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34 六左衛門道

六左衛門道

深き山の峰、険しい渓谷、そして国境を越え、信州の湯治場まで繋げようとした湯の道が、糸魚川市早川谷にある。
早川谷から越後の上高地と呼ばれる通称海谷を、川を越え、尾根を繋ぎ、頸城山塊の一角を占める金山~雨飾山稜線より向かった先は、小谷温泉。
道の名は六左衛門道。
江戸時代末期、ほぼ一人で23年間開削し続けた男、園田六左衛門に因(ちな)んだ道だ。
築かれた道は生活道になり、そして地元に製炭業という新たな生業を育む道となった。しかしその業績が称えられたのは、彼の死後21年経ってからだ。
やがて燃料革命を伴う時代の推移とともに、道は廃れ、人々の記憶の中からも消えてゆく。
岩の崩落や地滑りで埋まった箇所もある中、今も岩肌の斜面には石を敷いた水平道もひっそりと残っている。この道をどれ位の人が歩いたのか。
翁の偉業を偲びつつ、厳しくも美しい海谷へと導く、六左衛門道を紹介したい。

古道を歩く

砂場から大山林道

早川橋より音坂(通称)へ、県道270号線を焼山に向けて遡ると、砂場を示す標識が現れる。
その交差点を右に曲がり、善正寺跡へと向かう。早川を越え、左に折れると北山と砂場の集落になる。
砂場集落に入ると、緩やかな傾斜の道の右手に、ひっそりと六左衛門翁碑がある。「小谷馬道開鑿(かいさく)者・早川製炭業始祖」として、没後、園田六左衛門の功績を称え、建立されたものだ。
碑を過ぎ、右に曲がると善正寺古刹跡がある。
数台の車を止めるスペースがあるので、ここより海谷との境、「鉢の峠」まで続く六左衛門道を歩みたい。

善正寺から山道の入り口である大山林道までは、途中いくつもの農道が枝分かれしており、やや迷い易い所もあるので注意をしたい。やや広い舗装された農道を先へと歩を進めると、辺りが開け、烏帽子岳~前烏帽子岳の稜線、その奥に昼闇(ひるくら)山、手前にはイラノマの菱が視界に入る。

田圃(たんぼ)から離れるように南方向に進むと、そこが大山林道の起点となる。

大山林道から吉尾平水芭蕉小屋

大山林道に入ると間もなく、西側用水路と大山用水路が交差する場所に山腹水路の説明板がある。
そこからすぐの右手に、イタヤカエデの大木の下、「右ハゆみち 左ハやまみち」と刻まれた小さな石標がある。
平成の時代に入ってからの大山用水及び林道の改修事業の際、少し位置を移動したと聞く。

以前はこの石標より僅かに手前の山手から岩井谷川(通称山口川)の左岸沿いに道があり、烏帽子岳と前烏帽子岳の鞍部に向けて道が延びていた。
北山集落に住む古老も幼少の頃、その道を通り鞍部まで遠足していたそうだ。
生活の糧を得る為に人が入っていた道も、時が過ぎ、自然の姿に戻り、今は辿ることができない。

ここより大山用水沿いの林道を歩き吉尾平を目指す。
江戸時代に進められた水田の開拓は、一方で安定した水の確保を必要とした。より広域の水源を得る為、昔の大山用水は共有地である吉尾平の西尾野川から、水を大小の沢を繋げる形で下流まで流していた。
その維持管理は大変な作業であり、また道も、沢と沢の間しか付いておらず、牛馬が通れるものではなかった。
林道の西側は用水と山斜面が続くが、東~北方向は少し標高が上がると早川谷を囲む頸城の山々が見渡せる。
用水の脇には管理用の区割りなのか、所々に標識が立っており、見ると「へび岩、ねこ休場、サカイビシノカワ」等と書いてある。地元ならではの、地名の呼び名が楽しい。
勾配が緩んでくると、昼闇山が目の前に姿を現す。
やがて西山ふるさと育英会が建てた「吉尾平水芭蕉小屋」と書かれた管理棟に着くと、目の前に鉢山や阿弥陀山の雄姿が現れる。ここからは鉢山のすぐ横、目指す「鉢の峠」に在る一本のブナの巨木が指呼できる。
管理棟の前には、水芭蕉の群生地があり公園となっており、周辺に生息する希少な生物、植物の観察もできる。

六左衛門道入口から分岐

管理棟から平坦な道をしばらく歩くと、右側に「湯道 六左ェ門道 入口」と書かれた標識が横たわっている。
林道歩きもここで終わり。
標識の横から尾根に続く道へと、ブナの林の中をつづら折りに登って行く。
尾根からはやや急な尾根道が続くが、やがて勾配も緩み、道が急に左に曲る箇所がでてくる。
右側は薮となっているが、以前は烏帽子岳と前烏帽子の鞍部からの道がついていたと聞く。
左に折れるとここからは水平道となる。
歩を進めるとすぐに大きな岩屋が現れる。ここが六左衛門アブキだ。
巨大な角礫凝塊岩(かくれきぎょうかいがん)の下が刳(く)り貫かれ、人が寝泊りするのに充分な広さがあり、アブキのすぐ横には夏でも枯れない清水(ショウズ)川が流れている。

六左衛門は牛と共にここを拠点とし、道作りを行っていたのだろう。道は水平とはいえ、地形に沿った昔の道である。涸れ沢があれば下り、水の流れがあれば飛び越え、尾根があれば巻くといった感じである。
道の脇には炭焼き釜の跡も見られ、かつては炭焼きに盛んに歩かれた道だったことを感じさせる。
途中には小川の流れる見通しの良い場所があり、早川谷の山々が見渡せ、後ろを振り返ると阿弥陀山の岩峰が迫ってくる。
やがて、進行方向の木々の間から子鉢山に連なる斜面がうかがえるようになると間もなく分岐に着く。

分岐から鉢の峠

以前、分岐には標柱があった。しかし熊にかじられ今は跡形もない。
分岐からは鉢の峠に延びる道と林道に繋がる道に分れている。
林道への道は短時間で林道と接続できる為、主に奥の山道を整備するときなどに使われている。
帰路はこのルートを取ると良い。
歩を鉢の峠へと進める。ここからは最初、なだらかな登りとなっており、幾つかの小沢を渡る。
沢水は清らかで、サンショウウオも生息している。
道が所々窪んでいるのは、大雨が降った時に雨水が集まり、流れ込むからだ。
しばらくは木々に遮られ、周りの景色は望めない。しかし、秋ともなれば、足元にキノコ、頭上には山の実りにと目配せすることになる。
灌木がまばらになり少し開けた感じの所から右へ、尾根を巻くような道になると、徐々に道に変化が出始め、滑り易い傾斜のある箇所が何度も出てくる。
足元に注意しながら登って行くと、ようやく鉢山の懐に入ったのか、少しずつ角のある石が道に目立つようになる。
鉢山は周辺の山と形成が異なり、貫入岩の岩石からできている。固い岩質で、鉢山の西側に連なる、クライマーが登攀するエビクラもこの岩石でできている。
大きめの石もあり、ややガレた歩きづらい道が続く。その先で少し急登となるが、登りきると道はトラバース気味になり、視界もひらけ、阿弥陀山、烏帽子岳の山稜が見えるようになる。
穏やかに登って行くと間もなく、阿弥陀山南陵と鉢山の稜線の端にでる。杉山と呼ばれる所だ。ここには多数の熊の爪痕が残っている二本の大きなブナの木があり、景色を楽しみ、汗を拭うにも良い所である。

目指す鉢の峠はもう目と鼻の先だ。道は山腹を巻くように付いており、しばらくするとスナコ坂と呼ばれるガレ場を通る。
小さな沢に降り、急な斜面をつづら折りに登って行くと、間もなく、鉢の峠に到着する。
眼下には通ってきた管理棟が小さく見える。
東側には、阿弥陀山、烏帽子岳、鉾ヶ岳、権現岳などの吉尾平を取り囲む山々と日本海。
西側には海川を挟んで、頸城駒ヶ岳、鬼ヶ面山、鋸岳などの対岸の西海谷山塊の山々。そして奥に雨飾山。
もし季節と天気が許せば、海谷を愛でる絶好のポイントに間違いない。
道はこの先、さらに海谷深部へと続き、雨飾山から延びる県境の稜線の向こうへと導く。

この古道を歩くにあたって

北山、砂場集落内に善正寺跡へと導く標識や、善正寺跡から砂場集落を抜け農道から大山林道へ接続する道への案内道標はない。枝道が何本もあるので、地図やGPS等を活用しながら確認してほしい。
大雨が降った後など、分岐から鉢の峠の間で、道が窪んでいる箇所があり、そこに雨水が流れ込む。
膝下までになることもあるので、足元に気を付けたい。
時期によっては、鉢山に近づくにつれ、ヤグルマソウ、サンカヨウ等、葉の大きい植物や密生したガクアジサイが道を被い、ルート確認がしにくい箇所がある。
六左衛門道入口の標柱以外、特にルート上に標識はないので注意。

古道を知る

園田六左衛門は文久9年(1812年)に生まれ、明治24年(1892年)、79才で亡くなっている。
その後31年を経た、大正11年(1922年)11月26日、砂場集落に翁の功績を称える「小谷馬道開鑿者 早川製炭業始祖 六左衛門碑」が建立された。
その時読まれた祭文(さいもん)や式辞によると、集落から小谷温泉へは距離は短く、雪を利用して猟師は半日で歩いている。ここに道を作れば、他より早く小谷まで行けると、若き六左衛門はそう説くも、その厳しさ、困難さから協力者はいない。そこで天保10年(1840年)に独力で開削を始めた。28才の時である。
祭文では、5年後には道は、おおよそ通じたと述べられているが、祝辞では23年の月日を費やしたとしている。
径(みち)が道となり、その道を維持していくには、時間も労力もかかったに違いない。
六左衛門は一人、アブキ(岩屋)で寝泊りしながら道の開鑿を行ったとされている。
一方、当時、海谷を共有地としてもっていた西海の来海沢集落には、弘化3年(1846年)、新道切通しの為と、信州との境にある茂倉山で木を切っていた砂場村の3人が、山改めで見つかり、雇った六左衛門も含め訴えられていた資料もある。
また天保12年(1842年)、信州松本城主、松平丹波守に宛てて、筑摩郡の問屋等から砂場~小谷温泉間の道路改修請願書が出されている。この請願書と六左衛門道の関係は定かではないが、この時、小谷温泉への通路や温泉を経由した通路に関心が高まっていたのかもしれない。
嘉永元年(1848年)六左衛門は、越中は泊、蛭谷より製炭夫を雇い、吉尾平で製炭業を興す。
砂場集落は以前、原木村(あらきむら)と呼ばれ、元より薪の材料が豊富な地域だったと思われる。
豊富な山の資源は、六左衛門の道により更に奥へ、また広範囲に利用できるようになった。
そして時代背景として、この頃は弘化4年(1847年)善光寺地震、続く高田地震、嘉永5年(1852年)焼山の大爆発といった自然災害が近隣で起き、米の不作による飢饉も発生している。
換金できる質の良い炭作りは、砂場村のみならず、早川地域の人々の生活を支えるものになっていく。
石碑が建立されるまで、70年余り。その間も早川の製炭業は益々盛んになっていると式辞は謳(うた)う。
草鞋(わらじ)2足で小谷温泉まで。当時、田植えが済むと湯治に出かけることを人々は楽しみにしており、盛んに歩かれたであろう六左衛門道。
だが、六左衛門が、長年整備し続けた道も明治、大正、昭和と過ぎ行く時と共に、人々の生活の形が変わり、道の姿は無くなり、記憶からも消えていった。
しかし平成に入り郷土の歴史調査をするなか、再度その偉業に目が向けられるようになった。
座学が設けられ、地元の有志によって、埋もれていた地域の財産の掘り起こしが始まる。
昔、炭焼きをしていた年寄りから話を聞きながら、何年もかけて道探しとその整備が行われてきた。
海谷を眼下に鉢の峠からエビクラのコルにも道が確認されており、途中には石畳の水平道がある。
そこから下り、一ノ沢沿いに海谷の二俣に出る。こうした調査も地元有志の手による。
また平成10年に、砂場から鉢山の南のコルを越え、海谷を経由し、小谷温泉に通じるルートの残雪期の踏破調査が行われた。平成15年には小谷温泉から砂場へ。
以降ほぼ毎年、出発地を交互にし、また小谷村と早川地域の交流も兼ねて、人々に歩かれるようになった。
年を追うごとに参加人数も多くなり、平成28年には15回目を迎え、参加者は25名を数えた。
三つの峰を越え、渡渉を繰り返し、海谷の最深部を巡る、雪道の六左衛門道。
今は残雪上を歩く、こちらの方が、六左衛門道としての認知度が高い。
その後、少雪の影響や先導者の高齢化で一時中断したが、令和3年から交流会が始まり、令和5年には再び小谷温泉~砂場の踏破がなされている。

深掘りスポット

「六左衛門道」の起点は、早川谷(焼山を源流とする二級河川早川流域の地域)にある。この地域は焼山火山による大規模な火砕流などにより被災し集落の移転も行われている地域で、古くから独自の文化を育んできた。
焼山は現在も噴煙をあげている活火山である。早川谷を中心としたスポットを紹介する。

日光寺(真言宗豊山派)

下早川郷の中心地である新町(住所:糸魚川市日光寺377)の高台に鎮座する。
奈良時代の天平20年(748年)に行基が創建し、良恵が開山したと伝えられている。
大同元年(806年)に、坂上田村麻呂が日光寺を参拝し、堂宇造営と寺領200石を寄進し、観音堂を創建したという。
その後、越中・越後・能登・加賀の霊場として多くの信者を抱え、境内には七堂伽藍が建ち並び、12坊を擁した。
しだいに衰微したが、文禄4年(1595年)の太閤検地帳にも寺領が記載されており、この頃に真言宗に改宗している。
江戸時代に入ると、幕府から庇護され天和3年(1683年)、朱印状15石を与えられた。
古くから神仏混合で白山神社や稲荷神社と混合していたが、明治時代に入り「神仏分離令」により廃され、舞楽も衰退した。
昭和34年(1061年)に本堂と庫裏が火災で焼失、昭和42年(1972年)に再建された。
毎年4月第3日曜日に実施される例祭「日光寺けんか祭り」は、真言宗の日光寺で、白山神社の祭礼を合同で行うもので、神輿がぶつかり合う勇壮な祭りだ。別稿の民話<日光寺のけんか祭り>も読んでいただきたい。
日光寺の創建時は、前烏帽子岳東面の丘に長者屋敷という所があり、ここに寺があったといわれる。
阿弥陀山には石仏が安置されていて、往時は修験者の修行の場であったのではないだろうか。
文化財として、木造阿弥陀如来立像(新潟県指定)、木造十一面観音立像(新潟県指定)、木造伝勢至菩薩立像(糸魚川市指定)、木造四天王立像(糸魚川市指定)を所有し、鰐口・洗心公の庭、仏足石などもある。

善正寺 (真宗大谷派)

文暦元年(1234年)頃、真言宗の教俊(きょうしゅん)が、「上宮山 宝寿院(じょうぐうざん ほんじゅいん)」と称して砂場に開山し、密教の霊場となった起源をもつ。
その後、園田成家(上杉謙信、景勝の家臣)の子孫である園田成忠が宝寿院にて出家し、善正と名のり、行者となる。
元亀元年(1570年)織田信長と本願寺勢力の争い(石山合戦)に善正は参戦し、天正八年(1580年)紛争の終結後、その功が認められたのを機に浄土真宗に改宗し、砂場に善正寺と称する御堂を建立した。
その後、元禄十三年(1700年)現在の善正寺跡地に移り、多数の信者を集めると共に、”砂場の善正寺さん”と呼ばれ、親しまれていた。
また文政十年(1827年)には京都二条家から、息女(そくじょ)を娶(めと)っており、色々なエピソードが伝えられている。
元禄年間に建てられた本堂は300年近く存続していたが、老朽化が進み、現在は糸魚川市大和川に移転し、再建されている。さらに宝暦四年(1754年)に作られた庫裏(くり)の建物も山口市佐山に移築され、大手企業の研修所として生まれ変わった。
残された旧善正寺の跡には「しだれ桜」と「大銀杏」が往時を偲ばせてくれる。
とくに「しだれ桜」は、糸魚川市の文化財の指定を受けており、径約0.9m、樹高約15m、樹齢約200年と推定(二条家の興し入れの際に植えられたとも)された巨樹で、春には見事な桜の花を咲かせる。

佐多神社

焼山の噴火による降灰と火砕流、また大雨による土石流と地滑り。過去多くの災害が、早川谷を襲ってきた。
北山集落もかつての集落地である屋敷平から全村移転を余儀なくされている。
その屋敷平に佐多神社がひっそりと佇(たたず)んでいる。
奥には長者屋敷と呼ばれる地名も残っており、かつては修験者の霊場があったのかと思わせる。
境内には古い祭祀遺構があり糸魚川市の文化財に指定されている。
古木からなる社叢(しゃそう)と横たわる岩座(いわくら)の配置と雰囲気に古代の神社の形態が感じられる。
同じ早川谷の宮平にある劔神社も、大同二年(807年)出雲国佐太神社を勧請(かんじょう)したのが始まりと言われ、創建当時は佐多神社と称していた。
奥宮に鉾ヶ岳西尾根、ワタラ菱の上にある石祠(せきし)が佐多社としてあった。
後に剣を神璽(しんじ)とすることから劔神社に改称しているが、その際宮司は斎藤姓から佐囲東「佐多を囲む(鉾ヶ岳の)東」に変えたという。
佐多は狭田(さた、さなだ)にも通じ、川の支流に挟まれた田、神稲を植える田の意味を持ち、稲の豊作を願って祀られた産土神(うぶすなかみ)とも言われている。
旧北山集落跡にある佐多神社は明治31年(1898年)に社殿が造営されているが、その社(やしろ)は早川を眼下に、正面の切り立つ鉾ヶ岳に向いている。

ミニ知識

焼山ジオサイト ブナの立木

佐多神社の近く、早川左岸に、約3000年前、焼山が誕生した際の噴火で火山灰や火砕流に埋もれ、その後、堆積物の中から姿を現したブナの立木を見ることができる。
焼山誕生時の遺物として貴重な証拠となっている。
入口となる道には案内板があり、また笹倉第二発電所の建物がそばにあり目印となる。

月不見の池

日光寺の近くに、巨岩が池を取り囲み、藤蔓(ふじづる)に絡みついた樹木に覆われて、池に映る月の姿が容易に見えないことから、「月不見の池」と名づけられた池がある。
毎年藤の花が見ごろとなる5月中旬から6月上旬には、多くの人が訪れる。
池の周りの遊歩道も新潟県森林浴100選にも選ばれている。
周辺には巨岩の間を縫うように歩く強羅めぐりや、羅漢和尚(らかんおしょう)が作り四国巡礼を模した、越後八十八カ所めぐりがある。
巨岩の多い「月不見の池」周辺は、巨大地滑りの末端部といわれている。ジオサイトとしても興味深いところだ。

まつわる話

民話 六左衛門道

昔、江戸も終わりごろのこと。
早川の砂場に六左衛門という若者がおったとさ。
六左衛門は田んぼや畑の仕事のあい間に山へ行って木の実をとったり、まきをこしらえたりして、それはよう働いて、村でも評判の若者だった。
砂場から急な山道を歩いて吉尾平へ行くと、山にはナラやクヌギ、コナラといった木が見わたす限り茂って、深い森が続いていたとさ。
六左衛門は「小谷への湯の道をつけたいものじゃ。道をつければ温泉に入り、炭焼きもできる。炭焼きはええ金になるというが…」と思い続けていたとさ。
ある日、六左衛門は村の主だった人に相談したとさ。「吉尾平から小谷温泉への道をつけようじゃないか。山には雑木がいくらでもあるし、ナラの木はええ炭になると聞いとる。温泉への道を開けば山の木も売れる。長患いの病人も湯につかって元気を取り戻すこともできる。みんなで力を合わせて道づくりをしようじゃないか」
六左衛門は熱心にいうたけん、「口で言うのはたやすいが、そりゃ大変だ」「無理じゃ、あの急な山道を切り開くことなどできん」村の衆は口々にいい、せせら笑ってだぁれも賛成せんかったとさ。
六左衛門は、「だぁれもせんというなら、おれ一人でやる」みておれと決心し、牛一頭を連れて道づくりをすることにしたとさ。六左衛門、27歳の時だった。
六左衛門は畑や田んぼ仕事のひまを見つけては、夏の暑い日も、木枯らしの吹く日も、牛を連れて山道を登り、荷駄牛が通れる六尺の道づくりを始めたとさ。
時には大きな岩穴のある「あぶき岩」に寝とまりして道づくりに精を出しておった。
六左衛門は一人で木をきり、岩や土を取り崩して道をつくりながら、「わしも年をとってきた、あと何年かかるかな」と思案し、炭焼きをすれば村の衆も道づくりを手伝ってくれるにちがいない、と思ったとさ。
そこで村の衆に「道も七分通りできた。山の木で炭焼きをして稼ごうじゃないか」と話をもちかけ、炭焼きの方法を知り合いの富山の人に教えてもらったとさ。まもなく「砂場の炭は火持ちが良くええ炭だ」という評判が行きわたり、村の衆の暮らしは急に裕福になって行ったとさ。
それからのこと。村の衆は炭焼きをしながら道づくりをしていると、下に小谷の温泉宿がみえたとさ。「お~い、みえたぞ。宿屋がみえたぞ」先頭に立っていた六左衛門は大きな声でいい、うれし涙を流した。
23年の月日がたち、六左衛門は50歳になっていた。その夜、あったかい温泉につかって「わしらの暮らしが裕福になったのも、こうしてお湯に入れるのも、六左衛門さのおかげじゃ」村の衆は深く感謝したそうな。
明治24年、79歳で六左衛門は眠るように死んだ。村の衆は六左衛門の功績を親から子へと語り継ぎ、いつかその道を「六左衛門道」と親しみをこめてよんでいるそうな。

民話 善正寺の姫様

昔、昔、今から200年も前のこと。
早川の砂場に善正寺という、それは大きなお寺があったわいね。
善正寺には亮清(りょうせい)という息子がおり、住職の父は寺の跡継ぎにと決めておった。
亮清は太いまゆをし、鼻が高く涼しい目をしてまるで役者のような男前であったとさ。
ある時、住職に「京の都へ行き、修行してくるがよい」といわれ、亮清は都へと旅立って行ったとさ。
都についた亮清は大きな寺に住み込み、朝早く起きて経を読み、食事の支度、あちこちの掃除、夜の読経、と忙しい修行の日を送っていた。
そんなある日、亮清が門前の掃除をしていると、二条家の孫、中院利子姫が、かごに乗って通りかかったとさ。
かごの中の姫は亮清の顔をみるなり、‶あっ″と息をのんで坊主頭の亮清に一目ぼれ。
忘れられない人になってしまったとさ。
顔を赤らめ消え入りそうな声で姫は亮清への恋心を打ち明けた。亮清は、「私は修行の身、女子にうつつを抜かしてはおれませぬ」ときっぱりいうてみたものの、姫はことのほかの器量良し。
時がたつにつれ、亮清の心が動き、二人はいつしか恋しあうようになっていたとさ。
やがて、亮清の修行は終わり、田舎の寺へ帰る日がやって来た。
姫と亮清はかたく結婚の約束をしたものの、田舎寺の息子と立派な家柄の姫様とでは身分がちがいすぎた。
「父の元に使いを出し、結婚の許しをもらって下さい。」姫は泣きながらいい、亮清は必ずと約束して、ふる里、砂場へと帰って行ったとさ。
早速、父の住職に二条家の孫、中院利子姫と結婚したいと話すと、あまりの身分ちがいに反対されたものの、父は亮清のいちずさに打たれ、使いの者を二度、三度と都にやったけん、「わけのわからん田舎寺へ娘をやれん」と断られるばかりだった。
そこで住職は村一番の話し上手といわれる加助に「お前の口が頼りだ」と言って使いに出した。
京に着いた加助はみすの向こうの二条様に「早川はとてもいい所、狸が出て踊り、狐は娘に化け、美しい色をした鳥は歌い、馬はかけ回り、そりゃもう夢のような毎日です」
すらすらと話すと二条様は「早川とはそんなに良い所か」というて二人の結婚を許したとさ。
それから間もなく、立派なおかごに乗り供の者を連れた利子姫の行列が善正寺へとやって来た。
亮清はうれしくて「本当のことじゃろうか」と何度も何度も目をこすり、恋しい利子姫を迎え、二人は仲良う、それは幸せに暮らしたそうな。

民話 日光寺のけんか祭り

毎年早川の春は日光寺のけんか祭りとともにやってくる。
ずっと昔、能生からみこしが一基やって来て、早川のみこしとぶつかり合い、にぎやかにけんかをして、能生の浜の衆のみこしが勝つと豊漁、早川のみこしが勝つと豊作になるといわれておった。
いつの頃からか、能生からみこしが来なくなり、日光寺のけんか祭りは村内で二手にわかれて行われるようになっておった。
観音堂に安置されている観音様の守り神は、白山神社の神様だといい伝えられていて、春のけんか祭りは観音様が小高い山の上にいる白山神社の神様を「いつも村をお守り下さってありがとうございます。春になりました。どうぞ祭りにおいで下さい」と、感謝をこめて祭りに招待するのだといわれ、白山の神様も「それはありがたい。よろこんで祭りにまいります」ということで毎年、祭りは賑やかに行われているとさ。
祭りの日、日光寺で白い白丁の装束に着がえた若者が、「さぁ祭りの準備ができました。どうぞいらしてください」と小高い山の上にある白山神社の神様を迎えに行き、二基のみこしは白丁の肩にかつがれて百八段の石段をおりてくるとさ。階段の下には、日光寺の住職が待ち受け「ようおこしくだされた。お待ち申しておりました」と白山神社の神様を迎え、ヴォーと高らかにほら貝が吹かれるとね。
二基のみこしはいったん観音堂のお旅所で休み、祝詞奏上等の儀式が終わると、さていよいよみこしのけんかが始まるとね。若者にかつがれた二基のみこしは互いに力を競い合い、はげしくぶつかり合う。
若者の威勢のいいかけ声と汗がとび散り、観音堂の境内は熱気に包まれ、見る人もみこしをかつぐ人もいっしょになって祭りによいしれるとさ。
その日の境内は祭り見物にやって来た人でにぎわい、とうもろこしやあめや、焼イカなどの店も出て、早川、日光寺のけんか祭りは春を告げる早川一の大祭として今もにぎやかにくり広げられているそうな。 いちごさかえ申した。

「糸魚川民話の旅」より

ルート

善正寺跡
↓(2.3km/60分)
大山林道入口
↓(3.6km/90分)
吉尾平管理棟
↓(0.5km/15分)
六左衛門道入口
↓(0.8km/30分)
六左衛門アブキ
↓(1.2km/60分)
分岐
↓(0.8km/30分)
巻道入口
↓(0.6km/45分)
杉山
↓(0.3km/20分)
鉢の峠
*帰路
分岐
↓(1.1km/30分)
林道
↓(0.3km/10分)
六左衛門道入口

アクセス

《鉄道利用》
北陸新幹線、えちごトキめき鉄道、JR西日本大糸線利用の場合、
糸魚川駅 より糸魚川バス 07番線バスを利用。音坂バス停で下車し、砂場方面へ徒歩3kmで善正寺跡。
《車利用》
北陸自動車道 糸魚川インターより国道8号線経由、もしくは能生インターより国道8号線経由し、早川橋から県道270号線に入り、音坂にて標識に従い砂場方面に右折し、善正寺へ。距離は共に20km前後、時間は30分くらい。

参考資料

中村栄美子・文、吉原晴美・絵「糸魚川の民話の旅」新潟美術学園デザインルーム、2007年(平成19年)初版発行
信越古道交流会編集「信越古道 -梶屋敷宿から鬼無里・麻績宿へ」ふるさと草子刊行会、2007年(平成19年)第1刷発行
蟹江健一、渡辺義一郎「雨飾山と海谷山塊 -われらが希望の山々」恒文社、2008年(平成20年)発行
『雪稜五号』「頸城山地研究 文献と自然」直江津雪稜会、昭和49年
渡辺義一郎「海谷の山と村」新潟県社会歴史研究会紀要第8集(1973年)抜粋
松澤静雄「糸魚川 山里の文化と地域のあゆみ」平成21年発行
藤井義典「歴史年表 西山郷砂場史、北山史」平成28年発行
六左衛門古道関連資料 上早川地区公民館所蔵
糸魚川市教育委員会「糸魚川市の文化財」平成20年発行
岡本雅享「出雲を現郷とする人たち」藤原書店、2016年発行

協力・担当者

《執筆者》
日本山岳会 越後支部
朝比奈信男
《協力》
霜越嘉夫氏
日本山岳会 越後支部長
後藤正弘氏

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