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98 石見銀山街道 

温泉津・沖泊道

温泉津・沖泊道(ゆのつ・おきどまりどう)は、石見銀山公園駐車場から出発し、日本海に面した沖泊港までの約15km、約6時間40分の区間を指す。
戦国時代の1562年(永禄5年)、石見銀山へ攻め入った毛利氏は、銀山を奪い直轄地とした。
水軍を持っていた毛利氏は、銀鉱石を搬出する港として、それまで利用していた鞆ケ浦港より大きな温泉津港を利用する事にした。
銀鉱石の新たな運搬ルートとして、大森の町を出発し、難所でもある降路坂を通り、西田集落を経て温泉津の沖泊港に至る全長12kmの街道整備を行った。
毛利氏の率いる水軍が温泉津を行き来し、温泉津集落には、幾つものお寺が建てられた。
また湾を取り巻く両側に、それぞれ櫛山城跡、鵜丸城跡を築き、見張りを強化した。
大内氏、尼子氏を倒し、広大な領土を手中に収めた毛利氏だったが、中国地方平定を狙う織田軍(羽柴秀吉)との、さらなる戦いへと移行して行く。
1590年(天正18年)豊臣秀吉が全国を統一すると、毛利氏は中国地方を治める大名として、銀を豊臣氏へ納める事となる。
豊臣秀吉が天下を統一した後も、引き続き、温泉津・沖泊道が銀の輸送路として使われていたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康が江戸幕府を開くと、危険な海路の使用を止め、銀の流通を管理する為の代官所を出発して尾道(広島県)へ向かう陸路へと変更された。
この温泉津港は、江戸時代に入ってからは、銀の運搬ルートとしては使われなくなったが、引き続き海上交通の要所として、また、北前船の寄港地として繁栄した。

古道を歩く

石見銀山ガイドの会の事務所がある銀山公園駐車場を出発し、大森の町を巡りながら、町の奥の方へ向かって進みます。
舗装道路に四方を示す標識があり、北へ向かう方角に山吹城登山口と書いてあります。
この分岐を山吹城の方へ登って行く道が鞆ケ浦道となりますが、そちらへは向かわず、温泉津・沖泊道へ直進します。
途中、佐毘売山神社への分岐があり、10分ほど坂を登っていくと、長い石段の先に神社があります。

温泉津・沖泊道が出来る前から存在する古社にて、参拝してみられるのも良いかと存じます。
分岐を通り過ぎ、更に舗装道路を進むとすぐ左手に、龍源寺間歩への入り口があります。
常時公開されている坑道で、入場料を払って中を見学できます。
更に舗装道路を100mほど進むと坂根口番所跡があります。

江戸時代に、石見銀山からの出入りを管理する為に作られた柵内へ入るための番所があった所です。
ここで舗装道路は終わり、山道へ入ります。
*ここからは山道になりますので登山靴が必要です。

注)2025年7月時点、坂根口番所跡~五老橋 までの区間(約2.5km、約1時間20分)は通行止めとなっており、通行止め解除日も未定です。
*通行止め区間の中に、当時難所であったと言われる 七曲り・降路坂 があります。

五老橋から通行可能です。山道を下って来て、舗装道路に出たところに五老橋があります。
舗装道路を下って行き、大きなカーブを通過して少し進んだ左手に上市恵比寿社があります。
その300m先の道路左側に、石段が見え、それを登って行くと、草むらの中に火伏観音があります。
さらに300m歩くと、西田の集落に出ます。左手に、「コミュニティよずくの里」があります。
稲を干す為の三角形の形状をしたヨズクハデと呼ばれる無形民俗文化財が残る地区です。

この辺りから見える矢滝城山は、その険しい山容が綺麗に見えます。
200mほど先の道の左手に、かつて西田付近の悪路を私費で直された方々に感謝して立てられた副道夷険碑があります。
さらに800mほど進むと、「右ハゆさとみち/左ハゆのつみち」と刻まれた「中村の題目塔」が見られます。
100mほど先にある標識に従って、舗装道路から折れ、左手の山道へ登って行きます。
右手に将棋岩があります。

集落の路地を進んで行くと、舗装道路に出た辺り、右手に清水の金柄杓(しみずのかなびしゃく)という泉があります。
すぐ左手に瀧光寺があり、その前は四方に分かれる分岐ですが標識はなく、道なりに右方向へ進みます。
200mほど舗装道路を進むと、右手に「清水大師」と書かれた標識があるので、右へ折れ、山道へ入って行きます。
*岩がゴロゴロした道となりますので、足下にご注意下さい。
途中、清水の石畳とよばれる古い石畳を通過します。

山道から舗装道路に行き当たる手前に、松山の道標(まつやまのどうひょう)があります。
下の方が欠けて見えませんが、見える範囲には「右 銀山大森五・・ いづも大や・・」と刻まれています。
舗装道路(中国自然歩道)を約1km進むと、左手に登り窯「焼きものの里」があります。
左に折れると温泉津の集落へ降りて行く道となりますが、今回は沖泊港へ向かいますので舗装道路を直進します。

温泉津総合運動場のグランドを越えた辺りに標識がありますので、舗装道路を右折します。
更に舗装道路を100mほど進んだ辺りに標識がありますので、左側、沖泊の集落へ降りる山道へ進みます。
竹林の中を降りて行くと、集落が見えた辺りに「上の井戸」があります。
そのまま集落の中を進んで行くと沖泊港に出ます。左手に恵比寿神社、その前に「浜の井戸」があります。

この古道を歩くにあたって

石見銀山公園駐車場の横に銀山ガイド案内所があり、ガイドの案内に従って歩かれる事をお勧めします。

古道を知る

温泉津・沖泊道が使われていた頃の時代背景

温泉津と書いて「ゆのつ」と読み、「ゆ」は文字通り温泉を指し、「津」は港を意味します。
つまり「ゆのつ」とは“温泉と港の町”を表しています。
温泉の歴史は長く、1300年前の開湯と伝えられ、手負いの狸が入浴しているのを旅の僧が見つけたことが温泉の発見に至ったという説や、大国主命が病の兎を湯に入れ救ったことが始まりであるという説など、温泉発見については諸説あります。
1562年(永禄5年)、尼子氏が支配していた石見銀山へ毛利軍が攻め入り、銀山を奪い直轄地としました。
毛利氏は、水軍を持っており、その兵や物資を運搬する中継港として都合の良い温泉津港を選び、銀の運搬ルートとして、それまで使っていた鞆ケ浦道を止め、温泉津・沖泊港までの街道整備を行いました。
温泉津の小さな集落には、毛利元就が建てたお寺がいくつもあり、重要な拠点だった事がうかがえます。
温泉津でも奥まった所にある沖泊港は水深があり、温泉津港よりさらに多くの船が入り、温泉津と沖泊を合わせて120艘の舟をつけることができる大港湾であったといいます。
温泉津地区と沖泊地区を連絡していた往環道は、温泉津集落内にある西念寺から山を越えて沖泊地区まで港と港を結んでいた、古くから多くの人々が往来した道でした。

その後、1566年(永禄9年)毛利元就は出雲国の尼子氏を倒して中国地方の大部分を手中に納めましたが、中国地方平定を狙う織田軍(羽柴秀吉)が東から攻めて来て戦いとなりました。

1590年(天正18年)豊臣秀吉が全国を統一すると、毛利氏は中国地方を納める大名として、銀を豊臣氏へ納める事となります。
関ヶ原の戦いにより豊臣家が滅んだ後、石見銀山の支配者は毛利氏から徳川氏へ移りました。
1604年(慶長9年)年頃に、銀の搬出ルートは温泉津道・沖泊道から陸路を使う尾道道へと変わりましたが、その後も温泉津道・沖泊道は、日本海側から銀山へ往来する幹線路として続い続けられました。

ミニ知識

櫛島海岸

沖泊港から日本海へ出る辺りの海岸は白い凝灰岩で出来ており、素晴らしい景色が堪能できます。
櫛島海岸へ行くには、沖泊の集落の先にある櫛島キャンプ場へ向かって下さい。
駐車場に車を停め、海岸を散策できます。
沿岸を歩くと、船を係留したとされる「鼻ぐり岩」が見られます。

温泉津集落内、往環道

温泉津集落と沖泊港の連絡道であった往環道が観光地図上に示してあり、多くの人々が往来していたと言われています。
「観光案内所ゆうゆう館」を出発し、西念寺のすぐ横の狭い路地を進んで行くと、次第に雑草に覆われ、更に進むと竹藪に突入し、その後は道筋が分からなくなってしまい確認するのは難しくなっています。

「温泉津集落内を通る街道跡」

温泉津集落の大通りを進み、焼きものの里を過ぎた辺りで、温泉津道・沖泊道と合流する街道跡は、全て舗装道路になっており、そのまま地図上に記しました。

西念寺

1561年(永禄4年)毛利の軍勢により岩山を切り開き、七間四面の堂宇を建立し、基礎が築かれた。
毛利元就が九州の立花城を攻めた際に、手柄のあった然休上人を開基とした浄土宗の寺院。
境内は、谷の岩盤を毛利家の手勢が切り拓いたと伝えられる。
中庭には元就手植えの紅梅があるなど、毛利家縁の寺院。
脇の沖泊に続く岩を切り開いて造った沖泊住還道の出入り口は一見の価値あり。

沖泊港

沖泊は周囲を山に囲まれ、風の影響を受けにくく、西向きで湾口に櫛島があり波除けの役割を果たしたことで良港となった。井戸も2基あり、水の補給にも恵まれていた。
石見銀山を抑えた毛利元就によって温泉津・沖泊道が整備され、銀の積出港となった。
湾北側に位置する櫛島には櫛山城跡、湾南岸の岬には鵜丸城跡があり、湾を管理していた。
江戸時代の記録では、面積的には沖泊の10倍ほど広い温泉津浦の船舶係留が50艘であるのに対し、沖泊は70艘とある。
また、銀の積み出しのみならず北前船の寄港地でもあり、最盛期には400mにも連なる町並みで賑わい、その名残から土蔵が散見される。
発掘調査により幕末頃に南岸の山裾を開削して宅地を造成したことも明らかになっている。

ルート

石見銀山公園駐車場
↓ 35分 1.2km
山吹城登山口
↓ 25分 800m
佐毘売山神社
↓ 10分 300m
龍源寺間歩
↓ 3分 100m
坂根口番所跡
↓ 1時間20分 2.5km (2025年7月現在、通行止め)
五老橋
↓ 15分 600m
上市恵比寿社
↓ 5分 300m
火伏観音
↓ 5分 300m
西田の集落
↓ 5分 200m
副道夷険碑
↓ 20分 800m
中村の題目塔
↓ 3分 100m
標識から山道に入る
↓ 25分 800m
将棋岩
↓ 20分 600m
清水の金柄杓と呼ばれる泉
↓ 3分 100m
標識の無い分岐
↓ 5分 200m
清水大師入口
↓ 15分 500m
清水の石畳
↓ 10分 300m
松山の道標
↓ 25分 1km
登り窯「焼きものの里」
↓ 25分 1km
沖泊への分岐
↓ 5分 300m
沖泊の集落

アクセス

◉石見銀山公園駐車場(石見銀山地内)
山陰道 仁摩・石見銀山IC下車10分,普通車40台
営業時間 通年
駐車料金 無料

◉石見銀山世界遺産センター
https://ginzan.city.oda.lg.jp/access/
石見銀山から約3km、徒歩40分
普通車400台
駐車料金 無料
*石見銀山まで接続するバスが出ており、石見銀山までの料金は、240円、7分で到着

◉温泉津・沖泊港の駐車場について
JR温泉津駅
大田市温泉津町小浜44
駐車場 普通車5台程度

◉温泉津観光案内所(ゆう・ゆう館)

温泉津観光案内所(ゆう・ゆう館)


駐車場 普通車7台
大田市温泉津町温泉津イ791-4
営業時間 8:45~17:30( 3月~11月) 9:15~16:30(12月~2月)
定休日 年末年始
電話 0855-65-2065

参考資料

「史跡石見銀山街道保存活用計画」 美郷町教育委員会 教育長 阿川俊治
高橋悟「自然科学から見た世界遺産石見銀山史話―石見銀山と風土―」
田中博一「石見銀山史伝」
遠藤浩巳「銀鉱山王国 石見銀山」
太田市役所教育委員会

協力・担当者

《担当者》
日本山岳会山陰支部
伊澤寿高
小村和彦

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