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47 榛名山古道

榛名山古道 妙義山とつなぐ道

榛名山を含む、赤城山、妙義山の上毛三山とその周辺に点在する神社仏閣をつなぐ参詣道も古くから歩かれていました。
このうち、妙義山と榛名山をつなぐ道は、中山道の“タテ”に対して「横道」、「横通し」あるいは山岳信仰者が多かったことから「道者道」ともよばれました。
コースは、妙義神社から松井田に出て、後閑・秋間を通り、風戸峠を越えて日陰本庄(ほんじゃ)に下り、三ノ倉落合から大石・明神平そして八本松を経て榛名神社に至る道です。
総延長27km(7里)、累積標高差+1049m、-672mで、途中ヤブ化している所もあります。
公表された踏査記録も少なく、決して楽な道ではありません。

古道を歩く

はじめに

榛名神社に向かう道と合わせて表妙義山内の道を歩く場合には、『山と高原地図21西上州 妙義山・荒船山』などを参照してください。
なお、2022年春の時点では、通行が規制された区域があります。
また尾根コースなど一般的でないコースがあり、事故が多いです。
くれぐれもご注意ください。
(登山道最新情報のサイト;https://www.town.shimonita.lg.jp/kanko/m03/m05/07.html)
なお、榛名神社までの道を1日で歩く場合は、妙義神社に近い旅館に前泊して早朝出発することをおすすめします。

妙義神社から松井田宿に下る

妙義神社大鳥居の前で神社とその上に見える「大の字」に手を合わせ、群馬県道196号線を北に進みます。

すぐに道は県道213号線と191号線との三叉路となります。
ここを直進し213号線に入ります。
すぐにY字路となり、右にカーブする県道を分け、左の狭い道を行くと復元された黒門が現われます。

ここは松井田宿への道の他、左折すると横川方面(横川道)、右に分かれると安中方面に向かう道(巡見道)の結節点です。
直進して階段を降りると県道213号線に出ます。
下って行くと、右手のガードレールが一部切れて細い道に入る所があります。
標識がないので注意します。
杉林の細い道を下ると民家や畑地が現われます。
行田(おくなだ)の枝垂れ桜、そして「南無大師遍照金剛」の石碑や廻国供養塔など多くの石造物の建つ弘法堂を左に見、桜並木を行くと県道51号線に合流します。

右に折れて県道を行くと上信越道をくぐります。
しばらく行くと交差点「八城」となります。
この手前には、墓地に隣接するように多くの石造物が立ち並んでいます。
またその奥には先倉神社があり、境内には八塔石紅地蔵などがあります。
八城の信号を左に折れ、少し先で東側に入る細い道を行くと保育園があり、その北西側の辻に石造物とともに道しるべがあります。
ここからJR松井田駅に下り、連絡橋を渡って北口に出ます。

階段の多い歩道を北に下り、車道を右に折れると間もなく中瀬橋を渡ります。
橋から100mほどのあたりに、左に上って行く道が現われます。
途中で屈折しますが、道なりに行くと旧中山道との交差点「仲町」となります。
道路元標もあるこの東西が松井田宿で、天保年間の史料によれば本陣、脇本陣と旅籠14軒の小規模な宿場でした。

恵宝沢へ

交差点を北東に進むと、県道122号線につきあたります。県道122号線は、松井田町と榛名山町八本松を結び、まさに妙義と榛名をつなぐみちと言えます。
これから歩く道は、この県道と古道を出入りしながら進むことになります。
県道につきあたった所に文政6年(1823)の道しるべがあり、右に折れてしばらくは県道を進みます。国道18号線をくぐると、道は下りになります。

左にそして右にカーブして下りきると旭橋で九十九川(つくもがわ)を渡り、松井田町国衙(こくが)に入ります。
国衙という地名ですが、律令時代の地方機関「国衙」が置かれていたわけではなく、地名「石馬(こくま)郷」が訛ったものだろうといわれています。
橋から150mほど行くと狭い道と交差します。
ここを左に入り、すぐに右に折れて民家の脇を上って行く古道には、所々に道しるべや地蔵尊、不動明王などの石造物を見ることができます。
年代がわかる道祖神は、近世中期の□和六己丑(1769)年です。

県道216号線を横切り、更に古道を進むと松井田町下増田に入り、再び県道122号線に出て九十九橋で増田川を渡ります。
橋を渡ってすぐ左に折れて古道に入ります。
河岸段丘を上りあげると不動明王や石祠があり、「ボンゼン(梵天)」が立てられています。

この地域のボンゼンは、水神様を祀るために毎年7月末頃作られるようです。
非常に長い竹の先端に、巻き俵を括り付け、数本の御幣束を挿して川のそばに立てます。
ここを回り込んで県道に出て500mほど北進し右手の古道に入ります。
この辺りから安中市中後閑となります。
少し先の五差路に道しるべがあり、ここを直進すると左手の高台に百庚申が現われます。
おびただしい庚申塔の他、猿田彦大神、青面金剛像、道の神様八衢姫命(やちまたひめのかみ)など多種多彩な石造物があります。
他所から持ち込まれたのでしょうか、道しるべの刻まれた寛政四年(1792)の馬頭観音像もあります。

下って行くと集落が見えてきます。
原と呼ばれる集落で、道の清掃や両脇の草の刈り込みも行き届いています。
辻には道しるべが建てられています。
銘には、後に昭和天皇に即位されることとなる皇太子の「ご成婚記念」とあります。

再び県道122号線に出ます。
ここからは、県道を進み、小井戸地区で県道125号線につきあたり、左に折れ、すぐに右に折れて再び県道122号線となり、小井戸橋で後閑川を渡ります。(なお、古くは300mほど上流にある堀之内橋辺りで渡河していたようです。)
橋から150mほど行くと、左の堀之内地区に入って行く道があり、この辻に上半破損の庚申塔が建っています。
この庚申塔の左横に「はるなみち」と刻まれていますが、方向を示す文字や右横の文字の存在が確認できません。

地図情報と地元での聞き込みでは、佐野尻峠に登りあげる古道は2本あったようです。
両ルートとも踏み跡が薄く(あるいは消え)、倒れた孟宗竹が折り重なった所、背の高いササがうるさい所があるなど、里山とは言えない奥深さを感じます。
(ここを避ける場合は、県道を進んで「秋間梅林遊歩道」の看板にしたがって左に折れて遊歩道を進む道(迂回路①)、又は堀之内の天神さんに上がって尾根を北上する道(迂回路②)を選択することができます。)
峠の道しるべは、年代不明ですが「北はるなみち 南みやうきみち」と、「ご成婚記念」の2基があります。
ここから遊歩道を北東に下って行くと、駐車場、公衆トイレや出店が立ち並ぶ、「秋間梅林」の玄関です。

この少し先で左の古道に入ります。
三軒茶屋と呼ばれる地域です。
両側に家屋が立ち並ぶ道を行くと県道を横切り、今度は県道の東側の山際の道となります。
しばらく行くと下りになり、小さな馬頭観音が現われるとその先は秋間川の河原です。
このあたりが古道の渡河位置だったようです。
県道に戻り、恵宝沢橋で秋間川を、続いて般若川を渡るとすぐにバス停「恵宝沢」と、そのそばに金網で囲われた道しるべがあります。

現在群馬県で確認されている道しるべとして最古となる延宝六年(1678)のもので、阿弥陀如来を表す梵字と南無阿弥陀仏を中央にして「これより北 はるなみちなり」、「これよりみなみ みょうぎみち」と刻まれています。
古道は、この道しるべの少し手前を左に折れ、般若川左岸沿いの細い道を上って行きます。
小さな馬頭観音のある辻で左に折れ、二軒茶屋の集落を右に見ながら丘陵地に広がる畑地の中を行くと道しるべが相次いで現われ県道に出ます。
二軒茶屋地区には3軒のお茶屋さんがあり、宿泊の他、風戸峠越えに備え、人馬ののどを潤しお腹を満たすために重宝されたそうです。

風戸峠越え

県道を左に250mほど行くと、右に細い道が分岐しますのでそこを下ります。
石柱とその奥に建つ観音像のある辻を右に折れると、久保川に沿って人家が点在する滝ノ入地区に入ります。

妙義から安中市原市経由で榛名に向かう道が久保川を遡ってきてここで合流しています。
ここから左に折れ、久保川を渡って上って行くと、北陸新幹線の高架をくぐります。
すぐに道が分岐しますので右に進みます。
(左側の道は県道122号線につながる車道で、右に行く古道がヤブ道化している現況を考慮すると、迂回路(迂回路③)として選択するのも一法です。また、滝ノ入地区から石尊山(群馬百名山)に登る参道を選択することも可能です。この参道(迂回路④)は、少しササが増えてきていますが道筋はしっかりしています。)
右側に上る道は、杉林に入るまでの間の繁茂したササに閉口します。
水量の少ない沢を左に見ながら杉林を上って行くと踏み跡が消え、荒れた畑地に出ます。
そこを抜けると農道に突き当ります。
沢の源頭には不動尊が現われます。

不動尊の裏手を回り込んで少し上がると「石尊山遊歩道」に出ます。
ここを左に折れて進むと1軒の民家があり、その先で県道に出ます。ヤレヤレという気持ちになります。
ここからヘアピンカーブを曲がりながら行くと風戸峠に登りつめます。
左手には道しるべの刻まれた宝暦3年(1753)の石碑が建っています。

ここからは下りになります。
右手に大規模な養鶏場が現われ、その向こうに榛名山の全景が見えてきます。
右に大きくカーブする辺りに「関東ふれあいの道」の標識があります。
恵宝沢から般若川に沿って上ってくる「関東ふれあいの道」が左から合流してきます。

その先の標識に沿って左の林道に入って行きます。
杉林の道をしばらく下ると左右に延びる林道に突き当たります。
「関東ふれあいの道」は左に折れますが、榛名道古道は右に折れます。
100mほど先で左に折れ、涸れた谷筋の右岸側の狭い林道(といっても踏み跡は明瞭ではありませんが)に入ります。
しばらく下ると、右側から来る林道に合流します。
このあたりはコンクリート舗装やカーブミラーがあり一安心です。
更に涸沢の右岸を下ると平らな湿地帯に出て不明瞭ながら4本の道が交差します。
ここで沢の左岸側を北に進む道に乗り換えます。
左上に荒れた畑地が見えてくるようになるとコンクリート舗装された農道になり、少しの間、ササがうるさいですが、すぐに県道48号線に出ます。
ここを本庄辻(ほんじゃつじ)と言い、「右めうぎ道」と刻まれた宝暦12年(1762)の地蔵尊が穏やかな表情で私たちを慰労してくれているようです。
(ここまでの下りは非常に分かりにくく、荒れています。迂回路として「関東ふれあいの道」(迂回路⑤)を歩いて県道48号線に下ることができます。不安なく歩けるように整備されています。石造物などの古跡は見当たりません。)

本庄辻から県道48号線を西に向かいます。車両の通行が多いので気を付けましょう。
400mほど行くと、左手道上に「上里見橋場の地蔵尊」(宝暦14年(1764年))などの石造物が建っています。
古くは、ここから烏川を渡河したようですが、文化年間頃から上流にある烏川橋のあたりで三ノ倉に入るようになりました。

三ノ倉から八本松二軒茶屋へ

烏川橋の先で国道406号線と交差します。(国道を東に少し行くと、休憩エリア「榛名川橋ポケットパーク」に公衆トイレがあります。)
交差点「三ノ倉落合」を直進し、県道122号線を北西に進みます。
ここから八本松二軒茶屋までは榛名山麓の緩やかな上りとなります。
信号から800mほど行くと、Y字路があり、この辻に道しるべがあります。「右はるな下三ノ倉村 左くさづ」と刻まれています。

ここから左に向かうのは草津そして信州への街道となります。
私たちは右はるなの方向に直進します。
再び石造物が多くなります。
右手の木立の中にひっそりと佇む裾野神社脇の道しるべやその先の天明5年(1785)の百番供養塔、さらに先にある安永9年(1780)の観音像、これには「右はるな道」と刻まれています。
ここを過ぎ、新久沢橋で榛名川を渡ります。
100mほど先で草津道と分かれて左に折れ、住宅が点在する丘陵地を上って行きます。
1kmほど行くと東西に走る道と交差します。ここを右に少し行ったところに道しるべなど石造物があります。
(県道48号線にあった「上里見橋場の地蔵尊」から渡河していた頃は、三ノ倉を経由せずに本庄からまっすぐ北上し、上室田榛名神社の横を通ってここで合流するルートがありました(GPS軌跡「別ルート」)。)

道を戻って再び北方向に向かいます。1kmほど行くと大石神社です。
社殿背後に大きな岩が鎮座しています。

ここを過ぎ明神橋を渡って行くと、左右に分譲別荘地が広がっています。
そこを抜け、杉林に入ると再び榛名川を渡りますが、そのたたみ石橋の手前に道しるべの刻まれた庚申塔が建っています。
ここを過ぎると二軒茶屋までわずかです。
急坂を上りあげると県道211号線のバス停「二軒茶屋」に出ます。
ここから榛名神社までは「室田道」を参照してください。

この古道を歩くにあたって

(1)長距離となる
ルート上に、コンビニエンスストアや宿泊施設がありません。公衆トイレも限られています。時間配分や携帯する物をよく検討して準備してください。飲料の自販機は所々にあります。
(2)踏破記録が少ない
地理院地図や住宅地図などで歩くコースをしっかり確認しましょう。工事等に伴う交通規制のチェックも不可欠です。複数人で歩くことを強くおすすめします。
(3)一部は踏み跡が薄く、ヤブ化
佐野尻峠越え、風戸峠越えの一部は、踏み跡が不明瞭で、背の高いササや枯れて倒れた孟宗竹が邪魔をしています。
(4)その他
佐野尻峠付近は、タケノコや牛舎の飼料を目当てにしたイノシシが多いようです。風戸峠周辺ではクマの目撃情報がまれに出ています。
また、季節によっては、ヒル(蛭)への対策が必要です。

古道を知る

妙義山(日本二百名山)

城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる妙義山は、白雲山、金洞山、金鶏山、谷急山などを合わせた総称で、南側の表妙義と中木川の谷を挟んで北側の裏妙義に分かれています。
なお、表妙義の白雲山、金洞山、金鶏山もいくつかの岩峰・岩頭の総称です。表妙義の最高峰は白雲山の相馬岳(1104m)、裏妙義の最高峰は谷急山(1162m)です。
妙義山は、いまから約300万年前までの火山活動で形成されました。その後、周囲の柔らかい堆積層が浸食され、溶岩体が露出したと考えられています。特に金洞山は、中之嶽とも呼ばれ、奇岩がいたるところに見られます。その山容と若葉や紅葉が織り成す眺望は、「日暮の景(ひぐらしのけい)」と讃えられています。
表妙義東面中腹には、白雲山をご神体とする妙義神社が建立されています。また金洞山中には、轟岩をご神体とする中之岳神社が建立されています。
妙義山は、妙義荒船佐久高原国定公園に含まれ、日本三大奇景の一つに数えられており、また国の名勝に指定され、日本百景にも選定されています。

妙義・妙義山の呼称

古くはその山容から「嶽」と呼ばれ、史料初出では岩の社を意味する「波己曾神(ハコソ)」、次いで仏教的な呼称「白雲衣山」、そして永禄年間(1560年代)に「妙儀法印・波己曾大明神」と続きます。
これは、神仏習合思想の浸透によるものであろうと考えられます。
山名としては、宝暦五年(1755)の「妙義山」が初出です。なぜ「妙儀(義)」に至ったかは諸説あり、収束していません。

妙義神社

自然神を崇める信仰形態がこの山岳特有の「波己曾神」へとつながり、「波己曾社」が祀られたといわれています。
そして中世の神仏習合によって、「波己曾社」(妙義社)の別当寺として白雲山石塔寺が建立されました。
妙義社と白雲山石塔寺は、幾度かの変革を経てきました。
第1は、中世後期の大永年間(1520年代)に、時の領主高田氏の勢力伸長を受けて行田から現在地に移っています。
第2は、近世になって江戸の東叡山寛永寺の影響下に入り、修験道の行場としての性格は消えたものの、宝暦年間と安永年間に当時の最先端の寺社建築技術を駆使して今日に残る境内と建物を造営しています。
第3に、幕末から明治初期の神仏分離にともない「白雲山石塔寺と妙義社」から「妙義神社」になりましたが、廃仏毀釈の弊害は大きくありませんでした。

妙義への道

妙義山や妙義神社・中之岳神社を参詣する道は、特定の参道というものはなく、中山道(現国道18号線)から、あるいはその脇往還である下仁田道(現国道254号線)から妙義に向かう幾本もの生活道の中から最短ルートを選択できました。
これは、妙義神社直下に門前町が形成され、宿泊や案内人などいろいろな物資・サービスが提供できたことも要因としてあげられます。
門前町へのルートのうち、中山道を高崎方面から来て安中市郷原から入る道(巡見道)(GPS軌跡「巡見道」)、および中山道碓氷峠を越えて松井田町横川から入る道(横川道)(GPS軌跡「横川道」)は、現在も古道の痕跡がよく残っています。
(なお、巡見道は、旧中山道から烏川を渡るまでの間が竹やぶ通過と烏川渡渉となります。迂回して歩くことをおすすめします。)

登山道にみる信仰の痕跡

表妙義の主な登山道は、
①中之岳神社と石門巡り
②妙義神社から中之岳神社に至る中間道
③妙義神社から大の字、奥の院を経由して尾根に上がり、白雲山、金洞山を縦走して中之岳神社に至る尾根道
の3ルートです。
このうち、石造物など信仰の痕跡が多く見られるのは③の尾根ルートです。
「大の字」は大日如来の表徴とされ、かつては柱と竹で大の字形を組み、しめ縄に約三千枚の大日如来のお札を挿したものでした。
「奥の院」では元禄10年(1697)の聖観音石像などを拝することができ、近世以前から祭祀の場所であった可能性が指摘されています。


この「奥の院」までは古くから修験者が入っていたようです。
尾根に上がり「大のぞき」までには、普寛行者(1731-1801年)の系譜である御嶽講(教)によって昭和9年(1934)に建てられた「御嶽三社大神」(御嶽山、八海山、三笠山)の石碑の他、いくつかの割れた石碑や台座などがあります。
修験者の行場であった「大のぞき」の先から中之岳神社に至る尾根上には石造物等の存在は確認できません。
なお、麓の越泉(こいずみ)地区の気佐石神社(袈裟石とも表記)には、「木曽御嶽山 村々の御嶽講社の衆2170人が結集して御嶽山開闢行者本明院木食普寛の供養のため建立」と刻まれた文政2年(1819)の石碑を見ることができます。
また、妙義から松井田町に下る途中の交差点「八城」近くの先倉神社境内には、普寛行者のお姿を線刻した石碑と「御嶽霊三大権現」の石碑が建っています。
これらの石造物の状況を考慮すると、妙義周辺地域において、古くから御嶽信仰が広まっていたことがわかります。

ミニ知識

ウォルター・ウェストンと根本清蔵

ウェストンと妙義

1891年7月30日、ウェストンは、飛騨山脈に向かうために汽車で横川駅に着き、鉄道馬車に乗り換えて軽井沢に向かっています。
この横川駅で見た妙義の岩峰に大きな魅力を感じ、後日ここに挑むことを胸に秘めます。
これが数次にわたる妙義登山のきっかけでした。
また、鉄道横川-軽井沢間が開通した年の1893年8月3日には、横川駅で下車し、アプト式鉄路を見学して近くの坂本に宿泊しています。
これは長野県大町に向かう途中での下車でした。大町から針ノ木峠を越えて立山、前穂高岳に登頂したものの、笠ヶ岳は協力してくれる案内人がなく断念した山行でした。
妙義への登山は、1912年から始まります。8月7日、ウェストンと根本清蔵が中之岳鏡岩(現ゆるぎ岩)に登頂しました。
この時ウェストンが持参した絹製のロープを使用しています。
なお、この1週間前にウェストン、夫人、清蔵の3人は筆岩(現筆頭岩)に東ルートで登っています。
妙義におけるこの最初の登山で利用した菱屋(現ヒシヤ旅館)で、「妙義で一番すぐれた案内人を世話してほしい」と主人に依頼して清蔵が紹介されました。そして菱屋も定宿となりました。)
9月5日には、ウェストン、夫人、清蔵が筆岩に西ルートでの初登頂。
この時に、今でいうロープワークが用いられ、これが日本初といわれています。
同じ日の午後3人で鏡岩にも登頂しています。
翌9月6日は、晴れれば白雲山相馬岳に登るつもりにしていたようですが、雨で断念しています。
1913年7月にはJ.ブライスと、10月にはフレッシュフィールドと妙義に登っていますが、初登頂にこだわっていたウェストンらしく、妙義における登山活動でも筆岩の東ルートからの登攀(1912年)と1913年7月、10月の詳細な登山記録は残されていません。
(現在は、筆頭岩を含む金鶏山全体が登山禁止となっています。

妙義山内の案内人と根本清蔵

近世の妙義には、すでに参詣者相手の案内人がいました。
妙義神社周辺や中之岳神社と石門群は相互に距離があること、またコースを外れると危険な岩場に出てしまうという事情が需要を生んだのでしょう。
ただ、案内人の知識や技術には差があり、途中で立ち往生してしまい別の案内人を雇ったという例があったようです。
ウェストンが妙義で出会った清蔵は、農事の傍ら、旅館からの要請で山案内をしていた人物でした。
清蔵の高い技術力と冷静・的確な判断力は、ウェストンのいう「妙義の30人の案内人の中で随一」で、それは他の案内人も認めていました。
ウェストンと清蔵の信頼関係の深化には、清蔵の家族の暖かいもてなしもあったと思われます。
夫人は訪問に際し、清蔵の子供たちに毎回ビスケットを手みやげとして持参していたそうです。
ウェストン(夫妻)は、旧松井田駅から妙義に入るとき、まず清蔵の家に寄って一休みし、それから菱屋に向かったのでした。
(ウェストン夫妻と清蔵一家との交流については、『登山家W.ウェストンと清蔵』に細やかに記述されています。その中から一部引用しました。)

鉄道と絹ロープ

ウェストンが軽井沢や北アルプスに通う何年かの間に、残っていた横川-軽井沢間が開通し、信越本線は明治26年(1893)4月に高崎-直江津の全線がつながりました。
この鉄道の突貫工事は、軍事的背景の他、当時最大の輸出商品であった生糸(きいと)を長野県・群馬県から東京や横浜まで大量に輸送し、ヨーロッパなどに輸出して外貨を獲得するためでした。
妙義町は、現在は富岡市と合併していますが、その富岡市に日本で最初の官営製糸場(現在は世界遺産「富岡製糸場」)ができたのが明治5年(1872)でした。
養蚕や製糸が盛んな土地柄、ウェストンが持参した絹製の登山ロープには誰もが関心を持ちました。
清蔵の子供でさえ、「あんなもので人間がぶら下がれるのか」と心配したということです。

ウェストンと共に

ウェストンや上條嘉門次の文献等で目にすることの多い写真に、大正2年(1913)8月8日の坊主小屋でくつろぐウェストン、嘉門次、清蔵を撮ったものがあります。
槍ヶ岳登頂を終えた満足感にあふれた三者の表情がよくとらえられています。
「余り感情をあらわさない清蔵の真面目な顔にも、見たことのない感動の様子が見られた」とウェストンが記した時のものです。
ウェストンにとって信頼できるパートナーであった清蔵ですが、清蔵自身もウェストンのあくなき挑戦に応える過程で知識や技術力を増していったようです。
1912年には8月7日の鏡岩登頂直後から、有明山、燕岳、槍ヶ岳、奥穂高岳の登山に同行し、1913年には、槍ヶ岳、焼岳、霞沢岳、奥穂高岳に、1914年には、大天井岳、富士山に同道しています。
最後の方では、案内人という形ではなく、信頼できるパートナーとしての“心の交流”を感じさせます。

ルート

①妙義神社 (標高:502m)
↓75分  4.71km  ↑ 90分
②松井田町松井田(仲町交差点)
↓65分  3.83km  ↑ 65分
③安中市中後閑(久保)
↓60分  2.90km  ↑ 60分
④恵宝沢バス停
↓85分  3.13km  ↑ 75分
⑤風戸峠(標高:502m)
↓55分  3.05km  ↑ 65分
⑥倉渕町三ノ倉落合交差点
↓90分  5.70km  ↑ 85分
⑦八本松(二軒茶屋バス停)
↓80分  4.13km  ↑ 75分
⑧榛名神社(標高:895m)

距離;約27km、どちらを起点にしても歩行時間は約8時間30分

アクセス

◆妙義神社
〈電車〉
JR高崎駅からJR松井田駅
 松井田駅からは、松井田町のタクシーを利用(事前予約が無難)。又は妙義神社の旅館に宿泊する場合は、送迎サービスを利用できることがある(要確認)。
〈高速バス〉
①バス停「松井田仲町」
群馬県と、北陸経由で京都、大阪を結ぶ高速バス(日本中央バス)
◆ルート上の交通アクセス
①上後閑 バス停「小井戸」
運行者:安中市コミュニティ、路線名:柿平線、行先:JR安中駅など
②恵宝沢 バス停「恵宝沢」
運行者:安中市コミュニティ、路線名:秋間線、行先:JR安中榛名駅(新幹線)、JR安中駅など
③日陰本庄 バス停「日陰本庄」
運行者:高崎市コミュニティ、路線名:倉渕線、行先:群馬バス室田営業所(ここで乗り換え高崎駅へ)
④倉渕町三ノ倉 バス停「落合」「雨堤入口」
運行者:高崎市コミュニティ、路線名:倉渕線、行先:群馬バス室田営業所(ここで乗り換え高崎駅へ)
⑤倉渕町明神方面 バス停「新久沢」、「前大石」、「後大石」、「明神平」
運行者:高崎市コミュニティ、路線名:斉渡中北線、行先:群馬バス室田営業所(ここで乗り換え高崎駅へ)
◆榛名神社(「二軒茶屋」から「榛名神社」)
バス停「二軒茶屋」、「さわらび療育園入口」、「山の神」、「下の坊」、「黒門橋」、「榛名神社」
運行者:群馬バス、路線名:高崎駅-本郷-榛名湖線、行先:JR高崎駅

参考資料

◆調査報告書関係
群馬県教育委員会『群馬県歴史の道調査報告書第20集』群馬県教育委員会、平成13年3月31日発行
群馬県教育委員会『群馬県石造文化財総合調査報告書 道祖神と道しるべ 上州の近世石造物一』群馬県教育委員会、昭和61年3月31日発行
妙義町『妙義町の石造文化財』妙義町、平成元年3月31日発行
◆町村誌関係
松井田町『松井田町誌』松井田町、昭和60年12月25日発行
妙義町『妙義町誌 (上)(下)』妙義町、平成5年3月31日発行
安中市『安中市誌 第二巻通史編』安中市、平成15年11月1日発行
安中市『安中市誌 第三巻民俗編』安中市、平成10年11月1日発行
安中市『安中市誌 第五巻近世資料編』安中市、平成14年3月31日発行
◆古文書、古地図関係
「元禄上野国絵図」(元禄15年に前橋藩から幕府に提出されたもの 群馬県立文書館蔵)
『角川日本地名大辞典 10 群馬県』角川書店、1988年7月8日
「秋間三村之図」(安中市『安中市誌第五巻近世資料編』安中市、平成14年3月31日発行)
◆書籍・論文
関口ふさの『歴史と信仰の山 妙義山』あさを社、平成5年4月25日改訂発行 
小林二三雄『登山家W.ウェストンと清蔵』みやま文庫、平成22年6月30日発行
須田茂『群馬の峠』みやま文庫、平成17年8月10日発行
◆紀行文
ウォルター・ウェストン著、黒岩健訳『日本アルプスの登山と探検』大江出版社、1982年10月10日 再版第一刷
ウォルター・ウェストン著、三井嘉雄訳『日本アルプス登攀日記』平凡社、1995年2月10日初版第1刷発行
川村宏、三井嘉雄、安江安宣「W・ウェストン年譜」『山岳1987/Vol.82』、『山岳1988/Vol.83』、『山岳1989/Vol.84』、『山岳1990/Vol.85』
◆登山、ハイキング関係
昭文社『山と高原地図21西上州 妙義山・荒船山』昭文社、2022年版 
上毛新聞社『ぐんま百名山』上毛新聞社、2007年7月25日発行
上毛新聞社『群馬の山歩きベストガイド』上毛新聞社、2019年12月15日発行

協力・担当者

《原稿作成》
黛 利信
《協力者》
悴田 豊(安中市西上秋間)

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