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52 子の権現・髙山不動
奥武蔵にある山上の霊地、高山不動尊は関東三大不動の一つと伝えられ、その創建は平安時代に始まるとされています。本尊不動明王を安置する不動堂への、古代からの参詣道は秩父郡、高麗郡、入間郡の各方面からさまざまに通じています。
いまでも参詣道のいくつかはハイキングコースあるいは車道として利用されています。当時の雰囲気がよく残されているのは、越生黒山から尾根を辿って不動堂へ至る高山道で、本参道とされています。
高山道は約220年前の化政文化期に編纂(へんさん)された「新編武蔵風土記稿」入間郡龍ヶ谷村の項に「四寸道」と記述されています。高山道の道沿いには石造遺物の石仏・道標や奇岩が多く残されており、黒山を拠点とした黒山熊野修験の行場だと推定されています。
高山不動尊周辺には西に子の権現、東に慈光寺と多くの中世山上寺院や祭祀の遺跡が残り、さらに奥武蔵周辺の雨乞いの歴史を伝える山地名が残されています。
高山不動尊への参詣道の中でも多くの石造遺物が残され、中世から続く信仰と交易の道です。
下ヶ戸は懺悔(ざんげ)堂あるいは山下道が訛化した地名とされています。
越辺川と龍ヶ谷川が出会う橋のたもとから約1間〜2間幅(約2m前後)のよく整備された道が等高線沿いに山腹を巻くように山ノ内鳥居まで続いています。
高山不動尊からの下りは高山不動西の参詣道と呼ばれた高麗川の吾野を目指す最短コースを歩きます。
元の高山道は下ヶ戸薬師が起点ですが、採石場(輝緑岩)で途中が通行止めされているので、実際の古道の始まりは横吹峠です。
横吹峠へはバス停石戸橋あるいは火の見下から林道に入り、標識で龍穏寺方面へ向かいます。
なお、小泉重光は、高山不動尊への参詣路である四寸道と高山道(高山街道)は別で、高山道の起点は下ヶ戸薬師堂であり、龍ヶ谷川の龍穏寺からの参詣道が四寸道であるとの説をとっています。
横吹峠は切り通しで、御嶽山・御嶽神社への道案内があり、反対側の鞍部に二尊の石地蔵が並んでいます。お地蔵さまの台座には、「此方さけど、高山」と彫られており、ここを高山道が交通していた賑わいを偲ばせます。峠の「さけど」方向には保存状態の良い古道がまだ残されています。
高山道は堀切のローム層質で難儀しますが、蒔山を巻く幅広い道になると等高線を辿るようになり、この先の崩壊箇所は尾根への高巻きでやり過ごします。
蒔山(四等三角点)は稜線を戻るように登ります。蒔山周辺の黒山側に小字覗き岩、小字四垂附の谷間には障子岩・鏡岩などの奇岩があり、いずれも修験道に因んでいます。山頂から稜線を戻る山道は鞍部で高山道に合います。
御嶽社(駒ヶ嶽)への道は高山道に設置された道標が目印です。ひとたび尾根に取り付き,龍ケ谷側へ張り出した支尾根を行きます。この辺りでお供えや注連縄飾りに使うウラジロの群生が見られます。
右手前方に御嶽社のお社が見える参道で調査同行者が、江戸時代の貨幣「寛永通宝」を拾いました。この参道が古くからの道であることを伺わせます。
お社は懸崖の上に建ち、社前に一対の大石が鎮座しており、岩間の寸法が四寸の謂れとされています。明治期の地図に龍ヶ谷からここに至る小道が記されています。前面にはその山並みを大和の「葛城山」になぞらえた大高取山・桂木山が見えます。
お社の前は覗ける断崖になっていて崖下の小さな山祠に碑伝(ひで)が捧げられています。
小泉重光によると龍ヶ谷からの道「四寸道」は古くからの高山不動尊への参詣路とされています。
高山道への戻りは,途中ウラジロ群生地付近の指道標を右に尾根筋から高山道に下ります。
さらに尾根沿いに進み、堀割り道を峰山(456m)への踏み跡を分けると、左奥の植林間に巨大な杉が見えます。
その先の猿岩山(461m)への明瞭な分岐を過ぎると猿岩林道に交差します。
林道(車道)正面に関八州見晴台・四寸道入り口への道標があります。車道を右へ進み、二番目の左上への山道を鋭角に戻るように進みます。道はこれまでの尾根筋に戻りますが、新しく作業道として開かれた道のようです。
山道を九十九折りに登ると突然伐採地にでます。
道は再び猿岩林道を横切るようになります。林道正面の擁護(ようご)壁をよじ登り、熊野ヶ嶽(岳岩)の岩峰から尾根通しに高山不動奥ノ院へ至るルートはありますが、ヤセオネの岩場を渡るので初心者にはおすすめできません。
ここを修行の場としている修行者の碑伝が捧げられています。
高山不動堂への順路は林道を左に花立松ノ(アラザク)峠方面へ進み、砂防ダムのある谷(宗ヶ入)を見送ると、右側に七曲りへの案内があります。ここまでの林道歩きで沢を見下ろすと、高山道と思しき古い道跡が確認できます。
七曲りへの道のりは明治時代の古い陸測地図にも記載されており、高山道が宗ヶ入の次の谷(仮称「七曲り入」)を通過するように描かれています。この道が近代初期に至るまでは、修験者・参詣者・村人などが行き交う街道であったことを伺わせます。
仮称「七曲り入」の谷間は涸れ沢の巨岩の間をぬうように進みます。道が九十九折りになる手前の岩上に馬頭観音が祀られています。七曲り道のジグザク道が支尾根に登り谷頭を水平に巻くと七曲りのテッペン(峠・分岐)に着きます。
この尾根筋では季節によりカンアオイやイワウチワの群落を見かけます。
高山不動奥ノ院へは高麗川左岸の奥武蔵主脈縦走路を西に登ります。
縦走路のためか木根が剥き出した荒れた登山道です。眼下斜面の大きな石はダルマ石だと思われます。
まもなく奥ノ院山頂に至ります。古くは元不動と呼ばれた奥ノ院には大厦高楼があったといわれています。
山頂は平坦な広場になっており、季節の野草を見ることができます。
広場の中央に簡素な不動堂が建っており、不動明王の陰刻石碑が祀られています。
関八州見晴台からは、天候次第では、冬季に谷川連峰から奥秩父・奥多摩の山並みが見渡せ、丹沢山塊大山方面から相模湾までの展望が得られます。
高山不動本堂への道はツツジとカルミア植栽された急坂で、丸山を巻いて林道交差まで急坂を下ります。
そこは新編武蔵風土記稿秩父郡高山村の項に掲載された「高山不動境内乃図」に「鳥居跡」とされた場所です。
ここが高山道(高山街道)の終点です。二基の石造物が据えられており、一基の石碑の浮彫坐像は弘法大師だとされています。石碑には岩田権之助、寛政十年(1798年)と彫られていますが、施主は七曲りの谷間で見かけた馬頭観音の施主と同一人物で、別当常楽院支配の祠堂三坊の人です。
石碑には「是より 東 ざんげ道」「西 かみあがの道」 「北 是より 志こう寺 秩父郡椚平邑住 願主園仙」と彫られています。黒山下ヶ戸(懺悔堂・山下堂)薬師堂、子の権現、慈光寺、秩父札所の各地と高山不動尊が通ずる道は、山上の霊場への巡礼路であることを改めて教えてくれます。
鳥居跡から不動堂尊の本堂へは案内に従い、本堂裏の寶蔵所脇を下りるのが近道です。
飯能市高貴山常楽院(高山不動)は、本尊に不動明王を祀る真言宗の寺院です。木造軍茶利明王像(国指定重要文化財)の製作時期が平安時代中期作とされる十世紀まで遡れます。両明王のご開帳は毎年冬至の日です。
本堂脇に地蔵・不動明王・馬頭観音の三尊像が祀られています。
高山不動尊からの下山は数ある参詣路のうち、萩ノ平から間野へでる「西ノ参道」を利用します。
参道は西ノ山神のある大峠を目指して巻道をゆきます。「高山不動境内乃図」によれば、東ノ山神のある虚空蔵山(虚空蔵菩薩が祀られている)に対し、西ノ山神には愛宕山(地蔵菩薩・不動明王・毘沙門天の三尊が祀られている愛宕社)があり、高山不動尊を諸仏が守るような曼荼羅の世界観です。
大峠から日影山北西尾根の赤坂を道なりに進むと、ほどなく萩ノ平に着きます。
この平場に地蔵菩薩と石道標が建立されています。石地蔵の所在地は「飯能の石仏」には小字「井尻」と記述されています。参道はここで分岐し、左は小字ミイ道(新道の転化)から小字「井尻」・大窪を経て吾野へ至ります。右はシバハラ坂から芝原・間野へ出て我野通りから西吾野へ出られます。
山腹を巻く道の途中に廃墟になったお茶屋跡があります。
シバハラ坂を通る西ノ参道は、洗堀によって道の一部がえぐられ、露岩と木の根が剥き出しのありさまです。
赤土の道はしばらく九十九折にこまめに折れ曲がるので足を捕られないように慎重に下りましょう。
九十九折りの道が終わる頃に間野の集落が見えます。
参道の出口に、かすかに左「たかやま道」と読める自然石の石碑があります。
間野集落の村道が高麗川支流の北川を渡るたもとに自然石の石碑に「右 子のごんげん・正 右 たかやま・左 志こう」と刻まれています。この道標から子の権現から高山不動への巡礼道が始まるようです。
西武秩父線西吾野駅へは北川沿いの林道を歩き、駅舎へは最後の急坂を登ります。
高山道が蒔山を巻く道には表層崩壊があるので迂回路を通ってください。
七曲りの道は道が荒れているので降雨時や大雨後の通過には要注意。
いわゆる奥武蔵と命名された空間は秩父山地と武蔵野台地をつなぐ境界領域であり、昔は林業・薪炭業や農業・養蚕業が主な産業です。
ムラと里山そして市場(イチバ)とに密接した山岳地帯の生活は、仏教や神道を習合した修験・山伏や修行僧に独自の文化や伝統を提供していたようです。
越生・黒山・毛呂・ときがわの各地域に、古代の「仏教文化と修験」に関わる古道が残されています。
古代の高山道・慈光寺道・子ノ道および中世の禅文化伝搬の道などは、鎌倉街道上道・秩父道との関連で信仰の道として考えられます。
古代高山道・慈光寺道の推定路には、桂木寺・桂木観音堂を目指す桂木峠路、下ヶ戸薬師堂から龍穏寺を経て慈光寺を目指す慈光寺路、下ヶ戸薬師堂から高山道(高山街道)で常楽院(高山不動尊)に至る古道が代表的です。さらに黒山からは顔振峠を越える子ノ権現(天龍寺)も参詣路の一つです。
このように人々は、古代から鎌倉街道秩父道や上道から里山に近い古道を参詣や巡礼に利用していたようです。
いわゆる奥武蔵と呼ばれる高麗川左岸の尾根は、北東方向への山脈が続いています。
主な峠は北から刈場坂峠・ぶな(檥)峠・飯盛峠・傘杉峠・顔振峠と続きます。
それぞれの峠は昔からの歴史を秘めており、刈場坂峠は幕末時に飯能戦争で敗れた振武軍の一部が越えて「ときがわ」へ逃れたと伝えられています。
ぶな峠は「ときがわ椚平」の建具が越えました。
ぶな峠・飯盛峠は北川岩井沢から牛方が荷を積んで越生(今市村)の市場へ越える秩父道(秩父街道)です。
傘杉峠は北川からの嫁取り峠だと黒山の古老が証言しています。
顔振峠は越生と吾野との生活や生業の道であり、子ノ権現へのメインルートです。振武軍の渋沢平九郎も越生へ越えたようです。
高山道の七曲りのテッペン(峠)は不動尊への参拝路で峠でしょう。
越生大満から高山の不動堂へ至る「高山道(四寸道)」の初出は江戸時代、約220年前の化政文化の時期に編纂された「新編武蔵風土記稿」入間郡龍ヶ谷村の項に、「・・・村内ニ秩父郡高山村へ通フの道アリコレヲ四寸道トヨブソノ幅狭クシテ馬ノ通ワザルホドナル故此名アルべシ」と記述されています。
旧越生郷の「越生」を「おごせ」と読む難読地名ですが、その由来は諸説あります。この地が関東平野の西端で秩父山地に接しているため、秩父・上州地方との交通は尾根を越す必要があり、その「尾根越し(おねごし)」が「尾越し(おごし)」となり、やがて「おごせ」と変化したとされています。
また、柳田國男も「山の神とヲコゼ」で、次のように述べています。「埼玉縣入間郡越生(オゴセ)町、群馬縣利根郡赤城根村生越(オゴセ)などの例は、寧ろ峯 越(オゴセ)の意味ではあるまいか。(中略)地勢も峰越の方がふさはしいやうに思はれる」
柳田國男の「峠に関する二三の考察」では、峠道は様々に曲折しているが凡そ甲と乙の二種に大別出来ると。甲は水音の近い道で、何回となく谷水も渉り返して頂上近くで急に険しくなり、乙は水音の遠い山路で、麓に近い部分が独り険しく、千仞と形容できる桟道や岨道を行かねばならぬと、そして甲が峠の表で乙が裏であるとしています。
江戸時代の越生郷から秩父や上州へ向かう道は柳田國男の大別に従えば、主に甲の「表」です。たとえば、顔振峠は「表」から登り「裏」へ下る道形だろうし、高山道・秩父道は等高線沿いの山腹を巻く地形なので、「裏」から登り「裏」から降りるコースです。桂木峠の道は古代の高山道の一部で、「表」から登り「表」へ黒山に下る山道です。
高山不動尊は 別当 真言宗 智山派 高貴山常楽院で、本尊不動明王を安置する不動堂を中心に、「一山五流(別当・社僧・祠堂・祝給・御師)で高山不動一山を支えています。前述の杉本坊は祠堂で常楽院支配です。
役割は不動内陣の戸の鍵を保管、不動尊へのお供えをすることです。
もともとは五大明王を所蔵していましたが、室町時代の天文年間に火災にあい、木造軍荼利明王を残して消失したようです。
不動堂は埼玉県指定文化財で軍荼利明王は国指定重要文化財です。
開山は不明ですが、軍荼利明王の製作時期が十世紀に遡ると推定されているので、平安中期には開山されていたようです。
常楽院が所蔵する、県指定文化財の絹本着色不動明王三尊画像は、鎌倉末から室町時代初期の作に位置づけられています。
近世の高山不動尊の信仰圏は高山の地元および比企郡日西領、入間郡山口領などに及びます。
越生の黒山は室町時代以降、修験道場として広く信仰を集めた霊場でした。
熊野神社は、山本坊初代の栄円が応永年間に創建したもので、熊野神社、天狗滝、男滝・女滝を紀州熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に見立て、関東の熊野霊場として「山本坊」を整備したそうです。
その後、江戸時代初期に山本坊は本拠を西戸村(現毛呂山町)に移した後も「越生山本坊」として、霞(かすみ)と呼ばれる活動を、統轄する地域や縄張りである武蔵国をはじめ常陸、越後に及ぼしていました。
明治維新で修験道は禁止され衰退しますが、平成9年聖護院門跡が来訪して、役行者(えんのぎょうじゃ)像の安置された大平山に登拝。「越生聖護院門跡講」が結成されました。
天狗滝裏手の大平山にある宝篋印塔は、山本坊初代の栄円の供養塔と言われています。
なお、江戸時代末期に尾張屋三平(新井宗秀)が男滝・女滝を江戸に紹介し、黒山は観光地として知られるようになりました。
明治時代に入り黒山鉱泉が開業し、田山花袋や野口雨情など多くの文人が訪れるようになりました(2014年廃業)。
飯能市大字飯能258-1
飯能地域の山や里の歴史を展示、特に縄文時代から近代までの飯能市街地の歴史、高山不動・子ノ権現の山上の信仰、天覧山の植物などの展示に詳しい。
https://www.city.hanno.lg.jp/kanko_bunka_sports/museum/index.html
入間郡毛呂町大字大類535
外秩父山地の裾野に位置する毛呂山町には、西部の山間で華開いた古代仏教文化や中世の鎌倉街道と毛呂氏をはじめとした武蔵武士の活躍、東部の越辺川周辺に広がる古墳群など、歴史の足跡が残されています。
https://www.town.moroyama.saitama.jp/soshikikarasagasu/rekishiminzokushiryokan/index.html
https://www.town.ogose.saitama.jp/kamei/shogaigakushu/bunkazai/3282.html
「越生町再発見100ポイント(平成元年度の町制施行100周年記念事業の一つとして選定された町のランドマーク)」
国指定重要文化財、県指定文化財、町指定文化財、国登録有形文化財を紹介しています。
越生町全図(1万分の1)と130以上の歴史、文化、自然遺産の写真や解説を掲載した情報満載の越生町文化財マップです。
高山不動尊では十二月下旬の冬至の日には、星まつりが行われます
石戸橋バス停
↓ 25分 1km
横吹峠
↓ 60分 1km
御嶽神社
↓ 60分 2km
七曲り
↓ 25分 1.3km
高山不動尊奥の院(関八州見晴台)
↓ 35分 0.7km
高山不動尊本堂
↓ 60分 3.6km
西吾野駅 合計4時間25分 距離9.6km 最高差 830m
東武越生線越生駅から川越観光自動車バスあるいはタクシー利用
帰路は西武秩父線西吾野駅
藤本一美「四寸道(しすんみち)マップ」『奥武蔵高原 奥武蔵研究会3500回山行記念 故・藤本一美氏遺稿集 CD版』 奥武蔵研究会 2021年
小泉重光「高山不動『参道七鳥居版木』解」 『奥武蔵』372号 奥武蔵研究会 2010年
小泉重光「消えた古代寺院の謎を追う(前編・後編)」 『奥武蔵』387・388号 奥武蔵研究会 2012年
小泉重光「藤本先生が危惧されていたこと」 『奥武蔵』432号 奥武蔵研究会 2020年
小泉重光「龍ヶ谷龍窟から熊野ヶ岳」 『奥武蔵』445号 奥武蔵研究会 2022年
木暮咲樹「安政期における疫病除けの様子-林家文書の祈祷記録から-」 埼玉県文書館紀要 第35号 2022年
松本保「武蔵国大平山略図」越生町教育委員会編集『越生の歴史I』 越生町 1997年
飯能教育委員会「飯能の石仏-ふるさとの証言者-」 飯能市 1989年
飯能市教育委員会「飯能の石像遺物-連帯のエネルギー-」 飯能市 1992年
飯能市教育委員会「飯能市史 資料編Ⅺ(地名・姓氏)」 飯能市 1986年
越生町史研究会編「越生の歴史Ⅰ」 越生町 1997年
村上達哉「特別展 山上の霊地-子ノ権現・竹寺・高山不動・岩殿観音-」 飯能市郷土館 2012年
有山佳孝「第20回特別展解説図録 山・寺・ほとけ〜毛呂山の仏教文化と修験〜」 毛呂山町歴史資料館 2018年
神山弘『秩父 奥武蔵 山と伝説の旅』 金曜堂出版 1985年
《担当者》
日本山岳会埼玉支部
鴨志田隼司
《協力》
日本山岳会埼玉支部
野口 勝志 晝間 弘子 山崎 保夫 宮川 美知子 林 信行 浅田 稔 本村 貴子 大野 国光 村越 百合子 東 洋子 若林 優子
小泉重光氏 (奥武蔵研究会会長)
石川久明氏 (越生町教育委員会)