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9 岩手山古道

柳沢コース

岩手山の登拝道として、近世には3つのルートがありました。
東側の柳沢コース、南側の御神坂コース(雫石コース)、北側の上坊コースです。
現在のルートとほぼ同じ道筋です。
現在、馬返し登山口から登る柳沢コースは、古くから厨川口、盛岡口または表口参道ともよばれ、盛岡城下より陸羽街道を北上して「滝沢分レ(追分)」から御山道などと呼ばれる道(県道278号)を歩いて山に登っていく、表参道として重要なルートでした。
麓にあった新山堂(現岩手山神社)は南部藩の祈祷所でもありました。
馬返しからは登山道で、東の尾根を直登します。柳沢コースには灌木帯を登る新道と展望の良い露岩帯を登る旧道があります。8合目の不動平からは北へ進路を変えてお鉢に登るコースです。

古道を歩く

柳沢コースは、近世から現代に至るまで表参道としてもっとも重要なルートで、厨川口、瀧沢口、柳沢口、盛岡口、表口参道などとよばれていました。
盛岡城下からは陸羽街道を北上し、いわて銀河鉄道の滝沢駅方面からは西へ進んで、「滝沢分レ(追分)」で岩木山に向かう参詣の道に入ります(いまの県道278号)。
滝沢分レには、「岩手山神社」の扁額のある鳥居と、「巌鷲山」の石碑が立っています。
四角柱形の高さ1.6mの「巌鷲山」の石碑には、「(中央上)巌鷲山 (右下)右かつの道 (左下)左柳沢道」と彫られているます。またそばには高さ約1mの自然石があり、「(中央上)奉納正一位田村大明神 (右)文化四年 右かつの道 (左)五月吉日 左おん山道」とあります。
追分から2.3kmほど北西へ進んだところには庚申石碑が大切に残されています。
さらに3kmほど行くと岩手山神社(巌手山神社)があります。登拝者はここで精進潔斎をおこなって登っていました。南部藩(盛岡藩)の祈祷所でもありました。

県道278号は左折しますが、参道はそのまま真っ直ぐ、現在は自衛隊演習場となっている敷地の中の一直線の道を西へ向かいます。
舗装道路の突き当たりが「馬返し」で、「馬返しキャンプ場」があります。駐車場や休憩所、トイレがあり、ここから道標に従って登り始めます。
初めは林の中のやや湿った箇所もありますが、多くの人に歩かれているため、すれ違える道幅もあり、危険箇所にはロープやハシゴがあり、整備されています。
10分ほどで「改め所」の看板前を通過し、さらに30分ほど登ると「桶の淵」の看板があり、左手に半円を描く岩の崖が谷を造っているのが見えます。

ほどなく一合目の標石と石祠に到着。休息適地で、その後、並行して走る二つの道に分かれます。右が新道で左が古道。
周囲に高い木々が見えなくなった標高の岩場で振り返ると、馬返しまでの一直線の道がよく眺められます。
二合目、三合目と進むにつれて、また草地となったり岩場となったり、風景が変わっていきます。
旧道は岩が多いところを通るため展望が良く、達成感があります。
広い岩場ではどこでも登れますが、ジグザグにならず、一直線の道なので、一歩ずつの段差はかなり大きい急登です。
ハイマツやミヤマハンノキの低木帯に入ると高山植物が多く見られ、ほどなく右側からの道が合流して七合目となります。石祠と大きな岩があります。

ようやく段差が小さくなり、八合目避難小屋前の広場に出ます。左手に「御成清水」の水場から水がほとばしり出ています。
山頂への標識に沿ってまっすぐに進むと、左手に不動平避難小屋が見え、その手前に山の字のような巨石があります。
巨石の前には江戸時代、町人や修験者が重い石を背負って運び上げた祠や石灯籠などが多数残っています。
右に折れて山頂への登りに入ります。砂地に、季節によってはコマクサが見られる所です。
お鉢まで登ると初めて、頂きとお鉢の内部を見ることができます。御鉢の縁を左へと進んでいくと、石仏が間隔をあけてたたずんでいます。

ほどなく岩手山山頂に到着。周囲にさえぎるものはなく、近くは岩と砂の世界、遠くには八幡平や鳥海山や北上山地など、見下ろせば雄大な山麓には池や木道や岩が累々と連なる鬼ヶ城と、変化にとんだ景観を楽しめます。
さらに御鉢の縁を進むと、途中で右手のすり鉢に下りていく道があり、石祠が集まった奥宮を通ります。

再びすり鉢からへりへと上がっていき、同じ道を不動平避難小屋へと下ります。

この古道を歩くにあたって

標高差1100mを4時間ほどで直登する道で、岩の段差が大きいので、ペース配分やストック使用などを考慮する。
とくに旧道は直射日光や強風にさらされる箇所が長いので、暑さ寒さ対策や強風による転倒に注意。水場は登り口と八合目にあり。

古道を知る

岩手山の信仰

*「御神坂コース」共通*
岩手山の信仰は、古代の自然崇拝に始まり、中世・近世の修験道を経て、現代の登山文化へと受け継がれています。
中世以降、岩手山は山そのものが「岩鷲山大権現」という強力な神仏として崇められました。これは山そのものを神体とする自然崇拝の信仰に、阿弥陀・薬師・観音などの仏教の要素が加わったものです。
中世から近世にかけて、岩手山には柳沢(東)、雫石(南)、平舘(北)の3つの登山口に「新山堂」と呼ばれる修験の拠点が置かれました。これらは山頂の「奥宮」に対する「里宮」で、それぞれの拠点の山伏たちが競い合いながら、霊場としての岩手山を管理しました。
修験者にとって岩手山への登拝は、現世の穢れを払い仏の境地を目指すもので、登拝の前に「浄屋」で精進潔斎や水垢離をして身を清め、険しい岩場や滝を巡りました。山頂のお鉢(火口)を巡ることは「浄土」を歩くことと同義でした。
近世になると、岩手山は盛岡藩(南部藩)の安泰を祈る守護神として格別の保護を受けました。
藩主の代替わりや国家安泰を祈る政治的な役割を持つ一方で、山伏たちはガイド(先達)として庶民の「岩手山講」を引率しました。
これにより、かつては修行者のための霊域だった山が、徐々に庶民が功徳を求めて登る山へと大衆化していきました。
明治の神仏分離により、岩鷲山大権現の称号は「岩手山神社」となり、「新山堂」も「巌手山神社」「岩手山新山神社」「岩手山神社」となりました。

岩手山の噴火

*「御神坂コース」共通*
2026年1月時点で、岩手山は噴火警戒レベル2、火口周辺規制となっていて、入山が規制されています。
江戸時代には大きな噴火が2度ありました。
貞享三年(1686年)2月29日から3月中旬にかけて有史以来の大爆発が起こり、山麓の人畜は大きな被害を受けました。薬師岳(新山)が誕生したのもこのときの噴火です。
このとき南部藩は噴火を鎮めるために岩鷲山大権現に「正一位大権現」の位を献上したり、登拝前に行屋籠りや精進潔斎を行うように通達をだしています。
享保四年(1719年)の噴火では、焼け走り溶岩流を現出しました。
奥宮は岩手山山頂にある火口噴気孔近くにあり、神威の存するところと考えられ、神社から硫黄が配られました。
天明三年(1783年)の浅間山の大噴火などによる天候不順(冷害)で、盛岡藩は「天明の大飢饉」によって7万5000人を超える死者を出しました。人々は飢饉の再来を恐れ、五穀豊穣を願って、岩手山が噴煙を上げるたびに「お山がけ」をより一層熱心に行うようになりました。また、女性たちは里宮に集まり、大規模な「お百度参り」が行われました。

深掘りスポット

岩手神社と新山堂

*「御神坂コース」共通*
近世には東・北・南にある岩手山の三つの登拝道には遥拝所として新山堂が置かれた。
山号を岩鷲山とし、東は滝沢村にある柳沢新山堂で別当寺は盛岡城下新山小路の大勝寺。北は新山堂で別当寺は平館村(現在の西根町)の大蔵院。南は長山村(現在の雫石町)の新山堂で別当寺は雫石村の円蔵院。ちなみに別当寺とは神社を管理していた寺のこと。
修験者や神職がその地に集落を構え、登拝を行う者は精進潔斎して白衣をまとい、六根清浄を唱えて頂上をめざした。
明治の神仏分離によって権現号を廃して、柳沢新山堂が巌手山神社、平笠の新山堂が岩手山新山神社、雫石の新山堂が岩手山神社となって今日に至っている。
なお、本宮は貞享三年(1686)の岩手山噴火後に御室付近に設置された祠である。

御成清水

八合目避難小屋の前には、水量豊富な水場がある。
御成清水といい、北白川宮殿下が登山の折に命名されたという。
盛岡藩主が登拝した際にこの水を飲んだといわれる。
ただ、水涸れすることもあるので注意が必要。

ミニ知識

「お山がけ」

*「御神坂コース」「上坊コース」共通*
毎年、旧暦の5月27日に「お山がけ」と呼ばれる岩手山への登拝が行われていました。
「お山がけ」で登拝するのは未婚の男子が多く、盛岡藩(南部藩)の各地から多くの男性が集まったといいます。
それまで七日間、浄屋(こもり小屋)で精進潔斎して白衣をまとい、先達の案内で六根清浄を唱えて頂上をめざしました。
奥宮の参拝後は、守札、ハイ松、硫黄などを持ち帰り、田畑の葦や短い笹に結び付けて立て五穀豊穣、無病息災を祈りました。
江戸後期には「お山がけ」が盛んになり、参詣者や講中によって、道標や接待小屋、石仏などが設置されるようになりました。お鉢にある清水権現、7合目にある鉾立権現、8合目の接待権現、山頂の三十三観音など当時のものが現存します。
女人禁制が解かれ女性が登拝できるようになったのは明治時代の半ばころです。

巌鷲山

*「御神坂コース」「上坊コース」共通*
岩手山の別名を「巌鷲山(がんじゅさん)」といい、春に鷲の形をした雪形が残ることからそう呼ばれていたという説が有力です。「いわわしやま」と呼ばれていましたが、「岩手」の音読み「がんしゅ」と似ていることから、転訛したものだとも言われいます。
古くは「霧山岳」「大勝寺山」とも呼ばれ、「南部片富士」と呼ばれることもあります。

まつわる話

*「御神坂コース」共通*

岩手山と姫神山は夫婦だった

岩手山(雄山)と東側にある姫神山(雌山)は、かつて夫婦であったという伝説です。
岩手山は妻である姫神山の容姿が気に入らず、離縁を突きつけ、別の山(早池峰山など諸説あり)に心を移しました。
岩手山は、家来である「送りせん」という山に、姫神山を遠くへ追い払うよう命じました。しかし、家来が姫神山を不憫に思い、岩手山の目の届く近い場所に留めたため、怒った岩手山は家来の首をはねてしまったと言われています。

「岩手」の由来と鬼の手形

昔、岩手山に住む悪鬼「羅刹(らせつ)」が里の人々を苦しめていました。人々が三ツ石の神様に祈ったところ、神様が鬼を捕らえ、二度と悪さをしない誓いとして岩に手形を押させました。
この「岩に手形」が岩手県の名の由来になったとされ、鬼が二度と来ないことを誓ったことから、盛岡周辺は「不来方(こずかた)」と呼ばれるようになったと伝えられています。
盛岡市内にある三ツ石神社にある巨大な3つの岩にまつわる伝説です。

坂上田村麻呂と鬼退治

平安時代の武将・坂上田村麻呂にまつわる伝説が多く残っています。
岩手山にある「鬼ヶ城」という険しい岩場には、かつて大武丸(おおたけまる)という鬼が住んでおり、坂上田村麻呂によって退治されたという話があります。
田村麻呂は戦勝を祈願し、岩手山に阿弥陀如来などを安置したことが、現在の岩鷲山大権現信仰の始まりとも言われています。

ルート

柳沢口

馬返し
3時間30分↓ 3.3km ↑ 3時間
八合目避難小屋
10分↓ 0.6km ↑10分
不動平避難小屋
40分 ↓0.6km ↑ 20分
御鉢の縁
20分↓ 0.6km↑20分
山頂へ(時計回りで)
30分 ↓ 0.8km ↑ 35分
御鉢の縁

アクセス

柳沢口のアクセス
馬返しまでのバスは無く、盛岡駅、滝沢駅から車利用。東北自動車道の滝沢I.Cより約8km。
馬返し駐車場には約100台分の駐車スペースあり。

参考資料

*「御神坂コース」共通*
谷川健一『日本の神々:神社と聖地 第12巻』1984年5月 白水社
小原兄麿『厳手山記』大正9年 岩手山講社
河東乗五郎『日本の山水 山岳編』大正四年 紫鳳閣
高橋与右ヱ門執筆編集『甦る雫石郷の歴史:雫石町通史編』2013年 雫石町教育委員会
滝沢市の歩み作成委員会『滝沢市の歩み』2018年3月 滝沢市

協力・担当者

担当者
日本山岳会マウンテンカルチャークラブ
松本博子

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