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25 飯豊山古道

飯豊山古道

飯豊山は約1300年前に山岳修験の山として開かれ、その後、新潟、山形、福島3県の山麓部を中心に庶民信仰の山として賑わいました。
東蒲原郡が新潟県に編入されると飯豊山は福島県・新潟県どちらに帰属するかという県境をめぐる争いが起き、三国岳から本山を経て御西岳まで幅約1mの登山道と境内地が福島県に属することとなりました。「福島のへその緒」といわれています。
古道は、「福島のへその緒」である御沢口からの参詣道、裏参詣道と言われる弥平四郎口、それに山形県飯豊町からの岩倉口(現在は中津川口)です。

古道を歩く

御沢口

飯豊山神社から川入集落経由で切合小屋へ

かつての古道は現在自動車道路が整備され、起点の飯豊神社のある川入集落を経て御沢野営場までは、車での移動が可能である。移動時間は車で約30分。一ノ戸川を左に見ながら進む。やがて道は左折し一ノ木川を渡り進むと川入集落に入る。そこから10分ほど進むと御沢野営場、飯豊登山口となる。

御沢キャンプ場から10分ほど進むと、御沢の大杉と大栃ノ木が立つ厳かな場所に着く。
ここが参詣道の入り口となり、ここから長坂という急登が始まる。大杉の袂にある山の神にお参りをしてから出発する。

長坂には下十五里、中十五里、上十五里、笹平、横峰と休憩ポイントがあり、当時はお助け小屋と呼ばれた休憩茶屋が参詣者を迎えていた。御沢口から横峰までの標高差は780m、所要時間は3時間である。
横峰からは、地蔵山をトラバースし剣ヶ峰に続く稜線に向かうが、途中にある峰秀水という水場には救われる。剣ヶ峰への稜線は、飯豊山参詣道の中でもきっての険しい道となる。昔、参詣者は身の安全と大人としての証にコメとお金を蒔きながらここを進んだ。登山道では古銭が見つかる。

急峻な岩場で両脇が切れ落ちた道を225mほど約2時間かけて一気に登る。このあたりが剣ヶ峰の通過だ。
途中100mほど下ったところに水場があるが、途中の三国小屋に宿泊する場合はここで水を確保する。急登の終点が三国小屋(1,644m)である。

三国小屋からはいったん下り、岩場のアップダウンを繰り返しながら本日の最高地点の種蒔山へ向かう。
種蒔山からは、なだらかな道を進み、山形県側からの大日杉ルート分岐を過ぎれば、ほどなくして本日の宿である切合小屋だ。切合小屋は、飯豊山エリアでは唯一食事を提供している山小屋である。

切合小屋から飯豊本山を越えて御西避難小屋へ

いよいよ、祈りの場、飯豊山〈飯豊本山〉に向けて出発する。
小屋を出るとしばらく花崗岩の風化した砂礫の道を行く、前方には草履塚への登りが続き、灌木のトンネルを抜けると一面ハクサンイチゲ、チングルマ、イワカガミ、ツガザクラ、などの花が咲き乱れるお花畑が迎え入れてくれる。
そこから30分ほど登ると草履塚だ。いよいよここからが神様の領域に入る。ここから先が神聖な領域であるため古い草履を脱ぎ、新たな草履に履き替えて神様に相対することからここに古い草履の塚ができ、いつしかここを草履塚と呼ぶようになった。
ここからの展望は素晴らしく、正面に飯豊山山頂、飯豊山山頂から南に延びる大日岳につながる主稜線が雪渓を携え、たおやかに連なっている。いつまでも見ていたい光景である。

100mほど下った先には、赤い帽子と前掛をまとった石像が鎮座している。この場所は姥ノ前、石像は姥権現と呼ばれているが、かつて飯豊山に登った息子が帰ってこないため母親(小松のマエ)が息子を探しに山に入ったが、当時の飯豊山は女人禁制であったため、神の怒りにふれ母親は岩にされてしまったと言い伝えられている。現在は、安全の登山の守り神として登山者に親しまれている。

姥権現からは一気に登り返しとなる。まず眼前には左右にすっぱり切れ落ちた岩峰、御秘所(おひそ)の通過が待っている。御秘所とは「あの世」とも言われそれだけ厳しい場所であるとされているところ。距離は短いのであっという間に通過できる。
その先の台地から正面に一王子(王子とは神様のこと)の石積みが見えているがまだまだ遠い。
そこまで急登をあえぎ登る。この坂を御前坂と言い、飯豊山の最後の試練である。
この試練を乗り越えると、一王子から五王子まで5人の神様の名がついた場所を順に進み、本山小屋に到着する。
ここには飯豊山神社の奥宮があり四王子が祀られている。
なだらかな稜線を20分ほど進むと飯豊山本山山頂(五王子)である。

山頂からは、北に朝日連峰、月山、鳥海山。東に吾妻連峰、蔵王連峰、磐梯山。南に最高峰の大日岳。西に飯豊主稜線の山々の大展望が広がる。
飯豊山山頂を後にし50mほど下ると、草原やお花畑と砂礫地の混在する広い台地上の尾根に出る。その先の駒形山からは雄大な大日岳が独り占めである。駒形山から振り返り望む飯豊山は、ひときわ雄大である。
駒形山からは、ニッコウキスゲの咲き乱れる草月平を経てゆったりとした登山道がたおやかに続いており、道はいつしか御西岳をトラバースして今宵の宿である御西避難小屋に導いてくれる。
福島県参詣道の西端であり、へその緒の終わりでもある。

※天気と時間、体力が許すのであれば、当日中に飯豊連峰最高峰大日岳(2,128m)まで往復するのもお勧めである。3時間半で往復可能。

飯豊本山から三国避難小屋まで戻る

御西岳頂上で御来光を仰ぎ、朝日に染まる大日岳を背に一路、飯豊本山に向け出発する。正面に本山と本山小屋の稜線を見て進む。本山小屋~切合小屋~三国小屋までのコースタイムは3時間である。

弥平四郎口

裏参詣道、三国小屋から弥平四郎集落に

三国小屋からは来た道を下山するか、疣岩山経由新長坂を弥平四郎集落に下山するか二つの道があるが、今回は裏参詣道の弥平四郎への道を解説する。
三国避難小屋からは一旦、疣岩山の鞍部まで下り、すぐに疣岩山の頂上に一気に登り返す。
山頂からは60度南に向きを変え、上ノ越への分岐を見送ると一気に50分ほどの砂地の急下降となる。木の枝につかまらないと転がり落ちてしまうほどの急坂だ。
松平峠まで来てやっとホッとする。

松平峠からは新長坂と言って右傾斜のトラバースの急下降が秡川山荘まで1時間30分ほど続く。
ひたすら歩いて着いた山荘前には湧水が引いてあり、今までの悪路で疲れた体にはひとしおに染み渡る。
ここから駐車場までは20分。気を引き締めて歩こう。
弥平四郎の集落まではここから1時間30分の車道歩きとなる。

岩倉口

飯豊町岩倉口→地蔵岳→御沢口参詣道に合流

白川ダムの南西にある飯豊町中津川地区公民館前の県道8号線を西へ向かい、南へと方向を変えるとほどなく、正面にこんもりした森と鳥居が見える。岩倉神社の森で、もとは飯豊神社の別当、岩蔵寺であった。

 

森を右手に見ながらさらに南へ5kmほど行くと釣り堀の先で右へと細い道が分かれている。
橋を渡る左の道でなく、橋の手前で右に入り、車一台分がようやく通れる幅の砂利道を5分ほど進むと、車が30台以上は停められる広場があり、さらに進むと白川を渡った向こう側に赤い三角屋根の大日杉小屋がある。
避難小屋だが夏場は管理人がいて綺麗で広々とした空間に前泊する。
小屋の正面からまっすぐに歩くと地蔵岳を経由して切合小屋へ向かう登山道となる。
かなり高さのある杉があちこちに立つ中を歩くと、だんだんと傾斜が急になる。
鎖の付いた長い岩場が現れる。ザンゲ坂で、足を乗せる窪みが刻まれ、鎖と岩とをつかみながら登っていく。
岩場を過ぎて、段差の大きな道をさらに進むと、杉の巨木が目印の御田に着く。

平らな地形のところに以前は湿地があったと言われるが、現在は藪でうめつくされている。
その後も美しいブナ林の中の急登と、根曲がり竹の根がむきだしの斜面のトラバースとを繰り返して高度を上げていく。
傾斜がゆるくなると、地蔵岳山頂となる。
標柱の先の三角点からは、眺望が得られる日には、正面に飯豊山本山が優美な稜線を見せてくれる。

その先はアップダウンの繰り返しとなり、稜線の南東側に道が付いているので風をよけられるが、陽が出ていると暑い。ときどき南東側が切れ落ちて砂地になっている箇所を通る。
ダケカンバの美しい純林が何か所かで見られるようになると、御坪と標識のある場所となる。
信仰の道らしい祠の他に丸みを帯びた石が集められている。

その先に穴堰との分岐標識があるが、雪渓の残る時期しか穴堰方面へは歩けず、雪渓の無い時期は左へ道を取り、稜線沿いに登り、途中から草原をトラバースして何本か小さな流れを渡渉する。
福島県側からの表参道と合流して砂礫の広い稜線を北へ進むと切合小屋に到着する。

この古道を歩くにあたって

御沢口、弥平四郎口

飯豊山参詣道は現在の飯豊山登山御沢登山口とほぼ同じ道となっていることから、登山道は良く整備されているが、飯豊山はどこの登山口も登り始めが急登でペース配分が重要である。
また、稜線上も急峻な岩場に鎖場があり慎重に行動したい。
参詣道上には山小屋(いずれも避難小屋)が多くあり、疲労がある場合は例えば最初の宿泊を三国避難小屋にするなど臨機応変な対応も必要である。
切合小屋から先はアップダウンはあるものの歩きやすいたおやかな稜線歩きとなる。
水場に関しては、三国小屋、本山小屋、御西小屋は水場まで汲みに行く必要がある

岩倉口

よく整備されている。ザンゲ坂の岩場の岩はしっかりして頑丈な鎖もある。
地蔵岳から先の稜線にある切れ落ちた箇所は慎重に進む。
雪渓が消える時期は穴堰方面には行かないで左の稜線方面を歩く。

古道を知る

飯豊山開山の歴史

【開創】
飯豊山地は、昔から「山容飯を豊かに盛るが如き」豊かな山容にみたててそう表現され、飯豊山の名の由来となっている。開山は、652年に中国から渡来した知道和尚と修験道の開祖役小角がこの山に登り、山容より飯豊山(伊比天山)と名付け、さらに飯豊山地を五神の王子に見立てて一王子から五王子を飯豊山地の祭神として祀ったのが起源とされている。飯豊山神社もこの時に開かれ、修験道の元祖と言われている役小角の伝説が弘法大師空海の伝説と同じように各地で広くあることを考えると、そうあるべきものとして永く伝承されてきたのだろう。
【中興】
飯豊信仰の管理にあたった別当寺は古くは大沼郡雀林の法用寺であったが、やがて山麓の一ノ戸の薬師寺に移り、十六世紀以降は領主芦名家の裁定によって大沼郡永井野の蓮華寺がこれにあたった。
その後、一時は一ノ戸地元の薬師寺に移ることもあったが、大体において蓮華寺の官下として明治維新を迎える。その後、地元薬師寺の廃絶後は専任の院坊もなく、別当が遠隔の地に在ったことは、この山の修験道的立場を確立し、固定するにおいて非常な痛手であった。明治以降の司祭者も転々としたが、現在の飯豊山神社の所管は喜多方市,出雲社の宮司、神田氏の兼務となっている。戦前の社格でいえば明治五年に郷社、明治三十一年以降は県社となっている。
参詣道については1595年(文禄4年)、若松城主となった蒲生氏郷が蓮華寺の僧宥明に命じて、廃絶していた参詣道を整備させた。これ以降、麓宮のある一ノ木口が表参道とされ、後の松平氏の時代にも、会津守護として手厚く保護された。また、弥平四郎集落より秡川~松平峠~疣石山~三国岳に至る道は裏参道と呼ばれ、阿賀野川流域と越後の人々に利用された。この道は三国岳で川入からの参詣道と合流する。
山の反対側である米沢藩においても手厚く保護され、上杉氏の治世下で大日杉に岩倉神社が建立され、代々の米沢藩主の奉納木札が残されている。一ノ木と大日杉は、江戸期においては会津と米沢を結ぶ街道の藩境に位置し、飯豊山参拝の拠点と共に宿場としても栄えた。

飯豊山信仰

飯豊山は、652年に知同和尚と役小角が開山したとされる古い山岳信仰の場であり、五神の王子を祀る修験の場であり、江戸時代初期までは修験道の修験者が多く訪れた。
その後、江戸元禄期以降は修験色は弱まり、稲作信仰、死者供養、成人儀礼などを中心とする庶民信仰のかたちに移行していった。
飯豊山信仰は、もともと土俗的な信仰であり、飯豊山地それ自体を御神体として崇拝する。すなわち飯豊山地は、越後、会津、出羽の三国の境にそびえ立ち平等に見下ろす。飯豊山から生まれた水は、阿賀野川、荒川、最上川へと流れ、山野に恵みをもたらす。また、飯豊山地の周辺では、死者は天空へと上り、先祖は高所の飯豊山から見守っていると信じられていた。このように当時の生活と一体のものとして飯豊山は存在していたのである。それらが相混ざり合い飯豊山信仰へとつながった。
その後は、明治時代初めの神仏分離により飯豊山神社となり、地域住民から崇敬された。
戦前までは飯豊山への登頂は少年の成人儀式として用いられたことから地域との密着性が高まった。13~15歳までに登頂できなかった者は、一人前として認めてもらえなかったことから盛んに集団登山「御山掛け」がおこなわれたのである。終戦後は、このような習慣は廃れはしたものの、のちに女人禁制が解かれ多くの人に愛される山となっている。

岩倉口の歴史

福島県の会津地方とともに、出羽国側では玉川流域の小国地方(現在の小国町)と、白川流域の中津川郷を中心として、飯豊山信仰は置賜盆地全域に広まっていった。上杉氏の施政下では、米沢道とよばれた中津川郷の岩倉口が登山口となり、参詣者が列をなすほど盛んな山岳道場だった。岩倉村の岩蔵寺が飯豊神社の別当となり、参詣前には二十一日間の行を積み、行を終えた者は木綿の白衣姿で登山する習わしで、これらの行者は先達の案内にすべてを任せる。
その先の嶽谷(現在の岳谷)には口留番所があり、参詣許可の手形を見せて通過する。口留番役には岩倉の伊藤家が代々任ぜられていた。
大日堂を出発し、急なザンゲ坂を登り切ると、地蔵堂がある。御田明神が祀られており、持参してきた米をまいて、万作・取木・漆木(マンサク・トリキ・ウルシ)の三本の枝を苗に見立てて、四株ずつ三列に十二株を田植えのまねをして植える。「万作とれてうれしい」という言葉の語呂合わせによって、豊作を祈願していた。
会津口と合わさる切合(きりあわせ)には番小屋が建てられていた。
文化文政期に組織化が進み、導者宿と檀家の関係が深まり、飯豊講の結成や飯豊山碑の創建が盛んとなった。
飯豊山を「お西山」と崇めている米沢市内に飯豊山碑は多く残っている。

 

江戸時代には素朴な農業神信仰に基いて参詣され、湯殿山参詣と結び付けられていた。
湯殿山をはじめとする出羽三山に参ることを「お山参り」「お北参り」「おしも参り」というのに対し、飯豊山参りは「お西参り」という。羽黒修験のほとんどいない置賜南部の村落にあっては、飯豊山をもっとも身近な参詣対象とすることが多く、湯殿山は飯豊山の「奥」の山であり、特別な山であった。
明治10年頃から、作神から広義の守護神へ主たる性格を変えた飯豊山は、徐々に湯殿山から切り離された。

深掘りスポット

飯豊山神社

所在地:福島県喜多方市山都町一ノ木字中在家乙1760番地のロ
社 格:県社
創建:652年
福島県喜多方市の飯豊山地主峰の飯豊山南峰(標高2,102m)にある神社である。ふもとの一ノ木地区中在家に麓宮があり、飯豊山頂の奥宮とともに、一体のものとされている。

岩倉神社

明治5年の神仏分離により岩倉神社と改められ日本武尊を祭神とする前は、不動院岩蔵寺と称して、飯豊山神社の別当として上杉藩の保護を受け、諸大名の武運長久祈願所として信仰されてきた。本尊は室町時代初期の作といわれる不動明王立像で町指定文化財。鳥居の隣に立つ石碑には、飯豊山の方角には「飯豊山」、湯殿山の方角には「湯殿山」と、同じ石の別の面に彫られている。

御田(おた)の杉

ザンゲ坂を登り切り、標高1100mの小さな湿地帯である御田に出ると、推定樹齢600年ともいわれる巨杉が立っている。自然に生えたものか信者が植えたものかは不明とされている。

ミニ知識

へその緒県境のなぞ

知る人ぞ知る福島県の北西に延びる不可解な県境。三国岳から始まるこの登山道のみが福島県の県境というこの道が実に7.5kmほど御西岳の先まで続く。なぜこのような県境になったのか。
事の発端は県庁移転にまで遡る。
当時、福島県庁は現在と同じ福島市にあったが、明治15年に県の南部から、経済的に交通の便が良い県の中心の郡山へとの県庁移転問題が起こり、一度は県議会で可決される。ところが最後の福島藩主である板倉勝達らによる移転阻止運動により結局、国も県庁の移転を認めず、実際、移転することはなかった。
ただこれには条件が付けられた。福島県の西端にある東蒲原郡が福島県から新潟県に編入されるというものであった。
ここでさらに問題が発生。飯豊山が東蒲原郡に位置していたため、飯豊山の帰属にまつわる問題が発生したのである。
飯豊山は普通の山とはちがい、地元にとって古くから山自体が御神体として崇拝され、五穀豊穣を願う信仰登山も盛んにおこなわれていた。その山頂には一王子から五王子までの虚空蔵尊が祀られており、四王子には飯豊山神社の奥宮が祀られていて、その麓宮が福島県側の一ノ木村(現在の喜多方市一ノ戸)の飯豊山神社に由来したため、飯豊山の土地は一ノ木村の土地であるとの主張がなされた。
ただ新潟県も、飯豊山神社は新潟県の土地(実川村―現在の阿賀町)にあり、納税もされているとして譲らなかった。そのため両県は国に判定を求めたが実に20年の間、判定のないまま経過し、経済発展停滞の恐れも出てきたことから、明治40年8月に一ノ木村、実川村両村長、査定官、技師による現地調査を行い、ついに国(内務省)から裁定が下された。それによると飯豊山を含め三国岳から御西岳の先(現在の御西避難小屋付近)までの道と山頂部の境内部を福島県とするものであった。その結果新潟県・山形県との不思議な県境が誕生したのである。

飯豊山の穴堰(あなぜき)

奥田村(現在の川西町)の村長である横山平左衛門が真夏に飯豊山参詣に行った折、越後へ流れ出る荒川の上流である玉川の水の水量が多いのに対して、白川の水量が少ないことを観察し、疎水のアイディアを思いつく。
黒井堰を完成させたことのある黒井平四郎が、寛政10年(1798年)、地元の岩倉村の猟師、六蔵の道案内で種蒔山を調査したところ、御坪と切合の間が玉川と白川が最も接近した場所と判明。そこは標高1500mの地点で、長さにして約200m、その間には花崗岩の巨岩が横たわっている。寛政11年には鑿で掘って3.5m進んだが、黒井は脳溢血で倒れ、53才で死亡した。
次に工事を受け継いだ者があったが、2代に渡って完成させることができず、文政元年(1818年)に大石綱豊によってようやく完成した。
積雪のため1年間に2ヶ月間しか工事はできず、147mの隧道を、実質30か月で掘りぬいたので、1か月で平均5mとなる。西と東から掘り進んだが、出口から35mの地点で接合したときに、2mの高低差があり、洗堀をつくりだすはめとなった。隧道を掘って別の川から導水するという発想は、当時目新しい技術であった。
嘉永6年(1853年)大干ばつの年に穴堰の見分に行ってみると、砂利が押し込められ、通水が悪いので、江戸から金堀の政吉を雇い、安政2年(1855年)から5年間大普請が行われた。
昭和31年に山形県の文化財に指定されたが、昭和42年の羽越水害で隧道内は砂礫で埋まり、昭和55年に白川ダムが完成すると、穴堰はその役割を終えることとなった。

まつわる話

水垢離、追垢離、代垢離の風習、及び裏街道

飯豊山への登拝は、明治期後半は二百十日後の農閑期に行われていたが、大正時代に入ると盂蘭盆(陰暦7月15日)頃と早くなっていた。
登拝の日程と先達が決まると10人前後で組を作り、先達の指示に従って神社や行屋に籠る。朝夕水垢離を取って精進し、三日三夜共に寝起きし経を唱え、行をして信心を強くした。
朝夕の水垢離は近くの川が利用されたが、その目的は、罪や災害がおこるのは身体に着いた垢のためであると考えられ、垢を清め落とすための水垢離であり、禊の一つであるとされていた。
参詣者が出発した後も、参詣者が帰宅するまでの間、家族のものと親類縁者が水垢離を取る習わしがありこれを追垢離と言った。
代垢離という風習は、白衣の参詣者が一ノ木、川入集落の近くを通るのを子供たちが見つけると、素早く着物を脱いで川の水を自分の体にかけたり、水の中に入ったりして「御山繁盛、代垢離」と大声で叫ぶと、参詣者は紐に銭を通し一連二連と結び付けておいた一文線銭を与えたという。

また、登拝者の中には、代参人といって登拝に加われなかった村落を代表して参加することもあった。
頂上の神社でお札を受け取って下山し、各戸に配布した。この代参の場合も身内の者が代垢離を取る慣わしとなっていた。

ルート

御沢口

御沢登山口→切合小屋

コースタイム 5時間15分
御沢登山口

長坂(下十五里、中十五里、上十五里、笹平)

横峰

剣ヶ峰の岩稜

三国避難小屋(1,644m)

種蒔山

切合小屋

切合小屋→御西小屋

コースタイム 3時間45分
切合小屋

草履塚

姥権現

御秘所岩稜

御前坂

本山小屋(飯豊山神社奥社)

飯豊山山頂(2,105m)

駒形山

御西岳(2012m)

御西小屋

御西小屋→三国避難小屋

コースタイム 4時間30分
御西小屋

御西岳

駒形山

飯豊本山

本山小屋

姥権現

草履塚

切合小屋

種蒔山

三国避難小屋(1644m)

弥平四郎口

三国避難小屋→弥平四郎集落

三国避難小屋
↓↑
疣岩山

上ノ越分岐

松平峠

新長坂

秡川山荘

秡川分岐駐車場

弥平四郎集落

岩倉口

大日杉小屋
↓ 3時間40分 2.8km ↑ 2時間30分
地蔵岳
↓ 2時間  2.8km ↑ 1時間50分
御坪
↓ 1時間20分  1.5km ↑ 50分
切合小屋
(この先は福島側へ)

アクセス

御沢口コース

[鉄道、バス、タクシー]
JR磐越西線山都駅下車。夏季のみ川入までバスの便があるが、タクシーだと御沢登山口野営場まで入ってくれる。往復の場合は予約が必要。
[マイカー]
磐越自動車道坂下IC下車。国道49号線を東進、県道43号を左折し、山都駅を抜けて国道459号を北東へ向かい、相川地区で県道385号を北上、さらに「いいでの湯」の先で林道飯豊檜枝岐線線に入り、川入から未舗装の道を御沢野営場へ。大きな駐車場あり。

弥平四郎口コース

[鉄道、バス]
JR磐越西線野沢駅下車。デマンドバス(西会津町民バス 0241-48-1300前日までの予約制)で弥平四郎登山口へ。秡川駐車場までは林道歩きが1時間10分ほどある。
[マイカー]
磐越自動車道西会津IC下車。国道49号を西進新潟県境手前で県道384号を右折、国道459号の徳沢駅を抜けて飯里地区で県道383号を北上、弥平四郎集落まで入る。さらに秡川山荘方面の林道へ、秡川駐車場に駐車する。

岩倉口コース

山形新幹線の米沢駅や山形自動車道の米沢中央I.C.から車で西へ進んで国道121号線に入る。
公共交通機関はないので、自家用車やタクシー利用となる。
県道4号米沢飯豊線に右折して入り、道なりに北へ7km進んで交差点を左折して菅原峠を山越えする。
左手に白川湖が見えてくると、飯豊山登山口方面の表示のあるT字路を左折して県道8号水仙ロードに入る。道なりに南西方向へ約7km進むと岩倉神社があり、さらに約5km南下すると岳谷釣り堀のすぐ先で右の細い道に入り、約4km先に大日杉小屋がある。小屋の手前に約30台は停められる広場がある。

参考資料

山都町史編纂委員会「飯豊山信仰」『福島県山都町史資料集』 山都町
飯豊町史編纂委員会「飯豊町史 上巻」飯豊町 1986年
米沢市史編纂委員会「米沢市史 民俗編」米沢市 1990年
梅田始「新潟県における飯豊山信仰(1)」新潟県石仏の会
浅井健「知らなかった!驚いた!日本全国「県境」のなぞ」実業之日本社 2007年
「写真集 信仰の山飯豊」 山都町 1992年
西海賢二・時枝務・久野俊彦「日本の霊山読み解き事典」 柏書房 2014年
とよだ時「日本百霊山」ヤマケイ新書 2016年
坂本大三郎「山の神々」エイアンドエフ 2019年
奥村幸雄「小国の民俗風土記」農村文化研究所 1981年
原淳一郎「近世の旅と藩 米沢藩領の宗教環境」 小さ子社 2021年

協力・担当者

《担当者》
【御沢口、弥平四郎口】
日本山岳会福島支部
佐久間隆夫
【岩倉口】
日本山岳会東京支部
松本博子
《協力》
小澤弘道氏 (民族芸能を継承するふくしまの会理事)《担当者》

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