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30 八十里越え

八十里越え

古道を歩く

はじめに

八十里越えは、木ノ根峠を境に、福島県から4ルート、新潟県から1ルートあります。
しかし、現状は一部を除いて一般登山者が歩ける状態ではありません。
熟練者であっても現地「只見自然ガイド」の同行が必要な場合があります。

天保古道(古道):福島県側から木ノ根峠まで

少なくとも中世から越えられた道は、戦乱時を除けば人が歩けるだけ道でした。
天保14年(1843)に道幅約3mに改修し、牛や馬で荷物が運べる街道になりました。
戊辰戦争で河合継之助が越えた道ですが、秋の長雨時に1万人とも伝えられる人が越えたため、道が傷んだ上に自然災害が重なり通行が難しくなりました。
明治14年(1881)の道筋の変更以降は残雪期のみの通行となり、登山道として使われている一部の区間を除き、多くは密薮になり地すべりなどで道が崩落している所もあるので一般登山者の通行は不可能です。
また、過去の踏破記録においても多くのルートの誤りがあり、薮漕ぎの熟練者といえども必ず現地ガイドが必要です。

明治中道(中道):福島県側から木ノ根峠まで

明治13年(1880)、傷みの激しかった峰越ルートの、叶津川(かのうづがわ)沿いの区間を伸ばし、遅沢から中腹をたどるルートに移設しました。
予算の都合で1.8m程度の道幅で作られ、明治27年(1894)には明治新道に再移設されたので、道型が消失している区間も多く、密薮と相まって通行不能です。
ただし、遅沢から名香沢までの区間は薮漕ぎの部分もありますが、山菜道として使われている所があり、ガイド付きでは通行も可能です。

明治新道(新道):福島県側から木ノ根峠まで

明治政府の要望もあり荷車の通行が可能な道として、明治27年(1894)に中道を基に、隣接して道幅を約12尺(3.6m)に広げて、道の勾配も5%程度と緩やかに造りました。
大正3年(1914)現在の磐越西線が開通すると、通行量が激減し街道としての役目を終えます。
平成頃からは八十里越えは踏破ツアーなどが盛んにおこなわれましたが、平成16年の新潟福島豪雨で大被害を受け、全面的に通行不能となりました。
令和8年頃に只見側の整備が完了し、一般登山者の通行が可能になる予定です。
現在は歴史の道八十里越調査整備保存委員会の調査や、行政および有志団体による草刈りなどで何とかガイド付きで通行可能にはなっていますが、一般登山者の通行は準備中です。

天保古道・明治新道:新潟県側から木ノ根峠まで

吉ケ平自然体感の郷「吉ヶ平山荘」から木ノ根峠に至る道です。
ブナ沢から高清水沢間は上部からの大規模な崩落によりルートが不明瞭になるなど、全般にわたり、不明瞭な箇所が多々あります。
入山するにあたり、この山に精通した人と同行するのが望ましい方法です。

間道(裏街道) 大谷真奈川線:福島県側から木ノ根峠まで

封建時代には街道の自由な通行が許されなかったため、番所を通らないルートとして間道を抜ける者が見られました。
明治以降もこの間道沿いに鉱山が確認され、運搬路としても使われたので、明治新道の候補になる程でした。
閉山になると山菜採りや、渓流釣りにしか使われませんでしたが、県境稜線上から新潟側は、越後百山の中ノ又山への残雪期ルートとしても使われています。
なお、新八十里越新設案として、明治9〜11年に再三にわたり地元民から伺書が提出されたことがあります。
蒲生→真奈川沿い→赤崩峠→五兵衛小屋→日本平→大谷川沿い→笠堀を通る道で、八十里越えより短くて屈曲や上下もないということでしたが、工事着工には至りませんでした(『八十里越え(国道二八九号)—記録が語る歴史の道』北陸建設弘済会)。
現在、ルート全体は密薮になり、道型も断片的にしか残っていないので、一般登山者は通行不能で、一部の篤志家好みの山域となっています。

天保古道(通行可能部の紹介)

浅草岳入叶津(いりかのうづ)登山口が天保古道の入山口になります。
登山口には10台程度の駐車が可能で、6月から11月初めまでは簡易トイレも設置されます。
(只見町による新トイレ設置計画あり)

登山道を高さ30mほど登ると天保古道に合流し、右の天保古道は山辺沢付近まで続いていますが薮で通行不能です。
古道に上がると3mほどの幅員があり往時をしのばせる歩きやすさです。
横断する水流を渡る先には道の中に穴がありますが、この穴は住民によるカジゴ焼き(家庭用の炭焼き)の跡です。

やや下り坂になり平石沢を飛び石で渡りますが、渡渉は問題ありません。

対岸の段丘に上がるとS字状にカーブする道が続き、雪解け後にはカタクリが多い所です。
段丘上を進むと、岩壁の上に平石山が見えます。
平石山は浅草岳の安山岩溶岩台地の末端にあり、柱状節理が発達し岩屑が平たく割れるので、平石山及び平石沢と呼ばれました。

段丘から山腹に取り付く辺りは、新潟福島豪雨により表層崩壊し天保古道が埋没したので、転石が多く歩きにくい区間になります。
尾根に近くなると古道の跡になりますが、崩壊のきっかけ部分になり、幅員が狭くなりますので注意して登ります。

尾根に出ると風通しのいい休憩ポイントになり、叶津川眺めの標柱がありますが、古くは中片と記される山神杉までの中間地点です。
なお、近年は楢枯れで倒木には注意が必要です。
この付近の森は、戦中戦後に薪炭材として切り出されたブナの二次林になります。
伐採前もブナ林で路面に傾きはありますが、天保の道型が良く残っています。

九十九折れの部分には、古道の石積みとする標柱がありますが、平石を積み上げた部分は、薪炭材を利用する頃の修復と考えられています。
古道の道脇には炭焼窯の跡がありますが、此方は製品として出荷するための本格的な窯になります。

道が緩やかになると栃の巨木林になり、栃畑と呼ばれるように、昔は栃餅用に栃の実を採取していました。
道端には清水もあります。
栃畑からは森が開けてきますが、初夏にも残雪がみられ、冬季の表層雪崩や残雪期はブロック雪崩にも注意が必要です。

標高700mを越えると、サンカヨウやコバイケイソウのお花畑があり、展望もよくなり山神杉も近いです。
再びブナの森を登るようになると、丸く盛り上がる地形を不自然に回り込む部分がありますが、この盛り上がりは一里塚の可能性があり、岩代国若松県第一大区全図には、この地点に一里塚の記載があるので、一里塚の可能性が高いと考えています。
なお、山側から灌木と土砂が崩れ落ち、天保古道が埋没したと考えられます。

尾根に出たところが山神杉の分岐で、社や標識があり浅草岳へは左の尾根を登ります。
山神杉は尾根を乗り越える部分にあり、残雪期の道標として植えられたと考えています。

山神杉から権左衛門ノ平への下り道は、天保改修の道型が当時の姿で遺っていると考えられています。
権左衛門ノ平には、幹回り3m以上で高さは30mクラスのブナの巨木が林立し、八十里越天保古道を代表する景観となっています。

ブナ太郎は、幹回り5mオーバーの、只見を代表する山毛欅の巨木でした。
残り株に往時の姿が偲ばれます。
ブナ次郎は、権左衛門ノ平で5m弱の最大の幹回りで、きわめて健康な個体です。

権左衛門小屋跡が伝えられるススキの平です。
この地点からは危険な部分が多いので、一般登山者はこれ以上進めません。
小三本沢(こさんぼさわ)からは地すべりの影響で、古道はもとより浅草岳登山道も、高さ3mもの段差や、陥没穴・底無し沼などがあり、しかも毎年のように位置も変化しているので、「只見自然ガイド」の案内が義務付けられています。
さらに融雪時や降雨などで増水しやすく、渡渉が困難となる時もあり安全に通行できません。

明治新道1 —工事中の国道(迂回路)

浅草岳入叶津登山口が現状の歩行入山口になり、登山口には10台程度の駐車が可能で、6月から11月初めまでは簡易トイレも設置されます。
(只見町による新トイレ設置計画あり)

国道289号線の舗装路を、100m程度歩くとスノーシェッドがあります。
スノーシェッドの前か奥に車両通行止めのゲートがあり、平日はゲート番がいて許可を受けた工事車両等のみ通行可能になっています(休日は施錠)。
このスノーシェッドは平石山からの表層雪崩(方言でエイ)を防ぐために設置されています。
この後も赤岩縁のスノーシェッドが500mほど断続的に続きますが、春には雪崩の巣になっています。

スノーシェッドが終わるあたりからは、明治新道が川沿いに続いていましたが、現在は土砂置き場や、砂防ダムで埋没していて通行不能です。
スノーシェッド先の段丘上に登る道型が融雪直後には見られ、明治中道の道型であるが、藪がひどく通行不能です。

国道は次第に段丘上の平坦地を通ります。
この平坦地は長瀬平といい、5万年~2万年前の沼ノ平地すべり堆積物により叶津川が高さ40m程塞き止められて、湖水が満水になり、決壊時の大規模土石流で形成されたと考えられています。
この平坦地は杉の植林地ですが、第二次世界大戦後に叶津集落で、国有地を払下後し、広葉樹を伐採した後の森林管理署による植林の跡です。
叶津川流域では森林管理署によるブナ等の自然林の伐採は行われておらず、国有林の伐採は集落や住民等の払下に限られたと伝えられています。

大三本沢は100mほどの橋で渡ります。
橋下の河原には20年程前まで、明治新道の橋台跡や明治中道の道跡が確認できましたが、近年の豪雨災害の土石流などで消失しています。

続けて白沢平橋になります。
ここは30年ほど前までは籠渡しで越えていました。
橋の右岸側に明治新道が伸びていましたが、現在は崩落し青灰色の土崖が見えるのみです。
対岸の白沢平は広大な平坦地ですが、豪雪地帯であるため戦後の一時のみしか人は住んでいませんでした。

滝ノ沢橋に近づくと川沿いにブナの二次林が広がります。
橋を渡った淵之上の平坦地は町有地で杉の植林もありますが、ブナ原生林です。
右岸の白い看板の裏には、明治道が残っていて見学場所にも使われていました。
(擂鉢沢までは道型が残るが、渡渉部に3mの垂直の崖があり完全に通行不能)

国道工事で明治新道が削り取られた先に、明治道に上がる道型があり八十里越の石碑があります。
「歴史の道100選」に選ばれた際に設置されたといいます。
平坦地が斜面に切り替わる付近に、明治新道が上流へ伸びて道型の一部には明治中道の痕跡が残っています。

叶津川の屈曲部をショートカットするように国道ができていて、大麻平橋を渡ると広い河岸段丘の大麻平になります。
70年代頃までは明治新道を段丘上に上がると、往時の茶店の名残があるゼンマイ小屋が立っていました。
しかし現在は国道のトンネル工事残土のためにほぼ埋没していて、追加の新潟側の土砂のために、ボックスカルバートのトンネルがあります。

100m程のトンネルを抜けると、左の山裾に僅かに明治新道が残っています。
(大麻平の由来は不明だが、苧麻(カラムシ)の栽培は伝えられていた)

国道289号工事中道路の、明治新道入口付近の工事残土埋め立て地には、除雪車の転回場工事が行われています。
転回場には国道開通後には、駐車場やトイレの設置等が検討されています。

転回場工事地点から50mほど先の山側に、明治27年に改築された明治新道の入口があります。
明治新道の入り口には先ほどのような、石碑が建てられていましたが、除雪工事で壊されましたので先程の石碑を移転するか、新たな標識を設置するよう検討中です。

明治新道2—大麻平~木ノ根峠

(整備未了で通行注意区間、名香沢からは中級以上の登山者のみ通行可能です)
大麻平(おおまだいら)から明治新道の通行は可能ですが、現在は国指定史跡への調査整備事業中で、安全に通行できません。
なお、国道から分かれる道には現在は標識等がありませんが、整備後には設置が予定され、トイレ等も設置の予定です。
明治新道入口から50mほど先に森林管理署の奥会津森林生態系保護地域の標識があります。

標識辺りからブナの森を進む道が明治新道になり、このブナの森は大麻平部分を除くと、道路工事以外では不抜の原生林で、幹回り3m以上の巨木もみられますが、明治中道部分には幹回り4mクラスが林立するエリアも確認できます。
九十九折れ部には、湿地部に崩落があり通行は可能ですが、右の尾根状部の巻道を使うことができます。
明治新道の勾配は5%程度と緩やかな登りになります。
九十九折れ本道は草が多く湿地状になり、一部崩落しているので注意して進みます。
九十九折れの途中にも1段に上がる急なショートカット道があり、その上にもう1段上がる道もあります。

九十九折れの先は大麻沢(大間沢)沿いに進みますが、崩落部があり道幅が狭い上に湿っていて、足元が不安定なので注意が必要です。
九十九を折り返してくると、先ほどの崩落部の上で足を載せるくらいの幅しかないので、トラロープを掴みながら注意して通過します。

崩落部を越えると本来の3m程度の幅員がある歩きやすい道になります。
山腹をたどる道を進むと、傾斜が緩やかなブナの森になります。
平成19年(2007)に、ここで「自然首都・只見」の宣言を只見の小学生が行いました。
この地点の道の山側には明治新道工事の際と考えられる、土砂採掘跡もみられます。
谷状の部分は通常は水が流れていませんが、道幅が狭く、気をつけて歩きます。
谷状の部分を過ぎると、尾根に上がる九十九折れになり、倒木の右側には国道と大麻平が眺められます。

尾根を回り込むと谷側にやや崩落していますが、通行には問題がありません。
この谷は比高20~30mで長さ200m程ありますが、地形図の等高線から完全に抜け落ちていることが、地形図と照らし合わせると明瞭です。
北斜面は日陰になり空中写真の判読が難しいのは確かですが、1964年の当該の空中写真でもシャドウ部ではなく、無理なく判読できますし、1947年米軍撮影写真では、解像力は劣るもののより鮮明に谷地形が読み取れます。
なお、地形図上ではこの九十九折れに上がり、尾根を登る道がありますが、昭和42年(1965)の地形図作製当時の道で(現在は使われていない)明治新道から南側(山側)は、尾根ではなく谷地形の中を登っていました。
北斜面を巻きながら緩やかに登る道か続きますが、北西面を通るブナの道は雪崩の影響がほとんどなく、往時の道型が残されています。

道が狭くなるのは、幹回り6mを超える栃の木が7年程前に倒れた跡です。
倒れた当時は倒木の下にある高さ1m程度の空間をヒヤヒヤしながら潜り抜けていました。
その後の雪圧により右にずれましたので、現在は法面との間を問題なく通り抜けることができます。

化物谷地(ばけやち)の沢から滝の水音が聞こえてきます。
道型が沢に崩落していて、滑落すると40mほど滑り沢まで落ちますので、設置されたトラロープを掴むなどして、十分注意し通行してください。
なお、登山初級者はこの先は危険な部分が多いので引き返しましょう。
崩落部を回り込むと直ぐに化物谷地ノ沢の右又になり、2mほど下り水流を渡り登り返します。
通常は水量も少ないので問題なく渡れますが、増水時は10mも流されると、化物谷地ノ沢の高さ30m大滝に落下しますので渡渉不可能となります。
この沢は湿原を流れてくるので飲用に適しません。

右又を越えるとすぐに左又になりますが、この地点からはぬかるんだ迂回路を登りますのでスリップに気を付けます。
滑りやすい迂回路を上がると崩落部に出ます。
この崩落部も右側の巻道で越えますが、明治道に出る前の下りでは転落に注意します。

人物が入るのが迂回路の出口で、左側の平坦部が明治新道になり、写真のすぐ先で崩落していて通行不能です。

次の崩落部も左側の急な迂回路を登ります。
迂回路の出口は急斜面で、崩落部の縁の急な下り道は転落に注意します。

さらに崩落により道幅が狭くなり、僅かなステップを使い越えられますが、不安のある方は山側にトラロープが付いた迂回路がありますので、迂回路を利用してください。
深さ幅とも1mほどのガリー状の小沢は、僅かな水流まで下りて越えるのが賢明です。

この地点は車両(大八車等)を通行させるために作った傾斜としてはいかにも急です。九十九折れの跡も全くなく、やや手前からの不自然な緩やかな下りや、同じく手前にある斜めに立つブナの大木等から、明治新道の完成後に地すべりに伴う滑動で、名香沢寄りの地盤が滑り落ち、接続するために取り付けた傾斜路と考えられています。路傍の若い直立樹はイベントの後に育ったものでしょう。
枯れた沢状の地形には石積み遺構があり、水流があった時期や降雨により水流がみられるときには、現在でも暗渠排水が機能しているものと考えられます。

人物の山側に明治中道(明治13年道)が大麻平から続いており、明治新道の切合いにより道型が次第に細く消えていきます

水音が聞こえてくると名香沢になり、ナメ床を急な対岸に渡ります。
名香沢は大雨になると短時間に増水し、ナメ滝を横断する渓相から渡渉が極めて危険になります。
雨が止むと減水するのも早いので手前の樹林帯で待機しましょう。
対岸は東向の斜面となり、積雪のグライド等で道幅が狭くなります。
渡渉点のすぐ上流右岸のナメ床に4か所の丸穴があり、明治新道の橋脚跡と考えられています。

名香沢からは中級以上の登山者のみ通行可能です。
一般登山者は名香沢で引き返してください。
わずかに残る道型をトラロープ頼りに通過すると、近年の雪害で完全に道型が崩落しています。
同じくトラロープもありますが滑落すると沢床まで滑落しますので、メンバーの技術に応じてロープなどで確保して通行ください。

名香沢の危険地帯を過ぎると小湿原に出ますが、湿原の名香沢寄りの部分から再び明治中道が、写真の左から右に湿原に脇に分岐しています。
この湿原を「化物谷地」と間違って紹介する三条市発行の地図や、登山記録がありますが誤りです。
なお、化物谷地は先に紹介した化物谷地ノ沢上流が正しく、明治中道は化物谷地湿原の脇を半周するように続いています。
明治道は直進していましたが朴木沢源流に沿う道の為に、平成期の度重なる水害で崩落し通行不能になり、左の山側に迂回路があります。

迂回路の出口は朴木沢への2mほどの下降になります。
5mほど沢床を下りグリーンタフが泥化した部分から、枝沢を登り明治道に出ますがピンクテープとトラロープを目印に通行します。
再び朴木沢の枝沢を横断して行くと、展望の良い岩場に出ますが次第に道型がなくなり、トラロープを頼りに進むトラバース部分となりますが、谷川は崖ですので十分注意して通行します。

ブナの森に入ると次第に道型が良くなり、支尾根を回り込む部分には、明治40年代に設置された1等水準点があります。
当時の八十里越がいかに重要な位置付けか、当時を記録する重要な遺構です。
なお、25000/1地形図では水準点の位置は正確に記すものではないにしても、100mもズレて記載されていましたが、現在の地理院地図では道の位置にズレはあるものの、水準点は適切な位置に修正されました。

水準点のすぐ先には2回の九十九折れで高度を僅かに稼ぎますが、回り道になるのでショートカットルートがあります。
近年に九十九折れ内の根曲がり木が撤去されたため、九十九折れも通行可能です。
九十九折れの先はしばらく歩きやすい道が続きますが、深沢の上流部は地すべり後の平坦地形になり、春から初夏は子熊の声も聞こえる子連れ熊の生活地で、注意して行動します。
平坦部は水はけが悪く、明治新道が湿原になりぬかるんでいますので、登山靴ではスパッツが必要になります。

深沢上流部には幾つもの水流があり、危険は少ないですが横断に気をつけます。
深沢上流部を過ぎるとヒド(ルンゼ)の横断が多くなり、トラロープなどを利用しながら慎重に通過します。
ヒドの中には谷側が切れ落ちているところが多いので、滑落や転落に十分注意し、必要に応じてロープでの確保も必要になります。

10か所近くもあるヒドを横断していくと松ヶ崎が見えてきて、只見側の明治新道で最も展望が良くなり、朝霧がなければ木ノ根峠方向から御前山(三条では丸倉山、現在の只見では木ノ根山)などの、叶津川上流部の山々が望めますので絶好の休憩ポイントです。
松ヶ崎の尾根には石造の祠があり山ノ神とも呼ばれます。

松ヶ崎の木ノ根峠側は北西側の巻道で、雪崩の影響がなくしばらく歩きやすい道が続きますが、小沢の横断部は掘れているので注意します。
道型が崩落し法面もずり落ちている部分は、根曲がりブナの間を注意して抜けていきます。

新潟福島豪雨災害で大きく削れたガリーは、下降不能なので巻道を上流側に回り込み谷底に下降しますが、谷の基盤岩が青配色のグリーンタフで極めて滑りやすく、スパイク靴か軽アイゼンが欲しい所で、スリップに気を付けて通行し、補助ロープも欲しい所です。
ガリーの対岸に元の路盤面が見えガリーは7mほど掘れたのが分かります。
続けて2本目のガリーになりますので、ロープを利用して慎重に下りますが、同じくグリーンタフの脆い斜面です。
ガリーの底からも急斜面でロープを利用して登ります。

明治新道脇にはブナの木に取り付けられた長獣保護の標識が、長い年月でブナに食べられようとしています。

左の写真の中央の切通しが木ノ根峠で、切通の上の両側にある平坦面が近世までの峠の高さです。
明治の道を切り通した残土などで広い平坦部を作り(手前向かって右側)、小屋を作りました。
明治の小屋跡です。
天保古道は平坦部を左から右に進み、右側を巻くように新潟側に下り、後年の田代小屋付近で現在の明治新道に合流しています。
後年の田代小屋は、筆者を含む魚沼市の会津街道部会の方々と発見したものです。
切通しの手前には、明治新道から3mほど高い位置に天保古道の水平面が見えます。
調査事業による刈り払いで明確になりました。

小屋跡から切通しをやや下ると県境には木ノ根峠の石碑がありますが、この石碑は平成初期に新潟県が設置したと伝えられており、時代的に古いものではありません。
道の反対側には木ノ根茶屋跡とする同様な石碑もありますが、茶屋とする記述は適当ではありません。
また、木ノ根峠石碑の右わきには古びた古道入口の標識がありますが、この標識は30年ほど前の調査のもので間違っています。
峠から尾根に上がるのが天保14年(1843)の古道として作られたが、当時の間違った認識によるものです。
(尾根には山菜採りなどの踏み跡や、年代が確認できない古道跡が一部あります)

天保古道・明治新道—吉ケ平自然体感の郷から木ノ根峠まで

「吉ケ平自然体感の郷」にある 吉ヶ平山荘から、守門川に架かる樽井橋を渡り、急坂を登ると、左手小高い杉林の中に源仲綱公の墓標があります。
そのまま登山道を進むと「馬場跡」の標石があり、道は二股に分かれます。
左は雨生ケ池(まおいがいけ)を経て番屋山、右は鞍掛峠への分岐です。

右に進み、数十m先の左側に祠場の標石があります。
以前はここが分岐であったといわれています。
そのまま杉林を抜けると、正面に番屋山が見えきます。
背の高い藪草に覆われた急斜面に、「新道」「古道」が交差していますが、地元の人たちの手による標識があり、それに従い最初の峠である椿尾根を目指します。
「椿尾根」には、近年、番屋山への登山道が開かれ、周回コースとして利用者が多いようです。
「椿尾根」からは平坦な道になりますが、途中崩落箇所があり慎重な通過が必要です。
やがて番屋乗越への急坂を直登します。
明治新道はこの急登のつづら折りが乗越まで続いていますが、崩落により今は歩くことができません。

「番屋乗越」からは、道は尾根の左側を巻くようになり、粟ケ岳から矢筈岳にかけての川内山塊、眼下に現在工事中の国道289号を見ながら進み、ところどころ削れた足場を慎重に進むと「火薬跡」に着きます。
張り出した岩を火薬で砕き、道を作った場所です。
右手には烏帽子山の北斜面が見事です。

ここからブナ沢に向かい緩やかな下りが始まります。
急斜面につけられた踏跡をたどるとブナ坂に着きます。
大きなブナ林の中は静寂が漂います。
ルートを示す赤テープを見落とさないよう慎重に進み、ケズリ谷内沢の流れを渡り、小さな尾根を回り込むとブナ沢、続いて高清水沢になります。
両沢とも上部の大崩落により、ルートが不明瞭で対岸に渡る個所はその時々により変わっており、慎重な行動が必要です。

高清水沢を渡るとブナやミズナラの林の中、道は広く、昔の開削当時のままの形で残されています。
やがて「空堀小屋跡」です。
平坦な地形でこの辺を通称「御所平」と呼ばれており、この先に小川があり、清冽な水が流れています。
そのまま進むと「空堀」です。

左は丸倉に続いており、60分程で現在工事中の国道289号に出ます。
右は鞍掛峠へと続いています。
昔の面影を残す古道を、烏帽子山と鞍掛山の尾根の鞍部を目指してつづら折りに登っていきます。
途中、幹回り5m以上ある大ブナがあります。
「桜の窟」の標石を過ぎると、10分ほどで「殿様清水」に着きます。
広場があり、一息つくのに都合の良い場所です。
ここから見る烏帽子山東面の岩壁は見事です。

この先、最後の急坂が待っています。
急登を登りきると標高965mの八十里越の最高地点である「鞍掛峠」です。
標石と小さな山の神の祠があります。

ここで三条市と別れ魚沼市に入ります。
右は破間川の源流地帯で、浅草岳・魚沼三山・黒姫の山並みが目の前に広がります。
鞍掛山の右裾を巻きながら進み、尾根を回り込む先端が「小松峰」です。

岩交じりの急斜面や抉られた小沢を慎重に横断しながら進むと「田代平」に着きます。
八十里峠(木ノ根峠)へはそのまま進みますが、時間があれば、田代平の散策もいいでしょう。

田代平からは林道を少し進み、標識に従い再度左の峠道に入ります。

しっかりと踏まれた道を進むと視界が開けます。
眼前の鞍部が目指す八十里峠(木ノ根峠)です。
湿った岩交じりの急登を登りきると県境の「八十里峠(木ノ根峠)」で、越後・会津の県境で、かつてこの近くに木ノ根茶屋がありました。

この古道を歩くにあたって

天保古道(登山道区間)の注意点

登山の難易度レベルB~C★★★
一般登山装備で通行可能ですが、概ね6月初めまでは残雪があり、登山口にトイレなどが設置されるのは6月末になります。
山神杉から先は南会津森林管理支署と只見町の協定により、「只見自然ガイド」の同行が必要になります。
また、小三本沢は橋等がなく、降雨時は地質の関係から、水中が見えない濁流となるので渡渉禁止です。
(携帯電話は登山口から30分程度のエリアのみで、それ以降は通信不能)
(「只見自然ガイド」を要請しても小三本沢の状況により引き返す時もあります)

天保古道(薮漕ぎ区間)の注意点

登山の難易度レベルC~E★★★★★
登山道以外の区間ですが、薮漕ぎの熟練者といえども完全な踏破には必ず現地のガイドが必要です。
全体に密薮で、小三本沢から木ノ根峠まで、融雪直後や晩秋の踏破可能時期であっても、ガイド付きで少なくとも実働10時間はかかります。
(取り付きや下山までも+2時間~5時間必要です)
なお、過去の少ない踏破記録でもルートの誤りが多く(歩かれた方は気づかず掲載している)、新潟福島豪雨以前と以後では、崩落部などに大きな違いがあるため、古い記録は参考になりません。
現状では沼ノ平付近などのガイド付き登山のみ可能です。
(携帯電話は稜線上のごく一部を除き通信不能)

明治中道の注意点

登山の難易度レベルC~E★★★★★
明治中道で通行可能区間は、大麻平から遅沢の中腹を登り、化物谷地から名香沢付近までは、一部が山道として使われているために、登山道としての整備はありませんが、ガイド付きのみで通行可能です。
(携帯電話は全ルート通信不能)

明治新道の注意点

登山の難易度レベルC~D★★★★
新潟福島豪雨災害で大きく損壊し通行不能でしたが、調査及び有志の作業により、登山者の通行が見られるようになりましたが、令和3年には道迷いによる遭難死亡事故も発生していますので、関係自治体ではガイド付きのみの通行としています。
明治新道入口の大麻平までは、現在は国道289号八十里越道路の工事中ですので、工事車両に注意しての通行が必要です。
大麻平からは比較的歩きやすい道が多いのですが、道型が崩落し迂回路となるところも多く、迂回路にも表示等はありませんので、道迷いに注意が必要です。
化物谷地の沢手前も道型が崩落し、転落すると50mは落ち、重大事故になるところがあります。
名香沢付近も道型が崩落し、暫定的なトラロープの設置しかありませんので、グループでロープ等も必要です。
松ヶ崎手間にも転落すると危険なルンゼの横断が多数ありますし、木ノ根峠までの間にも深さ7mのガリーなどは通行が危険です。
(只見町側の携帯電話は全ルート通信不能)
現状では一般登山者は整備完了予定の、令和8年以降の通行を推奨します。

吉ケ平自然体感の郷から木ノ根峠まで

登山の難易度B-C★★★
吉ヶ平は携帯電話範囲外です。
登山道は主に等高線沿いに続く峠道で緩く見えますが、流水で抉られた沢の横断が随所にあり、また地形図上に現れないアップダウンの連続です。思いのほかタイムロスがあるので要注意です。
ブナ沢から高清水沢間は上部からの大規模な崩落によりルートが不明瞭になっています。
また、番屋乗越から木ノ根峠間は、このコースの精通者との同行がのぞましいでしょう。
その他全般にわたり、不明瞭な箇所、崩落個所などが多々あるので、この山に精通した人との同行をお勧めします。

間道(裏街道)大谷真奈川線

登山の難易度レベルE★★★★★
入山口付近を除きルート全体に道型が不明で密薮になります。
一般登山者の通行は不可能で、一部の篤志家のみの山域となっています。
(携帯電話は全ルート通信不能)

登山時期など

日本最大クラスの豪雪地帯なので、浅雪の年でも6月にならないと通行可能になりません。
通常は6月中旬以降がおすすめです。
(高名な登山家でも5月末では、松ヶ崎付近の雪壁のトラバースに、出刃アイゼンにアイスバイル等が必要で、通常10分の区間に2時間の薮漕ぎ高巻となりました)
浅草岳入叶津登山道まで、車が通行可能になるのが5月後半になります。
それ以前は入叶津集落の先で鍵金の岩場があり、表層、全層、ブロック雪崩の巣になっていますので、通行は極めて危険です。
6月中は雪渓用に軽アイゼンやチェーンスパイクが必要で、剛性のあるスパイク長靴も便利です。
11月前半まで通行可能ですが、10月末からは降雪や特にみぞれの可能性があるため、完全防水の雨具も必携です。

装備について

通常期はザイルまでは必要ありませんが、20m程度のロープやテープスリングなど必要な装備です。
道が湿原状の区間も多くありますので、登山靴の際はスパッツがないと泥だらけになります。
名香沢はナメ状のきれいな沢ですが、橋がありませんので渡渉となります。
通常は登山靴で渡渉可能ですが、夕立ちになると数分で増水します。
減水するのも早いので待機する必要があります。

歩行難度など

大麻平から木ノ根峠、それから大白川への下山であれば、一般登山者の体力で問題ありませんが、吉ヶ平までの踏破ですと、一般登山者は早くても10時間程度かかりますし、ガイドツアーなどでは13時間程度の時間を想定しています。
十分な体力が必要ですので、2回または3回程度に分割した登山計画が望ましいです。
道は50cmから3m程度の段差があり、トラロープの腕力登攀が必要な部分が多くあります。
悪路に慣れていないと急激な体力消耗になりますので、十分に体力がある経験者向きのコースです。
八十里越えは低山で夏季は高温になり、脱水症状から熱中症で下山したケースもあります。

野生動物対策

ツキノワグマは5人以上の多人数グループですと特に問題はありませんが、少人数では毎年のように遭遇していますので、十分な注意が必要です。
熊鈴を使うときは大きな音が出るものにしてください。
しかし大パーティで各自がクマ鈴を鳴らす必要はありません。
春から夏にかけては山菜や根曲り竹が群生するところは特に注意が必要で、秋はブナやミズナラなどの林でよく見かけます。
唯一注意するのは、子熊の声で(子供の遊ぶ声に似る)が聞こえたときは、近くに母熊がいますので、静かに引き返す勇気も必要です。
7月後半から9月初めまでは危険なアブの襲撃もありますし、スズメバチなどにも注意が必要です。

その他

沼ノ平の探勝や一部の天保古道のガイドについては、只見町インフォメーションセンターに問い合わせください。
https://www.tadami-net.com/tadami-guide_association

福島県側の詳細は執筆者・長谷部忠夫にお問い合わせください。
(返答に日数をいただくときがありますのでご了承ください)
jac-hasebe@jac1.or.jp

古道を知る

八十里越えの始まり

地図でもわかるとおり、八十里越えのある会津西部は越後山脈の中にある。
南は奥利根から続く標高2000mもの幾重にも連なる山塊であり、横断するには幾日もかかり困難である。
北は標高1000m前後の下田川内山地ではあるが、岩稜とⅤ字谷が作る急峻な地形で、この横断も極めて困難となる。
近世までの会津街道は阿賀野川沿いを避けて、下越の新発田に抜けていたことからも、阿賀野川沿いもたやすい道でないことが分かる。
そのような越後山脈の分水陵にあるのが秀麗な浅草岳で、170万年前に噴火した火山は、頂から緩やかな尾根を広げていて、その尾根が100年ほど前まで、積雪期の道として歩かれていた伝承が伝えられている。
5000年前の縄文時代の遺跡である、新潟県三条市の長野遺跡からは栃木県の高原山産の黒曜石の鏃が発見されている。
五十嵐川流域の縄文遺跡群と会津とを結ぶ遺跡と考えられている。
只見川支流の伊南川沿いにも同じように遺跡があり、谷が広い伊南川沿いに下り、浅草岳を越えるのが古代の道とも考えられている。
八十里越えは古代の人々にも、自然に道として使われていたのである。

中世から近世の八十里越え

八十里越えの歴史では、治承4年(1180)に後白河天皇の第三皇子の高倉ノ宮以仁王(もちひとおう)が、平家追悼の詔を発したものの平家に敗れ、東国に落ち延びた際の、会津から越後へ八十里を越える伝説があり、猿楽や宮戸、空堀など高倉ノ宮にちなむ地名もある。
戦国時代には奥会津の山ノ内氏と伊達氏の争いにも現れ、上杉の援軍が六十里と共に八十里を越えている。
秀吉の仕置により山ノ内氏は領国を失い、三条市の下田へと八十里を落ち延びて行った。
援軍となった上杉も会津への国替となり、移動ルートは六十里越えと共に、物資の輸送に適した八十里越えが、大方の道筋と考えられていて、近世までは会津から中越や上越への主要道であった。
江戸時代になると、会津と越後を結ぶ交易路として通行が盛んになり、会津側の叶津集落には沼田街道との分岐点に口留番所が設けられ、会津藩が通行を取り締まるが、奥会津が天領になると、叶津村の名主(筆者の先祖)が番所の務めを兼ねるようになる。
越後側の葎谷にも番所が置かれ村松藩が治めていたが、必要に応じて山中にも番屋を設けたとの伝承があり、番屋峠(番屋乗越)や関屋の地名が残る。

八十里越えの名称

近世初期の寛文六年(1666)に『会津風土記』が編纂されているが、八十里越えは「伊北郷叶津至境澤峠二十二里余謂之八十里越此間馬不通自此而西經越後国吉平通長岡」と漢文で記されている。
下って文化6年(1809)に編纂された、風土記として著名な『新編会津風土記』には、「境沢峠(一に八十里峠とも伝)村中より漸々に登り五里十二町頂上に至る此間に鍵金岪山神坂小三本坂大三本坂大峯坂等の名あり道極めて険しく牛馬を通せす嶺は即ち陸奥越後の境なり此を踰えて村松領蒲原郡葦平村及同郡下田村に至る坂東道八十里有因って八十里越の名ありと伝・・・・・」とあり、会津側では、近世までは坂東道や坂東里の単位から八十里越えと呼ばれていた。
一方の越後側では、近世初期の正保越後絵図に「吉ヶ平村より会津領かのと村への道難所歩路也但シ八十里越と申候」と記載されていることや、越後の地理歴史学者である小泉蒼軒の紀行文『壬寅随筆』(1842)に、同じく、困難な道が故に八里の道を八十里と伝えていた。
山国の奥会津には古くからの坂東道や坂東里が残り、越後側には三十六町の一里が、近世からの一里塚の設置と共に広がり、困難な道ゆえの八十里と伝えられたのである。

天保の改修

江戸後期、天保14年(1843)に田島代官の平岡文次郎の尽力により、水原の豪商の資金を使って黒鍬者まで動員し、天保14年の大規模な改修が行われた。
会津側は幕府による工事が行われ、越後側も村松藩による工事が行われた。
八十里越えの道筋は中世から近世は浅草岳の中腹を辿る道で、天保14年に改修される道筋もさほどの変更はないが、急斜面を九十九折れに改良し、牛馬が通れるように幅員を広げ、幾分なだらかに道筋を変更した。
天保8年(1837)に作成された「八十里道普請人足凡書上帳」(長谷部家文書)は、人足の数から、道筋の変更を含む区間か拡幅のみの区間なのか、当時の工事を考察できる文書である。
天保の道には、精緻な石積みや水路の跡に、石を削り合わせた加工が見られるので、これらは築城技術に通じた黒鍬者の仕事と考えられ、江戸時代の技術が垣間見える八十里越えの貴重な遺構である。
今後は詳細な調査が必要であろう。
改修によって牛馬による荷物輸送が可能となり、荷継場所が整備され多くの物資が行きかうようになった。
なかでも塩の輸送が多く行われ、いつしか「塩の道」と呼ばれるようになり、蚕の種を運ぶ六十里越えは「絹の道」と伝わっている。

戊辰戦争の八十里越え

幕末の慶応4年(1868)戊辰戦争時には、長岡藩が藩主をはじめ家老の河井継之助らが会津に再起を期して越えている。
その数5,000人とも10,000人とも伝えられ、新暦にすれば9月の秋雨により峠越えは困難を極め、幾多の悲劇が伝えられている。
八十里越えの戦では、三条側の山中で散発的なゲリラ戦で、西軍の進行を遅らせたのは、鞍掛峠に布陣した山本帯刀隊の活躍に他ならない。
余談ではあるが山本帯刀家に養子となったのが山本五十六元帥である。
戸板で運ばれた河井継之助のために、大山尾(大三本)に新道を切り開いたとされているが、筆者の数回に及ぶ調査でも確認できなかった。しかし九十九折れではない天保以前の道が確認できた。
現状では崩れ始めて時間がかかる天保の道を避けて、古道を復活させたのが真相ではないかと考えている。
浅草岳の沼ノ平には、大砲が沈められた伝承から名付けられた大砲沼がある。
一説には長岡藩のガトリング砲と考える方もいるが、会津で戦おうとする長岡藩が捨てたとも思えず、南会津での戦いが終わったのちに、帰郷する西軍の北陸諸藩が帰り道の困難さから放棄したと考えられる。
長岡藩の軍資金伝説はいつの世にも話題になり、筆者の祖父も若かりし頃に沼ノ平など捜索したと聞いていた。
しかし越後側では戊辰の人足後に、財をなした人がいるとも伝えられるが、3,000両とも伝えられる不明の軍資金はいずこであろう。

明治の改修

戊辰戦争で荒廃した八十里越えではあるが、明治9年(1876)に完成した「岩代国若松県第一大区全図」(南会津山の会復刻版)に当時の道筋が詳細に描かれ、正しい位置が未確定だった会津側の天保14年(1843)の改修ルートが確認できた。
若松県時代に作成された地図は、同時期の他府県地図に比べて極めて精緻で、和算が盛んな会津故の測量技術は、戊辰には敗れたが会津の誇りが垣間見える。
図1は岩代国若松県第一大区全図の北西部で、只見町蒲生の真奈川(蒲生川の支流)部分から川沿いを伝い、地図中の「赤岩銅山」(実際は間道沿いよりやや北になる)の記載から赤崩峠を越えているが、地図中には「トオルミチニアラス」と記載されるが、赤崩峠から赤崩沢に下り、ヨシノ沢(誤り)沿いから十字点線の県境に登るのが分かり、「西袖」と記載されるのは現在の五平衛小屋あたりになる。
なお、越後側には「大江」と下山口が記されている。
この地図により明治初期までの道は、新山峠を通らず県境に至るのが確認できたが、赤岩銅山から先は概略に過ぎず、叶津川本流と木ノ根沢が混同して記載されている。

明治14年(1881)には、通称「明治中道」への改修がされた。
これは「岩代国南会津郡叶津村新道橋梁目論見帳」(長谷部家文書)を基にして、中世からの道筋を変更して、叶津川沿いに進み、大麻平からは八十里越火山(近年命名された)の溶岩台地を巻くように木ノ根峠へと登っていくものである。

明治27年(1894)、明治中道を基に、車両が通行できるよう福島県が会津側での工事を開始し、新潟県が明治23年(1890)から行っていた工事と共に完成させたのが通称「明治新道」である。
新潟県側は県道となり、会津側もやや遅れて県道に編入された。
現在の八十里越えはこの路線とほぼ同じルートであるが、新潟側では明治の道が崩れたので、天保古道の一部が現在は県道に指定されている。
開通により一万を超える荷駄の通行で盛況となり、人々の往来も増え、なかでも会津に働きに来る人が多くなった。
しかし大正3年(1914)の岩越線(磐越西線)開通により、物流が激減し衰退の道を辿ることになる。

現在の八十里越え

戦後もわずかな通行が見られた八十里越えであるが、昭和40年代の只見線の全通や、国道252号線の開通により山菜採り等しか歩かれない道となる。
忘れられた八十里越えであるが、平成4年(1992)には国道289号の調査も兼ねた、長岡国道事務所や只見町等の教育委員会による古道調査が行われ、その後は只見町の有志による踏査行が20年ほど続けられた。
同じく現在の三条市や魚沼市の有志による踏査も行われたが、平成23年(2011)新潟福島豪雨により大規模に損壊し一般の通行が困難になる。
平成25年(2013)から筆者は、只見の有志に加え三条と魚沼の有志とともに再調査を開始し、八十里越えの道筋にまとめた。
活動が実り、行政も再活用へと動き出し、教育委員会の調査も進んだことから、平成29年度(2017)からは3市町の教育委員会及び生涯学習課よる「八十里越調査保存整備委員会」が発足し、筆者も委員として協力させていただき、八十里越えを国指定の史跡を目指して活動している。
国道289号線「八十里越道路」は、4年後の令和8年(2026)に開通予定で、主として明治新道からなる歴史の道の通行も、同時に開放できることを目標として事業を進める現状である。
《記・長谷部(会津のタウン誌に掲載したものを加筆修正したもの)》

八十里越えの近世

八十里越えの歴史は雪崩や自然災害による道路被害とその復旧作業の歴史でもある。
天保14(1843)年の八十里越大改修は吉ヶ平から鞍掛峠までは越後の村松藩、その先から叶津までは幕府の分担で経費は546両の大工事であった。
同年9月19日に吉ヶ平から塩を積んだ馬10頭が八十里越えを越えた。
八十里越えの道路補修が困難を極めたのは、吉ヶ平から入叶津までの32㎞の間に集落が全くなく、作業要員や資材の調達に大変不便だったことがあげられる。
慶応4(1868)年に鳥羽・伏見の戦い、いわゆる「戊辰戦争」が勃発。
5月には長岡城落城。長岡藩主父子、婦女子、家臣団が八十里越えで会津に退く。
8月村松開城、長岡藩士家族、人夫等5000人以上が八十里越えを敗走。長岡藩総督河井継之助もこの時会津に逃れる。
9月8日、慶応を明治と改元。
新政府軍が八十里越叶津口留番所を接収。
明治2(1869)年、新政府軍が全国の関所を取り払い、通行が自由となり八十里越も往来が自由となった。
明治6(1873)年、八十里越えの改修工事が行われたが、道路としての体裁を整えるまでには至らなかった。
明治14(1881)年、会津側は新八十里越え「富貴平線(叶津-遅沢―富貴平)」を開削。
明治22(1889)年、「富貴平線」の工事が行き詰まり、工事困難な「富貴平線」を破棄。別ルートで叶津-木ノ根峠の新道を開削。
明治27(1894)年、新八十里越えが完成。明治33(1900)年の八十里越の通行人員18,500人。
この頃、吉ヶ平と叶津は八十里越えの宿場として栄える。
大正3(1914)年、岩越鉄道(現磐越西線)が全通。
大正15年(1926)年、大水害により八十里越えも被害甚大、物資や人は磐越西線を利用するようになる。
空堀、遅沢、田代平にあった小屋も次々閉鎖。
昭和45(1970)年、吉ヶ平集団離村。八十里越えは草刈りもなく、路肩の補修工事もないため、廃道に近い箇所多数となる。
昭和48(1973)年、下田村山岳会と有志「歴史の道、八十里越」の保存運動をおこす。
吉ヶ平の旧小学校を改築し、「吉ヶ平山荘」と命名。
総勢25名が明治27年開削の八十里越を叶津まで踏破。
《記・吉田》

深掘りスポット

叶津番所跡(旧長谷部家住宅)

福島県指定重要文化財
只見町叶津居平456
只見線只見駅より約3km
駐車可能
明治維新まで八十里越えの番所であり、番所前の三叉路が八十里越えの起点になる。

只見町のパンフレット
番所跡管理人のフェイスブック

ミニ知識

国道289号線

八十里越えは昭和45(1970)年に国道289号線に指定された。
国道とは名ばかりの自動車が通行できない、いわゆる「点線国道」である。
古道八十里越えの北に八十里越自動車道路の建設は数十年前から行われているが工事は難しさを極めている。
その理由は、日本有数の豪雪地帯であり、半年しか工事が出来ないこと、県境の越後山脈は急峻な地形でトンネル11本、橋梁8本の建設が必要なこと。
なかでも3,168mの9号トンネル(仮称)は地形上、三条市側からのみの一方掘削という厳しい工事であったが、平成22(2010)年に貫通し、国土交通省から2023年に自動車が通行可能になるとの見通しが示された。
自動車道路の開通により八十里越えを取り巻く環境は飛躍的に変化し、同地域の発展が期待されるところである。
《記・吉田》

司馬遼太郎『峠』

司馬遼太郎の長編時代小説『峠』は、幕末の長岡藩家老・河井継之助を主人公とした小説である。
戊辰戦争で官軍に敗れた河井継之助は、鉄砲で撃たれて重傷を負い戸板に載せられて、この八十里越えを敗走する。
この『峠』によって八十里越えが広く世間に知られることになった(最近、映画にもなった。『峠 最後のサムライ』)。
「それにしてもこの峠の長大さは、どうであろう。樹海は眼下にあり、道は天空に連なってゆく」
司馬遼太郎は八十里越えをこう表現している。

まつわる話

埋蔵金伝説

戊辰戦争に用意した長岡藩の軍資金は11万両、そのうち半分は八十里越を越えたと言われている。
藩主の奥州での生活資金と河井の藩再興のための軍資金である。
河井の運んだうちの3,000両が山中に隠されたとか、移動の際紛失したと伝えられている。
八十里越え山中の大木の根本や、沼ノ平の湖中などの伝承があり、明治になると越後の人が探しに来たと伝えられ、大正時代には叶津集落の人も捜索している。
また、一説には当時の越後の運搬人に、明治になり財を成した人がいるとも伝えられている。
叶津番所の伝承では、写真の位置に長岡藩の千両箱が積み上げられ、床板が重みで垂れ下がったと伝えられている。

沼ノ平の大砲投棄伝説

戊辰戦争時の長岡藩が、八十里越えで大砲(一説にはガトリング砲)の運搬に困り、沼ノ平の湖中に沈めたとする伝承がある。
しかし会津で西軍と戦おうとする中で、すでに長い八十里の山中を越えてきて、里まで残り一里程に来てから放棄するとは考えにくく、後年呼ばれるようになる大砲沼には、台座など何らかの硬木があり、村人が材の一部を採取して利用したと伝えられている。
会津での戦闘を終えた北陸の諸藩が、八十里を越えての帰藩の際に、必要がなくなった大砲などを、沼に埋没処分したのではと考えられる。

高倉宮以仁王伝承

八十里越えの伝説の中で最も知られたのが「高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)伝承」である。
以仁王は、平安時代末期の皇族で、後白河天皇の第三皇子。三条宮や高倉宮と称される。
源氏に平氏打倒の挙兵を促したが失敗し、『平家物語』には光明山鳥居の前で討たれたとある。
しかし、東国に逃れたという伝承が会津や越後には多々残っている。
八十里越えにおいても、入叶津から吉ヶ平の間には以仁王にまつわる地名(猿楽、御所平、烏帽子、桜の窟など)がいくつも見られ、しばらく吉ヶ平に居住したともいわれている。
「富士を見ぬ人に見せはや陸奥の朝草山の雪の曙」
は、以仁王が詠んだものだという。

ルート

天保古道コースタイム

(一般登山者が通行可能部分のみ)
浅草岳入叶津登山口
↓40分1km ↑25分
中片(尾根上に出たところ、叶津川眺めの標柱あり)
↓40分1km ↑25分
山神杉(浅草岳登山道分岐、立ち入り制限ロープ)
(この先は「只見自然ガイド」の同行が通行許可条件になります)
↓20分0.5km ↑25分
小三本沢
↓15分0.5km ↑10分
沼ノ平笹沼、古道跡分岐(古道跡は地すべり及び密薮で一般通行不能)

明治新道コースタイム

(休憩時間なし)
浅草岳入叶津登山口(工事中の国道歩行)※1
↓70分4.6km ↑70分
大麻平明治新道入口(駐車スペースなし)
↓50分1.8km ↑40分
化物谷地の沢
↓25分0.9km ↑25分
名香沢
(名香沢からは中級以上の登山者のみ通行可能)
↓20分0.5km ↑20分
一等水準点
↓50分1.7km ↑50分
松ヶ崎(山ノ神)
↓50分1.5km ↑50分
木ノ根峠(八十里峠)
※1登山口から300m先に国道工事ゲートあり、許可を受けない車両は通行不可

吉ケ平自然体感の郷から木ノ根峠まで

吉ケ平山荘
↓ 20分 0.7km
馬場跡
↓ 60分 2.0㎞
椿尾根
↓ 70分 1.9km
番屋乗越
↓ 40分 1.3km
火薬跡
↓ 50分 1.2㎞
ブナ沢
↓ 50分 1.3㎞
空堀
↓ 20分 0.9㎞
殿様清水
↓ 45分 1.5㎞
鞍掛峠
↓ 40分 1.1㎞
小松峰
↓ 30分 1.2㎞
田代平
↓ 20分 0.8㎞
林道分岐
↓ 45分 0.6km
八十里峠(木ノ根峠)

アクセス

《浅草岳入叶津登山口》
国道289号線に沿いにあり、JR只見駅から約7km、タクシーで5分程度
駐車台数は10台程度で、5月末から11月初めまで簡易トイレが設置されている。

《明治新道大麻平入口》
明治新道大麻平入口へは、入叶津登山口から工事中の国道を約5km歩く。
1時間強の歩行時間。
入叶津登山口から100m先に、国道の工事ゲートがあり一般車両は通行禁止
(福島県南会津建設事務所で車両通行の許可を取ることも一応可能)

《木ノ根峠》
木ノ根峠から魚沼市の登山口の林道ゲートまで2時間程度
大白川に宿を取れば、峠から1時間程度の林道中間まで送迎可能

《吉ヶ平自然体験の郷(吉ヶ平山荘)口》
北陸道三条燕I.C.から吉ヶ平自然体験の郷(吉ヶ平山荘)まで車で約70分
(タクシーは予約が必要)

参考資料

《参考文献 》
○長谷部忠夫『八十里越の道筋』 平成28年(2016) 、再刊予定なし(報告書の刊行予定あり)
八十里越各ルートの詳細な研究報告書。調査記録など
(閲覧可能場所:日本山岳会図書室、国立国会図書館、福島県立図書館、福島県立歴史資料館、会津図書館、只見町内の施設、新潟県立図書館、三条市図書館、魚沼市図書館、長岡市図書館、新潟県側の八十里隣接施設など)
○高桑真一『古道巡礼』 東京新聞出版局 平成27年(2015)、 ヤマケイ文庫
八十里越については裏街道(間道)の記述あり
○『八十里越(国道289号)-記録が語る歴史の道- 』 北陸建設弘済会 平成8年(1996) 、再刊予定なし
八十里越古文書の解説、末尾折込地図付、地図については誤りも多い
(閲覧可能場所:国立国会図書館、福島県立図書館、新潟県立図書館、新潟市立図書館、三条市図書館、魚沼図書館、長岡市図書館など)
○『新潟県歴史の道調査報告書 八十里越、六十里越』 新潟県教育委員会、平成7年(1995)、絶版
八十里越の新潟県側、三条からの詳細な記述。報告書としては読みやすいが誤りもある
(閲覧可能場所:国立国会図書館、新潟県立図書館、新潟市立図書館、長岡市図書館など)
○『歴史の道調査報告書 沼田街道、八十里越、六十里越』 福島県教育委員会、昭和61年(1986)、絶版
八十里越の福島県側、六十里越も記載。明治道のみで近世の道に誤りが多い
閲覧可能場所:国立国会図書館、福島県立図書館、福島県立歴史資料館、会津図書館など
○『八十里越』 北陸建設弘済会、平成元年(1989)、絶版
八十里越の詳細な解説で、読みやすく一般向けの書籍。
(閲覧可能場所:福島県立図書館、会津図書館、新潟県立図書館、新潟市立図書館、三条市図書館、長岡市図書館など)
○『八十里越(国道二八九号)記録が語る歴史の道』 北陸建設弘済会、平成8年、絶版
○鈴木由三郎『忘れえぬふるさと 吉ヶ平物語』雨生会、2014年
○新潟県山岳協会(監修)『新潟100名山』新潟日報事業社
○羽賀一蔵『越後佐渡の峠を歩く』新潟日報事業社
○司馬遼太郎著『峠』新潮社、1968年6月

《古地図、絵図、古文書 》
○「岩代国若松県第一大区全図」若松県、明治9年(1876) 、原本不明
内容:会津郡(南会津郡と会津若松市の粗全体)の地図。特に測量によると考えられる赤色の街道の位置は特筆すべき精度の地図で、明治初期の地図を代表するといっても過言ではない。
(閲覧可能場所:南会津山の会復刻版は、会津図書館、福島県立図書館など)


○西潟為蔵「南神原葎谷ヨリ南会津郡叶津村へ通スル直径絵図面」(八十里越新道計画図)、明治16年(1883)、新潟市立文書館蔵(No.20024890)
西潟為蔵が資産をつぎ込み調査し製作したもので、当時の予定ルートがわかる。特筆すべきは明治初期までの近世の道筋が、明確に記載されていること
(閲覧可能場所:新潟市立文書館(事前の許可及び予約が必要))
○「八十里越叶津番所 古文書」(福島県重要文化財、長谷部家文書) 、近世から近代
〈八十里越えや叶津集落に関する文書及び絵図など3000点以上(以下に代表画像掲載)〉
○「八十里道普請人足凡積書上帳」(天保14年古道普請帳) 、福島県重要文化財、長谷部家文書1644(一部長谷部忠夫所有 福島県立歴史資料館寄託)天保8年(1837)
天保14年改修の古道(天保古道)の人足見積もりから、新ルートの改修など読み取れる
(閲覧可能場所:福島県立歴史資料館(撮影等も可能))

○「叶津村絵図」福島県重要文化財、長谷部家文書2359(長谷部忠夫所有、福島県立歴史資料館寄託)近世後期
叶津番所から八十里越に至る道筋や、沼田街道(蒲生街道)が読み取れる
(閲覧可能場所:福島県立歴史資料館(撮影等も可能ですが掲載時には許可が必要))

○「会越八十里越山道ノ絵図(部分)」天保15年(1844)、佐藤友右衛門旧蔵(天保の改修に資金を負担した)
八十里越全体を表した代表的地図、天保14年の改修後に製作された
(閲覧可能場所:新潟県立文書館(新潟県立図書館)許可を得ての閲覧)
○『新編会津風土記』黒谷組(八十里越部分) 会津藩、享和3年(1803)~文化6年(1809)
会津藩領に関する地誌で、近世の日本地誌の代表作。八十里越えも詳細に記述
(閲覧可能場所:新潟県立図書館の佐渡越後ライブラリーでウェブ閲覧可能、近代の活字本より明瞭)
○「正保越後国絵図」正保年間(1644~1648)制作の新発田藩の写し、新発田市歴史図書館所蔵
越後全体の絵図で大変美しい。近世初期の八十里越が読み取れる
(閲覧可能場所:新潟県立図書館の佐渡越後ライブラリーでウェブ閲覧可能)

協力・担当者

《担当》
(福島県側)
日本山岳会福島支部
長谷部忠夫(執筆)
(新潟県側)
日本山岳会越後支部
吉田理一(執筆)
井口光利(執筆)
佐久間雅義(写真)
《協力》
高桑信一
高木昭
八十里クラブ
(敬称略)

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