げると信仰の対象の綺麗な飯豊連峰が見えることから鳥井(井を使う訳は不明)峠といわれたのではないでしょうか。
高台から右手の坂を下りると国道49号線、真っ直ぐ登ると惣座峠への径、その左手に「熊野神社」の鳥居があり、神社への石段は相当な急勾配で苔むし、登りより下りが怖そうな石段が天空まで続いているようです。
上の堤へ向かう坂道の登り口に「飯豊山」反対側に「鳥井○」と彫られた二本の木製の標柱がありました。
これが鳥井の跡でしょうか。
水をたたえた堤を広葉樹や針葉樹が囲み、堤のなかに取水塔が設置され、鉄製の手摺りが廻されていました。
「八ツ田部落」「昭和11年」の石柱があります。
堤を廻ると堤尻から右側に緩く上がる、惣座峠への古道が出てきます。
古道を歩き始め、下りに掛かるとじくじくとして靴が埋まる道があります。
R49号に突き当たって横切ると、古道に入る土手から小川まで30m位が藪刈されていました。
こんな処を藪刈りしてくれる方がおられるのかと感謝の念が湧いてきました。
小川へ1.5m位降り、川幅約2.5m位の浅い川を石伝いに渡り、対岸へ上がります。
古道を西に向けて進み、途中から藪漕ぎして村道に出ます。
明るい広場から舗装道路を80mほど、緩やかに左カーブしながら登ります。
カーブの先の薄暗い杉林の左斜面に「福取の一里塚」の標柱あり、道路を挟んだ所にもう一基あり、二基一対の一里塚です。塚には植林の杉の木が植え込んであり、雑木が生えています。
「福取一里塚」の説明看板が昭和51年3月2日、津川町教育委員会により設置されていました。
会津藩が寛文7年(1667年)に築いたのではと記されていました。
ゆっくり歩いて間もなく福取集落に至ります。1660年代の福取集落は26軒で、現在は11軒です。
集落を過ぎ緩やかに登って行くと、間もなく杉と雑木の暗い惣座峠に至ります。
峠を緩やかに下ると、道には背丈より高いススキなどが濃密に生え、先が全く見えません。
足元には水が流れており、蔦や雑木の根がはびこって足をすくわれます。しかも距離が長くて、これを抜けるのは大変です。
行く途中の右斜面に、古い石積みやコンクリートによる土留めの擁壁が、何カ所か施工されています。
ようやく濃密な藪から抜け、電波塔のある砂利道の道路に出ます。
電波塔から藪が無くなり、ゆっくり下ると惣座峠出口駐車場所に到着します。
衣服についた草の実を身体から払い落とし、鳥井峠入山口へ車を取りに行きます。
諏訪峠は、一部藪化しているが、古道としては十分歩き通せる道である。
津川側は林道が設置され、古道を寸断する形になっており、古道を歩く際は左右をよく見て入口位置確認が必要である。また、その林道は乗用車も通行可能で諏訪峠まで楽に行ける。
季節により越後の山では、スズメバチ、蛭等も出没する。
会津街道は、若松城下(福島県)と新発田(新潟県)を結ぶ約92kmの街道です。江戸幕府からは白河宿(奥州道中)から会津を経て出雲崎へ至る「佐渡三道」の一つとして認知されていました。
本街道が他のルート(八十里越、六十里越)よりも発達した最大の理由は、阿賀野川の水運との接続にあります。陸路で津川まで運べば、そこから新潟湊まで舟運を利用できたため、会津の産米や蝋、越後の塩などが行き交う物流の要衝となりました。また、険しい峠はあるものの、他道に比べて牛馬の通行が可能な比較的安全な道であったことも、主要道として選ばれた要因です。
「殿様街道」とも呼ばれたこの道は、新発田藩や村上藩の定式路でした。天保15年(1844年)の記録、會津通御参勤「御道中日記案詞帳」によれば、200人超の供揃えが午前5時頃、6時半頃籠で新発田を出立し、諏訪峠を越えて夜23時に津川の本陣へ到着。7月18日に出立し10日間の行程で江戸へ向かいました。
宿場町も繁栄し、明治初めの「片門」には200頭もの駄馬が常駐し、物資輸送を支えていました。また、佐渡へ送られる無宿人たちの移送路としても、北国・三国街道に支障がある際の予備路として利用されました。
多くの文化人や歴史的人物もこの道を通っています。
文化11年(1814年)に新発田を訪れ、『諸国道中金鞋』に津川や綱木の宿「山がたや」の様子を記しました。
明治11年(1878年)、47歳でこの地を旅しました。『日本奥地紀行』の中で、車峠付近の悪路を「ぬかるみの連続」「よくも道などと言えるものだ」と辛辣かつ克明に描写しています。
吉田松陰や宮部鼎蔵も歩いており、後に山縣有朋は松陰の紀行文を参考に兵を進めたと語っています。
慶応4年(1868年)8月14日から15日の2日間、会津街道は戦火に見舞われます。赤谷では会津藩兵160名、農兵60名が新政府軍1600名、砲10門と激戦を繰り広げましたが、圧倒的な火力の前に諏訪峠を越えて津川へ退却。新政府軍(新発田藩、加賀藩、長州藩、芸州藩、薩摩藩)は15日に綱木・新谷の諸村を占領し、16日に阿賀野川河岸に到達しました。会津藩は渡しの船を全部収容し、渡河させず10日間川を挟んで激しい砲撃戦が続きました。
新政府軍参謀の山縣有朋は、阿賀野川を渡るため新発田から船大工を呼び寄せ、自ら諏訪峠を二度往復して舟を建造させました。この時、軍船のために木を切り出した跡が今も残っています。
8月23日には関東を進軍した奥羽先方総督が会津城下に突入。津川の本営で聞いた隊長、町野源之助は25日になって津川から兵を引き、会津城下に向かいました。山縣ら、新政府軍はようやく阿賀野川を渡る事が出来ました。
山縣は、“松陰先生の紀行文によりて兵を進むるは至難の事業なるべしと想像し悟りたるも、勝ちに乗じて官軍は敢えてこれを意図せず直ちに津川に至った。”と記しています。(「越の山風 山縣有朋従軍記」国会デジタル図書館(227~247ページ)より)
明治15年(1882年)、福島県令・三島通庸による「会津三方道路」の開削により、街道は車馬が通れる「四間道路」へと改修されました。明治20年8月31日の新潟新聞に、新潟から郡山までの乗合馬車の運行開業広告が掲載されています。新潟から郡山まで乗合馬車が運行され、新潟から2便/日で郡山まで、およそ8時間での客馬車通行が開始されていました(新潟~野沢間は人力車運行と記載もあります)。鳥井峠ではラッパの音と共に馬車が駆け抜ける活気ある光景が見られました。
しかし、大正3年(1914年)の磐越西線全通により、物流の主役は鉄道へと移ります。その後、昭和46年の国道全面改修を経て、かつての旧道は使用されなくなり、現在は地元有志による古道の保存活動が行われています。
新潟県阿賀町の津川は、江戸時代に会津藩の西の玄関口として、また阿賀野川の水運と会津街道が交差する要衝として空前の繁栄を極めました。
会津の産米や漆器が舟で新潟湊へ運ばれ、越後からは塩や海産物が届く物流の拠点であり、街道沿いには雪避けの屋根「雁木(がんぎ)」を持つ問屋や旅籠が軒を連ねました。当時の大曲(道を2度直角に曲げた枡形)も残っています。
今もその風情ある町並みは、伝統行事「狐の嫁入り行列」の舞台として大切に受け継がれています。
八木山(やけやま/やきやま)集落は焼山宿とも呼ばれ、大名行列の休憩所・宿として使われた本陣渡部家があります。殿様が籠に乗ったまま屋内に乗り込む「乗り込みの間」や「家老の間」が今も残っています。この家には十返舎一九、吉田松陰、宮部鼎蔵、高橋駒之助(会津寄合白虎隊、この地で戦死)、山県有朋、イザベラ・バード等が泊まっています。嘉永四年(1851年)の「判銭入」箱や「栄山村人馬次立所」の看板も残されています。
また本陣の隣には、旅籠屋「三条屋」「新発田屋」「吉田屋」などがありました。(本陣渡部家、三条屋は非公開)
家がみな高台に並んでいるのは、そこが狭い旧街道だったために、掘り下げて広げられたためです。
また、1kmほど西に行った449号線上には、享和元年(1801年)建立の「一リ石」が現存します。地形上一里塚を造れなかった為、石で代用したと思われます。
惣座峠に近い福取集落の東の入口に、完全一対の一里塚が道を挟んで残っています。
道路を挟んで反対側にも同じように一里塚が現存しているのは貴重で、特にその塚の間隔が23mと広いのが特徴です。
道路を掘り下げたため高い位置にあり、杉林に囲まれています。
一里塚とは里程標で、全国の諸街道に設置されるようになったのは江戸時代です。
慶長9年(1604年)、徳川秀忠の布令で、大久保長安が総監督となってスタートしました。
五街道における一里塚は、5間(約9m)四方の碗を伏せた小山状の塚の上に1本から数本の榎などを植えたものです。
江戸の日本橋を起点として、1里(約4km)ごとに一里塚が設置されました。
鳥井峠は越後国と陸奥国の境になります。
かつては飯豊神社の一ノ鳥居が峠にあり、「鳥居峠」と表記されていたといいます。
鳥井峠から少し八ツ田集落よりの右手斜面に馬頭観世音がぽつりと立っています。
「施主山口喜一郎 明治39年(1906)七月二十一日建立 旧」と刻んであるので旧暦だと9月9日。
日本山岳会設立の翌年の話です。
《阿賀町》
阿賀町郷土資料館
https://www.town.aga.niigata.jp/agamachi_soshiki/shakai_kyoiku/rekishi_bunkazai/373.html
阿賀町立図書館
https://aga.ceclib.com/
阿賀町観光協会
https://www.aga-info.jp/
阿賀町観光振興課
https://www.town.aga.niigata.jp/agamachi_soshiki/machizukuri_kanko/index.html
0254-92-4766
《新発田市》
新発田市立歴史図書館
https://www.histlib-shibata.jp/
新発田市立図書館
https://www.lib-shibata.jp/
新発田市観光協会
https://shibata-info.jp/
観光振興課
0254-28-9960
文化11年(1814年)秋に十返舎一九が、諏訪峠を越えて「金草鞋 八編 越後路」(歌川国信画)を翌年発行。
『この峠ほど高く難儀なるはなし。暑い時分も峠は寒し。さりながら、四方を見晴らし景色の良きところ多くあり。峠に至れば茶屋二軒あり。砂糖餅を売る。また雑煮餅有り。』
狂歌「塩辛き餅を商う茶屋なれば、これ梅干しの諏訪峠なり」と感慨を漏らしている。
(十返舎一九越後路之記「金草鞋」第8編より)
嘉永5年(1852年)厳冬期の2月8日に諏訪峠を越えたのは、吉田松陰と宮部鼎藏で、津川の商人2人との4人道中であった。
松陰の東北遊日記にその当時の様子が描かれ、現在も諏訪峠に一部が詩碑として刻まれている。
『私が北越を旅したのは、雪深い時だった。敢えて困難を乗り越え、優れたものを探り出そうと思う。地元の人は、八田・福島・諏訪の嶺は最も雪が深く、困難なところだと言っている。私は八田・福島は雪が深いと言っても、地勢は平坦であったので驚かなかった。しかし、一人悩んだのは諏訪嶺であった。諏訪嶺は高く、雲を凌ぐほどで、山は険しく天に聳えてよじ登らなければならないほどである。腰も折れんばかりなので、せむしのように背を曲げて登ると、胸も喘ぎ、肌も汗で濡れ、脚も疲れ切ってしまった。時々、烈しい風が空を巻くようにして起こり、髭を染め、顔を打ち、冷たい肌をさす。時々日光が雲間から突き刺すように射し、白い雪に反射してきらきらと眩く、目が眩むようである。 やっと嶺の頂上を極め、四方を見渡してみると、快感を覚え、下顎がはずれるほど大笑いをした。頂上から見ると、奥の越山は白い雪におおわれ天に連なって、平野に一筋の川が青い竜のように長く走り流れている。雪の深さは幾丈あるか測り知れない。老樹は雪の中に埋没して枝も無いように見える。私は山陽から東海に渡る時に、雨が降ったり、晴れたりしただけで、喜び、又悲しんだりしたが、このようなこんな困難は未だかつて経験したことが無い。困難が甚だしくなればなるほど、珍しい事に直面する。地元の人が盛んに雪中の困難を言っているが、困難の中に奇特を知る事が出来るのは一体誰だろうか。』(滝沢洋之氏訳)
松陰22歳・鼎藏32歳の冬であった。
英国の旅行家イザベラ・バード女史は、1878年に日本を訪れ、東京から函館、蝦夷、また京都や伊勢などを旅して旅行記を著した。
諏訪峠のある会津街道は、イザベラ・バードが旅した道でもある。
18歳の日本人青年(伊藤)一人だけを供として、明治11年(1878年)7月1日に鳥井峠を越え、津川まで至っている。
著書『日本奥地紀行』の中で「昨日の旅はこれまでで最も厳しいものの一つだった。10時間もの大変な旅だったのに、わずか15マイル(24㎞)を進んだだけだった。車峠から西に向かう道は大変悪名高い道なので一部の宿駅は1マイルそこそこの区間に設けられている。しかし、多くの町がある会津平野とその奥の広大な地域の農・工産物の新潟への移出は、少なくとも津川川(阿賀野川)ヘ出るまではこの道に頼るしかない。この道は近代的なものの考え方をまったく無視し、推測で言うのも怖いぐらいの急勾配で、真っすぐに上がったり下がったりしている。さらにぬかるみの連続になってしまっている上に大きな石が放り込まれて角だけが上に出、ぬかるみの中に完全に没している。馬に乗って通った道でこんなにひどい道はなかった。よくも道などと言えるものである! 景色はスケールが小さいだけで、これまでの景色と良く似ている。山々は頂まで木に覆われ、時に峡谷に穿たれて奥山が姿をのぞかせる。辺り一面緑に埋め尽くされている。それでイライラした時などはついつい「生い茂り過ぎた草木」と口走ってしまう。ただ一つの絶壁でも一条の灼熱砂漠でも良いから、何か形の目立つものや色の際立つ物がこの単調な緑にくさびを打ち込んでくれないか、たとえ不調和でも良いから!と思うほどになる。以下粗野な習性と無知へと続く。」(イザベラ・バード「完訳 日本奥地紀行 1」金坂清則 訳注、平凡社〈東洋文庫〉より)。」との評を書き残している。
女史は津川(阿賀町)に二泊して、大船戸から船便で新潟へと、旅立っている。
諏訪峠を通らず幸いだったかもしれない?
阿賀町では毎年早春に、熊渡、大牧、夏渡戸、武須沢入の4か所で、伝統行事の「鍾馗様祭り」が開催される。
五穀豊穣、家内安全、無病息災、子孫繁栄、厄除けを願って、男性器を誇張したわら人形を作り、集落のお宮、入口に祀る。この祭りは「ショウキ祭り」として新潟県の無形文化財になっている。
旧会津街道(諏訪峠)入口の角島から大牧集落に向かうのが近い。
津川地区のシンボルとして聳え立つ麒麟山では、古くから狐火(鬼火)と呼ばれる光が見られた。
これにまつわる話は多く、「狐の嫁入り行列」という言い伝えがある。この地域の「嫁入り」は夕方から夜中にかけて行われて、提灯を下げて麒麟山の峠を越えていく際に、提灯の明かりと狐火が見えたことから言い伝えが生まれた。
こうした言い伝えや民話をもとに1990年5月3日に第1回の行事が開催された。
以後、5月の3日には、狐のメイクをした花嫁と仲人やお供の行列が会津街道を練り歩き、常波川に架かる城山橋で花婿が迎え、結婚式・披露宴が執り行われ、終了すると花婿・花嫁は渡し船に乗って川を渡り、麒麟山に消え、山には狐火が灯る。
行地
↓ 120分 3.5km ↑ 90分
諏訪峠
↓ 50分 2.4km ↑ 40分
柳新田
↓ 40分 1.4km ↑ 30分
清川高原
↓ 30分 2.0km ↑ 20分
津川駅
出典:「会津街道~いにしえの道を楽しむ」新潟県新潟地域振興局・阿賀町パンフレットより
福島県西会津町宝坂側の鳥井峠入り口
↓ 43分 1.6km
宝川からの旧道合流点
↓ 10分 0.3km
鳥井峠
↓ 65分 1.9km
国道49線へ合流
↓ 60分 0.9km(昼飯時間を含む)
福取の一里塚
↓ 22分 0.7km
惣座峠
↓ 105分 1.9km
津川側49号線出口
累計:昼飯(30分)込みで4時間7分 距離 7.4km
反対方向も、ほぼ同じ程度の時間/距離で歩けると推定する。
【公共交通機関】
JR磐越西線「津川駅」行地からはタクシー
【マイカー】
諏訪峠を歩くには、自家用車をお勧めします。
行地部落脇の広い道路に数台の車が駐車可能
津川駅角島側には、旧49号線で清川高原へ上がる道側に大きな駐車場があるため、両側に車を置いて交差縦走がベストです。
県境につき公共交通機関は無く、車が望ましい。
新潟県側ではJR津川駅、福島県側は徳沢駅よりタクシー等になる。
車の駐車場は、49号線の線路側上又は鳥井峠会津側入り口に数台分あり。
東蒲原郡史編さん委員会「会津街道」『東蒲原郡史 第5巻』
東蒲原郡史編さん委員会「小川庄」『東蒲原郡史 第7巻』
「登山とスキー」第9号(復刊第1号)、新潟鐵工所登山とスキー部
「吉田松陰諏訪峠を越ゆ」登山とスキー第9号PDF
羽賀一郎「越後佐渡の峠を歩く」新潟日報事業社
松山勝彦「参勤道中記をたどる 越後村上藩・新発田藩」新潟日報事業社、2015年
滝沢洋之「吉田松陰・会津へ行く」歴史春秋社
加藤章監修、下西善三郎編「十返舎一九越後紀行集2 「金草鞋」第8編」郷土出版社(松本)
イザベラ・バード「完訳 日本奥地紀行」東洋文庫
新潟県名鑑「天保十五年辰年 会津通御参勤 御道中日記案詞帳」新発田図書館所蔵
山縣有朋「越の山風」国立国会図書館デジタルコレクション
阿賀町ホームページ「会津街道 Aizu Highway」『会津街道/赤谷の戦い』
『特集 峠と峠の道』「越左の地名」第6号、新潟県地名研究会
《役に立つ文献》
会津街道紹介、新潟県会津町、新潟県新潟地域振興局
「会津街道~いにしえから続くみち~」(ブックレット)
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/niigata_kikaku/1298232104525.html
「会津街道 いにしえの道を楽しむ」(パンフレット)
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/niigata_kikaku/1356916213578.html
《古文書、古地図、絵図、絵画など》
・天保13年(1842)新発田より江戸道中図(部分ー小川庄)
https://apple2004.fem.jp/kaguyast/toti/meisyo/aidukaido.html
《担当者》
日本山岳会越後支部
佐久間雅義
田邉信行
遠藤家之進正和