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20 朝日軍道

朝日軍道

古道を歩く

ここでは、鶴岡側の大鳥池から入って南東へと古道をたどり、葉山から長井市へと抜ける方向の紹介をします。

1日目

泡滝ダム大鳥登山口から、大鳥川右岸のほぼ水平な道を南東へと道なりに進みます。
吊橋を渡るとブナの自然林が美しくなっていきます。
七つ滝沢橋の吊橋を渡ると、広場のような場所となり道標が立ち、七つ滝沢左岸の狭い谷へと入っていきます。
途中には、どのくらい進んだのか目安となるプラカードが付けられています。
ブナ林の急斜面につけられた七曲りを蛇行しつつ登っていくと、途中で2か所の水場があり、コップが置かれています。
道が平らになるとほどなく、大鳥池が見え、大鳥池避難小屋に着きます。

2日目

小屋を出て左へと石段を下り、大鳥池を右手に見ながら進むとすぐに、三角峰へのルートが左へ分かれます。
以東岳へ直登する場合は、さらにまっすぐ進むコースをとりますが、朝日軍道に早く出会うには左へ。
ブナ林の中の一直線の急登にあえいでしばらくすると、見通しがきく稜線となり、晴れていれば以東岳が見えます。
わずかに下って右へとトラバースすると、石が敷き詰められた上り坂が現れます。
左側の斜面と石畳の道との間には段差があり、掘り下げて道を通したのではないかと考えられます。
ただ、朝日軍道のルートより離れている箇所なので、登山用に開削されたものかもしれません。
三角峰のあたりは一面の笹原となっていて、本来の古道は北へと高くなっていく斜面を登っていき、稜線の上をさらに北方へ続いていると文献には書いてありますが、その入りくちや道の場所などは全くわかりません。

道なりに右へとカーブして進むと、少し先に水場への道標が立っています。
ここからは見通しのきく稜線歩きとなり、小さなアップダウンを繰り返して、以東岳山頂手前では大きな岩の間をすり抜けるような狭い道も見られます。
以東岳避難小屋は、進行方向から西へ100mはずれて下がったところに建ち、水場はさらに下で往復15分かかります。
縦走路は以東岳山頂からまずは南へとザレた斜面を下っています。
ところどころで広場のような砂礫地となり、ペンキ印を見落とさないように注意します。
南東方向へと向きが変わって下りが終わると、ふくらはぎまでの高さの笹原の中をほぼ一直線に進みます。
いくつかのアップダウンの間、お花畑が広がり、ときどき砂礫地が現れます。
ゆるやかな下りになると、曲がりくねった道のカーブ部分に広めのザレ場が見られ、その後は石畳の道を通って狐穴小屋に着きます。小屋の目の前に、ホースから水が勢いよく出ているのが見られます。

3日目

小屋から南へとゆるやかに登っていく途中で後方にある以東岳方面を振り返ると、前日に通ってきた登山道の東側、笹原の中にうっすらと、電光型の道があるようにも見えます。
ほどなく、三方境の道標のある小ピークに着き、昨日の以東岳付近の稜線が望めます。

この日の道程はすべて膝くらいまでの高さの笹やハイマツの中の一本道で、見通しがきき、眺めやお花が楽しめますが、強風や雷発生時は要注意です。
北寒江山、寒江山、南寒江山、竜門山、西朝日岳と、アップダウンを繰り返して南東へと進みます。
金玉水の水場は、大朝日小屋への上り坂から左へ5分ほど下った場所にあります。

4日目

小屋の裏手から登っていくと、ほどなく大朝日岳山頂です。眺めを堪能してから南南西へ下ります。
ザレ場の急坂を短く蛇行しながら下ると、真南へと進行方向が変わり、ふくらはぎまでの高さの笹原の部分と、ザレ場や大きな岩の間を進む部分とを交互に繰り返す道となります。
平岩山へとひと登りすると、道は南東へと方向が変わり、小さなアップダウンを繰り返しつつ徐々に標高が下がり、周囲の木が高くなっていくのがわかります。
御影森山で朝日鉱泉へ下山する道と分かれてさらに南下します。
幅1mで刈払いされていますが、路面は短く刈られた笹の茎で覆われ、バキバキと折りながら歩くことになります。
急な下りもあり、左への片斜面もあります。
中沢峰への最後の登りは急斜面で、周囲の木につかまって体を引っ張り上げるところもあります。
中沢峰からは路面も見えて踏み固められた普通の登山道となり、プラカードが現れます。
東へ1.2km先の水場周辺はやや広い平地となっており、「卯の花清水」のプラカードが下がっていますが、見つけられませんでした。

その後もところどころでプラカードが下がり、アップダウンを繰り返して見通しはきかない林の中を進みます。
「熊の相撲場」の周辺は広場のようになっていて、本当に熊の糞がありました。
池の脇を通り過ぎると葉山山荘は近く、湿地帯の中のほぼ平坦な道を進むと奥の院への道を右に見て、すぐに二つの社と山荘がある広場に着きます。

5日目

葉山山荘から奥の院への往復は15分程度で、小高い丘の上から飯豊連峰や蔵王連峰や祝瓶山などの展望を楽しめます。
一旦、山荘に戻って南への道が古道です。途中にプラカードが下がっています。
勧進代コースを左に分け、植林のように整然としたカラ松の林に入ります。
幅2mほどでゆるやかにカーブしながら下っていく道には、石畳が部分的に残っています。
この先で木橋が流失しており、さらに先は荒れているために、整備されるまでは、古道部分のプラカードや石畳を見たあとは、引き返して勧進代コースを下ることになります。

 

(以下は、山岳会会員向けの案内です。)
木橋が流失したため飛び越して渡ったあとは、急斜面を蛇行する道で下っていきます。
大石川の渡渉を繰り返すようになると道がところどころで崩れていて、高巻きしたりロープにつかまったりしながら、刈払いされていない川沿いの道を進みます。砂利道の林道に出る直前が大石大明神と地図上に記載がありますが、道路補修工事により場所の特定ができずに、通過して舗装道路へ出ます。

この古道を歩くにあたって

まず、記録でたどれる本来の古道は、以東岳の北にある三角峰から北への稜線をたどり、戸立山、茶畑山、芝倉山、葛城山、高安山を通って鶴岡市鱒淵までとなっていますが、藪のために通行不能です。
また、葉山から古道をたどって里へ下る道も、大石川の上流で2022年8月に起きた土石流により道がところどころで崩壊し、刈払いもされていないため、一般的な歩行は困難です。
そのため、葉山から里までの間は、古道よりも北方にある勧進代コースやさらに北方の白兎コースを使うことになります。
そして、葉山山荘から大朝日岳山頂避難小屋までの距離が長く、その間の中沢峰から御影森山までの区間は藪となることが多く、刈払いが全くされていない場合に通過するのにさらに時間を要する可能性が高いため、コース取りや情報収集に注意が必要です。
全体を通して要所要所にしっかりとした小屋が建ち、予約なく使用可能ですが、施設使用料(2023年時2000円)を小屋の中の所定のところに収め、避難小屋のためにシュラフや食料を持っていく必要があります。テント場はありません。水場は各所にありますが、時期によっては汲めないこともありえるため、考慮が必要となります。
滑落や転落の可能性がある個所は見当たりませんが、南北に走る稜線には、北西風が強く吹き付けることが多く、身を隠す場所も少ないため、雷とともに天候に注意します。

古道を知る

なぜ朝日軍道がつくられたか

朝日軍道の成立には、豊臣政権末期から関ヶ原の戦い前後までの戦国大名どうしの勢力均衡および奥州の地政学的問題が大きく関与しています。豊臣秀吉により五大老の一人に任じられた上杉景勝は、慶長3年(1598年)正月、旧領国の越後から120万石に加増されて会津に移封されました。徳川家康、伊達政宗や彼らに与する大名たちをけん制するためのいわゆる「奥州仕置」です。上杉氏の新しい領地は庄内や佐渡など、本領とは「飛び地」となり、周辺大名の領地と複雑に接することとなりました。なかでも室町時代から羽州探題を世襲する出羽国の最上家の当主、最上義光は、旧領の庄内地方を巡って上杉景勝と争っていました。さらに、豊臣秀次の失脚に際して、最上義光と秀吉との関係も悪化したこともあり、それをとりなした徳川家康に接近していました。庄内・置賜地方で領地を接する上杉家、とりわけ米沢城を居城とする家老の直江兼続と最上氏との間は、国境や領国交通を巡って、常に緊張状態にあったとされます。
この頃、庄内地方は上杉家の武将、村上城主の本庄越前守繁長が治めていました。米沢と庄内との交通は、山形を通る六十里越街道は最上藩に守られて通行不能のために、越後に出るか、小国を経て村上に出るしかなく、かなり大回りになり、かくて、朝日連峰に軍道を開墾して庄内の孤立化を防ぐこととなったのです。
朝日修験道が盛んだった時代にできあがった山伏の通った道を利用したのではないかとの説(渡辺茂蔵)もあります。

1年で完成した朝日軍道

長井市草岡の青木家所蔵文書、慶長四年閏三月十五日によると、草岡村の5人には庄内への新道を開削するについて、何回も案内させ心労を掛けたので、役義を免除した、と春日右衛門が出しています。
同4年正月26日、佐藤栄太氏彩訪文書には、春日右衛門が草岡の源右衛門にあてて、庄内すく(直)路の御小屋の番をしてくれるので、山において檜物・材木・狩以下の諸役を免除するとし、なお田地を持たず、百姓でない者があれば、誰でも引き移って油断なく番をするようにと命じています。
庄内口からは鱒淵村の百姓が、米沢口からは草岡村の百姓が動員され、他に奥三面衆が山案内にあたりました。
置賜の上杉領ではこの道を「庄内新道」「庄内直(すく)路」と呼び、道の所々には警備や通行のための小屋が設けられ、番人が置かれていました。
慶長4年(1599年)夏ごろまでには本格的に整備が進んだと考えられます。
「出羽庄内大山尾浦尉山階道改帳」や「旧田沢組大鳥村外創村旧記」に詳細な道筋が記されています。
鱒淵 ― 兜岩 ― 高安山 ― 葛城山 ― 芝倉山 ― 茶畑山 ― 戸立山 ― 三角峰 ― ウツボ峰 ― 以東岳 ― 狐穴 ― 三方境 ― 北寒江山 ― 竜門山 ― 西朝日 ― 大朝日岳 ― 三十三曲坂 ― 平岩山 ― 御影森山 ― 焼野平 ― 葉山 ― 草岡

庄内・最上・置賜の境界にあたる峰伝いの道筋を通り、山頂の平坦部を繋ぎながら起伏の坂道を上り下りするのです。
大沼大行院には、上杉の軍勢が朝日に軍道を伐り開き、最上領に乱入した状況を知らせてくれたことに感謝し、今後とも永く朝日別当として国家鎮護にまごころを尽くすようにという文書が残されています。
途中に「御殿御小屋の平」が2か所(高安山南方と御影森山または中沢峰の下あたり)あり、他にも鉄砲休・篭休・鷹休・幕張り松・鑓立て板・人揃ノ松・荷物改ノ平・種子島鉄砲筒払ノ森などという地名も残されているます。
慶長5年(1600年)、上杉氏と最上氏との間に起こった出羽合戦では、朝日軍道が使われましたが、関ヶ原戦後に上杉景勝と直江兼続が徳川家康に恭順し、領地も三十万石に減封されたことで軍道としての役目を失い、以後は廃道同然となりました。

ミニ知識

庄内の歴史ロマン講座「朝日軍道は幻か」

★以下は、山形県鶴岡市の歴史研究家、佐々木勝夫氏が書いた日刊紙「荘内日報」の記事を要約したものです。
2022年5月から8月まで8回連載「庄内の歴史ロマン講座 朝日軍道は幻か」および同年11月25日付「『天地人』直江兼続と庄内」として掲載されました。

山形・新潟両県境にある朝日連峰の尾根伝いに「幅2m弱、長さ60kmに及ぶ軍道が関ヶ原の戦いの直前に築かれた」という話を信じることができるだろうか。信じない人はこの道を「幻の朝日軍道」と名づけている。そこで山形県長井市の市史編纂室などから紹介された史料をもとに、この山道の存在を確かめていくことにした。
朝日軍道は1598年(慶長3年)に、会津藩主・上杉景勝の武将、直江兼続(なおえかねつぐ)によって切り開かれた。
その年、直江兼続は越後から会津(福島県会津若松市)へ国替えになった上杉景勝から、山形県最南端の「米沢」と県北西部にある飛び地の「庄内」の支配を託された。その米沢と庄内を結ぶ山道が朝日軍道だ。
朝日軍道の庄内側の起点は、現在の鶴岡市鱒淵。ここから1800mを超える峰々をまたぎながら米沢方面に進み、現在の長井市草岡に至る。
なぜ軍道を朝日連峰の尾根につくったのか――。それは米沢から庄内に街道を通っていけば、敵対関係にある山形城主の最上義光(もがみよしあき)か、越後国春日山城主・堀秀治(ほりひではる)の領地を通ることになり、ひとたびことが起こると分断される恐れがあったためだ。史料によれば、軍道を切り開くために米沢から斧やツルハシなどを持って千人以上が山に入り、庄内側からも領内の農民が多数、作業員として駆り出された。

マタギの道

わずか1年余りで手作業によって朝日山系で60kmも道を造れるはずがない、と疑問を抱く人がいる。その一方で、「築かれた朝日軍道は、朝日山系にそれまでにあったマタギの道や山伏が修行で通った道を利用して広げたものだ」という見解がある。
深い山並みが続く朝日山系は、昔から熊やニホンカモシカが数多く生息する山で、大鳥川や八久和川流域の村には、狩りをした野生動物を売って生計を立てるマタギと呼ばれる猟師が住んでいた。
記録を読むと、熊から得られる「熊の胆(い)」は高値で取引されるため猟師にたいへん喜ばれていた。藩にとっても熊狩りは藩財政を潤すことにつながり、奨励した。猟師たちは朝日連峰を越えて越後の三面(みおもて)にまでも足を延ばし、熊狩りに精を出した。

修験の道

史料を読んでいくと、朝日軍道を造るときに案内人を務めた人物の中に、宝蔵坊や宝光坊などの修験僧らしい人物がみえる。これらの人々は新道の開削の際には、修験の道の案内役を務めたのだろう。この先達を務めた者に対し、藩はさまざまな義務を免除している。
山に伏す修験者たちが通った道やマタギの道など、昔からあった道を軍道にすることは、それほど手間はかからなかった。

朝日軍道を通った上杉の軍勢

朝日軍道が戦いの時に実際に活用されたことを示す史料はほとんどなく、わずかに上杉家の家臣で酒田城主だった志田義秀(しだよしひで)に関する記述が残っている。
1600年(慶長5年)9月の関ヶ原の戦いのとき、直江兼続を総大将とする上杉軍は西軍(石田三成方)に組みし、山形の最上義光を攻めた。その合戦中に直江は関ヶ原での西軍の敗北を知り、米沢城に撤退した。
ところが志田義秀には直江の撤退命令が届かず、志田は退路を断たれ、朝日軍道を通ることによって酒田城にやっとのことで帰還できた。
しかし1601年(慶長6年)3月、酒田城は最上軍に包囲されて開城。
志田は、酒田から朝日軍道を通って米沢に退いた。
草岡村の4名が案内役となったという記録が残っている。
関ヶ原の戦いが終わり、庄内を失った上杉景勝にとって朝日軍道の必要性はなくなり、軍道は忘れられていった。
朝日軍道は現在の朝日連峰の登山道とほぼ重なってはいるが、鶴岡市鱒淵から茶畑山へ抜ける道が藪になってしまい、ルートがわからなくなっている。そしていまは、大鳥池から泡滝~大鳥集落へ抜ける道が登山道となってにぎわっている。

「慶長年間の朝日連峯通路に就て」佐藤栄太

●「山岳」29号(2)、日本山岳会、1936年11月発行[PDF]
●上記の挿入地図[PDF]

古い山名

[現在の地名表示←→古い地名]
猿倉山←→岩越峰
兜岩←→甲の明神
高安山←→高安の明神
葛城山←→桂木
1121m←→天狗松
1043m←→鉄炮休
芝倉山←→狢森
茶畑山←→八熊ヶ嶽
1389m←→御田ノ峯
戸立山←→冷水ヶ嶽
三角峰←→三角石
オツボ峰←→御壷石
以東岳←→樒(しきみ)ヶ嶽
三方境←→籠休
竜門山←→幕張松
金玉水←→山葵沢
大朝日←→朝日嶽

「朝日軍道を復活する会」

旧朝日村大泉地区の有志が中心となって結成。
2025年の計画は、刈払い、トレッキング、親子向けワークショップ、ルート測量及び借地手続きなど。
朝日南部コミニュティーセンター(0235-55-2252)
(鶴岡市上田沢字船渡3-14)
会長:佐藤正

ルート

「1日目」
泡滝ダム大鳥登山口
↓ 1時間30分 4km ↑ 1時間30分4km
七ツ滝沢橋
↓ 2時間 4km ↑ 1時間30分 4km
大鳥小屋(タキタロウ山荘)
「2日目」
大鳥小屋
↓ 3時間 3km ↑ 2時間 3km
オツボ峰
↓ 1時間 1.5km ↑ 50分
以東岳
↓ 2時間10分 3.5km ↑ 2時間40分
狐穴避難小屋
「3日目」
狐穴避難小屋
↓ 55分 3.7km ↑ 40分
寒江山
↓ 1時間15分 4km ↑ 1時間30分
竜門山避難小屋
↓ 1時間30分 4.3km ↑ 1時間5分
西朝日岳
↓ 1時間30分 2.5km ↑ 1時間30分
大朝日岳山頂避難小屋
「4日目」
大朝日岳山頂避難小屋
↓ 15分 250m ↑ 10分
大朝日岳
↓ 1時間 1.8km ↑ 1時間40分
平岩山
↓ 1時間50分 3km ↑ 2時間20分
御影森山
↓ 1時間30分 2.8km ↑ 2時間10分
中沢峰
↓ 3時間40分 6km ↑ 4時間10分
葉山山荘
「5日目」
葉山山荘
↓ 40分 1.5km ↑ 50分
勧進代分岐
↓ 1時間40分 3km ↑ 2時間35分
ゲート

アクセス

《泡滝ダム大鳥登山口》
鶴岡駅から大鳥登山口バス停(朝日屋旅館前)までは平日のみ1日1本庄内交通バス運行あり、そのあとは、タクシーで約30分、または林道歩きを3時間。
《葉山に登る勧進代コースの入り口》
山形鉄道フラワー長井線長井駅から長井市営バスで勧進代中部公民館バス停下車。
白兎コースの入り口へは、山形鉄道フラワー長井線羽前成田駅から長井市営バスで白兎口バス停下車。

■車利用の場合
山形自動車道庄内朝日I.CからR112.R44,R349号線を通って大鳥登山口へ。駐車場あり。
東北中央自動車道南陽高畠I.CからR113,R287、県道259号線で葉山森林公園の方へ進む。
勧進代コースにも白兎コースにも登山口に駐車場あり。

参考資料

引用文献
*「朝日町史」pp290-297
*佐藤栄太「慶長年間の朝日連峯通路に就て」『山岳29(2)』1936年11月 日本山岳会 pp143-154
*山形県総合学術調査会議編集『朝日連峰―総合学術調査報告』山形県総合学術調査会議発行 昭和39年8月31日
*渡辺茂蔵「直江兼続と朝日軍道」(山形大学文理学部)pp330-337
*北畠教爾「直江兼続が開いた朝日軍道」『朝日町エコミュージアムの小径 第20集』朝日町エコミュージアム二十周年記念事業パネルディスカッション(2009)より
*山田栄二「幻の道、朝日軍道の踏破記録」『朝日町エコミュージアムの小径 第20集』
*安川茂雄「東北朝日連峰と戦国秘史―志駄義秀の雪中踏破」『歴史の山みちブルーガイドライブラリー1』 実業之日本社 1968

協力・担当者

【執筆】
平日クラブ/松本博子
【協力】
長井山岳会
大江山岳会
朝日山岳会
朝日屋旅館

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