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35 石動山多根道

石動山 多根道

古道を歩く

金沢方面から石動山へ

金沢方面から石動山(せきどうさん)へ向かうには、「のと里山海道」を北上し、千里浜ICあたりで国道159号に入り、中能登町にある道の駅「織姫の里・なかのと」やショッピングモールのアル・プラザ鹿島など商業施設から、主要地方道の石川県道18号氷見田鶴浜線に入り、氷見へ向かうコースが近くてわかりやすい(この道を国土地理院の地形図で見ると、氷見の海岸までの沿線に7か所の水準点が埋設されており、国道昇格の狙いが窺える)。
石川と富山県境の荒山峠の手前で分岐を左折し、林道城石(しろいし)線に分け入る。
林道とはいえ稜線を走るドライブに快適な舗装道路である。
途中、左側に「城石線展望台」がある。
標識が立つ広みがあり、数台駐車できる。
丸太の階段を3分ほど登ると、荒山合戦の小柴峠砦跡に木製の展望台が構築され、富山湾に浮かぶ立山連峰や遥か白山が眺望できる。
登り口の藪化した切り分け道は石動山七口の一つ「荒山道」の遺構で、越中側の石動山七口の一つ「角間道」も尾根筋で「荒山道」に合流していたようだ。
さらに林道を進むと直ぐ先の右側に「荒山口阿弥陀三尊板碑」を示す標柱がある。


林道に車寄せして藪道を行くと3分ほどで板碑に着く。
案内板には、阿弥陀三尊の種子(しゅじ)を示す梵字の「サ」・「キリーク」・「サク」を円相に配した板碑で、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で織田信長が急死し戦雲急を告げる中、9日後の6月11日、石動山衆徒らは戦の近いことを予期し逆修講(ぎゃくしゅうこう)を結び、この板碑を造立して死後の冥福を祈った。その後、7月26日、前田利家との合戦で多くの衆徒が討死し石動山は全山焼失した(石動山合戦)、とある。
薄暗い樹林帯にひっそりと立つ自然石の板碑に、数本の卒塔婆(そとば)を立て掛け生花が手向けてあり、合掌し頭を垂れる。
石動山七口の一つ「二宮口」から登って来る林道石動山1号線が合流すると間もなく三叉路で、右へ石動山の山内に入る林道石動山2号線が分かれている。
多根町から出発したいので、石動山には向かわずに林道城石線をさらに北進する。
多根ダム湖やコロサスキー場への道を分けて緩く下り、水田が開けると七尾市多根町の集落に着く。
往古の多根村は、360坊に3000人の衆徒が住まいした石動山に、米や味噌と七尾湾の海産物など食材を担ぎ上げて商いし繁栄した集落である。
周りを森林に囲まれたのどかな田園集落に、立派な建物の多根町ふれあい研修センターがあり、左隣の山裾に多根伊弉那岐(たねいざなぎ)神社が鎮座している。
段差のある石段の参道を上り、日本の国土を生んだ始祖神の伊弉那岐命(いざなぎのみこと)を奉る古社に参拝する。

都より奉幣の勅使が石動山へ下向すると、伊須流岐比古神社の「鑰(かぎ)取役(とりやく)」を担っていた多根の桜井四位(しい)家に宿泊され、翌朝入山されるしきたりがあったと伝わる。   
「鑰取役」とは、社殿の鍵を預かり、祭事の際に扉を開閉し、賽銭を保管する役で現在の氏子総代に当たる。

多根伊弉那岐神社から石動山山頂へ

多根伊弉那岐神社を出立する。
古来の「多根道」は多根伊弉那岐神社を背に参道を直進し、熊淵川支流(ハザードマップには「多根川1号」とある)を渡って丘陵を越え、かいる田川(ハザードマップには「多根川2号」とある)を渡って山間に入り、穴坂川の左岸を遡っていたようだ。
しかし耕地整理で農道や植林のための林道が開削されて地形が変わり、古道の痕跡は見当らない。
神社の参道入口に赤い前垂れを掛けた石地蔵が安置してある。
農道の整備で当地へ移設されたようだ。
蓮華座に微笑みを讃えた高さ28.5cmの地蔵菩薩坐像で、前垂れを捲り上げると右手が石動山を指差し、光背の上部は欠損しているが「□道山道」と刻した道しるべの地蔵様である。
江戸時代後期の安政3年(1856)、石動山大善院の僧旭厳が施主として建立したことが記されている。
道しるべの石地蔵が指をさす林道城石線を行く。

約600m先で城石線から農道に分け入り、かいる田川を渡る地点に張られた通行止めのクサリを跨ぎ、七尾市と中能登町の行政界を分ける小尾根を切通しで抜ける。
深くて底の見えない穴坂川左岸の藪化した平坦な地道を行く。
6月初旬は、甘いキイチゴや桑の実を摘まみながら歩いた。
切通しから約500mでササ薮に阻まれ前進できなくなる。
現況を判断すると、穴坂川が二分する両岸の急崖に架けられていた永久橋が洪水で流されたらしく、橋げたの残骸が谷底に見える。
ササ藪を伐り分けて崖を下り、二本の谷を徒渉して右岸に上がる。
林道の跡が残るスギの植林帯に、古い「石動山豊かな森林案内図」があり、旧来の「多根道」に繋がる。
この辺りは古絵図に描かれている「二の橋」や「六地蔵」の地点と思われるが現認できない。
穴坂川の左股の谷に沿う「多根道」を遡る。
20年ほど前、石川県が「石動山豊かな森林事業」として整備したが、その後補修されず現在に至っている。
雑草が伸び灌木が繁茂して道形が不明な個所もある。
谷に架けられた木製の橋は腐って板が抜け落ち、渡渉を強いられるところもあるが、現在は足場板をかけてある橋もある。
途中、塗装が剥がれ色のあせた「遊歩道多根道」の案内板があり、「御前谷渓流路」と明記し、10か所の橋が細かく図示してある。
国土地理院の2万5000地形図で10か所の小橋が読み取れ、右岸と左岸を渡り返す道筋が分かり、地形図の正確な表示を再認識する。
10本の橋を順次に渡り終えて沢と離れ、やや急な坂道を登ると、多根の神社から約3km1時間30分ほどの道程で標高約500mの峠に着く。
峠の十字路を左折すると林道亀石線に出て、林道の終点から階段道を登るとパノラマ展望台があり、どっしりとした石動山の「大御前(おおごぜん)」が間近に見える。

直進する道は「多根道」の延長で、畑が点在する山腹のぬかるんだ小道を下って行くと、石動山資料館の前に出ることになる。

また、右折すると、歩道の脇に「庚申供養塔」が安置され、尾根伝いに石動山城跡を経て「大御前」に至る。

この古道を歩くにあたって

ハイキングコース
周回コースではないので、出発点に戻る場合は事前に車両など用意が必要
石動山の史跡巡りも是非

古道を知る

石動山の位置

石動山は南北に細長く日本海に突き出る能登半島付け根の、石川・富山県境に連なる「石動・宝達山地」の北端に位置する標高点564mの山である。
ブナの原生林が茂る山頂に立つと、東に富山湾を隔てて立山連峰や北アルプス、南に白山連峰、北に七尾湾や奥能登の山並みを望むことができる。
行政的には石川県鹿島郡中能登町と七尾市や富山県氷見市に跨る山地で、能登国定公園や石川県営能登歴史公園に含まれている。昭和53年(1978)に文化庁より国指定史跡に認定された。

石動山の開山伝承

石動山の開山を伝える古文書に「古縁起」と「新縁起」の二通りがある。「古縁起」
の『石動山金剛証大寶満宮縁起(せきどうさんこんごうしょうだいほうまんぐうえんぎ)』には、約2100年前の崇神6年(紀元前92)播磨国の西国三十三観音霊場第二十六番の法華山一乗寺を創建した方道(法道、ほうどう)仙人とし、中興の祖を奈良時代の養老元年(717)智徳上人(ちとくしょうにん)とする。一方、「新縁起」の『伊須流岐比古(いするぎひこ)神社縁起書』は、智徳上人と同年代の養老元年白山を開いた泰澄大師(たいちょうだいし)としている。

石動山の山名由来

石動山が立地する「石動・宝達山地」は、固い飛騨変成岩類の上に中・新生代の地層が積み重なり、極めて脆く地滑りしやすい地質で構成されている。
人々は山地が震える天変地異に、荒ぶる石動彦神(いするぎひこのかみ)が宿る恐れ多い山と畏敬し、「いするぎやま」とか「ゆするぎやま」と呼び、現在は訓読みで石動山(せきどうさん)と呼称されている。

石動山の全盛期

石動山に鎮座する伊須流岐比古(いするぎひこ)神社は、平安時代中期の「延喜式神名帳」に記載され、格式ある神社として崇められていた。
平安時代の末期に入ると石動彦神を祀る石動山信仰に、外来の仏教を取り入れた神仏習合が進み、五社権現と呼ばれる真言密教の霊場として知られた。
全国各地から修験者が集まり、神に奉仕する傍ら仏教徒として活躍し、山内は石動山天平寺としての形態が整えられ、鎌倉時代の最盛期には360余坊、約3000人の衆徒を有していた。

五社権現と本地垂迹説

本地垂迹とは奈良時代に中国から仏教が伝来し、神の国である日本に仏教を広めることを目論み、世の人を救うため仏様(本地)が神様に姿を変えて(垂迹)、この世に現れたとする神仏習合の説が唱えられ、神仏同体の有様を権現という。
石動山を始め国内の社寺には、諸々の神仏が共存する権現信仰が展開された。
本地垂迹の思想は民衆に受け入れられ、明治時代初めの神仏分離・廃仏毀釈まで続いた。

石動山七口

石動山は「石動山七口」と呼ばれる七筋の登拝道を有していた。
越中の氷見側から、角間口・大窪口・平沢口・長坂口の四口、能登側から二宮口・荒山口・多根口の三口が通じていた。
七口の登拝道の途中に「下馬札」とか「御下馬所」と称する大日如来の板碑(いたび)や庚申塔などを配置し、神聖な山内の境界を示す結界の役目をしていた。
「大窪口」は越中口とも呼ばれ氷見側からの表参道。
「二宮口」は加賀や能登側の表参道と自負していたようだ。
中能登町二宮の街角に「二宮口」を示す「石動山本社迄従是五十八町」と彫られた、高さ180cmの大きな石柱の里程標が立ててある。
五十八町は約6.3km(一町109m)で現行の距離に見合っている。

多根口庚申(青面金剛)塔

石川県教育委員会が発行した『歴史の道調査報告書』に記載されている「多根口庚申(青面金剛)塔」の在り処を探し、多根伊弉那岐神社の周辺を歩きまわる。
入口に農機具の納屋がある構えの大きな民家に桜井名の表札があり、桜井四位家の子孫宅と思われる。
不在のため無断で庭内に入り込むと、庭木に隠れるような小祠がある。
藪を掻き分けて個人宅の不可解な小祠を覗くと、探していた庚申塔が奉安されていた。
庚申塔の塔身は高さ44cmの将棋の駒形で、永年、屋外に置かれていたらしく、風化して像容は分かりにくい。
頭部に日と月を配し、六臂(ろくぴ)の右上手に宝剣、右手に金剛杵(こんごうしょ)(?)、右下手に矢、左上手に宝輪、左手に弓を持ち、左下手にショケラといわれる半裸の女人像の髪を掴んでぶら下げ、左右に童子を従え、邪鬼の上に直立する奇妙な青面金剛(しょうめんこんごう)の姿である。基部には見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が浮き彫りされ、台座に「為息災延命所願円満」の文字が刻されており、石動山の宝池院が施主とある。
金剛像が画像として描かれる場合は、憤怒の形相で身体が青色に塗られることから青面金剛ともいわれ、病魔を除く庚申の本尊として信仰されていた。
多根でも庚申の日は息災延命を青面金剛に祈り、集落総出で酒や肴を持ち寄り、賑やかな一夜を過ごしたのであろう。


富山湾に注ぐ熊淵川の本流に沿う石動山七口の「大呑(おおのみ)口」や、七尾の能登生国玉比古(のといくくにたまひこ)神社を起点に能登国分寺を経由した「所(ところ)口」と、さらに七尾城からの道が「多根口」で合流し、石動山へ向かっていたようだ。
「多根道」は石動山天平寺に登拝する参道であり、商いの道であり、上杉謙信が陣取る七尾城の侍が走破した戦の道でもあった。

ミニ知識

いするぎ法師

いするぎ法師とは僧侶でも神官でもなく修験者・山伏である。
霊力を体得するため山野を駆け巡り、呪力・神通力・験力(げんりき)を身につける抖擻(とそう)行(峰入り)前に、山内の籠堂(こもりどう)に籠り修行した。
一山運営のため、いするぎ法師たちは北國七か国を訪ね廻り、護符や霊薬を配り、知識米と称する米錢の喜捨を乞うていた。
時には強圧な態度に「いするぎ坊主の名を聞けば泣く子も黙る」と恐れられた。

湯立神事

境内の「イワシが池」は、仏前や神前に供える水を汲む閼伽(あか)の池で、かつて大飢饉の際に、イワシが湧いて飢えをしのいだという伝説があり、イワシが池は石清水が訛ったともいわれている。
閼伽水を釜で煮立てた熱湯にササを浸して参拝者に振り掛け、無病息災を願う湯立(ゆたて)神事が挙行されていた。
直径184cm・深さ30cmの大きな鉄釜は「開山堂」が移築された氷見市中田の道神社境内に保管されている。

荒山峠

主要地方道の石川県道18号氷見田鶴浜線を走り、荒山峠を越え富山県側に入ると、峠の地蔵様の前に立派な石柱と案内板が立ててある。
明治22年(1889)世界的な天文学者であるアメリカのパーンヴァル・ローエルが、氷見から徒歩で荒山峠を越え能登へ旅したという。
石動山の参詣者や商人が越えた峠で、二軒の茶屋が繁盛していたそうだ。

石動山ユリ

石動山一帯に自生していたヤマユリで、匂いが強く「ニオイユリ」とも呼ばれる。
直径20cmほどの大きな白い花弁に赤い斑点があり、90個もの花を付ける株もあるという。
近年、乱獲が祟り絶滅の危機に瀕している。
バイオ技術で増殖し育てたユリを持ち寄り、毎年7月中旬に山内の大宮坊で「石動山ユリ展」が開催されている。

大御前 石動山史跡

尾根道を200mほど登ると高台の平坦地が石動山城の本丸跡だが、礎石も石垣もない。
戦いの歴史は中世に始まるが、林道城石線の「荒山口阿弥陀三尊板碑」で述べたように、天正10年(1582)本能寺の変の混乱に乗じ、越後の上杉方についていた能登畠山氏が蜂起し、天平寺衆徒と共に石動山に立て籠もったため、前田利家や佐久間盛政らの織田軍に焼き討ちされ、全山焼亡したと伝わる。
城跡を後に尾根道を行くと、簡易舗装された歩道が蒼く苔むし滑って危ない。
鞍部に下ると礎石や石段が残る「梅宮(うめのみや)跡」で、左へ伊須流伎比古神社に下る道が分かれている。
「梅宮」は石動山五社権現の一社で、天目一固命(あめのまひとつのみこと)を祭神、将軍地蔵菩薩を本地とする鎮定大権現(ちんていだいごんげん)が祀られていた。
「梅宮」の社殿は七尾市三島町の金刀比羅神社に移築され、本殿として現存する。

息を切らして石段を上り詰めると石動山の最高所で、標高点564mの「大御前」に到達する。
標高の低い山に珍しくブナの原生林が茂る「大御前」には、五社権現の中心である伊弉諾命(いざなぎのみこと)を祭神、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本地とする大宮大権現と、泰澄大師が白山開山で感得した伊弉冉命を祭神、十一面観世音菩薩を本地とする客人大権現(まろうどだいごんげん)の二柱が祀られていた。
現在の社殿は近年の建物だが相当に傷み、歪んで板戸の開け閉めがままならない。

荒れた石段道をジグザグに下ると、礎石が並ぶ跡地に数本の樹木が生えた「火宮(ひのみや)跡」がある。「火宮」は五社権現の一社で、大物主神(おおものぬしのかみ)と加具土神(かぐつちのかみ)を祭神、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を本地とする火宮蔵王大権現(ひのみやざおうだいごんげん)が祀られていた。
右足を上げ左足で踏ん張る異様な姿の蔵王権現像は、山岳修験の開祖と崇められる役行者(えんのぎょうじゃ)が感得した神仏で、奈良県の吉野や大峰山を本拠地とする修験道の本尊であり、石動山の衆徒は大峰山の奥駆修行に出向いていたのであろう。
「火宮跡」の直下に小堂の「剣宮(つるぎのみや)跡」がある。「剣宮」は五社権現の一社で、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神、倶利伽羅(くりから)不動明王を本地とする降魔(こうま)大権現が祀られていた。
ここを以て、石動山五社権現の跡地すべてを巡見したことになる。
鬱蒼としたブナの原生林を下った平坦地に大工の仕事場と思われる「作事場跡」の標柱が立つが、草藪で痕跡は見当らない。
「作事場跡」の前の道は石動山天平寺の正面入口に通じ、中ほどに入母屋造で八脚の「仁王門跡」がある。
「仁王門跡」を下って行くと林道石動山2号線からの登り口に、立派な「史跡石動山」の石柱が立っている。
明治初めの廃仏毀釈で、仁王門は中能登町の長楽寺の山門、一対の金剛力士像は同じく中能登町の本土寺の仁王像として現存している。
「作事場跡」を過ぎると「行者堂」が建立されている。
山岳修験道の根本を成す御堂で、高下駄を履き手に錫杖を持ち岩に腰かけた開祖役行者が祀られていた。
「古縁起」には、奈良時代の霊亀2年(716)に来山し、求聞持頭巾法(ぐもんじときんほう)を説いたと記されているという。
神仏分離直後の明治7年(1874)、山内の建物と同様に行者堂は金19円で売却され、中能登町の天神社拝殿として移築されていたが、昭和63年(1988)当地へ里帰りした。
「卍(まんじ)」の印が刻された木戸の閂(かんぬき)を外して中へ入ると、仏壇は空洞となっていた。
風の便りに、役行者像は奥能登の個人宅に所蔵されていると聞くが、里帰りして行者堂に奉安されることを祈る。


「玉橋跡」を通り越し静寂な道を東に向かって行くと、伊須流伎比古神社の大きな「拝殿」の真横に出る。
「講堂跡」の広場から「拝殿」の正面を拝観すると、入母屋造の壮観な屋根が美しい。
「拝殿」は五社権現の5つの神輿(みこし)を納めていた「神輿堂(権現堂)」を「講堂跡」に移築したもので、江戸中期の元禄14年(1701)の建築とされ300年を経て老朽化し、縁側を取り巻く欄干が壊れている。
元の拝殿は現拝殿の外回りに並ぶ大礎石列が示すように、一回り大きな建造物であった。
「拝殿」では毎年7月7日の14時から、泰澄大師の命日に因み開山祭が挙行されている。
「拝殿」から続く屋根を覆った階段の上に、明治7年(1874)山内の四社殿に祀られていた五社権現の御神体を合祀した「本殿」が鎮まっている。
10年ほど前、特別な記念日に「本殿」が御開帳され、懐中電灯を照らして五柱の御神体(本地仏)を伏し拝んだことがあり、神秘的な感動が今も忘れられない。
「拝殿」の背後に廻り、「大師堂跡」や「五重塔跡」を拝見し、「多宝堂跡」から「籠(こもり)堂(峰入り堂)」跡を経て参道を「開山堂跡」へ上がる。
「開山堂」は「古縁起」が説く智徳上人を祀るのか、それとも「新縁起」が説く泰澄大師なのか定かではない。
江戸後期の享和元年(1801)に建立された宝形造(ほうぎょうづくり)の「開山堂」は、明治7年(1874)の廃仏毀釈により金130円で売却され、氷見市中田に鎮座する道神社の拝殿として現存する。
参道を戻り「拝殿」の周辺にある「イワシが池」や、星が天から堕ちて山が揺れ動いたことから石動山と名付けられた、石動山のシンボル「動字石(どうじせき)」を拝み、石の鳥居をくぐり境内を出る。

鳥居の右側に復元された「大宮坊」が威容を誇る。
最盛期には石動山天平寺一山360坊、江戸中期に復興した58坊を支配する貫主(別当寺)として、権威と格式を誇る寺院であったが、明治初年の神仏分離と廃仏毀釈により一山と共に瓦解した。
平成2年(1990)から実施した発掘調査を基に復元工事を進め、平成14年(2002)書院台所棟や番所・御成門などが完成した。

大宮坊前の道路は林道石動山2号線で、直ぐ南に石動山資料館と駐車場があり、峠の十字路から「多根道」が下りて来ている。
「多根道」を登ると間もなく右手の高台が「御廟山(ごびょうやま)」で、開山智徳上人や加賀藩主前田利家を始め歴代藩主の供養塔が並んでいる。


「御廟山」から引き返して林道を少々南下し、多根庚申塔を寄進した「宝池院跡」の横を通り抜けると、江戸中期に再興した58院坊の中で現存する唯一の「旧観坊」がある。
茅葺屋根の農家を思わせる建物だが、院坊としての風格が感じられる。

「旧観坊」の間近に石動山七口の一つ、越中側の表参道とされていた「大窪道」が上がって来ている。
石動山一山の史跡を一巡すると、約2kmで1時間半ほど要する。

庚申供養塔

「庚申供養塔」は高さ82cm幅3cmほどの凝灰岩の割り石で、円相内に種子(しゅじ)を表わす梵字「ウーン」を彫り、「庚申供養塔」の文字が刻まれている。
種子や書体の筆法から江戸時代の造立とされている。種子の「ウーン」が示す神仏は定かでないが、猿田(さるた)彦(ひこの)命(みこと)と想像される。
「庚申供養塔」は「多根口庚申塔」と同様に庚申信仰を信奉する塔であるが、建立した意図に違いがあるように思われる。
「多根口庚申塔」は集落民の息災延命円満を所願し、本尊の青面金剛に祈った信仰の証である。
「庚申供養塔」は庚申の「申(さる)」を「猿」に掛け合わせ、猿田彦命を本尊とする説に加え、天照大神が天孫降臨の際に遣わした瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を先導する猿田彦命にあやかり、石動山天平寺の山内へ導く道しるべの役目を担い、併せて聖域の外界を示す結界石を兼ねているのではなかろうか。

まつわる話

徹夜で酒宴をやった庚申信仰

庚申信仰は古来中国の道教が説く暦で、十干(甲・乙・丙・・癸)と干支(子・丑・寅・・亥)を組み合わせると、甲子(きのえね)・乙丑(きのとうし)・・癸亥(みずのとい)の60通りがあり、57番目が庚申(かのえさる)となる。
60日毎に巡り来る庚申の日には、人の体内に棲む三尸(さんし)という虫が、人が眠ると抜け出してその人の悪事を天帝に密告するという。三尸の虫が活動する庚申の日は、人々が集まり眠らないで徹夜で酒宴をするなど「庚申待」という民間の風習がある。
鎮守の祭事以外に娯楽のない集落における社交の場であり、全国各地に信仰されていた。
始まったのは室町時代とされるが、全国に広がったのは江戸時代になってからだ。
多根でも庚申の日は息災延命を青面金剛に祈り、集落総出で酒や肴を持ち寄り、賑やかな一夜を過ごしたのであろう。

ルート

多根伊弉那岐神社
↓90分3km↑80分3km
峠の十字路(庚申供養塚塔がある)
↓20分0.5km↑25分0.5km
大御前
↓20分0.5km↑20分0.5km
石動山 大宮坊

アクセス

◉金沢方面から石動山へ
「のと里山海道」を北上し、千里浜IC辺りで国道159号に入り、中能登町。
道の駅「織姫の里・なかのと」あたりから、石川県道188号氷見田鶴浜線に入り、氷見に向かって走る。
石川と富山県境の荒山峠の手前で分岐を左折し、林道城石線に入る。
石動山七口の一つ「二宮口」から登って来る林道石動山1号線が合流すると間もなく三叉路で、右へ石動山の山内に入る。

参考資料

石川県教育委員会編 「歴史の道調査報告書」
氷見市教育委員会編「石動山信仰遺跡遺物調査報告書」

協力・担当者

《担当》
石川支部
石森 長博

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